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日常生活の中で見られる抵抗や反応 4

 心理的原因を探る

はじめに

 前章までは、日常生活の中で起こるいくつかの症状が、結果的に人間の行動を妨げているという事実を見てきました。つまり、第1章(「“青木まりこ現象”」)では、本を探したり演劇を観たりコンサートを聴いたりなど、自分が望む行動をしようとすると、いわば体がそれをじゃまするという実例を、第2章(「片づけができない」)では、片づけができない人たちや多動の子どもたちに起こる症状とその変化を、それぞれ私の幸福否定理論という視点から検討しました。そして第3章では、自分にとって重要な仕事や勉強に対して、強い抵抗が出ることが多いという事実を明らかにしました。締切まぎわにならないと肝心な課題に手がつけられない人が、世の中には圧倒的に多いわけです。第3章(「締め切り間際の問題」)では、さらに、自分が本当にしたいことを自発的にしようとすると、それこそ体が万難を排して、きわめて強い拒絶を起こすという事実についても説明しました。

 本章では、これから話を進めるために必要なので、私が考える心理的原因とは何かを簡単に説明することにします。これまでの記述からおわかりいただける通り、私の考える心理的原因は、従来考えられてきたものとは、あらゆる点で根本的に違っています。もちろん、それは、私が勝手気ままに考え出したものではなく、長い経験を通じて、実証的に導き出されたものです。“幸福否定”という考えかたは非常に奇妙に見えるでしょうが、ここに至るまでには、実に長い道のりがありました。その経緯については、拙著『幸福否定の構造』に詳しく書いておきましたので参照してください。

 世間一般では、前章までの3章で扱った行動を、「だらしがない」、「意志が弱い」、「怠け癖がある」などの言葉で言い現わします。しかしながら、それでは言葉の言い換えにすぎません。それを遺伝によるものと考えたとしても、育てられかたによるものと考えたとしても、そこで止まってしまい、解決の糸口にはならないのです。本人の責任に帰したとしても、同じことでしょう。たとえば、「怠け癖は自分でなおすものです」と言う治療者がいたとしましょう。では、その治療者自身が「怠け癖」を持っている場合、それを自分で治すことができるのでしょうか。

 話を戻しますと、心理的原因を治療者や本人が単に推測しただけの場合には、必然的に意識が受け入れやすい形になっているため、第三者もそれを原因と認めやすいでしょう。頭で考えただけの、したがって抵抗がないものだからです。しかし、この場合には、真の原因ではないので、一部の例外を除けば、症状に変化は起こりません。仮に、運よく症状が薄れるか消えるかしても、再発傾向は残りますし、それ以上の好転も起こらないでしょう。

 逆に、真の意味での心理的原因が意識に昇った場合には、心身の状態に多少なりとも変化が起こります。また、再発もしにくくなり、能力の発揮や人格の向上などが後について来るのがふつうです。ところが、この場合には、原因を探り当てたという実感はほとんどありません。たいていの人は、心理的原因がわかれば、なるほどと納得するはずだと思い込んでいます。心理的原因を知りたがるのはそのためでしょう。しかし、それも、意識が思い込んでいる以上のものではありません。後ほど述べるように、本人(つまり本人の意識)から見た心理的原因は必ず、「そんなことが原因であるはずがない」と思うような内容です。

 心因性の症状は、便宜的に精神的なものと身体的なものに分けることができます。とはいっても、どちらか一方しか出ないことはほとんどなく、たいていは両方とも出ます。ですから、どちらの症状を優先的に考えるか――つまり、どちらの症状で本人がより困っているか――によって、受診する科も診断名も変わってくるわけです。たとえば、典型的な心身症とされる病気であっても、不安やうつ状態などの精神症状を伴うのがふつうです。ついでながら説明しておくと、私の心理療法では、心因性の症状であれば、事実上すべてが感情の演技という同じ方法で治療できますので、診断そのものにはそれほどの意味はありません。

