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心の研究室は、人間の心が脳とは別個に存在することを明らかにすることをひとつの目的として、1996年4月、東京都品川区に開設されました。当研究室では、現代科学が避けて通り続けている、さまざまな現象を直視することにより、人間の心の本質を探究しています。実際に研究の対象としているのは、〈心因性疾患の真の原因〉と〈人間の心自体が持つ力〉のふたつです。一般の科学分野では、両者とも極度に不明瞭化されており…… 心の研究室では、私が開発した独自の心理療法を行なっています。詳細については、中欄の解説や右端に列挙されている拙著を参照してください。当室の心理療法はすべて予約制になっています。料金表と時間割については、このページをご覧ください。なお、遠方の方の場合には、電話やスカイプによる心理療法も可能です。
当ホームページはFirefox と Google Chrome を基準にして制作されているため、Internet Explorer では、上のメニューが使えないなど、いくつかの致命的問題が発生します。互換表示にすると、メニューは使えるようになりますが、今度は、特にトップページの表示が大きく崩れてしまいます。本サイトでは、そのため、Firefox か Chrome のご使用を推奨しています。また、Mac OS でも、Internet Explorer を使うと上部のメニューが正常に作動しないようですので、やはり Firefox か Safari をお使いになることをお勧めします。なお、サイトマップ をお使いになれば、これらの問題は回避できると思います。
◆欧文専門誌・専門書寄贈先募集
「振り込め詐欺の心理学――特にオレオレ詐欺について」を、トピックス欄(上部メニューの「トピックス」タブ)に掲載しましたので、ご覧ください。この詐欺が大きな社会問題となり、情報としては万人の共有するところとなっているにもかかわらず、巨額の被害が依然として発生しているのはなぜなのかについて、幸福否定の立場から検討しています。 トップページがあまりに縦長になってバランスが悪いので、幅を広げました。それに伴って、上のメニューにお問い合わせとアクセスを加えました。 § § § 30年ほど前にアメリカの心身医学雑誌に寄稿した、心理療法の中で録音テープに繰り返し雑音が記録された事例の報告を、このたび必要があって電子化したため、「これまでの出版物」の「事典・論文」の項に pdf として掲載しました(Presumed case of spontaneous PK in psychotherapy situation)。これは、通常なら稀にしか起こらないはずの現象が、きわめて強い心理的抵抗に直面すると、それを回避しようとして頻発することを示す、非常に貴重なデータです。とはいえ、実はこの現象は、それ以降もごくふつうに、しかも録音テープばかりでなく、媒体がMDやICに変わっても、同じように起こり続けています。さらには、電話やスカイプでの心理療法でもごくふつうに起こります。ひどい場合には、声が全く聞き取れないほど大きな雑音が続いたり、接続が切れてしまったりします。そしてそれは、強い抵抗の目印として実用的に利用されているのです。こうした現象は、超常現象研究史上でも全く知られていないので、いずれ詳しく報告する予定です。また、この拙論は、現在の幸福否定という考えかたに辿り着く前の、まだ小坂療法のライバル理論をそのまま適用していた時代に書かれたものなので、その点でも興味深くお読みただけると思います。なお、この論文は、印刷前にゲラを見る機会が与えられなかったため、私の名前が誤植されています。(2/09/12) § § § 「私の心理療法」の各項の説明を少々詳しくし、トップページの説明を読むだけでも、ある程度はおわかりいただけるようにしたところ、かなり長いものになってしまいました。そのため、お読みいただくのに便利なように、この欄だけを拡大するボタン(プリンタのマーク)を付けました。このボタンをクリックすると、この欄全体の pdf が別ウィンドウで開きます。▼「ご注意」と「欧文専門誌・専門書寄贈先募集」の項を、目立ちやすいように少し上にあげました。(1/24/12) § § § 「これまでの出版物」のページを、心理療法関係と超常現象関係のふたつに分けました。