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 超常現象の “とらえにくさ” について

証拠を残さない超常現象

 昔から超常現象は、説得力を欠いた形で起こりやすいことが、特に念力の場合には、人の視線やカメラのレンズを避けるような形で起こることが、経験的に知られていた。つまり、超常現象であることが直接的に確認できるような状況では、そうした現象はきわめて発生しにくいのである。これは、超常現象が存在しないとすれば当然のことであるけれども、超常現象が実在するとすれば、きわめて奇妙な特徴と言わなければならない。

 日本超心理学会の共同研究者とともに、私は、ある超能力者を対象にした念力実験を数年にわたって行なった経験がある(文献8、205-220ページ)が、その中でも、やはり同じような所見が得られている。つまり、非公式な実演では驚嘆すべき現象が観察されたとしても、正規の実験状況の中では、特に、たとえばビデオカメラを用いてスプーンの変形する模様を録画しようとすると、現象が全く起こらなくなったり、起こっても不明瞭であったり、ピントがなぜか不鮮明になってしまったり、あるいは驚くべきことにビデオのスイッチがひとりでに切れてしまったりして、結果的に、超常現象が発生した明確な証拠がほとんど残らないのである。

 では、たとえばスプーン曲げなどの念力的現象が実在しないかと言えば、決してそうではない。私は、一度、実験の休憩時に、その時立ち会っていた2,3人とともに、きわめて明確な現象を目撃したことがある。明るい部屋の中で、しかもわれわれが至近距離から観察している状況の中で、ある超能力者が、われわれの用意した、4桁の乱数が刻印されたスプーンを開いた掌に載せ、もう一方の手は触れないまま、スプーンの首の部分を90度ほどゆっくりと捻ったのである。これは実に信じ難い光景であった。目撃者は全員が同じ現象を見ているので、単なる錯覚ではないことがわかるが、ビデオの映像として残っているわけではないため、その証言のみで第三者を納得させることはできまい。

 19世紀半ばにイギリスで活躍した著名な物理霊媒D・D・ヒュームは、衆人環視の中、空中に浮かび上がるなど、驚異的な現象を起こしたと言われるし、現在でも、インドの聖者サティア・サイ・ババは、それと比肩しうる、瞠目すべき物質化現象を起こすとされる(文献13)けれども、それと比べれば、われわれが目撃した現象は小さなものかもしれない。しかしながら、それが実在するとすれば現行の科学知識では説明できないため、現行の科学知識に対する挑戦としては十分なのである。そのことは、次節で取りあげるような没論理的批判が、超心理学の門外漢から強く起こっているという事実からも裏づけられる。

 ところで、超常現象に対して否定的見解を持っている者からすれば、先述のように、超常現象のとらえにくさは、超常現象が実在しないために必然的に生ずる結果にすぎないことになる。条件の緩い時にはインチキや錯覚などが入り込む余地があるので超常的な現象が発生したように見せかけることも可能だが、実験条件を厳密にしてゆくとインチキが不可能になるので、何も起こらないのはむしろ当然のことではないか。しかしながら、このような考え方は、ひとつの仮説としては(検証は不可能に近いが、論理的には)確かに正しいけれども、それをもって結論とすることは、科学的方法の守備範囲を越えた行為と言わざるをえない。

科学とは何か――超常現象に対する否定的見解

 ここで、科学知識に対する挑戦という言葉の意味を明確にしておこう。科学とは、観察と実験という、一般に承認された科学的方法を用いて、科学知識を絶えず塗り変えようとする探検的営みである。逆に言えば、科学知識は、科学的探求によって絶えず塗り変えられるべき運命にあり、それが時の科学知識に対する挑戦となる。しかし、既成の科学知識によって、あるいは科学知識をもとにした演繹によって結論を引き出すという方法は、哲学の方法ではあっても、科学の方法ではない。いかなる形態の論証であっても、超常現象であれ何であれ、提出された観察所見を論証によって否定することは、科学的方法として許されていない。「白いカラスを見た」という証言を否定するのに、「カラスは黒いものだ」という常識や通常の観察事実を用いることはできないし、仮に地球上に現在生息するカラスが全て黒いことがわかったとしても、白いカラスが過去に生息していたかもしれないし、見落としの可能性もあるので、「したがってカラスは全て黒い」と断言することはできず、「したがって、その可能性はきわめて低い」以上のことは言えないのである。

