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 幸福否定という考えかたに基づく心理療法の基本概念

 心因性疾患の原因は、専門家の間でも一般人の間でも、いわゆるストレスやショックや悩みごとのような、本人の負担になるものとされ、それ以外の原因はほとんど疑われていない(ただし、わが国では、受験生を持つ親が、子どもの合格を聞いたとたんに寝込んでしまうなどの場合のように、気の緩みという説明もある)。それに対して私の心理療法では、ほとんどの場合、うれしい気持ちの否定をその原因と考える。うれしいはずなのに、意識ではうれしい気持ちが全く起こらない。それどころか、それを苦痛なあるいは悲しい出来事と感じていることの方が多い。その裏には、幸福を回避ないし否定しようとする気持ちが潜んでいる。私は、幸福を否定しようとする気持ちが潜んでいる心の層を内心と呼び、真の意味で素直な気持ちが存在する層を本心と呼んでいるが、幸福の否定は本心の否定にすぎず、したがって独立して存在するものではない。

 たとえば、昇進を望んでいた人が、いざ昇進すると、そのとたんに落ち込んでしまう(いわゆる昇進うつ病)とか、結婚や出産をした女性が、その直後に自律神経失調症(あるいは産褥期精神病、マタニティー・ブルー、育児ノイローゼなど)を発病してしまうとか、新しい家に引っ越したとたんにさまざまな病気(引っ越しうつ病その他の精神障害や種々の心身症)になるとか、旅行に出かける前日に必ず発熱や喘息発作を起こすとかの現象は、昔から経験的に知られている。これらに対しては、責任の重圧によるストレス、未熟な性格に基づく適応障害、新しい環境に対する適応困難、予期不安など、それぞれ別個の解釈が当てられてきた。これらの出来事は全て、うれしいという感情をもたらす点で共通しているが、当人の意識には、観念的なものならともかく、感情としてのうれしさはない。しかも、ほとんどの場合、自分自身を説得するための説明を持っているため、一見しただけでは矛盾は見当たりにくいが、正当な説明ではないので、必ずどこかに矛盾が潜んでいる。

 具体例を挙げると、一浪した後、第一志望の一流大学に合格した男性は、合格通知を見た瞬間に「心臓発作」を起こしている。本人の説明では、その大学に通うには、遠方であるため親元を離れる必要があり、そのことが不安だという。この場合には、ではなぜ最初から地元の大学にしなかったのかという疑問が当然のことながら生ずるであろう。

 また、自分の子どもが第一志望の学校に合格したと聞いた直後に、自律神経失調症などの症状を発現させた母親も何人かいる。本人の説明では、たとえば「その学校は、高校までしかなく、大学の時にもう一度受験させなければならないのがかわいそうで、それを考えると落ち込んでしまう」ためであるという。もちろん、うれしいどころの話ではない。また、伝統的な説明である気の緩みがその原因であれば、子どもの合格自体はうれしいはずなのに、全員がうれしさを否定する。それどころか、「自分〔母親〕の志望校ではないから、うれしくない」などと、驚くべき理由を付ける母親すらいる。

 あるいは、何年かの恋愛の後、婚約したとたんに慢性的な下痢症状(過敏性大腸症候群)を起こした女性の場合には、婚約者について「あんな人とは思わなかった。今は後悔しており、今後のことを考えると不安で、当分は結婚しないつもり」だという。婚約者と会うたび下痢は悪化していたが、入院中の本人のもとにその婚約者が面会に来た当日から、さらに悪化してしまった。ところが、本人にはふつうのボーイフレンドもいて、その男性と会う時には、もちろん下痢も起こさないうえ非常に楽しいので、「その男性の方が本当は好きで、下痢の原因は、婚約者と結婚してはいけないと、神様が教えてくれているためなのではないか」とすら本人は考えるのである。この現象を私は、後述するように「対比」と呼んでいる。

 関西に住んでいた潰瘍性大腸炎のある女性は、夫の帰宅が遅く、その「ストレス」でいつも発病、悪化していると考えたため、「寂しくないように」するため、九州の実家近くの支店に転勤する希望を職場に出すよう夫に働きかけていた。その2、3年後、その転勤が決まったことを知らせる電話を夫から受けている最中に腹痛が始まり、直後に出血を起こして潰瘍性大腸炎を再発させた。そして、その電話を受けた瞬間、「これでひとりになってしまう」と思ったという。この女性は、2週間ほど後、予定通り実家の近くに引っ越したが、症状はさらに悪化し、幼児を実母に預け、逃避の形で2年ほど入院している。

