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 ロボット的人間観の起源

序 論

 現行の科学知識が教えるところによれば、心は脳の随伴現象であって、独立して存在するものではなく、肉体の死滅とともに消滅することになっている。しかし、その事実性は科学的方法によって証明されているわけではなく、この“知識”は、単なる憶説と言って悪ければ、立証不能なひとつの“仮説”にすぎない。それまでその肉体とともにあった心は、肉体の死とともに、五感によっては感じ取れなくなる。だが、そのことは、心の消滅そのものを経験的、実証的に証明するものではない。このあたりの事情を、アンリ・ベルクソンは次のように述べている。「脳は、意識にあらわれるものの中から、その一部分を運動に転換させるというだけのものなら、心が、死後も生き残るということは、ありうることとなり、肯定する人ではなくて、今度は否定する人がそれを証明する義務を負うことになります。なぜなら、死後に意識が消えてなくなると信じる唯一の根拠は、身体が分解するのを見るということですが、しかし、ほとんどすべての意識が身体から独立しているということは確認された事実でありますから、この根拠はもはやなんの価値もありません」(文献10、193ページ)。

 人間が死後、何らかの形で生き残るかどうかは、哲学的にはもちろん、科学的にもきわめて重要なテーマであろう。もし人間の死後生存が事実であるとすれば、現行の機械的、唯物論的、ロボット的人間観が根底から崩れ、現行の科学知識は根本的変更を迫られるからである。一例を挙げれば、進化についても、これまでの身体のみの進化論は成立しなくなり、心の進化という新しい概念を導入したうえ、身体の進化との相互関係を考えざるをえなくなるはずである。私は科学を知的探検と位置付けているが、そうした立場に立つ立たないは別にしても、これほど重大なテーマを無視することは、心を探求する科学者として許されざることである。チョモランマよりも高い山がどこかにあるといううわさがあったとすれば、何の検討もせずに、あるいは従来的資料の検討のみによりそれを却下することは、真の探検家なら決してしないであろう。結果的に否定されることになるとしても、まず現地に行き、自分の目で確認する必要があるのである。

 ところが、事実はどうかと言えば、わが国はもとより、こうした研究の進んだ欧米ですら、一般の科学者は死後生存問題にほとんど関心を示すことがない。一般の科学者がこの問題について発言する場合には、ほとんど例外なく否定的立場を取るが、当然のことながらその根拠は、従来的な科学知識に基づく演繹以上のものではない(文献4)。このような“科学者”は、知的探検としての科学と、その結果得られた、絶えず塗り変えられる運命にある科学知識とを混同し(強い表現をすれば、すり替え)、そうした演繹がいかにも“合理的、科学的”であり、死後生存研究は“非合理的、非科学的”であるとする本末転倒を行なっているのである。このような態度は、科学的精神と真っ向から対立するのではなかろうか。本稿では、まず、死後生存研究の歴史を振り返り、人間の死後生存の証拠を再検討する。そして、この山の実在性がどの程度ありそうかを判断したうえ、一般の科学者がこうした研究をほぼ完全に無視している理由を推測してみることにしよう。

死後生存研究の歴史

 いわゆるメスメル的トランス状態(後の催眠状態)やテレパシーをはじめとする「議論の多い現象群」を組織的、科学的に研究しようとする目的で、心霊研究協会(SPR)がケンブリッジ大学の研究者を中心にロンドンに設立されたのは、1882年2月20日のことであった。その設立趣意書には、このふたつとともに「人間の死の瞬間に出現する霊姿〔幽霊〕や、幽霊屋敷とされる家屋で起こる騒乱状態」に関する証言の厳密な検討が、その研究目標として含まれていた(文献13)。以来110年以上が経過したわけであるが、この間に死後生存研究は、どのような経過を辿ったのであろうか。以下、この方面の研究の第一人者である、ヴァージニア大学医学部精神科人格研究室教授イアン・スティーヴンソン(文献7)による区分に従って、その歴史を概観してみよう。

 第一期は、SPR創立から1930年代までの50年ほどである。この時期の研究は、内容的に大きくふたつに分けられる。SPR創立メンバーによる、一般人の間で偶発的に起こった超常的体験の収集、分類、分析および、霊媒を用いた“死後の世界”との交信に関する実験的研究である。前者は、生者間ないしは生者と死者との間に五感の介在なくして起こる交信らしきもの、霊姿体験や幽霊屋敷体験、臨終時体験、肉体離脱(体脱)体験に関する調査が中心となっていた。また、霊媒を介した交信実験では、霊媒の五感を通じて得られた情報や詐欺的行為によるものを徹底的に排除してもなおかつ、通常の方法では説明できないように思われる交信例が少数ながら残ることが判明した。

 一方、第一期の後半になると、生者間に起こるESP(テレパシーや透視)の実験的証拠がかなり蓄積されてきたことから、これまで死者との交信の証拠とされてきたものは霊媒のESPによるもの――つまり、霊媒がESPを用いて生者の心の中や現存する資料の中から探り出した情報を、死者からの交信と意識的、無意識的に装った結果――であろうと考えられるようになった。そして、通常のESPによっては説明できそうにない交信を説明するため、一部の霊媒には無限の(つまり、世界中の人間や資料の中から、望む情報を意のままに探り出すことのできる)ESP能力が備わっているとする仮説が唱えられ、これが後に超ESP仮説と呼ばれるようになるのである。

