超常現象の存在を否定しようとする人たちの多くは、「手品でできるので、超常現象ではない」などと断定する戦略を好んで用います。確かに、超常現象を手品でまねることは、手品の技術を多少持っている人には、あらかじめ準備してさえおけば簡単でしょう。ひとつには、手品自体が、全面的に超常現象のまねごとになっているからです。一方、自称超能力者の中には、超常現象と偽って、手品の手口を使う人たちが昔から少なからずいることはまちがいありません(この問題については、いくつかの総説〔たとえば、Hansen, 1990a〕が出ていますので、それを参照してください)。ですから、超常現象らしく見えたとしても、それは、実は手品や錯覚によるものかもしれないわけで、それをすべて超常現象だと信ずることは、疑いもなく軽信的な態度ということになります。しかしながら、だからといって、先の論理の正当性が保証されるわけではありません。この論理が正当であるためには、唯物論が絶対的に正しいという前提条件が必要だからです。
「手品でできるので超常現象ではない」という論理が成立するためには、その大前提として、「手品以外の“超常現象”は存在しない」という命題が証明できなければなりません。わかりやすい比喩を使いましょう。「手品でできるので、常温核融合ではない」という論理が成立するためには、「手品以外の“常温核融合”は存在しない」という前提が成立しなければならないことはおわかりいただけると思います。では、この命題を証明するにはどうしたらよいのでしょう。論理学的にはともかく、現実には、“常温核融合”とされるものを、これから登場するものも含めて、すべて厳密に検証したうえで、すべてが手品(この場合、現実には、不正行為か観察の誤り)によるものであることが証明できなければなりません。超常現象の場合にも、これと同じことが言えるのです(現段階では、常温核融合の事実性を裏付けるデータがほとんどないらしいのに対して、超常現象の実在を裏付けるデータは非常に多いですが)。しかし、相手が超常現象ですと、「手品でできるので超常現象ではない」という論理に疑問を持たない方がきわめて多いのです。
もちろん、「それは手品でできるので、超常現象ではない可能性がある」という主張なら完全に正当です。ところが、超常現象の存在を否定する人たちは、このような控え目な言い方はまずしません。ほとんどが断定的な全否定になってしまっているのです。そして、サイババが起こすとされる現象に関連して発生したように、手品の手口を使ってビブーティを取り出したかに見える場面がビデオに写っているというだけで、サイババの起こすとされる現象をすべて否定しようとする、きわめて興味深い論理が現実に展開されるのです。サイババがその時に本当に手品の手口を使ったのかどうかもわからないままに、しかも、おそらく数万件以上に昇る他の現象を無視して、すべてを「インチキだ」と否定することは、論理学的にはもちろん、心理学的に見ても非常におもしろい現象です。
一方、不正行為によって超常現象らしきものを起こしていたと告白した“能力者”も、確かに少なくありません。そして、それに対しても、批判者は鬼の首を盗ったかのような態度を取りがちです。しかし、この場合にも問題があります。たとえば警察は、本人の自白に基づいて容疑者を逮捕するかもしれませんが、裁判所は、仮に本人の自白があったとしても、それだけで、その人を犯人と断定することはできません。何らかの理由による偽証という可能性があるからです。そのため、警察や検察は、さまざまな物証を探し求め、それを厳密に検討する必要があるわけです。それがなければ、逆に自白の信憑性が疑われることになりかねません。ところが、超常現象の主張が関係している場合には、本人が不正行為を行なったと“自白”すれば、それだけで有罪とされてしまうし、たいていの場合、それまでの現象も、遡ってすべてインチキと断定されてしまいます。本人がその“自白”を後で撤回したとしても、それが考慮されることはまずありません。うそをついたと一度“告白”すれば、その人のそれまでの発言もすべてうそだったという論理が、相手が超常現象の場合には、ほとんど問題なく成立してしまうし、それに疑問を感ずる人もほとんどいないということなのです。