 次に、心理的原因を探る手順を説明しますが、その前に、心理的原因とはどういうものかを具体的に説明しておかなければなりません。

心理的原因とは何か

 これまでの経験から、私は、心理的原因の特徴は事実上すべての心因性疾患や行動異常に共通すると考えています。つまり、精神病であれ、神経症や心身症であれ、行動異常であれ、その心理的原因の特徴は共通しているということであり、それらはいずれも、同じ仕組みで起こるということです。ごく一部の例外(“ペットロス症候群”と“スタンダール症候群”)を除けば、私の考える心理的原因は、次のようなはっきりした特徴を持っています。

 心理的原因は、以上のように、非常に明確な条件を備えています。項目1では“過去型”の原因だけを説明していますが、その他にも、行事や旅行などが予定されている場合、その前夜から症状が出る“未来型”や、自分が置かれた状況など、そこから離れない限り原因が持続する形になる“継続型”もあります。ただし、未来型の場合には、予定されていた出来事が終わった後は、過去型と同じ経過を辿ります。

 推理小説は、作者が勝手にこしらえたものなので、作中の推理がいかに精密に見えても空想の域を出ませんが、現実の症状の原因を突き止めようとする場合には、治療者の空想や思い込みはまるで無力です。単なるひとりよがりでは、実際の治療に結びつかないので、どうしても本当の原因を突き止める必要があるわけです。そして、その推測が当たっているかどうかは、次の基準を使って判断することができます。

 以上の客観的基準がすべて満たされていれば、推定した原因が当たっていると判断してよいでしょう。微妙な反応や変化しか起こらない場合、その観察が難しいこともあるので、多少の観察眼は要求されますが、そのような問題を除けば、ここには、主観の入る余地はありません。

 ただし、例外的には、これらの条件とは無関係に症状が薄れるか消える事例もあります(註1)。先ほど述べたように、真の原因が意識化された場合には、その直後かどうかは別にして、能力の発揮や人格の向上などが多少なりとも起こるものです。ところが、これらの条件とは無関係に症状が消えた場合には、感激などはあるかもしれませんが、それを除けば症状が単に薄れるか消えるかするだけで、それ以上の変化は原則として起こりません。それは、私が心理療法を始めてまもない頃に繰り返し観察された事実です(この点に関心のある方は、『幸福否定の構造』第2―4章を参照してください)。

 その頃は、まだ幸福否定という考えかたに辿り着いておらず、症状出現の直前にあるはずの心理的原因をひたすら探り続けていました。ところが、症状出現の直前にあるわけではない別の出来事を思い出しただけなのに、それよりはるか以前の2、30年前から続いていた他覚症状が、その場で消えてしまうなどの、いわば劇的好転も少なくありませんでした。その頃は、心身医学会に、心理療法の著効例として発表していたほどです。しかし、その場合には、単に症状が消えただけで、それ以上の変化は起こらなかったのです。

心理的原因を探る手順

 現在の私は、感情の演技を治療の中心に据えているので、いつも心理的原因を探るわけではありません。原因の探求には、特に慣れていない人の場合には、かなりの時間がかかる場合が多いことに加えて、分裂病以外では、原因が出てきても劇的な好転はあまり望めないからです。逆に、原因がはっきりしなくても、感情の演技をしさえすれば治療ができるわけですから、治療的な観点から見る限り、心理的原因を突き止める必要性はそれほど大きくありません。しかし、心因性疾患の成り立ちを明らかにするうえでは、心理的原因の探求は非常に大きな意味を持っています。

 このこととも関係していますが、心理的原因が症状出現の直前にあるという事実に対して、人間には、専門家、非専門家を問わず、信じがたいほど強い抵抗のあるらしいことがわかってきました(この問題に関心のある方は、『幸福否定の構造』第8章を参照してください)。それには、おそらくいくつかの理由があります。その中でも特に重要なのは、次の2点でしょう。心理的原因が症状出現の直前にあることになると、