それに伴い、いくつかのページを少々変更しました。▼「欧文専門誌・専門書寄贈先募集」を以下に掲載しました。▼トップページのデザインを少々変更しました。それに伴って、「幸福否定とは何か」など、新しいページもいくつか作りました。結果的にブログ風のデザインになりましたが、全体を暖色系にしたことと、私の心理療法の説明を一括し、全体像を把握しやすくしたことが主な変更点です。また、今までは、トップページを単純なものにすることをいつも心がけてきましたが、今回はその基準をあらため、情報量のほうを重視することにしました。その結果、たくさんの文字が、このように小さいフォントで詰め込まれる結果になりました。 § § §昨年9月に国書刊行会から上梓した『加害者と被害者の“トラウマ”』の内容の一部を、pdf でご覧いただけるようにしました。▼2010年に、『大学出版』第82号に掲載された、「かたい本が売れない」が、オンラインで閲覧できるようになりました。▼「書評の考察」に、 「スティーヴンソンの研究への批判」のレビューの検討も掲載しました。上の欄の「書評の考察」もご覧ください。▼「『本心と抵抗』――売れ行き不振の理由に関する検討」を上のメニューの「トピックス」欄に収録しました。
§ § § 今西錦司の進化論に関する著書を執筆するための準備を再開し、全集を自由に検索できるようにするための総合索引を作成しました。非常に巨大なものになり、人名索引で2412行、事項索引では何と21099行になりました。現在、全体のプロットもほぼ完成し、来年末の脱稿を目指しています。
これまでの出版物は、私の心理療法やその基本概念である“幸福否定”に関係するものと、超常現象関係のものとに分かれます。心理療法自体について書かれたものとしては、右欄にも表示されている『本心と抵抗』があります。その理論的背景やそれが導き出されるまでの経緯については、『幸福否定の構造』に書かれています。……
超常現象に関する著書や翻訳書に対しては、例によって、以前からさまざまなご意見やご批判が寄せられてきたのですが、それ以外の、特に心理療法に関する私の出版物については、これまでのところ、ほとんど反響がありません。特に専門家からは完全に無視されていると言ってよいほどです。しかし、2008年に出版した、鳥類の行動に関する翻訳書(『もの思う鳥たち――鳥類の知られざる人間性』)に対しては、……
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私の心理療法は、現在その存在がほとんど抹殺されている小坂英世先生の“小坂療法”から出発し、経験のみをもとにして、長い時間をかけ徐々に発展させてきたものです。最終的にはほとんどの点で全く違ったものになりましたが、小坂先生が世界に先駆けて樹立した、“反応”という客観的指標を利用する実証主義的方法は、そのままの形で踏襲しています。 私の心理療法の方法や理論の進展の経緯については、『幸福否定の構造』に詳しく書かれています(月刊誌に連載された「心理療法随想」には、当初の事例の一部が具体的に紹介されています)。 ちなみに、小坂先生の方法論がいかに革命的なものであったかについては、『幸福否定の構造』や『加害者と被害者の“トラウマ”』に詳述されています。なお、1973 年頃に私が録音した小坂教室の模様は、プライバシーの問題もあるため、おそらくごく一部になるでしょうが、いずれ本サイトで公開する予定です。これは、歴史的に見て、きわめて貴重な資料です。 本欄では、私の心理療法の基本概念のうち、重要なものについて手短に解説します。いずれの項目も、人間である限り、民族や時代に関係なく誰にでも当てはまるはずなのですが、いずれも根本から常識に反しており、他の心理療法やカウンセリングには全く見られない概念ばかりであるうえに、以下に述べる〈抵抗〉というものが万人にあるため、ほとんどの方にとって非常に理解しにくい――あるいは、観念的には理解できても、感情的に受け入れにくい――と思います。詳細な内容については、拙著をお読みいただければ幸甚です。なお、当サイトおよび私の心理療法で使われる用語を検索するには、右上の google サイト内検索をご利用ください。