 癌の再発で入院していた30代半ばの女性は、自宅を売却し、本人が退院後に通院しやすいようにと、病院の近くにマンションを購入する予定を夫から聞かされた直後に、強い腰痛と食欲不振を起こしている。そのような経過を知らされた時、夫の愛情がわかってうれしかったかどうか尋ねたところ、本人は即座に「私は人に愛される人間ではない。そんなことをされると死にたくなる」と答えた。ところが本人はそれまで、退社後、毎日面会に来る夫に対して、いつも涙を流して(喜んでではなく)感謝していたのである。この女性は、最初の購入予定者との間で契約が不成立に終わったことを夫から知らされると、腰痛と食欲不振をいったん消失させたが、しばらくして、明日契約を取り交わすと夫から聞かされた直後、同じ症状を再燃させ、立ち会うわけではないのに、引っ越しの当日から激痛が始まり、モルヒネを使うようになった。

 子どもを真ん中に挟んで、いわゆる川の字になって寝ようとすると喘息の発作が起こり、しかたなく別の部屋で寝ると少し楽になる、という例もある。そのような例では、今まで別室に寝ていた夫が同室で寝るようになったことが自分にとって苦痛だから息が苦しくなる、などの理由をつけている場合が多い。また、川の字に寝るのが願いだった別の女性は、そのためもあって、布団を3組並べて敷ける広い部屋のある新築の家を買ったが、引っ越しの直前に胃潰瘍を再発させ、出血が始まり、引っ越しの翌日に入院している。この患者は、症状の“原因”の説明は特にしなかったが、「川の字に寝ることが私の理想です」という自分の発言を完全に忘れていた。また、その後しばらくの間、その部屋に布団を3組敷くと布団が干しにくいことを理由に、夫を別室に寝かせていた。

 以上掲げた事例の症状の心理的原因は、単なる私の推定ではなく、隠蔽されていた記憶を探り出したうえ、後述する方法でそれぞれ確認したものである。この方法に関する患者自身の証言については、蜂谷章子他著『ガンと道づれ』(明石書店、1992年)141-2ページを参照されたい。

 原因に関係する出来事は、必ずしも大きいものではない。というよりも、むしろ小さい場合の方が多い。大きい出来事であれば、少なくとも周囲からは原因が推定しやすいが、小さいものの場合には、本人はほぼ確実にその記憶を消してしまっているし、そのためもあって、真の原因を自分から特定することはありえず、周囲にも気づかれにくい。いずれにせよ、症状の原因に関係してくるのは、ほとんどの場合、本人にうれしい気持ちを起こさせるはずの出来事である。しかし、一見すると、うれしいという感情を起こすようには見えない出来事もある。たとえば、互いに遠慮しあう間柄にある(見合い結婚してまもない夫婦や、知り合って日の浅い友人同士などの)相手と初めて口論した時や、上司から叱責された時である。これも、症状を発現させている場合には、実は本心ではうれしかったことが、いくつかの証拠により確認されている。

 私の心理療法では、このような原因論から、うれしいという気持ちをはじめ、素直な感情を作らせること(感情の演技)により治療を進めて行く。ところが、患者はそれに抵抗し、私が反応と呼ぶ現象を起こす。しかし、そうした抵抗を乗り越えようと努力しつつ感情の演技を繰り返して行くと、相変わらず感情はできないかもしれないが、徐々に幸福の否定が弱まり、それと平行して素直な気持ちが主として行動的に表出し、その結果、症状を作る必要性も小さくなるため、症状は次第に減衰し、再発もしにくくなってくる。

反応の意味

感情の演技と、その中で起こる反応

 感情の演技とは、症状の原因に関係する出来事が推定ないし確定されている場合には「その出来事がうれしかった」でもよいし、それがはっきりしない場合には「本当に自分の病気が治った時のうれしさ」でも、「家族と一緒にいる時のうれしさ」でも、「家族(特に母親)が亡くなった時の悲しさ」でもよいが、患者に2分間ずつ、何であれ素直な感情を作らせるという方法である。従来的な方法と違うのは、簡単にできる感情を作らせるのではなく、できにくい感情を、できにくい条件を設定させて、つまり、なるべく現実的な場面を設定させて無理に作らせるという点である。私は逃げ道と呼んでいるが、たとえば空想的に、あるいは仮定的に(病気が治ったとしたらうれしい、などのような形で)感情を作らせた場合には簡単にできてしまうことが多く、したがって反応も出現しにくい。