ついでながら、超常現象の場合には、ひとりの“能力者”や研究者が不正行為をしていたことが疑われたり確認されたりすると、それだけで残りの“能力者”や研究者も、全員が同じ目で見られてしまうという現象が起こります。確かに、超常現象の研究者も、他の分野の研究者と同じく、不正を働くことはありますが、その比率が、他の分野と比べて、特に高いということはありません(この問題については、『背信の科学者たち』〔ブロードら、1988年〕を参照のこと。この著書によれば、古典物理学体系を作ったニュートンや、近代原子論の父とされるドルトンや、近代遺伝学の父とされるメンデルや、カリフォルニア工科大学の“中興の祖”でありノーベル物理学賞を受けたミリカンをはじめ、大科学者とされる人たちですら、かなりの不正を行なっていることが判明しているという)。遺伝の法則を“発見”したとされるメンデルがデータを大幅に改竄していたことが発覚したからといって、「メンデルの法則」という名称を代えようという動きは起こらないでしょうし、ましてやメンデルの法則を廃棄しようとする人はいないでしょう。
しかし、超常現象が関係している場合には、その後の扱われ方が、他の分野とは大きく異なるのです。このあたりの事情について、ヴァージニア大学精神科のイアン・スティーヴンソン教授は、東京で私と話していた時に、「たとえば癌の研究で、研究者が不正を働いていたことが発覚した場合には、その研究者が研究所を去ればことがすむが、超常現象の研究で同じことが発覚したら、研究所自体がつぶされてしまう」と嘆いていました。一方、オウム真理教の幹部の一部が、宗教史のみならず、おそらく世界史にも残るであろう凶悪な事件を起こしたからといって、信者全員が同じことを考えていたと断定することはできないし、そのような乱暴な主張をする人もいないでしょう。また、よく知られているように、被害者の立場にある人たちの中にすら、一般の信者の将来を憂える人が存在するのです。
話を戻すと、このような否定論者には、もうひとつ問題があります。超常的能力を持っていると主張する人たちが主導権を握っている“実演”と、実験者側が主導権を握る“実験”とを完全に混同していることです。実演では、あらかじめ準備ができるので、手品を駆使する余地も十二分にあるでしょうが、実験では、その余地ははるかに少なくなります。たとえば、スプーン曲げの実演では、あらかじめ変形させておいたスプーンや、外から見えないように亀裂を入れておいたスプーンを使ったり、途中でそうしたスプーンとすり替えたりすることもできるでしょうが、実験では、それがほとんど不可能な条件を設定することが可能です。被験者に告げずに、事前に4桁の乱数を刻印したうえに、やわらかい塗料を全面に塗った、ある程度硬いスプーンを使えば、すり替えもまず不可能になるでしょうし、何かの機具を隠し持っていたとしても、それを使って変形させることもほとんど不可能になるでしょう。さらに、たいていの批判者はよく知らないようですが、実際のマクロPK実験の被験者は、スプーンを首の部分で180度ほど、狭いピッチで捻ることが多いし、実験者側も、ターゲットとしてそうした要求をすることが多く、単にスプーンを曲げればよいわけではないのです。
このように見てくると、この種の論法には絶望的な欠陥があることがわかるでしょう。そして、その裏には、超常現象の存在を全否定したいという、強力な願望が潜んでいると考えざるをえないのです。
いずれにせよ、超常現象を手品という観点から見ようとするのなら、不鮮明なビデオなどを見て否定しようとするだけでは、それが明らかなトリックであることが判明するものを除けば、もちろん不十分です。サイ・ババが手品を使ってビブーティを取り出しているように見える場面が写っているビデオが、『アエラ』という週刊誌に取りあげられて日本でも話題になったことがありました。そのビデオもかなり不鮮明でしたが、それとは別のビデオでも、それと同じような問題が起こっています。有名な“超心理学者”のD・スコット・ロゴが、自分の見たビデオに、サイ・ババが不正を行なった場面が写っていると主張したのです。この問題は、どうやらロゴの“勇み足”であったことが、後に判明します。アメリカの著名な奇術師であるダグ・ヘニングが、そのビデオと同じものを見て、「この映画では不鮮明すぎ、手品仮説を立証する証拠にも反証する証拠にもならないと考えた」(ハラルドソン、1993年、288ページ)ことも、その一助となりました。