〈幸福否定〉とは,自ら望む幸福感が意識に昇るのを妨げようとする,無意識的な強力な意志のことです。この意志の強さは、まさに想像を絶するほどで、その存在を発見してから既に 25 年以上が経過しているにもかかわらず、今なお、その強さを再認識させられ続けています。 これまで集積してきた証拠を優先する限り、幸福を否定しようとする強い意志は、育てられかたなどの環境的要因とは無関係に,本来的に人間全般に内在するものと推定せざるをえません。この意志は、本能に匹敵するほどの強さを持ち、人間という存在のさまざまな側面を,特にその重要な側面を、意識に悟られないようにしながら自在に操っていると,私は考えています。心因性の症状は、ストレスなどの外部の要因によって起こるものではなく、そうした操作の結果として作りあげられるものであり、したがって、動物には見られない、非常に人間的かつ高度な産物であることになります。 わかりやすい比喩を使って表現すれば,聖書に登場する悪魔サタンのような,恐るべき力を持った存在が,生まれながらにして,ほとんど意識されることなく,各人の心の奥底に潜んでおり,黒幕のようにして絶えずその力を行使しているということです。 もちろん、現在の科学知識や常識に基づいて考えれば,そのようなことがあるはずはないでしょう。人間には、そこまでのことをする理由もなければ力もないではないか、と考えるのが世の常識なので、愚かしいにもほどがあるというものです。しかしながら、科学的根拠に乏しい現行の科学知識や常識から離れ、客観的指標のみを使って浮き彫りにしてきた事実群を尊重する限り、どの角度から見ても、そのような結論に到達せざるをえないのです。 ところで、幸福否定という意志の存在は、個人や人間全体にとってマイナスにしか見えないかもしれませんが、決してそうではありません。乗り越えるべき課題を、幸福否定という仕組みによってあえて作りあげ、自らに突きつけていると考えることができるからです。
動物には決して見られない修行という方法は、進んで自らに負荷をかけることを通じて、自らの人格的成長を目指す、まさに人間特有の方法です(したがって、精神分析のような受動的人間観ではこれを適切に説明することはできません)が、それと相同的な仕組みとして幸福否定が存在するのではないか、ということです。このことは、自分の病気や悪しき性癖を、抵抗に直面することを通じて、ある程度にせよ乗り越えた人たちを見るとはっきりします。薬により安易に症状を抑えた場合と違って、多かれ少なかれ、人格の成長を伴うからです。
幸福否定という考えかたからすると、心理的原因は、悪いことではなく、当人にとってよいことでなければなりません。これは、客観的指標を使って経験的に導き出された結論であり、勝手な推測に基づく空論ではありません。私の考える心理的原因には、時間的近接や記憶の隠蔽など、いくつかの厳密な条件があります。 たしかに精神分析の昔から、幸福恐怖症などという“病名”は知られていました。しかしながら、これは、そのような傾向を持つ一部の人にしか当てはまらないことが大前提になっている概念です。それに対して、私の言う幸福否定は、精神分析とは視点が正反対で、民族や時代を問わず、人間であれば多かれ少なかれ誰にでも内在することを想定している、非常に普遍的な概念なのです。 反省を迫られる出来事(反省を通じて進歩するきっかけを与えてくれる出来事)を別にすれば、心因性の症状は、本人にとって悪いことが原因で出ることはないのですが、人間の意識は、症状が出た後に、その原因として悪い出来事(自分にとって負担になる、ストレスのようなもの)を探し出そうとする傾向を抜きがたく持っています。逆に言えば、好事を原因として探そうとすることは絶対にないということです。実は、これも幸福否定のひとつの現われなのです。 専門家の側も、世の常識やストレス理論という常識的原因論に忠実に従って、悪いことを心理的原因と決めつけてしまいます。それに対して、うつ病では、昇進や家の新築や結婚や出産などの好事に関係して発症することが、発病状況の研究によって知られています。虚心坦懐に観察すれば、それだけで常識とは異なる結論が導き出されることは往々にしてあるものです。
しかし、心理的原因に関係する出来事には、このように大きなものはほとんどありません。出来事としては日常的な些末事であっても、本人に大きな幸せをもたらすものが、心因性症状の原因になるのです。だからこそ、周囲にも原因がわかりにくいわけです。この問題については、『本心と抵抗』の第4章および第5章で、実際の探りかたを含めて、かなり詳しく扱っています。