 感情の演技を2分間行なうと、最初は雑念が出て集中しにくく、何回か繰り返しているうちに集中できるようになることが多いが、そうすると、今度は反応が出始める。最初の雑念も実は反応のひとつなのかもしれないが、ふつうの雑念と区別しにくいので、あえて反応とは呼ばないことにしている。反応には3種類ある。あくびと眠気と心身の変化である。どの反応も、感情を作ろうとしたり、感情ができそうになったりすると出現しやすい傾向を持っている。強い眠気の場合には、初回の面接であっても、2分間のうちに完全に眠ってしまうことすらあるし、あくびにしても、多い場合には、わずか2分の間に二十数回出現させた者もある。また、それぞれの反応は、ほとんど例外なく互いに排他的に起こり、種類の違う反応が同時に起こることはまずない。

 3種類の反応が相互に排他的に起こるのは、おそらく、それぞれの反応の作り方が違ううえに、その戦略が相互に異なるためであろう。心身の変化(身体各部の痛み、かゆみ、しびれ、熱感、冷感、息苦しさ、脱力感、肩こり、吐き気、喘息発作や蕁麻疹をはじめとするアレルギー様症状、緊張、不安など)は気持ちを逸らせるための、あくびは気持ちをそぐための、眠気は感情を作ることを直接阻止するための手段のように思われる。つまり、いずれにせよ反応は、幸福を否定しようとする心の層すなわち内心が、本心に潜む素直な感情がそれによって引き出されるのを恐れ、そうした感情を作らせまいとして一瞬のうちに自分の体を操って作り出す現象と考えてよさそうである。この反応は実に強力であり、それが出現している状況では、そのような感情を作ろうとしている限り、それを阻止するのはきわめて困難である。これは完全に再現性のある心理的現象であるが、これまでその存在がほとんど知られずに来たのは、ひとつには、このような形で操作的、組織的に感情を作らせようとする試みが存在しなかったためであろう。

 症状出現の原因に関係した感情の演技は、一種のシミュレーションとも考えられる。つまり、本来ならうれしさが心の中で持続しているはずの間、新しい原因が発生しない限り次第に弱まりつつ持続する症状を、2分間だけ作為的にうれしい感情を作らせることにより、その間だけ反応という形で再現するよう仕向けているからである。したがって、感情の演技で反応が出るということは、私の考えているメカニズムで症状が作られていることのひとつの証明になる。

 もちろん反応は、このような感情の演技の中でしか出現しないわけではなく、たとえば試験に合格したのを知った瞬間に症状を発現させた者に、「合格と症状は関係がある」と考えさせ、ふたつの事柄を結び付けさせようとしても起こる。もちろんこの場合、そのふたつを結び付けることが不可能か困難である。症状の原因らしきものに関する感情の演技であれ、このような関連付けであれ、それで反応が出れば、とりあえず、その出来事によるうれしさが症状の原因と考えて治療を進めて差し支えない。

日常生活の中で起こる反応

 反応は、日常生活の中でも、うれしさにつながる状況や場面ではごくふつうに起こる。ここで、反応と症状の違いについて述べておく必要がある。反応は一瞬のうちに作れる一過性のものである(したがって、眠気やあくびや自律神経失調症的症状やアレルギー様症状などにほぼ限定される)のに対して、いわゆる症状には持続性がある。その点で両者は異なるが、それ以外に本質的な差はない。しかし、日常生活の中で起こる喘息発作や過呼吸症候群や蕁麻疹を反応と呼んでもあまり意味はないので、この分類はある程度恣意的なものと考えてよい。

