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幸福否定とは何か 3

 悲しみの回避

 腰痛を訴えて入院していた五十代の女性は、前回の心理療法の際に交わした約束に従って、ある日の朝9時に、時間通り心理療法室を訪れた。そして、開口一番、「実は、ゆうべ母が亡くなりまして」と言ったのである。仰天した私が事情を聞くと、母親とは、本人が小学生の時に父親と再婚した継母のことであった。続いて、通夜や葬儀に出席しなくてよいのかどうか尋ねたところ、「あまり好きな母ではないので、いいんです」という答えが返ってきた。本人の話では、数年前に夫が病死した時にも、感情的には全く動揺せず、葬儀の翌日には、勤務先にふつうに出勤していたという。その理由については、いつまでも仕事を休んでいては生活してゆけないからだと答えている。

 三十代後半のある男性も、この女性とよく似た態度を示している。この男性は、母親が大好きだと公言していたにもかかわらず、母親と同居していた兄から、「けさ、母が亡くなった」という知らせを、出勤したばかりの勤務先で受けながら、その日のうちに片づけなければならない仕事があることを理由に、そのまま仕事を続けていた。しかし、その日のうちには片づかないことがわかったため、午後3時頃、初めて上司に母親の死を伝えたところ、上司はひどく驚き、「そういうことは早く言ってくれないと困る。早く帰れ」と、本人に命じている。

 この男性は、なぜ上司に強い口調で指示されるのかわからないまま自宅に戻り、夕方の特急で北陸地方にある実家へ向かった。夜の11時頃、実家に到着すると、遅くなったことをやはり親戚に叱られたが、今度もその理由がわからなかった。翌日に葬儀が終わり、先ほどの女性と同じく葬式の翌日からふつうに仕事を始めた兄を一日だけ手伝い、その翌日には早々と東京に戻って来た。幼稚園の娘の発表会に出席する約束をしていたため、それに行かないと娘がかわいそうだと思ったからであった。さらにその翌日の月曜日には、何ごともなかったかのように会社に出勤した。すると、「忌引き休暇があるのに、何でもう戻ってきたんだ」と再び上司に叱られた。そして、その翌々日の水曜日には、約束通り心理療法に来て、今度は私がびっくりさせられるのである。

 ふたりとも、母親の死をきわめて日常的な出来事としてとらえているように見える。事実、母親の死によって、少なくとも悲しみの方向へは感情がほとんど動いていない。悲しみが強いあまりに感情が動かないのではないか、と考える方があるかもしれないが、もしそうだとすれば、かえって説明できないことが出てきてしまう。ひとつは、この2例を見てもおわかりいただけるように、呆然とするわけでもなく、母親の死があまりに日常的レベルの出来事のようになってしまっていることである。あまり親しくはない知人が亡くなったにせよ、もう少し神妙な態度を取るであろう。つまり、感情が動かないというよりは、異常に冷静というか、冷たい態度になってしまっているのである。では、意識とは裏腹に、そこには、母親に対する復讐的な気持ちでも隠されていたのであろうか。

 夜間に喘息発作を起こす三十代後半の男性によれば、二十代前半の時に母親が近くの病院に緊急入院しても、ほとんど見舞いに行かなかったという。理由を聞くと、犬に餌をやらなければかわいそうだし、集金などが来た時に、誰も家にいないのはまずいからだというのである。そのような日常的な用事は、危篤状態にある母親の見舞いに行かなくてよい理由になるはずもないが、私にそのような指摘をされても、本人は全くわからなかった。数日後、いよいよ母親が危険な状態になり、ずっとつき添っていた父親からすぐに来るよう連絡があった。そのためしぶしぶ病院に行き、母親の病室に入ったが、まもなく医師と看護婦が来て、処置するので席を外すよう言われ病室を出た。そして、しばらくしてから母親が亡くなったと告げられたというのである。

 この男性は、母親に対してうらみがましい気持ちを意識ではあまり持っていなかったが、意識の上でも母親に対してうらみや復讐心を抱いている者もある。アトピー性皮膚炎を持つ三十代半ばの女性は、結婚して両親と別居していたが、末期癌の母親が入院した大学病院がたまたま勤め先の近くだったため、昼休みに毎日のように自転車で見舞いに行っていたけれども、休日には、病院が遠いことを理由に面会には行かなかった。そうこうするうちにも、母親の病状は次第に悪化し、姉と交代でつき添わなければならないまでになったが、本人は、母親が亡くなる1週間前くらいにならなければ、泊まり込みのつき添いをしなかった。

 最後の晩、本人は看病に疲れ、母親のベッドの下に置かれた簡易寝台で寝込んでしまった。しばらくすると、医師や看護婦があわただしく走り回っている音が聞こえたが、そのまま横になっていた。そのうち姉に揺り起こされたが、その時には既に母親は死亡していたという。その時、どう思ったかという私の質問に対して、この女性は、「こんなこと言ってはいけないんですが、せいせいしました」と答えている。復讐したいという気持ちがあったので、母親が死んで悲しいどころか、かえってすっきりしたというのである。

 もしこのふたりの発言が事実であるとすれば、ふたりとも、母親に対して、先の二例にもまさるとも劣らないほど冷たい態度を取っていたことになる。ところが、ふたりがそれぞれの姉にその時の状況を尋ねたところ、ふたりとも母親の臨終に立ち会っていたと指摘され、その結果、ふたりとも、その時の記憶を断片的ながら蘇らせた。そして、母親の臨終に際して、ふたりとも、実際には涙を流していることがわかったのである。