 最近、ある大学の物理学教授が、もし超常現象が実在したなら、自分は大学教授を辞任すると宣言しているという(文献3)。辞任せずにすむ自信があるためなのかどうかは知らないけれども、超常現象が実在しないとする根拠をこの教授が、テレビに出演する“超能力者”の欺瞞性に置いているのは、いったいなぜなのであろうか。同じ物理学者でも、たとえばプリンストン大学のロバート・ジャン教授は、遠隔視(透視の一形態)や念力の実在を肯定する実験結果を相当量発表している(たとえば、文献9)し、たとえば『IEEE会報 Proceedings of the IEEE』や『科学的探検雑誌 Journal of Scientific Exploration』などを通じて、わが国の科学者にもジャン教授の研究は少しは知られているはずである。科学者を自任するのであれば、そうした科学者の発表している結果を検討、追試したうえで(もし否定できるものであれば)否定しなければならないのではないか。超常現象を扱う科学者であれば、その義務を負うべきなのではないか。さもなければ、自らが科学者であることを自ら否定し、ジェイムズ・ランディのような手品師と自らを同列視していることになるのではなかろうか。論理的には、この教授は、『ブラックホール』の著者として著名な、ロンドン大学の数学者ジョン・テイラー(文献10)と同じ誤りを犯していると言えるが、テイラーの方が、科学者が行なった超常現象の研究に曲がりなりにも通じていただけ、まだましかもしれない。

 加えて、テレビに出演した“超能力者”がたとえ(推定ではなく)明確な不正行為を行なったのを確認したとしても、また、それと同じことが手品で再現できるからといって、超常現象一般が存在しないとすることは、大変な論理の飛躍であり、厳密な論理の展開を自ら誇るこの教授らしからぬ論証であるばかりか、小学生でもわかる、論理学以前の初歩的な誤りであろう。超能力者らしき者の中には、昔から不正行為を行なう者が多いし、真性の超能力者と思われる者の中にすら、隙を見ては時おり平然とインチキをする者も、残念ながら決して少なくない。このことについては、超常現象の研究者も十二分に承知している。

 超常現象と思われるものの中には、不正行為や観察ミスや錯覚などの結果そのように見えるものがきわめて多い、と主張することは、したがって完全に正当であるが、全てインチキだと断言することは完全に不当であり、先述のように、科学的にも論理的にも、きわめて初歩的な誤りと言わなければならない。

 また、超常現象の再現性の低さを問題にする批判者がきわめて多いが、そのような批判者は、超常現象の実験における実際の再現性がどの程度あるかを、承知したうえで発言しているのであろうか。超常現象の実験でも、再現性の高いものでは70-80パーセントにものぼっている(文献8、17ページ)が、そのような事実を、はたして承知したうえでのことなのであろうか。それに対して、先の教授自らが作製した火の玉発生装置では、“火の玉”様の現象の再現性が(いつもではないのかもしれないが)「〔外国の研究者が〕実験施設を訪れたとき、火の玉実験は失敗の連続だった」(文献1、68ページ)と自ら述べているように、きわめて低い(あるいは、低かった?)ようである。超常現象の再現性の低さを問題にするのであれば、最低限、物理学実験における再現性の低さとどこがどう違うかくらいは、明確にすべきなのではなかろうか。