 うれしい気持ちを直接起こさせる状況以外にも、幸福を否定しようとする気持ち――本心で感じているはずの幸福感を否定しようとする内心の意志――と相容れない状況(たとえば、ヨガであれ自律訓練法であれ一家団らんであれ、リラックスしたりくつろいだりすることができる場面)で反応は頻発する。休日の自宅の中で起これば、その症状は休日神経症などと呼ばれることになる。また、それを意図的に回避しようとして起こすひとつのパターンが、帰宅恐怖症と呼ばれるものの大半なのであろう。さらに、アトピー性皮膚炎のかゆみや喘息発作、不安発作、不眠症などのように、いったん初発ないし再発してしまうと、自宅で夜眠るという一番リラックスしやすい条件の時に、リラックスを避けるような形で出現しやすい症状もある。不眠症の患者は、昼間眠ることには抵抗がまずないものであるし、自宅で毎晩発作を起こしている喘息患者であっても、特に小児の場合には、入院するとその晩から発作を起こさなくなる者が多い。また、夜間、布団の中で強いかゆみを感ずるアトピー性皮膚炎患者であっても、たとえばかぜをひいて昼間自宅で寝ている場合には、同じ布団に入っていても、かゆみが感じられない者がほとんどであるし、夜間、布団に入っていても、本を読むなどしている場合にはかゆみはあまり出ないものである。したがって、布団に入って体が温まるとかゆくなるという、患者が好んで行なう説明は正しくない。そのため、不眠であれアトピー性皮膚炎のかゆみであれ喘息発作であれ、リラックスしにくい時間帯(たとえば昼間)や場所(たとえば自宅外や電車の中)や状況(たとえば布団の外や明るい電灯のもと)や姿勢(たとえば、寄りかかったり、うつぶせになったりという姿勢)を選んで眠れば、その間は、対症療法的に症状を発現させずにすむか、発現しても軽症ですませられることが多い。

 以上のような観点から考えると、ヨガや自律訓練の中でよく観察される、一瞬のうちに“気持ちよく”眠ってしまうという現象は、リラックスした結果ではなく、リラックスを避けるための反応と考えた方がよさそうである。

 また、受験勉強中や入学試験中に出現する反応(よく知られているものとしては、眠気、頭痛、下痢、発熱、脱力感、緊張、注意集中困難など)のように、最終的に得られる幸福(この場合は合格)が予測されている場合にも反応は起こりやすい。したがって、上であれ下であれ、実力に見合わない学校を受験する場合などには、受験中の反応は弱いか出現しにくい傾向がある。この場合は、そうした反応を出現させることにより、自分が入学したい学校の入学試験に合格しないようにする内心の意志によるものと考えられる。また、学期試験の直前になると、遊びに出かけている時間や眠っている時間がふだんより長くなるなどの例も、成績を上げることに対する抵抗の現われと考えてよい。

反応の特徴

 これまでにも簡単に触れておいたが、反応は、眠気にしてもあくびにしても心身の変化にしても、出現の仕方に特徴がある。ひとつは、急速に出現して急速に消失することである。眠気はもちろん、鼻水や蕁麻疹や喘息発作などのいわゆるアレルギー症状ですら、急速に出現、消失する。感情の演技の中で鼻水を流していた患者が、2分が経過して感情の演技を終えると、その瞬間に鼻水が止まる、などというパターンを示すのである(図1参照)。

 第二の特徴は、先ほど説明したように、3種類の反応が、ごく一部の例外を除いて排他的に出現することである。ふつうの眠気はあくびを伴うことが多いが、反応としての眠気とあくびの場合には、双方が同時に出現することはまずないし、たとえばアトピー性皮膚炎患者のかゆみにしても、日常生活の中では入眠時や睡眠中に起こりやすいが、眠気とかゆみが反応として出現する場合には、ふたつが同時に出ることはまずない。最初かゆみが出ても、反応が眠気に移行するとかゆみは消えてしまうのである。

 第三の特徴は、反応の眠気の場合、たいてい、それをきわめて気持ちよく感ずることである。テーブルを挟んで一対一で坐って面接しているという状況にもかかわらず、「このまま眠りたいと思いました」などと言う患者も少なくない。

 第四の特徴も眠気に関係している。抵抗のきわめて強い話題を取りあげている時には、若い女性のように、それが最も考えにくい条件を持った患者であっても、明るい部屋の中で向き合って一対一で話している最中に、急速に眠ってしまうことすらある。そのような場合、その話題から離れない限り、覚醒させるのは難しい。覚醒させるには、話題を変えるのが最も簡単である。そうすれば、ほとんどの場合、患者は一瞬のうちに眠りから覚める。同じような口調と音量で、たとえば「今の会社の同僚は誰でしたか」と質問したとすると、完全に眠っているように見えた患者が、一瞬のうちに目を覚まし、眠っていたはずの間に尋ねられた質問に答えることも少なくない。こうした観察事実からすれば、「耳は覚めている」ということであり、つまりはこの眠りは催眠様睡眠ということになるのではなかろうか。これが、註で触れておいたように、反応と自己催眠とが関係している可能性を私が推定しているひとつの根拠である。

