サイトマップ 
心の研究室バナー
戻る  
幸福否定とは何か 9

 好転の否定という現象

 アトピー性皮膚炎と喘息の両方の疾患を持っている患者には、“シーソー現象”と呼ばれる、症状の交代現象が見られることが多い。つまり、どちらか一方の症状が好転すると、もう一方は悪化するのである。このふたつの症状はいずれも外から変化が見えやすいため、このような現象が観察されやすいわけであるが、本質的には、他の心因性疾患でもそれと変わるところはない。腰痛や頭痛や腹痛のような自覚症状であれ、多食や家庭内暴力や出社拒否のような行動異常であれ、過敏性大腸症候群やアレルギー性鼻炎や胃潰瘍のような心身症であれ、それが多少なりとも治まれば、今度は別の病気が出るようになるのである。心身医学では症状の交代≠ニして知られている、このような現象からすると、心因性疾患では、短期的に見る限り、一定の大きさの症状を作り続ける意志というか必要性がそこに存在することがわかる。

 心因性の疾患を持つ人たちが、症状の好転を素直に喜ばないことについては、既に述べた通りであるが、そればかりか、症状が好転した直後に症状を悪化させることも、ごくふつうにある。こうした、いわば好転・悪化現象は、表面的には、症状の交代と区別しにくいが、ここでは、いちおう別の概念と考えることにしたい。症状の交代は、ひとつの症状が、いわば自然に好転した場合に起こり、同程度の強さの症状に移行することが多いのに対して、好転・悪化現象は、治療などの外部からの働きかけによって症状が好転した直後に起こる。心理療法の中でこれが起こった時には、それまでよりも少しだけ軽い症状に入れ代わる。もちろんこれも、幸福の否定の一環と考えることができる。その場合、同じ症状を悪化させるパターンと、別の症状を新たに作るパターンとがあるが、後者の方が比率としては高いように思われる。

 尋常性乾癬という皮膚病を持つ二十代半ばの女性は、入院中、他の患者たちとも親しく交際するし、大変活動的であった。乾癬とは、あずき色の大きな皮疹が体にできる疾患であるが、この女性の場合には、主として顔と頭皮にできていた。この女性は、自らの希望もあって、絶食療法という、しばらくの間食事を断つ東洋医学的な治療を受けたが、その結果、短期間のうちにその皮膚病がほぼ完全に消えてしまった。ところが、それと引き換えのような形で、強い抑うつ状態が出現し、あれほど元気だったのに、ベッドから起き上がれなくなり、泣いてばかりいる状態になってしまったのである。まもなく退院して自宅に戻ったが、聞くところによると、また乾癬が出るようになり、それにつれて元気を取り戻してきたという。この事例などは、好転・悪化現象の実例としてはかなりわかりやすいであろう。

 また、心理療法を続ける中で、次第に素直になってくるため、今まで苦労してもできなかったことが何の抵抗もなくできた直後に、あるいは自分が全般的に前向きになってきたことが何かのきっかけでわかった直後に、何らかの症状が出現するという現象も、広く観察される。こうした進歩は、レベルも種類もさまざまであるため、すべてをここに書き記すことは不可能であるが、そのうち、比較的わかりやすいものをいくつかあげることにしよう。

 まず、職場に関係することであれば、たとえば、仕事に積極的に取り組めるようになったとか、部下に注意できなかった人が、当然のことのように注意できるようになったとかの初歩的な進歩から、会議の席上で、まわりに気がねして誰も言おうとしないが、その場で誰かが言わなければならない意見を自然に述べられるようになったとかの、少々高級なものまである。また、痛みや疲れを感じなかった人が、感じられるようになったとか、手紙をもらってもなかなか返事が書けなかった人が、苦労せずともすぐに返信が書けるようになったとか、片づけができなかった人ができるようになったとか、自分をみそっかす的存在として位置づけてきた人が、ある程度にせよ自分自身を評価できるようになったとかの初歩的なものから、計画に従って、自発的に仕事を進めることができるようになったとか、自分が本来持っている能力を多少なりとも発揮するようになったとかの比較的高度なものまである。

 家庭に関係するものとしては、妻や夫に不満を感ずることがなかった人が、不満やうらみを表面化させ、相手に表明するようになったとか、激しい夫婦げんかができるようになったとかの初歩的なものから、そうした不満やうらみを解消させ、相手に対する愛情を素直に認めるようになったとかのある程度高度なものまである。そして、このような進歩が見えた直後に、症状を出現させることがきわめて多いのである。

 私の心理療法では、必然的に起こる好転の否定を乗り越えることが最重要の課題になっている。


【『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』〔春秋社〕第3、4章より】
戻る


Copyright 2008-2011 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/10/11