先述のように、ADHDには、多動型と不注意型という、ふたつの極があるわけですが、興味深いことに、この種の行動異常に関する最初の報告は、目立ちやすい多動型ではなく、目立ちにくいはずの不注意型に関するものでした。今から200年以上前の1798年に、スコットランド出身の先進的な医師アレクサンダー・クリックトンが、自著の中で、その症状を描写していたのです。ただし、クリックトンが多動型の子どもも観察していた可能性は十分あるということなので、当時、多動型の子どもがいなかったと考えることはできないでしょう。埋もれていた古典の中から、この記載を掘り起こしたのは、神経科学史に造詣の深い、ワシントン大学心理学科のスタンレー・フィンガー教授のグループ(Palmer & Finger, 2001)でした。
二元論者のクリックトンは、“注意” という問題を独自の視点でとらえていました。そのこともあって、不注意型の子どものほうに関心が向いたのかもしれません。
ありとあらゆる刺激が、本人を動揺させ、不自然なまでの心理的不安定を引き起こすように見える。誰かが部屋の中を歩いたり、テーブルを動かしたり、ドアをいきなり閉めたりなどのわずかな音や、少々暑かったり寒かったり、あるいは明るすぎたり暗すぎたりなどのすべての刺激が、このような患者の注意をかき乱す。いかなる刺激によっても、いとも容易に興奮してしまうためである。犬が吠えたり、調律の悪いオルガンの音色が響いたり、女たちが誰かを口やかましく叱る声が聞こえたりすると、それだけでこの種の患者たちは、まるで何かにとりつかれたかのように、注意が散漫になってしまうのである(Palmer & Finger, 2001, p. 69)。
クリックトンは、こうした状態を、落ち着きのない「そわそわ状態」と表現しました。しかしながら、上の引用文からわかるように、クリックトンは、注意欠陥状態を、神経の感度が高まった結果として起こると考えたのです。現代風に言えば、過覚醒状態ということになるでしょうか。原因論はともかくとして、18世紀末には既に、今の診断基準では不注意型のADHDと診断されそうな子どもたちがいたことが、クリックトンの報告によって明らかになったわけです。それに対して、多動型のADHDと思われる状態については、その報告が100年以上遅れます。ロンドンの小児科医であったジョージ・F・スティルが、1902年3月に、「子どもたちにおける若干の異常精神状態」という演題の講演を、ロンドン王立医科大学で3回に分けて行なったのが、その嚆矢とされているからです。ちなみに、スティル(静か、穏やか)という珍しい姓を持つ人が、多動児に関する最初の報告をしたのですから、偶然とはいえ、不思議な感じがします。
その60年ほど前の1844年に、ドイツの医師ハインリッヒ・ホフマンは、3歳の息子へのプレゼントとして作った絵本に収めた、「そわそわフィリップのおはなし」という詩で、一瞬たりともおとなしく食卓に着いていることのできない多動児の姿を生き生きと描き出しています。それは、次のような詩の形になっています(著作権の問題があるので、手元にある19世紀に翻訳出版された英語版から拙訳しました)。
「フィリップくん
ちょっとでいいから ぎょうぎよく
パパがみていて あげるから
じっと おすわりしていなさい」
まじめな かおをしたパパは
むすこに むかって そういった
こわい かおをしたママは
フィリップくんを みはってた
ところが くだんのフィリップは
パパのしんぱい なんのその
やがて そわそわ しはじめる
それから くすくす わらいだす
そのとき わたしは のたまった
まえに うしろに からだがゆれる
ついでに いすも わらいだす
まさに それは あばれうま
「これこれ これこれ フィリップくん
わたしも はらが たってきた」
おちつかないこを みてください
どんどん どんどん らんぼうに
いすも ひっくりかえります
テーブルかけに しがみつく
じたいは ますます わるくなる
すべてのものが ゆかにおち
コップも パンも ナイフもさらも
いらいらママは かおしかめ
ゆかのうえは めちゃくちゃだ
パパはといえば こんなかお
かなし はずかし フィリップくん
どこにいるんだ フィリップくん
あのこは どこにいるんでしょ
