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 抵抗とは何か

 ふだんは家事もできず寝たきりになっているのに、友人から電話がかかってくるととたんに元気になり、電話を切ると元通り何もできなくなってしまうという人たちや、いつもは活動的に働いているのに、会議になるか必ずすぐに眠り込んでしまい、終わったとたんに目が覚めるという人たちがいる。最近では、“青木まりこ現象”と呼ばれるようになった、書店に入ると、その瞬間に便意を催すという人たちや、新型うつ病と呼ばれる人たちに観察される、出勤するとうつ状態になるのに、遊びには元気に行けるという人たちが知られている。これらは、体験者以外には仮病としか思われないが、実際にはそうではない。仮病の場合、人が見ているという条件が必要だが、これらは、人が見ているかどうかとは無関係に起こるからである。

 このような症状や反応の出現形態を理解するうえで重要なのは、対比という概念である。これには、対人的対比と空間的対比と状況的対比と時間的対比の4種類がある。

 心因性疾患、特に自律神経失調症など自覚症状を中心とする疾患の症状の特徴は、その出現や消失が時間的、空間的、対人的変化に沿って起こりやすいことである。たとえば、朝なかなか起きられず、学校や職場に行こうとすると頭痛や発熱などの症状が出現する登校拒否や出社拒否の患者でも、午後になるとそうした症状は消え、休日には全く出現しないが、月曜日になるとまた同じ状態が再現される。あるいは、自宅(ないし勤務先)にいると頭痛や下痢のひどい患者が、玄関を一歩出たとたんにほとんど、あるいは全面的に症状を消失させるとしても、また自宅(ないし勤務先)に入ると同じ症状を再燃させる。これが、時間的対比と空間的、状況的対比の実例であり、婚約者に会うと下痢が起こるが別のボーイフレンドと会っている時には止まるなどの例は、対人的対比の一例である。また、感情の演技の中で反応が出ても、終わるとそれが速やかに消失するのも、一種の時間的対比と考えてよい。

 本心でうれしい時には、あるいは、うれしさが待ち受けている時には、内心が意識にうれしくないと思い込ませたうえ、そのうれしさに水を差す手段として症状を作るわけであるが、それに対して、本心ではさほどうれしくない場合には、逆にうれしさを増幅させ症状を軽快ないし消失させるという操作を行なう。つまり、症状を出現させる状況の(自ら作りあげた)苦痛を自分に対して際立たせ、うれしい気持ちなどないことを自らに念押し的に証明する目的で、このような操作を行なっているらしいのである。

 反応も症状も、幸福の否定を持続させるため、いわばその隠蔽工作の手段として用いられるものである。つまり、私の心理療法を受ける以前には、「症状があるから、(その原因となるものは)自分にとって苦痛であるのはまちがいない」という論理を成立させ、それなりに安定していたのに、私の心理療法では逆に、症状の存在はその裏に幸福感が隠れている証拠になると考えるため、私の心理療法を受けるようになると、反応のジレンマが生ずる。つまり、自分にとってそれが苦痛であることを自分に証明する手段として反応を作る必要性は依然としてあるが、反応を明確に作ってしまうと、その裏に幸福感があるのが自分の意識にわかってしまう。そこで、反応を出さなければいけないし、出してはいけないというジレンマが起こる。特に、抵抗の強い部分について触れられた場合、このジレンマに基づく操作が際立ってくる。

 その場合に用いられる戦略は、

の3通りである。いずれにしても、どこが肝心な部分なのかをわからなくさせているという点で共通している。これが反応の待避である。この戦略の、特に(2)の弱点は、感情の演技などを繰り返しさせられると続けられなくなることである。しかし、短時間であれば、このような策も決して無効ではない。いずれにせよ、反応や症状は、必要に応じて意図的に操作できることになり、結局、反応は、場合によっては、全面的にも文字通りにも信用できないことになる。意識では不可能に近いとしても、いわゆる無意識は、幸福を否定する方向に自分の体を自在に操作できることがはっきりわかるであろう。

抵抗の相対性

 前向きな行動をしようとする時には、もうひとつ興味深い現象が一般に観察される。それは、先ほどふれたように、 自分にとってより難しいことをしようとすると、それまでできなかった、それ以下の課題が、比較的簡単にできてしまうことである。たとえば、試験のための勉強を、 試験前夜になってようやく始めようとすると、ふだんはできない片づけをついしてしまったり、ふだんは読めない別の本を、いつのまにか熱心に読んでしまったりするのである。

 このことは、一般的な知識にはなっていないかもしれないが、個々の体験者には、非常によく知られている。その意味で、この種の知識は、孤立した知識と言えるかもしれない。また、いつもなら、そのようなことをしようとするだけで、たちどころに反応が出ていたにもかかわらず、この場合にはまず出ない。これも、ストレス仮説の枠内では説明の難しい現象であろう。イタリアへ留学することを考えていた30代の女性は、「イタリア語の勉強をしようとすると、英語の勉強がはかどって、困ってしまいます」と語っていた。この女性は、イタリア語の勉強を始めるまでは、英語の勉強が難しかったのである。

 フロイトが、自著(『日常生活の精神病理学』所収の「計画の度忘れ」という節)で紹介している、フロイト自身の事例も、この範疇に入る。フロイトは、ある若手の研究者に、著書の書評を書く約束をしていたが、 「内的な無意識の抵抗」のため執筆を先送りしていた。しかし、ある日、その著者に催促され、あらためて、その晩のうちに書きあげる約束をした。ところが、「本気で書くつもりでいた」にもかかわらず、その晩に、どうしても先延ばしできない鑑定書を書く予定があったのを思い出した。「こうして私は、自分の計画が間違っていることを悟ったので、内心の抵抗にさからうことを止め、その男に対する約束を取り消した」(フロイト、1970年、140ページ)のである。

 とはいえ、それだけなら、何も書評を書く約束を破る必要はない。鑑定書の執筆のほうが、書評の執筆よりも重要だというフロイトの考えが正しいとしても、書評執筆の約束は、その晩であれ翌日であれ、 鑑定書を書きあげた後に果たせばよいからである。

 おそらくフロイトは、その若手研究者との約束を守るという、より大きな喜びに対する強い抵抗に直面した結果、それまで先延ばしにしたまま記憶を消していた(フロイトの言葉を使えば、それまで“抑圧”していた) 鑑定書の執筆という、抵抗が相対的に弱い(つまり、フロイトにとっては喜びの少ない)ほうの仕事を思い出し(フロイトの言葉を使えば、 その“抑圧が解除”され)、 それに飛びついた (正確に言えば、 それに飛びつくために、 記憶の隠蔽を解除した) のであろう。このように、記憶は、幸福の否定を続ける都合上、 無意識的にではあるが、かなり恣意的に操作されるのである。ついでながら、 精神分析は、 無意識を扱っていると言いながら、現実には、意識で許容されやすい解釈しか行なっていないことが、他ならぬフロイト自身の事例から明らかになる。

参考文献

【『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』〔春秋社〕第3、4、8章より】
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