〈本心〉と〈内心〉とは、人間のいわゆる無意識の中に、半ば独立して存在するふたつの心の層のことです。本心は、自らを向上させるために内心を利用している側面があるらしいので、実際にはもっと複雑なようですが、内心は、人間の本質たる本心を否定する目的で存在していると考えるとわかりやすいでしょう。 精神分析などで想定している従来的な無意識は、あくまで西洋風に、意識を中心にして考え出された常識的概念ですから、理解しやすい半面、致命的な限界も持っています。それは、意識が許容しない概念や事柄は、意識に昇りえないため、着眼や着想に至ることすらないということです。 また、何らかの出来事を通じてその一端が表出しかかったとしても、意識がそれを“解釈”する段階で深刻な歪みが発生してしまうはずです。その結果、観察事実が、ひいては“科学知識”が大きく歪められてしまうわけです。その“歪み”が比較的少ないまま意識に到達したものが、直観と呼ばれる、従来的な知識を超えた着想になるのでしょう。 私の心理療法では、いわゆる無意識の側を主体に考えるため、視点が全く異なります。内心にしても、その下に隠されている本心にしても、非常に強い意志と能力とを合わせ持っているため、自らの心身を、特に幸福を否定する方向には自在と言ってもよいほどに、しかも間髪を入れずに操ることができます。
そして、自分の意識が望んでいたはずの幸福がいざ到来すると、あるいは到来しそうになったことを内心が察知すると、その幸福心が意識に昇る前に、幸福心を起こさせる出来事の記憶を消すなどの操作をするのと並行して、自分の心身に変調を起こさせて“不幸”を作りあげ、意識をその幸福から遠ざけようと誘導するわけです。意識側から見れば完全犯罪のようなことが、すべての人間の心の内で、ごく日常的に行なわれているようなのです。……
以上の説明からおわかりいただけるように、私の心理療法で言う〈抵抗〉とは、世間の常識や精神分析などの心理療法理論が想定するものとは正反対の概念で、要するに幸福に対する抵抗という意味です。これは、私の心理療法では、幸福否定と表裏一体の関係にある最重要の概念です。 人間は、特に先進諸国に住む現代人の多くは、幸福を追求する一環として、自分の人格や能力を高めたい(より正確に言えば、引き出したい)という根元的欲求を持っています。ところが、上述のように、いざそれが到来するか到来しそうになると、それが大きなものであればあるほど素直に喜ぶことができません。そうした素直な感情が意識に昇る前に、内心が止めてしまうのです。そのような抵抗の一環として――幸福に水を差すようにして――さまざまな心因性の症状や問題が作りあげられることになるわけです。 しかし、ほとんどの場合、相対的に小さな幸福は意識で許容され、それが繰り上がる結果、実際よりも大きな幸福として感じられる場合が多いようです。そのため、幸福を全否定する一部の人たちを除けば、自分がより大きな幸福を否定している事実に気づくことはまずありません。 逆の方向から眺めた場合にも、従来とはかなり違った風景が見えてきます。心底から望む幸福を避けるような生きかたを“首尾よく”続けている限り、心因性疾患を起こすこともなく、まさに“順風満帆”な人生を送りやすいことになるからです。 人類が生活に追われるだけの一生を送っていた、つい最近までのいわば動物的な時代には、平穏無事な生活こそが理想の生きかたとされていました。しかしながらそれは、現代の先進諸国に住む人間が心底から望む生きかたとは言えないのではないでしょうか。いわば雌伏的な生きかたからようやく解放され、より高度な幸福を求める余裕が生まれつつある現代では、生活を犠牲にしてまでも、冒険的な生きかたや“自己実現”のほうを優先しようとする人たちが、おそらく以前よりもはるかに多くなっているからです。
そのような側面から考えても、心因性疾患を起こすということは、決して悪いことではないことになります。動物的なもの(精神分析で言う快楽)にあらざる人間の幸福(人間的な喜び)を追求している現われでもあるからです。これは、決して慰めで言っているわけではなく、本当にそうなのではないかと私は思っているのです。……
