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 適合行動の一例

できごと

 昨日(2022年5月2日)、『小坂英世著作集』第3巻の事項索引のページをようやく拾い終えたので、つかの間の休憩時間に、散歩がてら近く(電車で3駅)の町田市中央通りにあるブックオフに出かけた。出かける先の候補は何カ所かあったが、あまり遠出をするだけの余裕はない。ということで、電車で 15 分ほどで行ける町田におさまった。そこに出かけるのは正月以来なので、4か月ぶりになる。五反田や自宅近くのブックオフにはめぼしいものがないが、客層が違うせいなのか、ここには必要なものがいつも何点かある。4か月もたっていれば、必要な本がいくつか見つかるのではないか。

 通常は廉価本の医学書などが並んでいる一部の棚しか見ないのだが、昨日はなぜか、別の通路にある心理学の棚を久しぶりに見る気になった。そこには、本来の値段の中古本が並んでいる。記憶している限り、どのブックオフの店でも、格安の(つまり 100 円か 200 円程度の)本以外にはほとんど購入したことがない。必要な本は、多少の送料がかかっても、アマゾンマーケットプレイスやヤフオクやメリカりのほうが、はるかに安く手に入るからだ。最近は、ヤフオクよりも必要な本がたくさん出品されている、しかも送料無料のメルカリを利用することが多い。

 そのような次第で、購入するつもりはもとよりなかったため、その棚はざっと見るという程度だったのに、たまたまというべきか、エミール・クレペリンの『強迫神経症』(みすず書房)の白い背表紙が目にとまった。ごく最近、どこかでこの本のタイトルを見た覚えがある。ヤフオクだ。ヤフオクに、しばらく前からこの本が出品されていたが、ウォッチリストに加えたまま、前の晩に、入札するのを忘れていたのだ。したがってこれは、今度こそ入札しなければと思っていたのと同じ本ということになる。

 中身よりもむしろ値段を見るため、その本を手にとってみた。すると、みすず書房の専門書にしては意外に安く、値段は 1819 円(税込み 2000 円)になっている。意外だったのはそれだけではない。無色透明のセロファンに覆われて、開けないようになっており、裏表紙の左上に、「ヤフオク出品中」のラベルが貼られていたのだ。正確には覚えていなかったが、ウォッチリストに加えていた本も同じような値段だった。そうすると、まさかとは思ったが、一昨晩うっかり入札を忘れた本そのものである可能性が考えられる。もしそうなら、これは、非常に稀な適合行動の一例になる。

 しばらく前から精神医学の古典の重要性を再認識するようになっていたため、記述にたけたドイツ語からの邦訳書を少しずつ集め、目を通してきていた。それをもう少し本格化しようと考えるようになり、この数日の間に、アマゾンやヤフオク、メリカり、日本の古本屋などから、クレペリンやブロイラーの本の中古を何冊か購入していた。この『強迫神経症』の入手を考えたのも、その収集の一環だった。

 この本は、1989年にみすず書房から、定価 7700 円で刊行されたものだ。3か月ほど前には、同じ定価と同じ装丁で、なぜか “新装版” と銘打った増刷も出ている。したがって、それなりの数が出ているはずだが、実際に古書として出まわっているのは、どれほどの数なのだろうか。

 調べてみるとその数はそれほど多くない。2022 年5月2日現在で、アマゾンマーケットプレイスから8点、日本の古本屋から5点が出品されているだけだ。メルカリからはさらに少なく、1点しか出品されていない。そうすると、古書店でこの本に遭遇する確率はかなり低いことになる。みすず書房から出ている古典的な専門書は、手放す人が少ないからなのだろう。

 私が2年前に同じような定価で出した『人間の「つながり」と心の実在』などは、わずか 500 部しか印刷されておらず、しかもそのうちの 100 冊近くを定価で買いとるという契約だったため、実際に市場に出まわったのは 400 部にすぎない。にもかかわらず、その 10 分の1以上にあたる 40 から 50 部ほどが、いつもアマゾンマーケットプレイスから古書として出品されている。さすがにみすず書房から出る専門書は、このような現状にある拙著とは、天と地ほどの差があるのだ。