 ところで、このふたりを含め、このような人たちの場合、母親の死に際して涙が出ていたとしても、それはかわいそうだから出た涙だとして、悲しみを必ずと言ってよいほど否定する。そして、誰がかわいそうなのかという質問に対しては、残された自分がかわいそうだと答える多くの未成年を除けば、不幸せだった母親がかわいそうだという答えがたいてい返ってくる。過敏性大腸症候群を持つ三十代半ばの女性は、母親の死に際して涙が出たのは、やはりかわいそうだと思ったためだと述べた。かわいそうという感情は、対等以上の相手には出にくいのではないかという私の指摘を、この女性はあっさり否定したが、では自分の娘からかわいそうだと言われたらどう思うかと尋ねたところ、親に対してかわいそうとは何ごとかと思って腹が立つ、と答えたのであった。

 このような人たちは、母親に対して、うらみや復讐的な気持ちが意識にあった場合にせよなかった場合にせよ、母親の死を意識で悲しむことはない。そして、今述べたように、涙が出ていたとしても、それはかわいそうだから出た涙だとして、悲しみを全否定してしまう。

 ところで、かわいそうという感情とうらみがましい気持ちとは共存しうるのに対して、悲しみとうらみとが共存することはない。悲しみの本質を考えればわかるように、悲しみは、主として、自分が愛情を持っている相手に不幸があった時に出る感情であるため、誰かに対する愛情を否定していると、悲しみという感情も当然のことながら否定されてしまう。したがって、意識的にせよ無意識的にせよ、うらみがある限り、悲しみが悲しみとして意識に昇るのは難しいのである。

 そのことを裏づける証拠はいくつかある。ひとつは、先の事例のように、既に母親が死亡している場合には、臨終の記憶が多少なりとも消えていることがきわめて多いという事実である。臨終に際して涙を流した部分だけが消えている人たちから、臨終に立ち会った場面の記憶がない人たちを経て、臨終から葬儀が終わるまでの記憶が全面的に消えている人たちに至るまで、大多数の事例で、母親の死にまつわる記憶が、多かれ少なかれ消えてしまっているのである。親の死そのものを否認する一部の分裂病患者を除けば、私が直接聞いた中で、記憶が消えている範囲が最も大きかったのは、数年前に母親の葬儀が行なわれたのが自宅であったか寺であったかすらわからない、アレルギー性疾患を持つ二十代前半の女性であった。

 母親の死の知らせを受けながら仕事を優先させた先の男性は、その後、妻の母親が亡くなった時、強い悲しみとともに身体症状を出現させ、5日間ほど寝込んでしまっている。この男性は、その義母と一緒に暮らしたことがあるわけでも、義母にそれほどなじみがあったわけでもなかった。にもかかわらず、このような反応を示したのはなぜなのであろうか。後ほど説明するように、私は、この現象を対比(この場合は、対人的対比)と呼んでいるが、実はこうした現象も、私たちのまわりで頻繁に観察される。対比については後述する。

 母親が亡くなった時には感情を、ほとんどないし全く動かさなかった人たちが、自宅で飼っている犬や猫が死んだ時には、強い悲しみとともに、しばらく寝込んでしまうなどの心身症的症状を示すことも多い。これに対しては、愛情のない母親が亡くなった時よりも、いつもかわいがっていたペットが死んだ時の方が感情が動かされるのは当然ではないか、という反論が出るかもしれない。しかしながら、そのように考えたのでは、やはり説明できないことがある。ひとつは、先ほどの事例のように、ふだんは母親が大好きであったにもかかわらず、いざ母親が亡くなると、それがあたかも日常的な出来事であるかのようにふるまう一方で、ふだんは嫌っていたはずの父親が亡くなると号泣する者すら見られることである。

 もうひとつは、母親が既に亡くなっている場合であれいない場合であれ、母親が亡くなって悲しいという感情を、後述する“感情の演技”という方法の中でむりやり作らせると、ほとんどの人たちで、それがきわめて難しいという事実である。臨終の場面を描かせながら悲しい気持ちを作らせようとすると、その場面が描けるか描けないかは別にして、悲しいという感情の全く作れない人たちがほとんどなのである。

 胃潰瘍を持つ二十代後半の女性は、会ったこともない同僚の母親が亡くなったのを聞いた時、悲しみとともに強い頭痛を出現させ、通夜の席で焼香をすませる時までそれが続いている。しかしながら、この女性に、母親が死んで悲しいという感情の演技をさせたところ、母親の死そのものを考えることすらできなかった。私見によれば、このことは、実は悲しいという気持ち――すなわち、母親に対する愛情の変型――が心のうちに潜んでいるにもかかわらず、それを意識に昇らせることに強い抵抗があることの現われと言える。このような推定を私がしている根拠については、後ほど説明することにしよう。

 したがって、母親の死に際して悲しみが出にくいのも、母親の臨終の場面を思い描いた場合に悲しみが作りにくいのも、悲しみが強いあまりに感情が動かないためでもなければ、母親に愛情がないためでもなく、母親に対する愛情を、幸福否定の一環として否定する結果と考えてよいであろう。そのことは、心理療法によって幸福否定の弱まってきた人たちが、両親に対して次第に率直な、あるいは素直な態度で接するようになる経過を見てもわかる。両親との間に心理的距離があった者の場合には、次第に遠慮なく接するようになるし、両親に対してうらみや復讐的な気持ちを抱いていた者の場合には、そうした感情を次第に弱めるのみならず、最終的にはそれを捨て去って、愛情を意識に表出させるところまで行くのである。


【『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』〔春秋社〕第3、4章より】
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