私の心理療法で言う〈反応〉とは、しばらくのあいだ持続する“症状”とは異なり、日常生活の中でも、以下に説明する“感情の演技”の中でも、ごくふつうに起こる心身の一過性の変化(眠気、あくび、心身症状)を指す言葉です。いわゆる新型うつ病などで知られるようになった、状況に応じて反応(あるいは症状)が出たり引っ込んだりする現象(以下の「対比とは何か」参照)も、反応の実例としてわかりやすいものでしょう。なお、この反応という概念は、小坂先生によるものを除けば、心理療法理論としてであれ何であれ、これまで全く存在しませんでした。 幸いなことに、最近、その格好の実例が知られるようになりました。それが、書店に入ったとたんに便意を催すとされる“青木まりこ現象”です(この現象については、『本心と抵抗』の第1章で詳細に検討しています)。これは、すぐれた美術作品に接すると心身の種々の変化を起こすとして、比較的最近、西洋で知られるようになった“スタンダール症候群”と並んで、反応自体に名前がついている珍しい例です。 “ストレス”という考えかたでは、ストレッサーにさらされ続けると、徐々に心身に影響が及び、最終的に心身症状が出ることになっていますが、実際にはそうではありません。もちろん“青木まりこ現象”もそうですが、幸福否定を起こす出来事に直面すると、それまで何ごともなかった状態から、まさに一変して下痢などの身体症状が出現するのです。ストレス理論では、こうした瞬時の変化は想定されていませんし、現行の科学知識でも、これを説明することはもちろんできません。
感情の演技の中で、たとえば鼻漏が起こることは珍しくありません。それは一般に、2分間の感情の演技を始めるとまもなく起こり、終わるとその瞬間に止まる、という経過をたどります。一見するとアレルギー反応ですが、潜伏時間がどうやら必要なさそうなことと、感情を作るのをやめた瞬間に止まるという形をとることから、別の理由を考えなければならなくなります。しかしながら、現在の科学知識や医学知識の中には、この現象を的確に説明する概念は存在しないのです。
〈感情の演技〉とは、私の心理療法の中で、ほとんどの場合、喜びをはじめとする素直な感情を、なるべく実感を伴うようにしながら、演技するような形で作ろうとする方法のことです。これは、心理的原因を探ることと並んで、私の心理療法で最も重視されている方法です。 たとえば、自分の病気がよくなったり問題が解決したりすることは、誰もが望んでいるはずなのですが、実際にそうなった状況を想定して、その時に出るはずのうれしさをリハーサルのようにして作ってもらうと、驚くべきことに、誰であれ(演技を仕事にしている俳優でも)、そうした感情を作るのが非常に難しいのです。そこで抵抗が起こって、反応が出るわけです。 従来的な方法とは全く違うのでわかりにくいでしょうが、感情の演技は、感情を作る訓練ではなく、内心に抵抗のある素直な感情を意識で作ることを通じて、意識を内心の抵抗に直面させ、わずかずつでも内心の力を弱める目的で行なうものです。ところが、何回繰り返しても、あまり感情ができるようにならないため、“はりあい”といったものはほとんど感じられません。それどころか、その感情を意識に作らせないための手段として、内心が心身の反応を引き起こすため、意識にとって感情の演技は苦痛でしかないわけです。意識がそう思い込むよう仕向けることも、反応のひとつの目的になっています。 常識とは裏腹に、自分にとって悪いことは、抵抗なくいつまでも考えることができるのに対して、自分にとって幸福なことを実感を持って考えようとすると、強烈な抵抗が例外なく起こってしまうのです。ちなみに、このように誰にでも簡単な方法で確認できる普遍的現象が、これまで全く知られずに来たことは、人間にあまねく存在する強力な抵抗のためとはいえ、非常に不思議な感じがします。
感情の演技を繰り返しさえすれば、依然として感情ができなくても、それだけでさまざまな好転が起こることは、既に明確に確認されています。ただし、次に説明する〈好転の否定〉という現象があるため、ことはそう簡単ではありません。……