確 認

 実は、この本をブックオフ町田中央通り店で手にとった時、これはヤフオクでウオッチリストに加えていた、まさにその本だという確信を抱いた。理由はわからない。直観的にそう思ったということだ。いずれにせよ、ヤフオクで落札するのと同じような値段なので、迷わず購入した。帰宅してセロファンをとってみると、本来は、2745 円(税込みで 3020 円)で販売されていたものであることがわかった。売れ残ったので、格安の値段をつけてヤフオクに出品したのだろう。ちなみに、昨日に入手したものは、2001年7月5日に発行された第3刷だった。

 自分がそう確信しているのはいいとしても、それだけでは、少なくとも他者に対する説得力はない。そこには、客観的な証拠が何もないからだ。したがって、偶発的な超常的現象の場合、証言に信頼性があるかどうかという問題に帰着することが多い。そのようなこともあって、この時点では、その証拠を探そうとは考えなかった。そもそも、そのような証拠など見つかるはずもないだろう。

 3時過ぎに帰宅したとき、購入したばかりのこの本が、ヤフオクに出ていたのと同じものだとすれば、ヤフオクの出品のほうは現時点でどうなっているのだろう、ということに思い至った。調べてみると、おそらく自動的に再出品されていたはずなのに、入札者のないまま終了になっていることが判明した。実際に商品の説明欄には、「本商品は店頭と併売になっており、入札以前に商品が販売されてしまう可能性が御座います」と明記されていた。

 では、いつ終了になったのか。「終了日時」の欄を見ると、14 時 28 分になっている(左図)。これは、この本をブックオフ中央通り店で購入したあたりの時間だ。では、その時間に私がこの本を購入したのかどうかを調べるはどうすればよいか。それには、領収書を見ればよい。

 では、領収書に記された時間はどうなっているか。さっそく調べてみると、当然のことのように、14時28分になっていることがわかった。同時に購入した格安の3点は書名が表示されていないが、本来の価額の『強迫神経症』は、書名が明記されている(右図)。2割の値引きになっているのは、領収書の右上に表示されているように、ゴールデンウィークのキャンペーン価額になっていたためだ。

 ついでながら値段のことにふれておくと、ヤフオクでの開始価額は 1542 円(税込み 1696 円)になっているのに対して、店頭での販売価額は 1819 円(税込み 2000 円)になっている。オークションの開始価額が販売価額よりも安いのは、入札につれて値上がりすることが想定されているため入札開始価額が低く設定している点を考えれば、さしてふしぎなことではない。

 これで、ヤフオクに出品されていて落札を考えていたその本を、実店舗で購入したことが実際に確認されたと結論づけてよさそうだ。ふたつの日時が完全に一致したのは、販売された時点で、オークションが、手動でか自動的にかはわからないが、停止されるようになっているためだろう。

考 察

 著名な評論家であったアーサー・ケストラーは,ほしい本が自動的に手に入るように見える現象のことを library angel と呼んだ(Koestler, 1974, p. 171)。本を開くと、探そうとしていたことがそのページに書かれているのがわかるという現象も同類のものだ。このように命名されているということは、こうした現象が、一般にもよく知られていることの現われと考えてよいのだろう。

 昨日の私は、たまたま町田中央通りのブックオフに行くことにして、いつもは見ない棚をたまたま見る気になって眺めたら、たまたまクレペリンの『強迫神経症』の背表紙が目にとまった。そこで手にとってみたら、「ヤフオク出品中」の商品であることがわかった。結果的に、その本は、ヤフオクからの落札を考えていて、前の晩に入札を忘れたまま終了になっていたのと同じ本であることがわかった。これまで説明してきたとおり、実際に、そのような経過をたどっている。

 この場合、出品者が誰なのかは意識していなかったし、仮にブックオフだとしても、bookoff2014 とあるだけで、どの店舗なのかは入札者側にはわからない。ブックオフは、直営店とFC加盟店を合わせると、2020 年3月 31 日現在、全国で 801 店もあるという。それがすべて古書店ではないとしても、相当数が存在するのはまちがいない。したがって、この本の出品店に偶然に行きあたるだけでも、その確率はかなり低いものになる。