すっぽり テーブルかけのした
ぜんぶが フィリップくんのうえ
すべてを うえに ひきおとし
なんともひどい おおさわぎ
おさらも コップも まっぷたつ
ナイフがあそこに フォークがここに
おおたちまわりの フィリップくん
テーブルのうえは なにもない
かわいそうなる パパとママ
はらがたつやら かなしいやら
もいちど しょくじを つくるはめ
ホフマンは、フランクフルトに最初の精神病院を設立し、100年後にはその業績がフロイト(『精神分析入門』第23講)にも評価された先駆的な児童精神科医です(フロイトはその中で、この絵本にも言及しています)が、残念ながら、これは児童書に書かれた詩であって、医学書や医学論文ではありませんでした。しかし、この当時の西洋には、不注意の子どもはもちろん、現在のような多動の子どもも既にいたことが、この絵本が書かれたおかげではっきりしたわけです。
その講演で、スティルは、子どものそうした “病的” 行動を、道徳的抑制の欠陥によるものと考えました。そして、(1)知的障害児に見られるもの、(2)身体疾患に関連して起こったもの、(3)知的障害や身体疾患とは無関係に起こるもの、の3種類に分類することからその考察を始めています。
「ADHDの診断から治療まで」に掲げておいたように、ADHDの診断基準には、「その症候群が、広汎性発達障害や精神分裂病、その他の精神病性障害の経過中にのみ見られるものではないことに加えて、他の(気分、不安、解離、人格障害などの)精神障害では、適切に説明できないこと」という制約条項があります。しかし、その中には、身体疾患はもちろん、知的障害も入っていません。ですから、スティルの掲げた3種類の “病的” 行動はいずれも、他の診断基準を満たしさえすれば、ADHDと診断することができるわけです。
スティルは、道徳的抑制の欠陥に基づく異常行動が、知的水準とは無関係に起こりうることを明らかにしようとしたのですが、その過程で、知的障害児に見られるものや身体疾患に関係して発生するものを扱ったのでした。次に、スティルが報告している、それぞれの典型例を一例ずつ順番に紹介します。
【知的障害児に見られる問題行動】9歳の男児。2歳時に歩行と言葉が始まったが、知的遅滞が大きい。3年ほど通学したものの、簡単な言葉が読める程度でしかない。それに対して、母親は非常に知的水準が高い。主たる問題は、短気、執念深さ、反抗的態度。自分の考えが通らないと、感情を爆発させ、他児たちに向かって次々とナイフを投げつける。また、母親にも剃刀を何本か投げたことがある。最近、母親の財布から1シリング銀貨を盗み出し、一部を使って釣銭を母親に返した。母親によれば、息子は「善悪の判断がつかない」ようだという。男児は、自らの悪事を何とも思っていないように見える。その後、男児は、他児たちにとって非常に危険な存在になったため、施設に入所させざるをえなくなった(Still, 1902, pp. 1010-11)。
【身体疾患に関係して発生する問題行動】9歳の男児。7歳時に急性リウマチ熱を発病した。心臓には後遺症はなかったが、その6ヵ月後、それまで穏和で従順だった性格は一変した。ひどく短気になり、怒り出すと、見境なく相手に向かって行くようになった。この発作は、ささいなことをきっかけに、週1、2回の頻度で起こった。一方、少し前から、自殺傾向も見せるようになり、入院中、首に敷布を巻きつけているのが見つかった。とはいえ、それ以上の異常は見られなかった。こうした症状は次第に薄れて行ったが、12歳半でリウマチ熱を再発させた後、よからぬ思いを抱きやすい傾向が、再び強まった。そして、兄弟姉妹に喜々として危害を加えるようになり、相手が負傷すると、高笑いするようになった。そのような時には、激情に駆られ、顔から血の気が引いた状態で、こぶしを握りしめ、止めどなく暴行を繰り返した。ところが、学校では、素行を別にすれば特に問題はなく、知的にも完全に正常であった(Still, 1902, p. 1078)。