 ここでこのような批判を行なったのは、この教授を非難するためではなく、この教授には申し訳ないが、同様の没論理的論理を展開している、超常現象否定派の事実上全員の代表として登場していただいたにすぎない。超常現象の否定者は、このように、自らの専門分野では決して用いないはずの「論理帝国主義的没論理」(文献6)を平然と用いることができるが、それはなぜなのであろうか(文献4)。

とらえにくさ症候群

 これまでは、超常現象のとらえにくさの一形態であるように思われる、超常現象の実在の主張に対する没論理的批判について述べた。次に、超常現象のとらえにくさがどのような形で見られるかについて述べることにする。とらえにくさの表現型には、没論理的、感情的批判の他にも、次に示すように、さまざまなものがある。

 表面的に見る限り、こうした表現型はそれぞれかなり異なっているが、超常現象の実在を裏づける証拠が得られないようにしているという点においては、みな同じ役割を果たしている。次に、こうした特徴を簡単に説明しておこう。

 サイ・ミッシングとは、超感覚的知覚=ESP(透視、テレパシー、予知)が、偶然では考えられないほど的から外れてしまう現象のことである。たとえば、五者択一式の選択式問題が100問あったとすると、全てでたらめに丸を付けて正答する確率は5分の1であるから、全体として平均で20点ほどが得られるはずである。たとえばそのテストを100人が受け、全体の平均点が15点ほどであったとしたら、そのような結果が偶然で得られる確率は天文学的な数字となるであろう。その場合には、したがって、それが偶然によって得られたと考えるよりは、意識的、無意識的に正答を知っていながらどこかでわざと誤答したと考えた方が妥当であろう。規模はともかく、そのような現象がサイで起こった場合、それをサイ・ミッシングという。

 転置効果とは、本来のターゲットから、時間的、空間的に外れたものを当てる現象のことで、先ほどのテストをもう一度例に取ると、問題1、2、3・・・に対する解答が、たとえば問題2、3、4・・・に対応していると考えた時の正解率が(統計的に見て)高い現象のことである。これも、やはり受験者が正答を意識ないし無意識に承知している証拠と解釈することができるが、超常現象で同様の結果が観察された場合にも、本来のターゲットが伝達されていることを示す証拠と考えることができる。

 非再現性とは、同じ研究者や他の研究者が、最初の実験と同じ条件で実験を行なっても、同じ結果が得られない(得られにくい)ことである。通常の自然科学的実験では、事実上100パーセントの再現性が得られるが、心理学や社会学など、人間を対象とした研究ではそれほど高い再現性はない。サイ実験の場合には、それよりもさらに再現性が低いことも少なくない。先ほど述べたように、これも、超常現象が存在しないことを裏づける証拠として批判者が好んで取り上げる点である。しかしながら、一方ではサイが存在しないと考えることができないほどの結果も得られており、そのためにこそ非再現性が問題になるのである。

 サイに対する恐怖には、観念的なものと感情的なものとがある。観念的な恐怖心はある程度乗り越えることもできるが、感情的な恐怖心に対しては、きわめて対処が難しい。現実に自分の望んでいたはずの超常現象を目の当たりにすると、強力な恐怖心が心の底から沸き上がって来る。そのため、超常現象に直面すると、それ以上の深入りを避ける研究者も出て来るのである。

 目撃抑制とは、超常現象が人の視線やカメラのレンズを避けるように見える傾向のことである。ポルターガイスト現象の場合でも、スプーン曲げ実験でも、超常現象であることが明確になるような形では、現象が発生することはない。ポルターガイストでも、物体が飛行を始めるところは目撃されず、飛行の途中で初めて観測にかかるものであるし、スプーン曲げにしても、実験者全員の視線が逸れた瞬間や、視線の届かない場所や状況で変形する傾向がある。

 保有抵抗とは、自分が超能力を持っていることを認めるのを忌避する傾向のことである。これも、観念的、空想的な段階では抵抗は少ないけれども、実際に起こった超常現象を自分の責任で発生したとすることに対しては、特にそれが念力的な現象である場合には、強い抵抗が生ずる。超能力者の場合にも、自分の力ではなく、自分は単なる通り道にすぎない、などと主張している者が多い。

