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『動物に潜む人間性――幸福否定の生物学』

 人類の意識的知性はどれほどのものか

 これまでの常識からすると非常に奇妙なことに違いないが,人間は,さまざまな真理を,とりわけ心の本質に関する真理を自らの意識に対して包み隠そうとする性向をきわめて強くもっているようである。そのひとつの結果なのかもしれないが,人間の心を探究しているはずの心理学は,心を直接に扱うことなどできるはずがないという思い込みを明に暗に作りあげ,心自体を扱う方法を模索することなど最初から考えていないようであるし,心と体の関係を扱っているはずの心身医学にしても,当事者が意識の上で感じた心理的負担と肉体的疾患との関係を,離れたところから断定的に臆測しているだけで,心身症のストレス学説を裏づける科学的証拠など厳密な意味では存在しないにもかかわらず,それ以上のことはやはりしようとしていないのである。

動物に潜む人間性

 そうした例外に当たる理論としては,生物学の領域では生気論と呼ばれる着想を筆頭として,今西錦司が唱えた種社会という概念や,それを拡張した生物社会学という領域や独自の進化理論などがある。私が専門とする心理療法の分野で言えば,小坂英世が提唱した精神分裂病の小坂理論があるし,私自身が唱えている幸福否定理論もそれに当たる。さらに根本的なものとしては,人間の心と脳とが別個の実在であるとする心身二元論があげられる。超常現象やその研究は,その最たるものと言える。これらはいずれも,主流科学者からすれば,愚にもつかない“非科学的”言説であって,まともにとりあう必要のない妄言のようなものにすぎないのである。

 幸福に対する抵抗という人類の心理的特性

 幸福否定理論について言えば,これを知的に理解するのは,とりわけ感情的なレベルで受け容れるのは非常に難しいことが,既に三十数年前から日常的にくり返し確認されている。言うまでもなくそれは,従来の定説や一般常識に反する考えかたであるためではない。それだけであれば,たとえ反発を感じたとしても,丹念に勉強しさえすれば遅かれ早かれ理解できるようになるはずだからである。 従来的な主観的印象を通じてではなく,瞬時に起こる心身の反応という信頼性の高い客観的指標(眠気,あくび,種々の身体的変化)を利用して,三十数年という決して短いとは言えない時間をかけて厳密に検証し続けてきたところによれば,幸福否定というとてつもなく強力な意志を生後に身につけたと考えるのはこのうえなく難しいことが,ますます明確になっている。この無意識的な意志は,生まれ育った時代や文化圏や生後の経験とは全く無関係に,人種を問わず人間なら誰であれ生得的にもっている,本能と見まごうほどの普遍的性向のようなのである。もしそうであれば,これは人類全体が生得的に備えている種特異的な特性ということになるので,その生物学的起源を探る必要があるし,その原初的,萌芽的な要素が生物の進化に及ぼす影響を考えるうえでも,このうえなく重要な問題になるはずなのである。

 内心は,自らの意識的意志や肉体が前向きな行動をとろうとすると,それをなぜか完璧に察知して,心因性の症状などの,動物ではおそらく起こりえない人間独自の問題を目の前に,つまり自分の意識が無視できないような形で作り出す。それに対して,いわば蚊帳の外に置かれて夢遊病者的状態にある意識は,何が起こったのかわからないまま苦しみ,右往左往しながらもそれを克服しようと努めるか,さもなければ,その苦しみに耐えきれず,その場から逃げ出してしまう。いずれかの選択を迫られるわけであるが,現実には,後者の道を選ぶ者のほうが圧倒的に多い,というよりも前者を選択する者はほとんどいないのではなかろうか。イエス・キリストは,この問題をわかりやすく,命に至る「狭い門」に対して,「滅びに通じる門は広く,その道も広々として,そこから入る者が多い」という言葉で表現したのであろう。