リウマチ熱が治まった後、半年ほどしてから異常行動が始まったのだとすれば、それがリウマチ熱に関係して起こったのかどうかはわかりません。この例では、リウマチ熱の再発後にも、いったん治まっていた異常行動が起こっているので、両者の因果関係が疑われているのでしょうが、そうであっても、これだけで因果関係を確定することはできません。したがって、この種の事例の少なくとも一部は、《身体疾患に関係して起こったもの》というカテゴリーに入れるべきではないことになるでしょう。 なお、スティルは、リウマチ熱以外にも、脳腫瘍や乳児期半側麻痺、脳膜炎、癲癇、頭部外傷などの脳障害に関係する疾患はもとより、腸チフス熱、ジフテリア、猩紅熱などの高熱を出しやすい感染症に関係して起こったように見える事例を掲げています。そうした行動異常は、長期にわたって続くものもあれば、一過性に終わってしまうものもあります。しかしながら、いずれも、それぞれの疾患と行動異常の因果関係は不明なので、原因論という点から見ると、このグループについては、再検討の必要があるでしょう。
【道徳的抑制の発達が阻害されたもの】5歳4ヵ月の男児。2歳半で孤児院に収容される。当時から、手に負えないほどの癇癪持ちであった。激情に駆られると、他者を引っかき、噛みつき、金切り声をあげた。非常に執念深く、他児を痛めつけることに快感を覚えるようであった。時おり、他児から玩具を取りあげて暖炉に投げ込み、その子が悲しむのを見てあざ笑う。うそはよくつくが、盗みを見とがめられたことは一度もなかった。孤児院では、この男児がいるため、動物を飼うことができなかったが、他児によれば、男児は、庭で見つけた昆虫に残酷な行為をしていたという。言葉を交わすと、とてもかわいらしく、教師の話では、「完璧な知能」の持ち主とのことであった。なお、父親は、幼時から激しやすく、対人関係上の問題を繰り返し起こしており、非常に嫉妬深かった。あげくに妻を殺害し、そのため精神病院に収容されている(Still, 1902, p. 1080)。
【いったん身についた道徳的抑制が失われたもの】9歳半の男児。7歳1ヵ月時まではきわめて従順で行儀もよかったが、常にかなり不機嫌だったという。1歳半で歩き始め、2歳時には言葉がかなり出るようになった。生後10ヵ月時に、けいれん発作を繰り返したが、それを除けば、7歳の発症までは、いたって健康であった。その後、極度に反抗的になり、人の言うことをほとんど、あるいは全く聞かなくなった。非常に強情で、たとえば、自分の服が嫌いになると、細かく引き裂いてしまう。また、生きたままウサギを鋏で切り刻むなど、きわめて残虐な行為も見せている。母親の言葉を借りれば、その頃から「手を血で染めて」いたという。日曜学校では、凶暴に荒れ狂ったため、出入り禁止処分を受けた。
学校でも絶えず問題を起こしている。ある時、母親の財布から小銭を盗んだ。それを咎められると、全面的に否定した。追いつめられても、もっともらしい作話をして言いつくろった。体罰を受けるとひどくこわがったが、その直後には、性懲りもなく同じ非行を繰り返した。糞便をトイレの壁に塗りたくった時期もあった。知的には優秀で、魅力的でかわいらしい顔立ちをしていた。話をしても、利発で理知的であった。学校の成績はかなり悪かったが、ほとんど登校していないうえに、注意力も散漫であった(Still, 1902, p. 1081)。
以上の4例は、現代の診断基準からすると、純粋なADHDと見るべきではなく、行為障害や反抗挑戦性障害か、ADHDとそれらが合併した状態と考えるべきなのかもしれません。スティルは、当時の子どもたちに見られた問題行動を、道徳的抑制の欠陥という視点から取りあげているだけなので、スティルの事例には、むしろこの種のものが多いのです。逆に言えば、スティルの事例群は、ADHDという現代の疾病概念が正しいかどうかの再検討を私たちに迫っている、と考えることもできるでしょう。
イギリスの著名な犯罪学者であったアルフレッド・F・トレッドゴールドは、1908年に出版した自著『心理的欠陥』に、「道徳的欠陥」という章を設け、反社会的行動について考察しています。その中で、トレッドゴールドは、スティルとは別個に、しかしスティルと軌を一にして、脳障害に起因する道徳的抑制の欠如という視点で考察を進めています(Tredgold, 1908/1922, pp. 364-411)。どの時代であっても、その時代の潮流のようなものから抜け出すのは難しいようです。