 とらえにくさ症候群は、以上のようにさまざまな症状からなっているが、いずれも、超常現象の決定的証拠が残らないようにしているという点で同じ役割を演じている。しかしながら、読者の方々の中には、批判者とは逆に、確かに超常現象はあるのだから、その点についてそれ以上の証拠を求める必要などないではないか、とお考えの方もおられるかもしれない。そこで、超心理学=心霊研究が110年ほど前から蓄積してきた証拠では、どこがどう不十分なのかを明らかにしたうえ、とらえにくさという、超常現象最大の特徴を探る必要性があることについて次に述べることにしよう。

これまで得られている証拠ではなぜ不十分か

 超常現象の研究は、大きく三つに分けることができる。すなわち、(1)超感覚的知覚(透視、テレパシー、予知)、(2)念力、(3)死後生存の研究である。そして、そのいずれについても、偶発例の研究と実験的研究とがある。偶発例の研究にしても実験的研究にしても、いわゆる偏見のない者を首肯させることのできるデータは昔からかなり得られているのであるが、その中には、筋金入りの懐疑論者も納得せざるをえなくなるほどのものはない。超感覚的知覚の研究にしても、念力の研究にしても、死後生存の研究にしても、少しくらいは完璧な事例や実験データがあってもよいのではないかと思うが、それがないのである。たとえば、昼間の屋外で、衆人環視の中、空中に浮かび上がるなどの明確な現象が起こせれば、いかに筋金入りの懐疑論者であっても納得せざるをえないであろうが、そのような現象は、少なくとも昔の報告を除けば全く存在しないのである。空中浮揚のような目覚ましい現象ではなく、スプーン曲げのようなものであってもよいが、誰であれ納得せざるをえないような状況では、そうした現象は決して発生しない。つまり、何らかの意志により、超常現象は、決定的証拠を残さないように決めているかに見えるのである。

 ところで、ほとんどの心霊研究者=超心理学者は、再現性を高めることに全精力を傾注するか、さもなければ、現状のまま超常現象のいわば疫学的研究を行なっている。確かに、そのような方法もあるのであろうが、それでは、これまで心霊研究=超心理学が失敗してきた道の延長線上にある方法にすぎないように思われるし、何よりも、とらえにくさという、超常現象最大の特徴を回避していることになる。したがって、このような研究法は、超常現象の本質を明らかにするための本道ではないように私には思われる。

とらえにくさを探ろうとするのはなぜか

 超常現象の最大の特徴は、私見によれば、その目標指向性とらえにくさである。目標指向性とは、机の上のペンを取ろうと思うだけで、いわばひとりでに手が動いてその通りの行動をするのと同じように、目標となるイメージを描き、それを念ずるだけで、途中の経過に関する知識がなくとも、ひとりでに結果が実現される性質のことである。念写などの場合には、物理的に考えれば、ポラロイド・カメラを使うにしても、装填されているフィルムの感度を少なくとも知っている必要がありそうだが、実際の念写では、そのような知識は必要ではない。それはともかく、超常現象は、なぜとらえにくい状態になっているのであろうか。とらえにくさは、偶然の産物でもなければ、錯覚でもなく、何者かの意志による積極的過程と考えてよさそうであるが、超常現象をとらえにくくしているのは、つまり、超常現象をかいま見せながら、それ以上の証拠を残さないようにしているのは、いったい誰なのであろうか。また、それは、何のためなのであろうか。

 超常現象の本質が何であれ、その意志を持っている存在がその本質を知っているはずである。その推定が正しければ、とらえにくさに直接焦点を絞って研究を行なうことにより、その本質に迫れるのではなかろうか。もちろん、簡単にゆくはずもないが、そのような試みを行なうだけの価値は十二分にあるように思われる。超常現象の本質を知っている存在は、もしかすると、人間の本質、すなわち心の本質をも知っているのではなかろうか。人間は、自らを精密機械のように考えたがり、心を、脳の活動の産物にすぎない、などと軽視したがる傾向がきわめて強いが、超常現象のとらえにくさは、人間の唯物論的思考傾向とも関係しているのではないか(文献7)。