 このふたつは、人間の本質に迫るうえで非常に重要な糸口になります。従来のストレス仮説は、それとは逆に、人間の常識的思考に沿った考えかたでした。ストレスという概念がなかったとしても、〈悪い出来事を経験すれば、誰であれ、心身が徐々に変調をきたす〉という考えかたには違和感はないでしょう。ところが、上の2点を認めると、人間に対する常識的な見かたが、根本から変更を迫られることになります(註2)。ひとつには、人間というものが、これまで暗黙のうちに考えられてきたような、環境に翻弄されてばかりいる、か弱い受け身的存在ではないことが、隠しようもなくわかってしまいます。さらには、育てられかたなどとは無関係に人間に内在する、幸福否定という、非常に強い意志が意識にはっきりとわかってしまい、そうした生きかたを続けるのが難しくなってきます。このような点を考えると、心理的原因を探ることの意味や重要性がはっきりしてくるでしょう。

 では、心因性症状の原因を探る過程を、具体例をもとにして細かく説明することにしましょう。ここでは、心理的原因がはっきり突き止められた事例を1例だけ紹介します。

 60代のある女性は、心理療法を続ける中で、腰痛を起こしました。それまでの経験から、本人にも、この腰痛は身体的な原因によるものではなく、心理的原因によるものだということがわかりました。そこで、まず、腰痛が起こり始めた日にちを調べました。そもそもその特定が難しいことが多いのですが、これは、原因を探るうえではきわめて重要な手順です。先ほど述べたように、原因に関係する出来事は症状出現の直前にあるので、その日時がわかったほうがはるかに探りやすいからです。

 それがわかった段階で、どのような状況で症状が出るのかをはっきりさせてゆきます。心理的原因の症状は、でたらめに出ることはなく、非常に精密な出方をしますので、症状が出たり消えたりする条件がはっきり突き止められれば、それだけでかなり原因が絞りやすくなります。この例では、最初、「夕方になると、腰痛が起こる」という漠然としたものでした。最初はこの程度のことが多いのですが、それは、どういう条件の時に症状が出るのかが意識ではっきりわかってしまうと、心理的原因を自分の意識に隠す都合上まずいからです。症状が出る状況をもっと明確にするため、たとえば、次のようなことを細かく聞いてゆきます。

 まず、症状が出るのは、「夕食の支度をしている時」だということがわかりました。一般に女性の場合、夕食の支度をしている時にも、心因性の症状は出やすいものです。たとえば、30代前半のある主婦は、まさに台所に立っている時にほぼ限って、パニック発作が起こりました。ですから、この事例でも、その種の原因かと思って話を進めてゆくと、意外なことに、夕食のための食材を買って、自宅に戻って来る時に腰痛が出ることがわかったのです。そうすると、その場面でどういう <うれしさ> が隠されているかを考えればよいことになります。

 前から、この女性の自宅は、商店街から長い坂を登ってようやく辿り着くところにあると聞いていました。この女性の場合、心理療法をしばらく続けてからこの症状が出ているので、“好転の否定”の結果として腰痛が出た可能性の高いことが考えられました。好転の否定とは、自分が何らかの好転をしたことが、何かの出来事を通じて自分の意識にわかりそうになると、それを即座に否定して症状を出現させる現象のことです。つまり、ふつうの <うれしさの否定> ではなく、 <自分が好転したことによるうれしさの否定> という現象です。したがって、私の心理療法のように、幸福否定に基づく抵抗を減らそうとする試みによってしか起こりませんので、ふつうには観察されることはありません。その稀な例外は、昭和初期の詩人・中原中也です。この問題に関心のある方は、拙著『希求の詩人・中原中也』をご覧ください。なお、好転の否定については、あらためて詳しく説明する予定です。

 そこで、長い坂を登る時の体力的な側面について聞いてみました。前よりも疲れにくくなったのか、それとも力が出るようになったのか。そうすると、やはりというべきか、「前は息が切れていたのに、最近は切れなくなった」ことがわかったのです。このことは、腰痛に隠れて、意識から消えていました。ここが、記憶が消えていた部分です。