脳の障害が原因でこの種の行動異常が起こったとする考えかたは、1917年から18年にかけて、嗜眠性(エコノモ)脳炎が北米で大流行した結果、むしろ強化されます。それは、この脳炎が治癒した後、多くの子どもたちに、注意力の障害、多動、衝動の抑制不良という、ADHDによく見られる特徴が観察されたからでした。それまで「学校や家庭にきちんと適応していた正常児が、突如として運動亢進を起こした。すなわち、多弁、緊張状態、情動爆発を一過性に生じ、しばしば、全体的に御しがたくなり、落ち着いて学校にいられない状態になった」(Ebaugh, 1923, p. 90)のです。確かに、現代のADHDの症状によく似ています。この一群の症状は、脳炎後行動障害と呼ばれました。こうした症状は、時間の経過とともに半数ほどで症状が消失ないし軽快しましたが、残りの半数ほどでは、永続的な障害を残しました。
しかし、この障害には、ADHDとは違う側面もありました。不眠や唾液分泌過多や視力障害などがしばしば見られたからです。また、この時点で、道徳的抑制の欠陥という考えかたは自然に消滅します。
その後、脳炎後行動障害からヒントを得て、出産時外傷や小児期麻疹、鉛中毒、小児期頭部外傷などの後遺症としての行動異常の研究がたくさん行なわれました。一方、前頭葉を傷つけたサルの研究から、前頭葉に病変が起こると、落ち着きのない状態をはじめとするさまざまな問題行動が発生する、という考えかたがますます裏づけられる形になりました[註1]。この考えかたは、やがて “微細脳損傷” ないし “微細脳機能障害” (MBD)という着想に辿り着きます。
当時は、脳の構造的異常を調べるため、気脳写という脳検査がふつうに行なわれていました。ところが、この検査の後には頭痛が残りやすいのです。ブラッドレーは、その頭痛を軽減させようとして、ためしにアンフェタミンを使ってみました。その結果、頭痛にはあまり効果がありませんでしたが、学校の先生たちは驚きました。一部の子どもたちで、成績が劇的に向上したのです。もちろん、子どもたちもその効果に気づきました。計算能力も高まったためでしょうが、子どもたちは、この薬に「算術丸」というあだ名をつけたそうです。
その結果を知ったブラッドレーは、しっかりした研究計画のもとに、行動障害を持つ児童を対象にして、アンフェタミンの投与実験を開始します。被験者は、“ふつう” の知的水準の、5歳から14歳までの30人で、男女比はほぼ2対1でした。重症度にはばらつきがありましたが、障害の内容は、校内で行動異常を起こす教育不能の児童から、ひきこもりの分裂病質や、攻撃的で自己中心的なてんかんの児童に至るまで、さまざまでした。その結果、半数の子どもたちで、感情的な適応不良がかなり改善されたのです。しかしながら、それは、アンフェタミンを服用している間だけのことで、服用を中止すると、症状は完全に元に戻ってしまいました(Bradley, 1937, pp. 579, 581)。現在の薬物治療でも全く同じですが、残念ながらこれが、精神科薬物療法の限界です。
その後も、ブラッドレーは、250人以上の適応障害の子どもたちを対象に、アンフェタミンとその異性体であるデキストロアンフェタミンに対する心理的反応を、12年間にわたって観察しました。そして、その成果を、小児科の専門誌に発表したのです(Bradley, 1950)。それに加えて、マスコミでも何度か取りあげられたのですが、ブラッドレーの研究は、ふしぎなことにほとんど注目されず、それから25年もの間、誰にも追試されることがありませんでした。現在では、この発見は、精神科治療の中で最も重要な発見のひとつに位置づけられています(Brown, 1998, p. 968)。
1960年代に入ると、微細脳損傷(MBD)という概念が曖昧なものであることが次第にはっきりしてきました。先述のように、実際に確認されているわけでもないのに、一律にそれと断定されてしまっていたということです。小児自閉症の研究で有名なマイケル・ラターは、ある研究者の次のような発言を手厳しく批判しています(Rutter, 1977, p. 1)。「こうした症状の発生率は非常に高いので、この年齢群の子どもの場合、他の診断が下されるまでは、この診断〔MBD〕を妥当と見なすべきである」。信じがたいことですが、当時は、こうした暴論が現実にまかり通っていたわけです。
