本書には,ふたつの目的があります。ひとつは,今西錦司の創始になる生物社会学を基盤とした,いわゆる今西進化論の歴史的,通覧的概説です(第1部。第2部は,今西の生物社会学を踏まえた小田柿進二の生物学の概説および検討)。もうひとつは,長年にわたる私の心理療法の経験を通じて明確化された,人類一般に内在している幸福否定という,本能とも見まごうほどに強力な意志の進化史的起源に,生物社会学の知見からどこまで迫れるかを見ることです(第3部)。
今西錦司の生物学に対して私は,高校時代の五十数年前から,最初はその霊長類研究に,その後は独自の種社会進化論に強い関心を抱くようになり,数多くの著書や論文に目を通してきました。10 年近く前には,今西の昆虫学教室の後輩に当たる小田柿進二の『文明のなかの生物社会』(1985 年,NHKブックス)を通じて,今西の生物社会学を踏まえたうえで蓄積された独自の観察所見や,それに基づく小田柿の複合社会理論が,今西の着想の有力な裏づけとなるという事実を知ることになりました。この著書に今西が序文を寄せていなければ,小田柿の存在には最後まで気づかなかったかもしれません。そして,この著書のおかげで,観念的にはともかく,それまで私にとって具体的な形で把握するのが難しかった種社会という概念が,目に見える形でより明確に把握できるようになったのです。
本書が構想されたのは,今西錦司の種社会進化論を自分なりに整理してみたいという動機に加えて,幸福否定の生物学的起源を探り出したいという思いがあったためです。その起源とは,次のふたつです。
突然変異と自然選択という偶然論を基盤とする進化学説であるネオ・ダーウィニズムが世界の定説になってから,既に 90 年以上がが経過するようですが,このふたつの起源を探ろうとして,その知識をいかに駆使しようとも,その目的を適えることはできません。幸福否定にしても,その裏に潜みながら絶えず行使されているらしき全知全能にも等しい能力にしても,効用説をもとにしたこの種の進化論で扱えるはずはないからです。そのためもあって,本書では,私にとってなじみの深い今西進化論を引き合いに出すことにしたわけです。とはいえ,今西の進化論であってもそれが難しいらしいことは,最初から見当はついていましたが,はっきりした結論を出すには,やはり実際に検討してみる必要があります。
そのためには,何よりも今西進化論を正確に把握することから始めなければなりません。そのような事情から,今西の著書や論文や対談などをひと通り読み直しつつ,全文検索が可能になるように,小田柿の著書も含めて,できる限り電子化することにしました。その作業を開始したのは,今から 10 年ほど前のことでした。合わせてアンリ・ベルクソンの代表的な著作や数多くの研究者による関連論文についても同様の処理を施すことにしました。そして,2年ほどの時間をかけてそのデータベースを構築してから,本書の執筆を始めたのです。ちなみに,それぞれの原著の pdf を含めたデータはあまりに大きくなり,DVD1枚には収まりきらず,Blu-ray を使わなければならないほどになりました。
したがって,本書は今西進化論のみを扱ったものではありませんが,今西進化論の全体像を真正面からとりあげた書籍は,この程度のものであっても,これまでひとつも存在しませんでした。しかしながら,私は生物学の門外漢なので,いかに準備に時間をかけ,数多の文献を精読し,万全の注意を払いながら執筆したとしても,不備や過誤を免れることはできません。本書は,あくまで専門外の人間による,定石を外れたひとつの布石にすぎないため,いずれ登場する生物社会学の専門家には,今西錦司や小田柿進二という大先達の真の後継者として,新たな目で生物社会学を進展させてくださるよう切に願うものです。(本書「まえがき」の一部を改変)
本書の内容
本書は,先述のように3部に分かれており,内容は以下の通りです。ここでは,おおまかな内容をつかんでいただくために,各章の冒頭7ページだけを掲載しています。ただし,目次と参考文献と索引は,参考までにすべてを掲載しました。
第1部 今西錦司の種社会進化論
第1章 今西錦司の種社会進化論 1.前期
第2章 今西錦司の種社会進化論 2.中期
第3章 今西錦司の種社会進化論 3.後期
第4章 今西錦司の種社会進化論 4.その批判の実態第2部 小田柿生物社会学と進化論
第5章 小田柿進二の生物社会学
第6章 種個体同士のつながりと上位社会による規制第3部 人類の特殊性
第7章 人間の行動に見られる人間的特性
第8章 探検的行動がもつ意味
第9章 ヒトの人間的特殊性
著 者: 笠 原 敏 雄
出版者: 心の研究室
定 価: 5,533 円
体 裁: A5版横組み,ソフトカバー
総頁数: 670 ページ
発売日: 2020 年6月 23 日
なお,本書は,最初に準備した原稿全体の3分の1ほどに当たり,先に出版した『人間の「つながり」と心の実在』(すぴか書房)に続く第2弾になるわけですが,第3弾となる残る1編(『動物の人間性』仮題)も,同じくアマゾンからオンデマンド版(紙版)として本年中に出版する予定です。組み方は本書と同じですが,総ページ数はまだ未定です。