超常現象とされるものを繰り返し観察した経験を持つ奇術師も、現実に存在します。ですから、そうした人たちの発言にも、真剣に耳を傾ける必要があるでしょう。たとえば、「手品、読心術などの独創的方法および効果」に関する一連の論文により、国際奇術師協会から「リンキング・リンク賞」を受賞している、優れたアマチュア奇術師でもあるファニブンダという、ボンベイ在住の歯科医の発言を聞いてみましょう。この歯科医は、サイババの起こすとされる現象を繰り返し観察しているのです。アイスランド大学(現、フライブルク大学)の心理学教授エルレンドゥール・ハラルドソンの著書(ハラルドソン、1993年)から引用すると、
先のダグ・ヘニングも、サイ・ババのビデオを見て、次のような発言をしています。
CSICOPの有力な会員であった、アメリカの奇術師ジェイムズ・ランディは、マクロPKを真似て見せることにより、本物のマクロPKが存在しないことを懸命に訴え続けていますが、これは、同じ陣営に属する者の“結束を図る”という目的を除けば、ほとんどむだな努力です。ランディは、怯むことなく超常現象の否定を続けているように感じられる方が多いかもしれませんが、それは事実ではありません。次に、その証拠となる事実をお目にかけましょう。
ここにはランディの名前が明記されていませんが、それがランディであることは他の資料から明らかです。アメリカの精神分析医ジュール・アイゼンバッドがこの挑発をしたのは、1967年以前のことですが、その後、現在に至るまで、この状況は変わっていないようです。このようにランディは、実は“犬の遠吠え”をしているにすぎないわけです。テッド・シリアスの念写は「インチキだ」と主張しながら、では同じ条件でよいからやってみせてほしいと言われると逃げ回るようでは、実際にはできもしないのに、「できる」とうそをついていることにしかなりません。これも、否定論者の特徴なのでしょうか。また、ジョゼフ・ジャストローという昔の奇術師も、不正行為を頻繁に行なっていたエウサピア・パラディーノについて、制約のない時にはパラディーノが常習的にごまかしを行なったことを強調しながら、「パラディーノが起こして見せた最高の静止PK現象」については書き漏らしているそうですし、そればかりか、D・D・ヒュームについては、その存在にすら触れていないのだそうです(コックス、1987年、240ページ)。いずれにしても、これで奇術師の限界がはっきりしたと言えるのではないでしょうか。
また、超心理学の実験には、超心理学者を監督する立場の奇術師を立ち会わせる必要があると主張する人たちがいますが、それに対して、コックスは、次のように明快な反論をしています。
デューク大学工学部のエドワード・ケリー教授も、コックスと同様の指摘を行なっています。
マクロPKの実験の中では、実際に手がけた経験のない人には想像のつきにくい、さまざまな現象が突発します。この場合、最も重要なのは、予定した通りには実験が進みにくいという“現象”でしょう。厳しい実験条件の下では、超常的な現象が非常に起こりにくくなってしまうのです。たとえば、2台のビデオカメラで終始撮影している状況ではまったく何も起こらないので、条件を緩める必要が出てくるかもしれません。そこで、ビデオカメラを1台にして実験を続けたところ、“幸運にも”カメラの視野の中でスプーンが捻れたとします。ところが、その直前にビデオカメラのスイッチがひとりでに切れてしまったり、切れないまでも、再生してみると、焦点がまったく合っていないなどという結果になってしまうことがあるわけです。これは、“超常現象のとらえにくさ”の一側面である、目撃抑制として知られている現象です。このような発言をすると、超常現象の否定論者は、インチキだから厳しい条件下では現象が起こせず、緩い条件になるとインチキができるということにすぎない、と断定しがちですが、ことはそう単純ではありません。その場合でも、肉眼ではスプーンが捻じれる場面が観察できる場合があるからです(それに対して、筋金入りの否定論者は、それは幻覚だと主張するかもしれませんが、幻覚に関する知識がないまま、それを持ち出しても、まったく説得力はありません。幻覚にも、実際には限界というものがあるのです)。