MBDは、今から10年ほど前のアメリカの医学辞典でも、既に次のように定義されています。「運動能力や五感を十分活用する能力の発達がわずかに遅れるか、障害されることを意味する、かつて使われた用語。現在の用語で、学習障害や注意欠陥多動性障害と呼ばれる障害を表わすのに用いられた」(Turkington, 1996)。脳の障害が実際に見つかったことから生まれた概念ではなく、このような行動異常を示す人々には、微細な脳機能障害があるはずだという “見込み” に基づく着想にすぎなかったことが、これによってはっきりするのではないでしょうか。
そして、ラターは次のように指摘します。「現段階では、神経学的検査が正常であり、はっきりした脳損傷や脳疾患の既往がない場合には、脳障害と診断するための十分信頼できる確かな方法は存在しない、と見なければならない。〔中略〕注意水準や活動水準の障害が、脳障害児にわずかに多く見られる傾向は(適切な対照群が導入された後でも)多少はあるのかもしれないが、その差はわずかであり、実質的な重要性はほとんどない」(Rutter, 1977, pp. 9-10)。この批判は、脳内の特定の異常を突き止めたとする現在のADHD病因論にも、現在のほとんどの脳研究にも、そのまま当てはまると思います。
しばらくすると、こうした行動障害を、興奮薬を使って治療する医師たちが登場しました。ラウファーらの示唆に従って、その少し前に提唱されていた多動症候群という考えかたも、まもなく一般的になりました。それまでMBDという名のもとに一括して扱われていた一群の子どもたちは、ようやく脳障害という前提から離れて、多動症候群と呼ばれるようになったのです。続いて、その子どもたちの多くに、注意や衝動制御の欠陥があることに気づかれるようになりました。とはいえ、こうした特徴群が、はたして本当に症候群としてまとめることができるのかどうかについては、意見が分かれました(Palmer & Finger, 2001, p. 71)。
その後の歴史については、いくつかの著書(たとえば、上林、2004年)に詳しく載っていますので、ここではその要点を記しておくに留めます。今なお現役で活動している、カナダの著名な心理学者ヴァージニア・ダグラスは、1971年、カナダ心理学会の会長講演で、不注意が多動症候群で重要な役割を演じていることを指摘しました(Douglas, 1972)。そのように考えたほうが、多動についてもうまく説明できるというのです。
この論文が端緒となって、その後、多動よりも不注意ないし注意欠陥状態のほうに、多くの研究者の関心が向けられるようになりました。そして、1980年に、その考えかたが、アメリカ精神医学会が策定する診断基準(当時のDSM-V)に採用されるに至るのです。続いて、学習障害や行為障害、挑戦反抗性障害などのいわゆる併存症と、純粋な注意欠陥障害とを区別するための努力が重ねられるようになります。そして、20年以上かけて、現在の注意欠陥/多動性症候群という考えかたに辿り着くわけです。
その間に、MRIや機能的MRI、電気化学的、生化学的測定法など、脳の活動や産生物質を測定するさまざまな方法が登場します。それらの方法を使って調べた結果、ADHDを持つ子どもとそれ以外の子どもの脳の構造の違いや、脳の代謝活性の違いなどに着目する研究が現われます。もうひとつの方向は、“遺伝学的” 研究です。ADHDは同一家系内に多発しやすいというのです。これらの研究の最大の弱点は、単なる相関関係を調べているにすぎず、因果関係が確定できないことでしょう。
〔学校になっている寺の〕広い石段の下や各段には、下駄や草履が、生徒たちが学校へ入る時に脱いだままの状態で、長い列になって並んでいた。私は、いたずら坊主がその履物をごちゃごちゃにした時の様子を思い描かざるをえなかったが、幸い、日本の子どもたちは、おちゃめで陽気ではあるが、優しく育てられているのである。「男の子は男の子」というわが国の言葉――わが国に対する最大の脅威である暴力行為の言い訳――を、日本で聞くことは全くない。(Morse, 1917, vol. 1, pp. 47-48)