 そうすると、心理療法の結果、“体力の否定”が弱くなったため、それまでよりも実際に体力が発揮されるようになり、それが自宅までの坂を登る時にはっきり感じられたということのようです。そして、すぐにその“気づき”を意識から消し去り、その直後から腰痛を起こすようになった、という経過が推定されました。次は、この推測が当たっているかどうかを確認する段階です。

推測された心理的原因を確かめる

 精神分析などでもそうですが、心理療法では、治療者がそれらしき“原因”を推測して自分で納得すると、それがそのまま原因と断定されてしまうことが往々にしてあります。それでいながら、精神科や心療内科では、心理的安定を図ると称して、薬を投与するのです。それでは単なる独りよがりにすぎず、何のために原因を探ったのか全く理解できません。あくまで治療なのですから、意識で納得することで満足してはなりません。それが本当に当たっているかどうかを、客観的に確認する必要があるのです。

 それには、まず、これまでの作業の中で、記憶が消えていた部分が出てきているか、出てきているとすれば、それが意識に昇った時に反応や変化が観察されたかどうかを確かめます。本例では、原因が坂道を登る時の体力に関係しているという話のあたりから、頻繁に生あくびが出ていました。その中で、「前は息が切れていたのに、最近は切れなくなった」という記憶が出てきたのです。これで、この推定はかなり裏づけられました。次に、第1章の最後の部分で説明しておいた <感情の演技> を使ってさらに確認します。具体的には、次のような感情の演技をすることです。これらをひとつづつ、それぞれ感情が作れるかどうか、反応が出るかどうかを確認しながらやっていきます。

 1―3までは、「関係がある」、「体力が出てきた」という実感を、4ではうれしさを作るわけです。この推測が当たっていれば、どれにも反応が出るはずですし、上から順に反応が強くなるはずです。この女性の場合、実際にもそうでした。つまり、この腰痛の原因は、4番目の「前よりも体力が出てきてうれしい」という感情が否定されていることでした。そして、この感情の演技を繰り返すだけで、それ以降、腰痛は出なくなったのです。

 なお、この例では、坂道を重い荷物を持って登ることによる身体的負担から腰痛が出ていただけではないか、という反論があるかもしれません。しかし、そうだとすると、前よりも息切れしなくなったことが説明できませんし、この話になった時に、あくびが繰り返し出たことも説明できません。何よりも、これ以降、腰痛が消えたばかりでなく、体力が実際に出てきたことが、先の推定が当たっている証拠と考えるべきでしょう。

 ここで振り返ってみましょう。この女性は、ある時、重い食材を買って自宅までの坂道を登っている時、ふと、前には必ず出ていた息切れが出ていないことに気づきました。そればかりか前よりも疲れなくなっています。それに気づくか気づかないかのうちに、その自覚を一瞬のうちに消して、腰痛を作りました。心因性の症状は、ふつうの言葉で言うと、“無意識の自己暗示”のようなものを使って、自覚症状であれ他覚症状であれ、一瞬のうちに作ります。

 重い荷物を持って坂道を登っている時に腰痛が出ることで、意識は苦痛を感じますし、体力が出てきたという事実に注意を向けることはなくなります。そして、自宅に着くと、いつのまにか腰痛は消えています。意識では、坂道を登る時に腰痛が出たという記憶が残りますが、いつのまにかそれも漠然として、「夕方になると腰痛が出る」という程度の認識しかなくなります。このようにして、体力が出てきたことと、それに伴う喜びが意識に隠蔽されるわけです。いわば完全犯罪のようなみごとな仕組みになっていることがわかるでしょう。これが、心理的原因による症状出現の実際です。

[註1] その典型的な実例は、いわゆる前世療法によるものです。症状は、消えてもよい時期に来ていれば、どのような手段でも消えるようです。したがって、ある方法で症状が消えたからといって、それだけでその方法の正しさが証明されるわけではありません。
[註2] 逆に言えば、常識というものが、人間の抵抗から作りあげられているということです。

参考文献

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