自分の病気がよくなったり、問題が解消されたりすると、そうした好転が自分の(意識の)許容範囲にあるうちは素直に喜ぶわけですが、心理療法を続けていると、それを超えてしまう時がいつか来ます。〈好転の否定〉とは、いわば過分の好転に由来する、自らの許容範囲を超えた幸福を、抵抗のため素直に喜ぶことができないため、それを意識に昇らないよう操作しながら心因性の症状を作りあげてしまう現象のことです。ふしぎに感じられるかもしれませんが、これは、幸福の否定が存在することから必然的に生ずる現象です。 この場合の特徴は、一部には意識が許容する好転もあるために、好転した部分と、好転を否定した結果としての症状とが混在することです。そのため、事情を知らない人が見ても、どこか違和感があるものです。 もうひとつの特徴は、好転の否定による症状が、時間の経過とともに自然に解消に向かうことです。しばらく“ケチ”をつけて、それで気がすめば矛を収める、という表現が実態に近いでしょう。しかし、好転が大きい場合には、それが解消されるまでにかなりの時間がかかることもあります。 一般に知られている現象で比較的これに近いのは、一流のスポーツ選手や芸術家に見られる“スランプ”でしょう。精進を重ねた結果、本当は技術や能力が向上しているのに、意識でそれを素直に認めることができないため、技術や能力が向上しなかった“証拠”を作りあげ、それを意識に突きつけるということです。
この抵抗を乗り越えれば、大きな進展が自然に浮上するわけですが、意識側からすれば、それを乗り越えるまで大変な苦しみが続くのです。その苦しみは、自分の意識を説得するためのものなので、作りあげたものとはいえ、非常に大きいわけです。……
私の心理療法で言う〈対比〉とは、時間的、空間的、対人的、状況的な変化に沿って、心因性の症状が急激に変動する現象のことです。先ほどもとりあげた新型うつ病では、仕事に行こうとするとうつ状態などの心身症状が起こるのに、遊びに行く時には起こらないどころか、むしろ元気になったりするなどの変化が知られていますが、これも対比という現象に当たります。 これらは、仮病や自己暗示によるもののように見えるでしょうが、そうではありません。本当は、何らかの出来事を通じて仕事に喜びを感じるようになったのに、自分の意識にその幸福感を否定する手段として、仕事に向かう時に症状を作るだけでなく、それ以外の活動をする時には症状を消し去るという戦略を(内心が)とることによって、仕事がいかに苦痛であるかを自分の意識により強く印象づけようとしている、ということなのです。 家の中では頭痛などの症状が絶えずあるのに、玄関を一歩出ると、その瞬間にその症状が消えたり、いつも具合が悪くて自宅で寝てばかりいる人が、友人から電話がかかってくると、その瞬間から元気になってふつうに話をするのに、電話を切ると、やはりその瞬間から症状がぶり返すという経験を持つ人は少なくないでしょうが、これも、対比という現象に当たります。その場合には、世間で考えられているように、家庭生活の中に“ストレス”や“トラウマ”があるどころか、そこに、意識で認めようとしていない真の幸福が隠されているということです。 もちろん、記憶も並行して操作されます。つまり、幸福であるはずの時間や空間で過ごした記憶が消え、それ以外の記憶は消えないという形をとるわけです。そしてそれは、たとえば高校生以前の自宅内の記憶がほとんどないのに対して、玄関から一歩出た後の記憶は鮮明に残っている、などという結果になります。そしてそれは、世間でも専門家の間でも、その戦略に乗せられて、自宅でひどいことがあったためだとして、事実とはまさに正反対に解釈されてしまうのです。 子どもの不登校でも、ほとんどの場合、時間的、状況的に同じ現象が見られるはずです。また、自分から希望して大学院や専門学校、カルチャー・センター、自動車教習所などに通っている青年や成人が起こす“登校拒否”でも、同様の対比が起こるのですが、それらがあまり注目されないのは、その事実が広く知られてしまうと、不登校や登校拒否の、ひいては心因性疾患の真の原因に近づいてしまうおそれが、人間全般のいわゆる無意識に潜在しているためなのではないかと思います。
最近よく話題になる、“ペットロス症状群”も、対人的対比に関係した現象と言えるでしょう。実はこれは、対比の一方の側であり、ペットの“死による悲しみ”とは正反対の方向に、もう一方があるのですが、これは一般には全く知られていないはずです。…… |
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