既に1880年頃に、モースは、後のADHD問題を、アメリカが抱える大きな脅威ととらえていたようです。後ほどあらためて説明しますが、現代のアメリカでは、ADHD問題がますます深刻化しています。わが国とは違って、ADHDの経験が長いため、悲観的な現実が覆いようもなく明らかになっており、その対応に苦慮しているからです。そして、アメリカでは、2004年から、ADHDに国民の注意を喚起する目的で、“全国ADHD意識の日” (9月7日)が制定されました。次は、当時のわが国の子どもたちが、どのようにして育てられていたかについて書かれたモースの文章です。こうした状況は、わが国で大量消費時代が始まる頃まで、ほとんど変わることなく続いていたのではないでしょうか。
〔寺の縁日で、子どもたちの様子を見ていて〕世界中で日本ほど、子どもたちが優しく扱われ、注目を浴びている国はない。その笑顔を見る限り、日本の子どもたちは、朝から晩まで幸せであるに違いない。朝早く登校するか、自宅で、家業を営む両親の手伝いをしたり、店番をして父親の商売を手伝ったりする。自分が置かれた環境に満足して、幸せそうに働いており、不機嫌な子どもも、折檻を受けている子どもも見たことがない。各家庭は非常に質素で、壊れるような物も置かれていなければ、ひっくり返るような家具類もない。〔中略〕
小さな子どもたちは、自宅にひとり残されることもなく、母親や年長の子どもの背中にくくりつけられて、新鮮な外気の中で、行き過ぎるあらゆるものを眺め、楽しい時を過ごす。日本人は、まちがいなく、児童問題を解決している。日本の子どもほど行儀のよい、優しい子どもは世界中のどこにもいないし、日本の母親ほど、辛抱強く愛情の深い献身的な母親も、世界中のどこを探してもいないのである。(Morse, 1917, vol. 1, pp. 351-52)
やはり外国人がこぞって書いている中に、日本は子どもの天国だということがある。日本の子どもたちは、やさしく扱われるばかりでなく、他のどの国の子どもよりも自由でありながら、その自由をさほど濫用することもなく、楽しいことをはるかに多く経験する。幼児期には、母親や誰かの背中にいつも負ぶわれており、叩かれたり、叱られたり、注意されたり、小言を言われたりすることもない。それほどの恩恵や特権が与えられると、日本の子どもたちは増長してしまうのではないか、という懸念が起こるかもしれないが、両親に対する愛情や老人に対する敬意という点で、日本の子どもたちにまさる子どもたちは、どの国を探してもいないのである。(Morse, 1917, vol. 1, p. 41)
このような文化を持っていたわが国に、ごく最近、西洋諸国と同じような子どもたちがたくさん出てきたわけです。アメリカでは、ADHDの経験が長いため、社会の中でさまざまな機関や組織が作られ、豊富なプログラムが組まれています。それは、ADHDへの対応にどれほど真剣に取り組まざるをえなくなっているかの現われと言えるでしょう。にもかかわらず、将来の予測はかなり悲観的です。次に、わが国のADHDの未来を考えるうえで参考になるはずなので、わが国ではそのままの形で紹介されることの少ない、アメリカでのそうしたADHDの現状を一瞥しておくことにします。その間、ADHDの診断で救急受診ないし入院したか、覚醒剤を投与された子どもは2992人(5・2パーセント。男女比は3対1)にのぼることがわかりました。それらをADHD群、それ以外の子どもたちから無作為に選び出された11968人を対照群として、それぞれに要した医療費が算出されました。その結果、ADHDを持つ子どものほうが、ADHDを持たない子どもよりも、はるかに高額の医療費(1465ドル対690ドル)を使っていることがわかったのです(Guevara, et al., 2001)。
しかし、詳細に検討したところ、問題はADHD自体にあるわけではないことがわかりました。ADHDと別の精神障害(うつ状態、不安、双極性障害、強迫性障害、反抗挑戦性障害、行為障害、学習障害、物質乱用・依存障害、チック障害)を合併している子どもは、ADHD群の28・7パーセントにのぼりましたが、問題は、その併存症群だったのです。さらに詳しく調べたところ、内在化症状(うつ状態、不安、強迫性障害)のほうが、在外化症状(反抗挑戦性障害、行為障害)や物質乱用、依存障害よりも問題が大きいことが判明しました(Guevara, et al., 2001, p. 76)。ただし、ここで取りあげているのは医療費なので、社会的コストという点では、前者より後者のほうが大きいかもしれません。
