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 感情の演技とは何か

感情の演技という方法の発見

 感情の演技という、私の治療法の根幹をなす方法を実際に使うようになったのは、1984年10月のことでした。それまで使っていた“空想”という方法でも、感情を作らせることがなかったわけではありません。しかし、感情の演技では、感情自体を重視するようになり、場面のイメージではなく、まさに感情を作らせることに焦点を絞ったのでした。ほとんどの場合、 「病気が治ってうれしい」、「目標が達成されてうれしい」、「母親に愛されてうれしい」、「自分が幸せになってうれしい」など、素直なうれしさを作らせますが、稀には、「母親が死んで悲しい」などとして、悲しみを作らせることもあります。空想的な方向や、物語を発展させる方向に流れるという逃げ道を封じさえすれば、いずれもかなり難しく、あくび、眠気、身体的変化という3種類の反応のいずれかが、ほぼ例外なく出現したのです。

 また、“逆の演技”と称して、「相手に冷たくされてうれしい」、「幸せになって悲しい」といった不自然な感情を作らせる方法も時おり使うようになりました。この方法では、多くの場合、通常の感情の演技よりも強い反応が観察されました。「うれしい」にせよ「悲しい」にせよ、自然な感情を作らせるだけなら、「うれしくない」、「悲しくない」として、それを否定する方向へ逃げることができます。それに対して、不自然な感情を作らせた場合には、「うれしい」、「悲しい」という、本来的に難しい方向へ逃げることもできず、さりとて、「うれしくない」、「悲しくない」という感情をむりに作ろうとすると、自分の意識に対して不自然さが際立ってしまいます。そのため、どちらにも逃げられなくなり、強い抵抗が起こるわけです。ただし、この頃に使っていた感情の演技という方法は、母親や友人を中心とする対人関係に的を絞ることが多く、普遍的な方法というよりは、心因性疾患を持つ人たちを対象にした、特殊な方法という色合いが依然として濃かったのです。

 時間の長さは、試行錯誤を繰り返した末、2分と決められました。スピーチに適当な時間は2、3分と言われるように、人間にとって集中を続けやすいのは、その程度の長さなのでしょう。通常の集中なら、訓練を重ねれば、かなり上達するようになります。しかし、感情の演技の場合はそうではありません。2時間程度なら雑念なく集中できるほどの瞑想の達人であっても、感情の演技ということになると、わずか2分の集中を続けるのも難しかったのです。このように、感情の演技での集中は、内容的にはごく自然な感情を作るだけであるにもかかわらず、誰にとっても、きわめて難しいことがわかってきたのでした。

 回数については、やはり試行錯誤の結果、5回をひとつの単位とするようになりました。初期には、1回の面接時間を2時間としていたのですが、この頃から、時間が取りにくくなってきたため、現在と同じ1時間半に短縮しています。感情の演技は、その中で、2単位すなわち10回ほど行なうようになりました。そして、毎回それを宿題にして、1日2単位程度を繰り返してもらうのです。

 心理療法を始めて間もない頃は、自宅でも時間を作って、宿題を一所懸命に続けることが多いのですが、2、3ヵ月から半年が過ぎ、外から進歩が見えるようになると、大分様子が違ってきます。多くの人たちが、宿題の内容ばかりか、宿題があったこと自体もほとんど忘れてしまうようになるのです。それも、通常の忘れかたではありません。心理療法室を一歩出たとたんにその記憶が消え、次の心理療法に向かう電車の中で思い出すものの、そのまま何もせずに来室する人たちが、実に7、8割にものぼるようになったのです。しかし、ヨガや瞑想の宿題であれば、それに要する時間ははるかに長いにもかかわらず、そのような形で忘れる者は少ないでしょう。心理療法に向かう時に見られる登校拒否的反応は、この段階から起こるようになったのでした。

 感情の演技を効果的にさせるためのこつも、次第にわかってきました。それは、ひとことで言えば、感情を作るのがなるべく難しくなるような条件を、積極的に設定させるということです。できやすくなるように工夫することが、一般に言われるこつですが、感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、感情を作るのがなるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。それは、感情を作らせることを通じて、幸福に対する抵抗に直面させ、それを弱めることが、治療に直接つながるからです。この点については、次のような比喩がわかりやすいかもしれません。

 走り高跳びのバーを、現在の自分の実力で跳べるよりも少し上に設定して練習を繰り返せば、次第に上達し、その高さを跳び越えられるようになるでしょう。しかし、跳べるようになる前に、また少し高くしてしまうのです。そして、その手順を繰り返すわけです。バーが跳び越せないという点では、いつまでも同じですし、そのため張り合いはないかもしれませんが、実力はまちがいなく向上します。それに対して、簡単に跳べる高さにバーを据え置けば、繰り返し簡単に跳び越えることができますが、それでは何の進歩も望めません。この場合の目的は、実力を高めることにあるのであって、バーが跳べることでもなければ、跳べて満足することでもありません。感情の演技についても、これと同じことが言えるわけです。

 とはいえ、この比喩は、実は一面しか当てはまりません。それどころか、むしろ違いのほうが大きいかもしれません。ひとつは、 走り高跳びの場合には、 まさにその実力がつく(ことに加えて、おそらくは、走り高跳びの技術や体力についての自信が深まる)だけですが、感情の演技の場合には、幸福の否定が弱まるにつれて、症状が軽快するだけでなく、他のさまざまな側面も多かれ少なかれ好転することです。どのような点が変わるかについては、個人差がかなりあるので予測は難しいのですが、一般には、さまざまな側面で自信が出てきたり、対人関係が好転したり、相手からの信頼感が増したり、種々の能力が向上したりなどの変化が見られることが多いようです。しかも、それは後戻りすることがありません。これは、経験的に初めてわかったことで、事前に予測できたわけではありませんでした。反応というか抵抗を追い続ければ、いつかは何かがわかるのではないかという期待が、この段階になって、ようやく現実味を帯びてきたと言えるかもしれません。