目撃抑制

 とらえにくさが直接的に見て取れる現象として第一に挙げなければならないのは、目撃抑制である。目撃抑制とは、先ほど説明した通り、超常現象が人の視線やカメラのレンズを避けるように見える傾向のことである。超常現象の批判者からすれば、目撃抑制こそ、超常現象が実在しない証拠であるとして、攻撃しやすい対象となるであろう。たとえばスプーン曲げ実験の中で、人の視線が逸れた瞬間に、しかもビデオ・カメラのレンズの視野外でスプーンが曲がったのでは、“超能力者”が力を加えて曲げたか、あらかじめ曲げておいた同形のスプーンとすり替えた可能性が出てくるからである。先に触れておいたように、だからといって全て不正行為や錯覚によるものとすることは論理的にももちろん飛躍であるが、このような状況で起こった現象では超常現象の証拠にならないのも、残念ながら事実である。

 目撃抑制とは、イギリスの臨床心理学者ケネス・バチェルダーの造語であるが、同じ現象を表す言葉は他にもいくつかある。代表的なものとしては、「カメラに対するはにかみ」(ジョン・ランダル)や「恥ずかしがり効果」(ジョン・テイラー)が挙げられよう。それはともかくバチェルダーは、テーブルを囲んで自ら行なった、昔の交霊会形式の念力実験を通じて、超常現象の持つ奇妙な傾向を次第に明らかにしていった。次に紹介するのは、バチェルダーが行なった目撃抑制の観察の中で、最も典型的な現象である。

 何らかのテストやコントロールを行なおうとすると、こうした現象はいつも減衰ないし消滅した。浮揚中の物体を撮影しようとするとカメラが「攻撃」され叩き落とされるか、奇妙な故障を起こすかした。PK(念力)は、「追いつめられる」と、記録装置を使いものにならなくしてその支配から逃れることを「決意」するように見える(文献12)。

 このような現象は、一般の科学者はもとより、超常現象の研究者であっても巨視的念力現象の観察や実験の経験のない者には、信じがたい、あるいは承服しがたいものであろうが、巨視的な念力現象をとらえようとして苦労を重ねた経験のある者からすれば、むしろなじみの深い現象といえる。しかし、この現象が観察通りのものだとすると、きわめて興味深い推測が成り立つ。超常現象は、つまりその裏に潜む何らかの意志は、念力を用いてその証拠を不明瞭にしようとしていることになるからである。これはどういうことなのであろうか。

超常現象の裏に潜むもの

 目撃抑制という現象を文字通り解釈すると、超常現象の裏に潜む何らかの意志が、超常現象の実在を裏づける明確な証拠を残さないよう絶えず(おそらくはESPをも利用しつつ)監視しており、その証拠を不明瞭化するためには超常現象を用いることも辞さない、ということになる。ここで、当然のことながら、大きな疑問がふたつ生ずる。つまり、(イ)証拠を不明瞭化しようとする意志は、必然的に、地球的規模で共有されており、いわゆる抜け駆けは稀にしかないことになるが、それは、誰の、あるいは何者の意志であるのか、また(ロ)なぜそのようなことをするのか、という疑問である。

 バチェルダーは、ポルターガイストを例に採り、別の論文の中で次のような発言をしている。

 ポルターガイストの中心人物が、明らかに学習することなく演ずる、驚嘆するほど統合されたマクロPKの離れ業を見ると、人間は、PKをどう使うかを学ぶ必要はない(人間の心はあるレベルで、それを既に非常によく知っている)が、意図的にそれを起こすためには、正しい心の状態にいかにして入るかを学習しなければならないように思われる(文献11)。