 その困難に立ち向かい,それを乗り越えるべく前向きの努力を選択した場合,内心が生み出す,自らの幸福に対する抵抗にくり返し直面するという,自らの意識にとっては非常に苦痛な循環が発生する。まさしく茨の生い茂る細い道なのであるが,このように,自分自身の内心が,自らの意識を幸福感から遠ざけるという明確な目的をもって作りあげたものが,人間特有の悩みや苦しみの大部分と考えてほぼまちがいない。意識が与り知らないところではあるが,自らが作りあげた苦しみなので,いわば架空の苦悩にすぎないわけであるが,自らの弱点を完全に弁えているだけに,意識の上では非常に苦痛に感じられるようにできているのである。そして,その苦難から逃げ出すことなく,苦しみながらその抵抗をわずかずつ乗り越えてゆくと,それにつれて,きわめてゆっくりとではあるが,心の奥底に潜んでいた素直な思いの一端が意識の上に浮上し,その分だけ自らの意識が目覚めてゆくというのが,現在の私が抱いている心理的意識観である。この着想は,長年の経験を通じて,少なくとも私の中ではますます確固たるものになってきているのであるが,これが実際に正しいとすれば,本心やその否定形である内心はもとより,人間の心理的意識の位置づけが大きな問題になってくる。それらを検討するためには,何よりも事実を正確に把握することから始めなければならない。

 本書の位置づけ

 人類に観察される先述のような心理的,行動的特徴群を生物の進化史の中に位置づけるためには,何よりも,その萌芽が高等動物,特に類人猿や鳥類に見られるかどうかを,古今の文献の中から丹念に調べて行くことがどうしても必要となる。その場合,動物の隠された能力を含め,さまざまな側面も同時に見て行くことになる。これまで見落とされてきた観察所見を総体的に眺めることを通じて,動物に対する新たな見かたが生まれるかもしれない。 とはいえ,本書で行なわれる程度の作業を通じただけで目標とするものに手が届くはずはもちろんないが, その端緒となるものをつかむことができれば,それだけで望外の成果と言えるであろう。

 現在の進化心理学は,現行のネオ・ダーウィニズムを基盤として,人間の心理的,行動的側面を主として適応という側面から説明しようとする分野のようである。本書が目的としているのは,それとは全く異質のもので,これまでほとんど知られていなかった,人類に特異的に見られる特性に関する所見を出発点として,演繹的にではなく経験的,帰納的に探究を進めて行くことである。

 本書は,先に出版した『人間の「つながり」と心の実在』(2020 年,すぴか書房)および『今西進化論と小田柿生物社会学』(2020 年,アマゾン・オンデマンド出版)とともに,今西錦司の進化論および生物社会学をひとつの軸として,人間の特異性を探究することを目的としてまとめられた緩い三部作をなすものである。本書では,幸福否定の生物学的起源という問題について,この2著よりもわずかながら推測を進めることができたように思うが,本書を含めた3著の全体が,連携的に,人類に特異的に見られる心理的,行動的特徴群の起源を明らかにするための探究となっているので,関心のある方には全体に目を通してくださることを願う。ただし,それぞれを独立した出版物として読んでいただけるようにしているため,多少の重複が生ずることになった。その点についてはご寛容のほどをお願い申しあげておきたい。(「はじめに」より)

 本書の内容

 ここでは,おおまかな内容をつかんでいただくために,各章の冒頭7ページだけを掲載しておいた。ただし,目次と参考文献と索引は,参考までにすべてを掲載した。

はじめに
目次

第1章 動物の特異的能力
第2章 人間と動物の間 1.人間の言葉を習得した動物たち
第3章 人間と動物の間 2.人間と動物の交流
第4章 個体同士のつながり 実験的検証と理論的検討
第5章 動物の意識とその主体性 1.生物学的考察
第6章 動物の意識とその主体性 2.心理学的考察
第7章 人類の動物性と人間性

参考文献
索引

著 者: 笠 原 敏 雄
出版者: 心の研究室
定 価: 3907 円
体 裁: A5版横組み,ソフトカバー
総頁数: 449 ページ
発売日: 2020 年 10 月 7 日


Copyright 2020 © by 笠原敏雄 | created on 10/8/20; last modified and updataed on 6/23/20