前置きが長くなりました。マクロPK実験の経験のない超心理学者は、最初から、必要以上に“自粛”する傾向がきわめて強く、マクロPK実験には手を出したがりません。ユリ・ゲラーを対象にした実験が少ないのも、そこにひとつの理由があるのでしょう。この点について、コックスは、次のような発言をしています。
ガードナー〔CSICOP会員の著名な科学ライター〕は次のように述べている。「超心理学者のほぼ全員が、今やゲラーを詐欺師であり大法螺吹きであると認めている」。まことに残念ながら、超心理学者に対するガードナーのこうした見方は正しいかもしれない。しかし、(数はごく限られているが)ゲラーが本領を発揮した時起こした現象に関する信頼の置ける論文に目を通し、管理が十分行き届いた実験を銘記してさえいれば、花形被験者を対象にした科学的研究の進展をこれほどまでに遅らせる元凶となった「負け惜しみ」的立場に、ここまで陥らずともすんだのではなかろうか。……奇術師がESPやPKの実際の研究に通じている場合、奇術師が教えてくれるであろう手品に関する知識は、個人的体験から言って確かに役立つものだという点について触れておこうと思う。35年に及ぶ研究生活の中で、デューク大学および〔その後身たる〕FRNMに在籍していたわれわれに対して、花形被験者が(そうした能力を持っているとして)紹介されてきたことが何度かあった。ところが、私自身は詐欺師だと感じていないのに、そうした自称能力者を最初に実験した他の同僚の間にそういう疑念が広まったことがあった。しかし、たいていの奇術師なら十中八九まで詐欺師と即断したのであろうが、実際にはその逆だということが結局わかったのであった(コックス、1987年、243ページ。強調、引用者)。
ところで、奇術師とは何なのでしょうか。奇術師という職業は、超常現象の真似ごとを生活の種にしているわけですが、不思議なことに奇術師の中には、超常現象の実在を全否定している人たちがいます。そうすると奇妙なことになります。自分が、その存在を全否定する現象を、そのまま真似るだけで生活するという職業についていることになるからです。超常現象など存在しないことを主張するためにそうしているのなら筋も通りますが、観客にはいかにも超常現象のように思わせようとするのですから、おもしろい立場に立っているものです。劇作家にたとえれば、実生活の中で反原発推進論者を見下し、そのような者がひとりでもいてはならないと徹底的に攻撃し続けながら、反原発推進論者を主役にした演劇ばかり作り、その主役をいつも自分が務めているようなものでしょう。この問題については、アメリカの心理学者リチャード・ライヒバートの、次のような指摘がヒントになるかもしれません。
ライヒバートの言うように、魔術師は、超常現象とは似て非なるものを演じて見せるけれども、それが超常現象ではないことを承知しているからこそ、観客はそれを安心して見ていられるのでしょう。しかし、魔術師が超常現象の真似ごとを真剣に演ずるのは、また、観客がそのようなものを見たがるのはなぜなのでしょう。占いのような、どちらかと言えば本当とは思えないものには、関心を示し、実際にも近づく人が多いわけですが、この現象との関連でこの問題を考えると、わかりやすいかもしれません。占いとは違って、もし未来が百パーセント確実に言い当てられる人がいたとしたら、その人のところに行って自分の未来を知ろうとする人が、どの程度いるものでしょうか。近い将来、確実に死ぬことを自覚している人などを除けば、おそらく非常に少ないのではないかと思われます。それと比べると占いは、未来の予知に似ているけれども、本当ではないところが安全弁になっていて、それが多くの客を集める原因になっているのでしょう。そうすると、奇術の観客も奇術師自身も、超常現象とは似て非なるものだからこそ、つまり、奇術が超常現象に対する関心と抵抗との接点になるからこそ、それに飛び付くのではないか、という推測が成立します。