 今回の事例には、客観的な証拠があるといっても、例によって欠陥を探し出すことはできるかもしれない。できごとの順序を逆にして、たまたま入った店で、ヤフオクに出品されている廉価な『強迫神経症』を見つけて購入し、その後でヤフオクの当該ページを探し出し、いかにも珍しい適合行動が起こったかのように見せかける工作をしたという可能性だ。この種の戦略は、超常現象研究の批判者(というよりも事実上は否定論者)が時おり使っている。

 終了したオークションを検索して探し出すことは、できないわけではない。ただし、その場合、落札相場を調べるしかないので、今回のように落札されないまま終了したオークションにたどり着くことはできないようだ。たどり着くためには、出品中にウォッチリストに加えておく必要があるということだ。その点を考慮すると、できごとの順番を逆転させることはできないことがわかる。ただし、まんがいち逆転できたとしても、偶然に発生する確率は、それほど高いものにはならないだろう。

 そうであれば、今回のできごとは、客観的証拠が得られた適合行動の一例と考えることができるのではなかろうか。ただいま、6月の刊行に向けて、『小坂英世著作集』の第3巻、第4巻(索引を除いてそれぞれA5判 495 ページと 690 ページ)の、実用に耐える詳細な索引を作成しているという、非常に忙しい中で起こった出来事なので、十分な考察はできなかった。昨日の夕方からこのページを書き始めたが、昨日中には終わらず、4時間ほどの睡眠を挟んで今朝になってしまった。したがって、まことに不十分な形ではあるが、重要な事例なので、この出来事が起こった直後といえる時点で、ここに報告しておくことにした次第である。

付 録

 拙著『人間の「つながり」と心の実在』の「何が“偶然の一致”を生むのか」という節(同書、113-114ページ)などにも、人間同士の出会いの事例をいくつか載せておいたが、世の中には、この種の実にふしぎな現象が数多く観察、報告されている。生物学者の今西錦司に、「再会を求める心」があるためではないか(今西、1978年、165ページ)と言わしめた、ほとんどありえないほどの偶然の出会いなどがそれだ。一般の科学者は、こうした現象を、現行の科学知識に基づいて単なる偶然の一致として片づけようとするが、確率的な角度から見てもそれはできない。こうした現象が、世界中を探しても数例程度しか見つからないのであれば、そう言ってもよいのかもしれないが、この種の現象に名前がつけられ、それに思い当たる人が多いという事実を勘案すれば、全体としての確率は、どうしても天文学的なレベルのものになってしまう。

 最後に、最近知った事例を、参考までにここに紹介しておく。“極限の挑戦者” たる北イタリアの登山家、ラインホルト・メスナーが自ら経験した、やはりほとんどありえないほどの事例だ。年譜によればこれは、富士山に文字通り駆け足で登った翌年で、ダウラギリ南壁に挑戦して敗退した、メスナーが 33 歳になった年にあたる。最初の妻のウルズラと離婚した年でもある。

 いまでは著名な心理療法士となった弟のハンスヨルグにまつわるエピソードがひとつある。学校を卒業するや、ハンスヨルグは家を飛び出し、しばらく行方がわからない状態が続いた。そのときメスナーの母は、メスナーに、「どうやらハンスヨルグはアジアにいるらしい。アジアに行ったら、ついでに弟を探して、連れて帰ってきてほしい」と言った。一九七七年のことである。メスナーは当時インドに在住していたハンスヨルグと、そのすぐ後、ネパールのカトマンズでばったり会っている。母からの伝言を伝え、弟に、「飛行機代を出してやるから、一緒に帰ろう。母さんが心配している」とたたみかけるメスナーに、ハンスヨルグは言った。「飛行機代だけ、オレにくれ。そしたら帰る。ただし、陸路で帰りたい」――それから三か月後、ハンスヨルグは、本当に母の元に戻り、高校卒業の資格をとり、大学に進み精神分析医としての道を選んだという。(スラニー、2013年、310ページ)
 同じカトマンズに暮らしていても、何年たったところで、出会わない相手には出会わない。このような事例が全体として少なからず存在するという事実を見ると、人間の表面的行動の裏では、人間の意識には計り知れない、したがって現行の科学知識ではとうてい手の届かないところで、人類にとっておそらく必要不可欠な動きが連綿として起こり続けていると考えざるをえないのではなかろうか。

参考文献


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