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 幸福否定とは何か

幸福否定の生得性

 幸福否定とは,自ら望む幸福感が意識に昇るのを妨げようとする,無意識的な強力な意志のことです。この意志は,育てられかたなどの環境的要因とは無関係に,本来的に人間全般に内在するもののようで,人間という存在のさまざまな側面を,特にその重要な側面を自在に操っていると,私は考えています。わかりやすい比喩を使って表現すれば,聖書に登場する悪魔サタンのような,きわめて強い力を持った存在が,生まれながらにして,ほとんど意識されることなく,各人の心の奥底に潜んでおり,黒幕のようにして絶えずその力を行使しているということです。常識的に考えれば,そのようなことがあるはずはないでしょう。しかしながら,1980年代半ばに,確たる証拠に基づいてこの着想を得てから,主として心理療法の中で,その裏づけになる証拠を,日々着々と積み重ねてきたので,この考えかたの妥当性は,私の中では,ますます確固たるものになっています。とはいえ,その一方では,こうした考えかたに,いわゆる説得力がないことも十二分に承知しています。

 この考えかたに妥当性があることを教えてくれる,ほとんどの人たちが経験的に承知している実例をあげるとすれば,ひとつにはそれは,人間全般が,いわゆる怠惰な性癖を根強く持っていることです。締め切りまぎわにならないと,どうしても重い腰があげられないという“悪癖”は,時代や場所を問わず,多かれ少なかれ,ほとんどの人たちに見られるはずです。かくもたくさんの人々が,生涯にわたってこの悪しき性癖に苦しめられるわけですが,それを乗り越えるのはきわめて困難です。

幸福否定の頑強性

 たとえば,締め切りまでにまだ時間の余裕がある段階で,その課題に積極的にとり組もうとすると,どういうことになるか。その経験がある人にはよくわかるでしょうが,それこそ,さまざまな誘惑に苦しめられるのです。まず,その課題にとり組もうとすると,机に座るなど,その位置に着くまでが大変です。自分に繰り返し言い聞かせるなどした末,ようやくその課題にとりかかる覚悟を決めたとしても,今度は,まさに“悪魔の誘惑”に駆られます。テレビやビデオを見たくなったり,ゲームをしたくなったり,関係のない本や雑誌を読みたくなったり,何かを飲み食いしたくなったり,誰かに電話をかけたくなったり,横になりたくなったりするわけです。かくして,自分の体が,自分の望んでいるはずの方向とは正反対の動きをしてしまうわけですが,にもかかわらず,それを押しとどめるのがきわめて難しいのです。

 その誘惑を何とかこらえて,むりやり課題にとり組もうとすると,今度は,頭痛や下痢や脱力やアレルギー様反応などの身体症状が,一瞬のうちに起こるかもしれませんし,あくびが続けざまに出たり,急に強い眠気が襲ってきたりするかもしれません。ほとんどの人たちは,そのような〈反応〉が出る前に努力を放棄してしまうはずです。しかし,それでも強行しようとすると,反応はもっと強くなります。強烈な偏頭痛に襲われたり,身動きがとれないほど脱力感が強くなったり,いつのまにか眠り込んでしまったりするのです。これらは,いわゆる心身症の症状と質的に同じものです。しかし,その努力をやめれば,こうした症状はたちどころに薄れるか消えるかします。

 そのため,時間のある時に,それを有効に使うのが難しい人たちはたくさんいるわけですが,そのような人たちは,時間があり余ると,楽しみを求めて娯楽を中心とする“時間つぶし”にふけるか,さもなければひたすら“惰眠”をむさぼることになります。イギリスの著名な哲学者バートランド・ラッセルは,「無為礼讃」という,余暇に関するエッセイの中で,余暇は教育によって有意義に使えるようになると述べています(Russel, 1935, p. 23)。そういう側面があるのは事実だとしても,ことはそう簡単ではありません。

幸福否定に起因する反応

 実際に,「余暇の時間が長ければ,その分だけ余暇を楽しみ,それを創造的,建設的に利用するのが難しくなる」ものであり,「精神分析の最終目標のひとつは,余暇に対する個人の恐怖心を克服させることにある」(Martin, 1951, p. 45)と述べる専門家もいるほどです。さらには,時間を有効に使おうとしたり,くつろごうとしたりすると(Heide & Borkovec, 1984),種々の心因性症状を一過性に起こす人たちがいることも,昔から観察されています(Martin, 1951, p. 48)。

 このような症状は,要するに,自分が前向きに時間を使おうとするのを止める形で起こります。行動についても,考えかたについても,自分がうしろ向きになるように強引に仕向けるわけで,その逆はありません。この強力な意志は,まさに悪魔サタンによるもののように見えます。そして,これが幸福否定のひとつの現われなのです。この場合の心身症状は,ストレスという,外部からの刺激に耐え切れなくなった心身が,不調を起こした結果として出るのではありません。自分の意識を幸福から遠ざける手段として,自らの心の奥底に潜む悪魔たる〈内心〉が,症状を出したり引っ込めたりすることを通じて,自らの意識を自在にコントロールし,有無を言わさず自分をうしろ向きにさせようとするということです。私の考えでは,心身症状は一般に,このような仕組みで出現,消失します。症状の出現と消失の双方がコントロールされているのです。ただし,意識は完全に蚊帳の外に置かれていますから,意識がそれに気づくことは,絶対にと言ってよいほどありません。

従来の理論との違い――意識の位置づけ

 一般常識という強力な援軍を得て、今や世界の定説になってしまっているストレス理論やPTSD理論では,心身症状の原因は外部にあり,それによって機械的に症状が出現すると考えますが,幸福否定という考えかたでは,そうした症状は,各人の心に潜む内心が,自分が既に幸福な状態にあったり,自分に幸福が到来しそうになったりした時に,その意識化や行動を阻止し,その幸福心が自らの意識に浮上しないようにする手段として,その強力な力を使って心身を自在にコントロールした結果ということになります。

 したがって,ストレス理論やPTSD理論とは,その人間観が根本から異なります。ストレス理論やPTSD理論では,人間をストレスに弱い機械的存在と考えますが,幸福否定という考えかたでは,それとは逆に,人間を強靭な意志と高度の能力を併せ持つ自発的存在と考えざるをえなくなります。また,〈意識〉に対する見かたも,ストレス理論やPTSD理論ばかりか,これまでほとんど疑われたことのない大前提とも相容れないものになります。

 ストレス理論を含め,事実上すべての心理学的,哲学的理論では,意識を基点にしてものごとを考えますが,幸福否定の枠組みでは,意識を,内心にほぼ完全に操られている存在と考えます。人間の明瞭な意識は,進化史の脈絡に位置づけて考えればすぐにわかるように,まだ浮上してまもないため,多少なりとも不完全な状態にあるはずです。それに対して,内心という,なぜか人間にあまねく存在する強力な意志が,心身を自在にコントロールして,否定的な状態や症状を意識に突きつけ,それによってなぜか意識を幸福から遠ざけるべく誘導するということですから,すべてではないにしても意識は,内心によって否定的な方向にコントロールされる対象ということになるわけです。そのため,私の考えでは,意識はものごとを―特に,人間の本質を―考えるための基点にはなりにくいことになります。その結果,ここにさまざまな限界が生まれます。多種多様な心理学理論や哲学が存在することも,その必然的帰結ということになるでしょう。

参考文献

『加害者と被害者の“トラウマ”』第1章 5-8ページより再編集して引用。

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