もちろん逆に、単なる手品を超常現象と思い込むこともあります。イギリスの臨床心理学者ケネス・バチェルダーは、そうした思い込みを利用した卓抜な実験法を考案し、興味深い結果を得ています(拙編書所収のバチェルダーの論文を参照のこと)。その場合には、意識の上で、強い恐怖心が起こります。しかし、ミスター・マリックなど、一部の奇術師の手品については、特に恐怖心を示さないまま、それを超常現象と思い込んだ人が少なくなかったのも事実です。この場合、ひとつには、奇術という背景の中で行なわれていることが、ある意味で逃げ道になっているのでしょう。それは、占いを“信じて”いる人たちがあるのと同じだろうと思います。もうひとつは、テレビなどの間接的な媒体を通じて見ていることが、ある意味で逃げ道になっているのでしょう。大事件や大災害の現場をテレビで見ても、それを肉眼で見た時とは、情報というレベルではともかく、感情のレベルではまったく違います。いずれにせよ、自分の目の前で本物の超常現象が現実に起こっていると“心から信じた”場合には、強い恐怖心が発生することは、どうやら免れないし、そうしたものからは何とか遠ざかろうとするようです。
ところで、奇術師の中にも超常現象の実在を肯定する人たちがいることは、先にも述べた通りですが、どの程度の比率かはあえて書きませんでした。実は私も、最近まで明確には知らなかったのですが、その数字を知って驚きました。カリフォルニア奇術新案会社を経営するポリー・G・バードセルが、1981年に、修士論文執筆のため、ある奇術師グループを対象にアンケート調査を行なったところ、ESPの実在を信じているかどうかという質問に対して、何と82パーセントもが肯定的な回答をしている(Hansen, 1990c, p. 64)そうですし、ポール・カーツとともにCSICOPを設立した(後に離反した)マルセロ・トルッツィによれば、ドイツの奇術師の72.3パーセントが、サイ現象は現実に存在するだろうと答えたというのです(Hansen, 1992, p. 163)。これでは、超心理学者の場合の比率とほとんど違いがありません。
超心理学者の中にも、奇術に精通している人たちがいることが知られています。先のコックスを除いても、また、有名人だけあげても何人かいます。たとえば、ハリー・プライスやトレヴァー・ホールやエリック・ディングウォールは、マジック・サークルという会のメンバーだったそうです。その中でも、特にホールは、奇術関係の重要な文献目録を二度にわたって出版していますし、マジック・サークルの名誉副会長を務めたこともあったということです。また、プライスとウォルター・フランクリン・プリンスは、アメリカ奇術師協会の会員になっていたそうです(Hansen, 1992, p. 155)。このような事実を見ると、やはり、奇術と超常現象の関係は、ことのほか深いことがわかります。
ここで本節の主題に戻ると、奇術師はなぜ超常現象の真似をするのでしょう。超常現象の実在を肯定している奇術師の場合には、超心理学者と同じく、超常現象に関心を持っているからなのかもしれません。では、超常現象の実在を否定しながら奇術師になる人たちは、プロにせよアマにせよ、なぜ奇術師という、超常現象の真似ごとしかしない仕事(ないし趣味)を選ぶのでしょうか。先述のように、それは、超常現象にあこがれているものの、本物の超常現象を自在に引き起こすだけの力を現実には行使できないことに加えて、本物の超常現象には強い抵抗が働くため、それに似せた演技を行なって満足しているということなのかもしれません。拙著『サイの戦場』で取りあげた“科学者”たちは、奇術師と共同戦線を張って、不当な方法のみを選択的に用いて超常現象の実在を否定しようとしているわけですが、そのことには、やはり重要な意味があると考えるべきなのでしょう。このような角度からの研究も、超常現象の謎に迫る有力な方法ではないでしょうか。