 そうした能力を持った者が超常現象を自在に操ることからすると、その裏に潜む意志が超常現象の本質を多少なりとも承知していることはまちがいあるまい。そしてその意志は、バチェルダーの指摘を待つまでもなく、人間の心に内在していると考えるのが妥当であろう。したがって先のふたつの疑問は、「人間は、なぜ超常現象の証拠を不明瞭化しようとするのか」という疑問にまとめることができる。次にこの問題を考えてみよう。

人間はなぜ超常現象の証拠を不明瞭化するのか

 超常現象がとらえにくいのは、どうやら、人間自身が超常現象の証拠を不明瞭化しようとしているためであるらしいことがわかったが、それはなぜなのであろうか。

 知っているのに知らないことにする、しかもそうした強い意志が働くという現象は他にも知られている。それは、心因性疾患の原因に関係するものである。フロイトの昔から、心因性疾患の原因は意識から隠されていることが知られていた。フロイトはそれを抑圧と呼び、意識に置いておくときわめて不快なため、その記憶を無意識に追いやるのではないかと考えていた。私は、自分の開発している心理療法の経験から、それとは全く別のメカニズムにより、その原因やそれにまつわる出来事が隠されると考えるが、紙面に余裕がないため、それについては詳述しない(関心のある方は、拙編書〔文献7〕を参照されたい)。さしあたりここでは、試みに、心理的原因を意識化することに対する(私の解釈による)抵抗を、超常現象の本質を意識化することに対する抵抗と比較しながら考察を進めてみよう。

 私見によれば、心因性疾患の原因は幸福感の否定であり、したがって、その意識化に対する抵抗も、自身が幸福になることに対する抵抗に由来している。この抵抗はきわめて強力で、自らが否定している幸福感を意識に引き出される恐れが生ずると、心身症をはじめとする症状を用いてまで、それに抵抗する。患者はまた、幸福につながる能力の発揮をも回避する傾向を強く持っている。つまり、能力を発揮するよう迫られると、やはり症状を用いてそれを回避するのである。

 超常現象は、その発現を迫られると、特にその実在を裏づける証拠が捕捉される恐れが生ずると、それに対して強く、時に超常現象を用いてまで、その証拠を残すまいとして強く抵抗する。そこで、誰もが超能力を持っていて、その本質を誰もが承知していると仮定すると、超常現象の本質は、心因性疾患を持つ患者が心理的原因を隠蔽しようとするのと同じメカニズムにより人間(自分)の意識から隠蔽される、とする仮説が生まれる。この仮説の検証は今後の課題であるので、ここでは、この仮説を仮に正しいとした場合、人間の、特に現代の科学者の思考形態がどのように見えるかを考えてみることにしよう。

唯物論とは何か

 人間は、特に現代の科学者は、人間の能力を矮小化しようとする傾向がきわめて強いように思われる(文献1)。そのひとつの現われが、現代科学のパラダイムたる唯物論的世界観である。唯物論は、科学的方法によって実証されているわけではない単なる憶説にすぎないが、なぜか現代では、唯物論は絶対的真理とされており、その事実性は疑われてすらいない。それはともかく唯物論によれば、人間は精密機械のようなものであり、人間の心は脳の副産物にすぎない。つまり、脳が死ねば、その活動によって存在しているかに見えた心も、当然のことながら消滅するのである。

 ここで、超常現象をとらえにくくしている主体が人間の心であるとする仮説から唯物論を逆に眺めるとどうなるであろうか。人間は、自らの能力を自らの意識から隠蔽するため、心を脳から独立していると考えるのを回避し、心が脳から独立して存在することを示唆する証拠を(記憶の隠蔽や没論理的論理までをも総動員することにより)全て拒絶する。その結果、唯物論という発想が生まれるのである。人間が、特に現代の科学者が唯物論という憶説を信奉する理由は、まさにここにあるのかもしれない。この仮説の検証も今後に課せられた課題である。

参考文献


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