もちろん、ADHDと後年の触法行動との関係を調べた研究も、これまでいくつか行なわれています。ところが、それらの結果には、かなりのばらつきが見られるのです。ノース・カロライナ大学のレズリー・バビンスキーらは、ADHDの診断基準が何度か変更されたことで、そうしたばらつきが発生したのではないかと考えました。そして、305名の子どもたち(男児=230名、女児=75名。平均年齢=9歳)を15年ほど追跡調査して、後年の触法行為とADHDの病型との関係を調べたのです(Babinski, et al., 1999)。
その結果、男性の場合には、早期に問題行動が見られた群と、多動・衝動傾向を持つ群の双方が、後に犯罪を犯す比率の高いことがわかりました。特に、早期に問題行動を示した多動・衝動群では、何と57パーセントもの比率で警察に逮捕されていたのです(Babinski, et al., 1999, p. 350)。また、この群は、公共的犯罪、私有物的犯罪、対人的犯罪とも、かなりの高率で関係していることが判明しました。早期に問題行動がなかった多動・衝動群でも、対人的犯罪以外については、やはり同じ傾向が観察されました。それに対して、不注意群は、対人的犯罪とわずかに関係していただけだったのです。
この研究は、過去に遡って調査する通常の方法とは違って、特定の子どもたちを長期にわたって追跡したものなので、より信頼性が高いと言えるでしょう。そして、その結果を見ると、ADHDの多動・衝動型は、後年の犯罪傾向と高い比率で関係しているようなのです。「ADHDと呼ばれる状態」の冒頭に引用したNIHの合意声明でも、この問題は、次のように、きわめて深刻な形で取りあげられています。
ADHDを持つ子どもたちは、教室で静座していることができず、注意も集中できないため、その後の経過はおもわしくない。同年配の相手からは拒絶されてしまうし、多種多様な破壊的行動に身を委ねることになるのである。学校や社会で適応が困難なため、その後も広い範囲で、しかも長期にわたって問題が継続する。このような子どもたちは、けがをする比率も高い。行為障害を併存する未治療のADHD児たちは、成長するにつれ、薬物乱用、反社会的行動、あらゆる種類の傷害を起こすようになる。〔中略〕このような人々は、健康管理制度や刑事司法制度、学校、その他の社会事業提供機関からの資源や注意を大幅に費消する。方法論的な問題があるため、ADHDが社会に与える代価を算出することはできない。しかしながら、こうした費消は大きいものである。たとえば、ADHDを持つ児童・生徒のために国が公立学校へ支出した経費の総額は、1995年には30億ドル(3000億円弱)を下らなかったかもしれない。加えて、ADHDは、しばしば併存する行為障害も手伝って、暴力的犯罪や十代の妊娠などの社会問題の一因となるのである(Diagnosis and Treatment of Attention Deficit Hyperactivity Disorder. NIH Consensus Statement Online 1998 Nov 16-18)。
ADHDの代表的研究者たちの総意とはいえ、アメリカはもちろん、世界を代表するような国立医学研究機関がここまであからさまな声明を発表するのは、まさに異例のことでしょう。しかし、そうせざるをえなかった状況が、ADHD問題の深刻さを現わしているわけです。
もちろん、これまで紹介してきたのは、昔から粗暴な行為が蔓延しているアメリカでの調査なので、わが国にそのまま当てはまるわけではないでしょう。しかし、ADHDという診断が妥当かどうかは別にして、またその原因が何であるにせよ、そのように呼ばれる子どもたちやおとなたちがいる事実自体は否定できません。わが国でも、ADHD経験の長いアメリカの調査結果が、ある程度にしてもわが国に当てはまる可能性を念頭に置いたうえで、今後の対応を考えていかなければならないのではないでしょうか。