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 著書『希求の詩人・中原中也』

 中也は、“不幸の詩人”あるいは“悲劇の詩人”と言われている。とはいえ、中也の言う不幸とは何なのであろうか。中也が、特に青少年に人気があるのは、悲劇の詩人的側面が際立って見えるからであろう。しかし、中也は、同時に“恩寵の詩人”でもあるし、“述志の詩人”でも“希求の詩人”でもある。悲劇の詩人と述志ないし希求の詩人というふたつの側面は、どのような関係にあるのであろうか。本書のひとつの目的は、その点を明らかにすることである。

 本書には、それ以外の目的もいくつかある。そのうちのひとつは、病跡学(パトグラフィー)という研究分野の現状に対して、私なりの疑念を表明することである。たとえば、ある病跡学者は、「詩作が現実における挫折、疎隔を代償し、中也の自我の崩壊をくい止めるのに役立ったことは疑いもない。この点、『中也は分裂病発病の危機を克服しつつあった』という大岡の意見は素人ながら正鵠を射抜いたものといえよう」(春原、梶谷、一九七一年、一〇四ページ)と述べている。時間をかけ、丹念に検討しているわけではないにもかかわらず、作者に対しても、その研究者に対しても、こうした、高みから見下ろすような物言いが平然とできる現今の病跡学とは、いかなる分野なのであろうか。

 本書にもうひとつ目的があるとすれば、それは、主観というあいまいなものに基づいて行なわれてきた文学作品の鑑賞や研究に、ある意味で客観的な指標を導入できるかどうかを、私なりの角度から検討することである。文学のみならず、芸術一般について言えることであろうが、こうした分野では、客観的指標が全くと言ってよいほど存在しないため、作品の鑑賞や評価は、各人の“見る目”に全面的に任されてきた。一九五〇年から中原中也全集の編纂に繰り返し携わってきた詩人も、「そういうほそい〔個人的〕体験の紐をつうじてしか、人が詩とつながることはありえない」(中村、一九九〇年、七ページ)と書いているし、ランボウの翻訳で知られる文芸評論家も、「こういう解釈は、絶対にどれが正しいということはない。読む方が勝手に感じとっておけばいい」(粟津、一九七五年、三一ページ)とまで述べている。本書で試みている客観的指標の導入がわずかにせよ成功したかどうかについては、読者の方々の判断を待つ他ない。(「はじめに」より)

 昭和初期に活躍した詩人・中原中也に関する拙著『希求の詩人・中原中也』が2004年10月末に麗澤大学出版会から刊行されました。詳細な索引を含めて420ページほどの本になりました。定価は2940円(税込み)です。

 一見自滅的に見える中也の生涯の本質は何であったのか、人から嫌悪される一方でなぜ“魂の詩人”などと言われたのか、真性の分裂病を発病した同時代の作家・島田清次郎と、二度にわたって精神病状態を示した中也は、どこがどのように違うのか、そうした相違点や矛盾らしきものを、私の人間観から解き明かそうとする試みです。中也が起こした幻覚妄想状態の真の原因についても、可能な限り事実を突き止めることによって詳細に検討しています。これまでの中也論とは根本から違うものになりました。

 右上の表紙をクリックすると、出版社の当該ページに飛びます。なお、ここに の pdf ファイルを掲載しておきましたので、参考までにご覧下さい。


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