 走り高跳びの比喩とは、もうひとつ大きな違いがあることも、徐々にわかってきました。それは、自分の進歩を認めようとしないしそれを喜びもしない、という奇妙な傾向が例外なく見られたことでした。これが、好転の否定という現象だったのです。

 この頃、悲しみと愛情の重要な関係が、私なりにはっきりしてきました。悲しみとは、自分や愛情のある相手に不幸があった時に生まれる感情にほかなりません。したがって、悲しみは、本来的に否定的な感情ではないどころか、かなり肯定的な感情なのであって、相手がある場合には、その相手に愛情があることを示すひとつの証拠になるのです。だからこそ、自分にとって重要な存在である母親をはじめ、肉親が死んだ時に、愛情の否定の結果として、悲しみの否定が起こりやすいわけです。

〈感情の演技〉という思考実験

 身体症状が特定の心理的原因で起こることは、私独自の考えかたを基盤にした、非常に簡単な思考実験≠ナ確かめることができます。そのような症状を経験したことがある人はもちろん、起こしたことのない人でも、次のような思考実験が可能です。

 ちなみに、心の専門家も一般の人たちも、人間の心については、思い込みに基づく憶測を重ねる(にもかかわらず、いつのまにかその憶測を事実と思い込んでしまう)だけで、実証的に研究できるとは、誰ひとり思っていないようです。実証的な研究法といっても、心理学実験室のようなところで特別の装置を使うわけではなく、誰でも、その場で簡単にできることです。ところが、これまで、この簡単な方法を誰も使ってきませんでした。

 ここでは、“青木まりこ現象”を念頭に置いて説明することにします。たとえば、自分が書店や図書館にいるとして、そこで、自分の読みたい本を探している場面のイメージを描きます。なるべく現実的に描いてください。自分の姿をイメージの中に含めてはいけません。そのようなイメージでは、非現実的になってしまうからです。次に、その場面を背景にして、「本が好きだ」、あるいは「読みたい本を探したい」、「読みたい本が見つかってうれしい」といった、自然な感情ないし実感を作ります。それが書店に入る本来の目的に適った感情だからです。なお、稀に、ふだんからイメージ自体が描けない人もいますので、その場合には、自分がその場面にいるとして、感情だけを作るようにすればよいでしょう。

 先述のように、この方法では、いくつかの候補を試してみて、最も作りにくいものを選ぶのがこつです。作りにくいのは、「本が好きだ」かもしれませんし、「読みたい本が見つかってうれしい」かもしれません。少々乱暴な言いかたをすれば、無意識のレベルでは、一番作りにくい感情が、自分にとって一番素直な感情です。逆に、素直ではない感情は、抵抗がないので、原則として簡単に作れます。

 2分間を1回分として、それを何度か繰り返します。私が5回をひとつの単位にしているのは、ある程度繰り返さないと、集中が高まってこないからです。イメージを描く段階で抵抗が起こる人もいますが、ほとんどの人では、多少なりともイメージは描けます。最初は、雑念が湧きやすいかもしれませんが、繰り返すにつれて、集中が高まってきます。ところが、さらに進むと次第に集中が難しくなり、最初にできていた感情もできにくくなってきます。それでもむりに繰り返そうとすると、今度は、まさに反応が起こるようになります。その反応については、別項を参照してください。

 感情の演技の結果を判定するに当たっては、

というふたつの基準を使います。そして、このふたつはだいたい一致するのです。つまり、作るのが難しい感情の場合には、反応も出やすいということです。それが、たとえば、「本が好きだ」という感情を作ろうとした時であれば、その人は、自分の意識で感じている以上に、本当は本が好きだと考えてよいでしょう。そのような人では、書店に入ったとたんに、便意を含め、何らかの症状を出す可能性が高くなります。

 あるいは、「読みたい本が見つかってうれしい」という感情が作りにくく、その時に反応が出やすかったとすれば、その人は、やはり意識で感じている以上に、読みたい本を探し当てた時のうれしさが強いことになります。この場合には、書店に入った時点で症状が出るのではなく、店内をしばらく探し歩きまわり、読みたい本が見つかったとたんに症状が出るという可能性が高いことになるでしょう。

 ただし、これらは、あくまで一般的な説明にすぎず、実際には、いちいち反応を使って確認しながら、その人なりの心理的原因なり特性なりを絞り込んでゆくのです。このような形で利用する時にも、反応は簡単に起こります。そのおかげで、反応は、肝心な事柄を探り出す際の、非常に有力な目印として、かなり実用的な形で使えるのです。そして、現実の場面で反応が起こった時が、症状の出現ということになるわけです。

 感情の演技のような人為的場面では、感情を作るのをやめると、その瞬間に症状が消えますが、現実の場面では、感情(たいていは喜び)が(意識で否定された状態ではありますが)持続する間は、その症状も続きます。したがって、私が心理療法の中で使っている感情の演技という方法は、実生活の中で起こる反応や症状の一種のシミュレーションと言えるでしょう。

参考文献

『幸福否定の構造』第5章 、『本心と抵抗』第1章より再編集して引用。

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