対 比

 反応の出現形態を理解するうえで重要なのは、対比という概念である。これには、対人的対比と空間的対比と状況的対比と時間的対比の4種類がある。

 心因性疾患、特に自律神経失調症など自覚症状を中心とする疾患の症状の特徴は、その出現や消失が時間的、空間的、対人的変化に沿って起こりやすいことである。たとえば、自律神経失調症の患者が、体の不調を訴え自宅でほとんど動けないまま横になっているところに友人から電話が入ったりすると、それまでの症状がうそのように消えて元気になるが、電話を切ったとたんにもとの症状が再発する。また、朝なかなか起きられず、学校や職場に行こうとすると頭痛や発熱などの症状が出現する登校拒否や出社拒否の患者でも、午後になるとそうした症状は消え、休日には全く出現しないが、月曜日になるとまた同じ状態が再現される。あるいは、自宅(ないし勤務先)にいると頭痛や下痢のひどい患者が、玄関を一歩出たとたんにほとんど、あるいは全面的に症状を消失させるとしても、また自宅(ないし勤務先)に入ると同じ症状を再燃させる。これが、時間的対比と空間的、状況的対比の実例であり、婚約者に会うと下痢が起こるが別のボーイフレンドと会っている時には止まるという先述の例は、対人的対比の一例である。また、感情の演技の中で反応が出ても、終わるとそれが速やかに消失するのも、一種の時間的対比と考えてよい。

 これまで述べてきたように、本心でうれしい時には、あるいは、うれしさが待ち受けている時には、内心が意識にうれしくないと思い込ませたうえ、そのうれしさに水を差す手段として症状を作るわけであるが、それに対して、本心ではさほどうれしくない場合には、逆にうれしさを増幅させ症状を軽快ないし消失させるという操作を行なう。つまり、症状を出現させる状況の(自ら作りあげた)苦痛を自分に対して際立たせ、うれしい気持ちなどないことを自らに念押し的に証明する目的で、このような操作を行なっているらしいのである。

反応のジレンマと待避

 これまでの説明でおわかりいただけるように、反応も症状も、幸福の否定を持続させるため、いわばその隠蔽工作の手段として用いられるものである。つまり、私の心理療法を受ける以前には、「症状があるから、(その原因となるものは)自分にとって苦痛であるのはまちがいない」という論理を成立させ、それなりに安定していたのに、私の心理療法では逆に、症状の存在はその裏に幸福感が隠れている証拠になると考えるため、私の心理療法を受けるようになると、反応のジレンマが生ずる。つまり、自分にとってそれが苦痛であることを自分に証明する手段として反応を作る必要性は依然としてあるが、反応を明確に作ってしまうと、その裏に幸福感があるのが自分の意識にわかってしまう。そこで、反応を出さなければいけないし、出してはいけないというジレンマが起こる。特に、抵抗の強い部分について触れられた場合、このジレンマに基づく操作が際立ってくる。

 その場合用いられる戦略は、(1)多少なりとも反応を出す範囲を拡大させる、(2)反応をほとんど、あるいは全く出さない、(3)反応を出したり出さなかったりする、の3通りである。いずれにしても、どこが肝心な部分なのかをわからなくさせているという点で共通している。これが反応の待避である。この戦略の、特に(2)の弱点は、感情の演技などを繰り返しさせられると続けられなくなることである。しかし、短時間であれば、このような策も決して無効ではない。いずれにせよ、反応や症状は、必要に応じて意図的に操作できることになり、結局、反応は、場合によっては、全面的にも文字通りにも信用できないことになる。

初級者クラスと中級者クラス

 心因性症状の原因は、ほとんどが幸福感の否定であるが、註2で触れているように、少数ながら別の原因もある。それは、大きくふたつに分けられる。ひとつは対比に関係したもので、たとえば、自分の肉親(特に実母)が亡くなった時には、かわいそうとは思っても悲しみを感じず症状も作らないのに、心理的に遠い存在(たとえば、自分と姻戚関係にある人物、会社の同僚の配偶者、入院中にたまたま同室になった患者、飼い犬など)が死亡した時に悲しみを捏造ないし増幅したうえ、症状を作るという場合である。これは、自分にとって真の意味で重要な人物が死亡することによる悲しみを認めると、その人物に対する愛情を認めたに等しいことになり、幸福を否定しようとする生き方と相容れなくなるので、それを否定する目的で悲しみの否定を行なうためのようである。したがって、特に母親の死に際しては、自分が実際に涙を流していたとしても、その記憶のない患者は決して少なくない。ひどい場合には、その肉親の死から何日も経っていないのに、臨終の場面はもとより、葬儀が挙行されたのが自宅か外部の会場かもわからないほど記憶を消してしまっている例すらある。心理的に遠い存在の死に際して悲しみを強くし、しばらく寝込むなどの症状を発生させるのは、母親に対する愛情否定の一環に他ならない。また、悲しみの代わりに「かわいそう」という気持ちを作るのは、本当は悲しいために出た(うっかり出した)涙と、同じ愛情否定に由来する、その相手に対する逆うらみという感情とを両立させるための、自らの意識に対する説明になっているのであろう。

 うれしさの否定に関係しない、心因性症状のもうひとつの原因は、数はさらに少ないが、通常の説明が困難なものである。国内であれ国外であれ、初めて行った場所で強い反応ないし症状を出したり、初めて対面する人物と会った瞬間に同様の反応や症状を出したりするという現象がその一例である。この場合、その後も同じ状況になると同様の反応や症状を出すことが多い。初めての場所で反応を出現させたとしても、「旅行してうれしい」という気持ちの否定が、あるいは誰かと一緒であれば、「その人と一緒に旅行してうれしい」という気持ちの否定が原因となっている可能性があろうし、初対面の人物と出会った瞬間の反応にしても、その人物が何らかの点で旧知の誰かに似ていたりすれば、そのことが原因となっている可能性もあろうが、そういう条件が考えられないにもかかわらず、反応や症状を出現させることが時としてある。このような場合の反応や症状には、強力な眠気やあくびの頻発、動けなくなってしまうほどの強い脱力感などが多い。前節まで説明してきた方法を初級者クラスと呼ぶとすれば、こうした現象を扱う方法は中級者クラスということになろう。

 これと関連して、いわば反応の応用編ともいうべき方法がある。何であれ反応が出るものを、反応を使って探し出し、反応を目印に感情の演技や関連付けを行なわせるという方法である。反応を中心にしたやり方なので、初級者クラスの場合よりも当然のことながら反応や抵抗は強く、一瞬のうちに眠ってしまうとか、強い脱力感や激痛を発生させるとか、意識を失いかけるといった現象すら起こることがある。もちろん、単なる反応にすぎないので、激痛などが起こっても、感情の演技を終えれば、通常の場合、それはたちどころに消失する。

結 語

 以上で、反応という概念と現象を中心に、私の心理療法について必要最低限の説明ができた。これまで読み進んでこられた方の中には、幸福の否定とはどこまで普遍的な現象なのかという疑問を抱かれた方もおられるかもしれない。そこで、これまでの観察事実から、現在私が推定していることをここで述べておくことにする。私や私の患者がさまざまな場面で確認した範囲では、心因性症状を持っているか否かにかかわらず、さまざまな人種で同様の反応や抵抗が、感情の演技その他の状況で出現する事実が確認されている。したがって、私の言う幸福の否定という心の動きは、わが国も含め、どの文化圏に住む人々にも内在していることが推定される。また、これまでのところ私自身で治療を行なった外国人患者は韓国人と中国人とアメリカ人のみなので明言はできないが、どの文化圏に生まれ育った者に対しても、この心理療法がそのままの形で適用できるのではないかと考えている。

 ところで、いわゆる患者以外の者についてはどうなのであろうか。患者と非患者との間のどこで線引きをするかという問題はあるが、特に患者ではないように見える者でも、幸福を否定している兆候がほとんどの場合観察されるようなので、幸福の否定という心の動きは、もしかすると人類全体に多かれ少なかれ内在するものなのかもしれない。その証明は現実には不可能であるが、そう考えた方が事実に近いように私には思われる。

参考文献


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