 第二期は、定量的超心理学実験の創始者とされるJ・B・ラインが活動を始めた1930年代から1960年頃までの30年ほどである。この時期の超心理学者の大半は、死後生存研究から離れ、生者を対象にしたESPの実験的研究に没頭した。この間にも、交霊会に代理を出席させ、通常のESPでは説明が付きにくい証拠を得ようとする研究が若干行なわれたものの、結果は超ESP仮説を肥大させるのみであった。

 第三期は、1960年頃から現在に至るまでの30年ほどである。この時期になると、この方面の研究は再び盛りあがりを見せた。そして、臨終時体験や臨死体験や生まれ変わり型事例の厳密な研究が開始され、体脱体験や生者の中心人物が見当たらないポルターガイストの実験や研究が再開された。その結果、超ESP仮説では説明しにくい“飛び入り”交信者が関係する、霊媒を介した交信の事例や、認識的情報のみならず技能も伝達されたと考えられる真性異言の事例、習ったことのない技能を生来的に持っているように思われる生まれ変わり型事例に着目する研究者が何人か登場した。こうして、超ESP仮説という万能仮説を覆し、死後生存の裏付けとなる証拠を集積するための努力が重ねられ、今日に至っているのである。

死後生存を裏付けるとされる証拠

 ここで改めて整理すると、死後生存研究は、体脱体験、臨終時体験、臨死体験、霊姿体験、生者の中心人物のいないポルターガイスト現象、霊媒を介した死者との交信、憑依、真性異言、生まれ変わり型事例の研究などに分けることができる。紙面に余裕がないので、ここでは、真性異言と生まれ変わり型事例の研究に限定して検討を行なうことにする。他の領域の研究については、しかるべき参考書(文献1-3、6、11)を参照されたい。

【真性異言】 真性異言とは、宗教で言う異言とは異なり、実在する、あるいはかつて実在した言語を、何ら学習を伴うことなく操る現象のことである。その中で圧倒的に多いのは、その言語の話者との対話ができず、歌などの形で一方的に語るだけの朗唱型であり、その言語の話者とある程度にせよ自在にやりとりできる応答型の真性異言は、これまでのところきわめて稀である。最近の応答型の実例としては、スティーヴンソンが調査した3例が最も有力なものであろう。あるアメリカ女性が催眠中に、イェンセン・ヤコービーと名乗り、スウェーデン語を話す事例(文献14)と、やはり催眠中のアメリカ女性が、本人が知らないはずのドイツ語を話すようになり、自らグレートヒェン・ゴットリープと名乗った事例(文献15)、インドのマーハラーシュトラ州在住の女性が自発的に人格変化を示し、短い時で1日、長い時では7週間にもわたって別人格が主導権を握ったうえ、母語のマラーティー語が話せなくなり、本人が全く知らないはずのベンガル語を話す事例(文献8、15)である。こうした事例では、その人格がこの世に生を受けていたとされる時代の言葉が用いられ、その後に導入された外国語が混入しないことが多いようである。

 この場合、本人や周囲の者が、本当は本人が知っている言葉なのに知らないと偽っているとする詐欺仮説や、その言葉をある程度自在に操れるほど学んだ経験が全くないとする本人や周囲の主張の正当性が、当然のことながら問題になる。この3例については、スティーヴンソンが徹底的に調査した結果、そうした可能性はほぼ棄却されている。言語を操る能力には、自転車やピアノや水泳と同じく、練習の必要な技能が含まれている。ESPが伝達するのは情報のみとされているので、それを拡大した超ESPも、万能とはいえ、その範囲は情報の伝達に限定されると考えてよかろう。したがって、有力な真性異言の実例は、憑依の実在を裏付けるものであるにせよ真の意味での多重人格の実在を裏付けるものであるにせよ、超ESPを棄却しうる死後生存の最有力の証拠と言える。

【生まれ変わり型事例】 生まれ変わり型事例の調査研究に先鞭を付けたのは、他ならぬスティーヴンソンである。スティーヴンソンは、催眠によっては信憑性のある事例はきわめて例外的にしか得られないとして催眠による年齢遡行は用いず、偶発的に“前世”の記憶を蘇らせた子どもの事例に焦点を絞り、インド、ミャンマー、タイ、スリランカなど東南アジアの国々を中心に、世界中からこれまで2300例ほどを集めている。もちろん、その全てが有力な事例ではないが、いずれについても、自ら、あるいはそれが不可能な場合には現地の研究助手を通じて、少なくとも二度以上にわたって厳密な調査を行なっており、報告を受けたままの形でファイルに収め、よしとしているわけではない。前世の記憶とされるものは、特に成人の場合、潜在的な記憶や虚偽の証言などが入り込む可能性が高く、信憑性の高い事例は得られにくいため、あえてスティーヴンソンは、そうした可能性の考えにくい子どもを対象としているのである(文献9)。

 生まれ変わりを考える時、世間一般では前世の記憶のみを問題にするが、それとは異なり、実際に前世の記憶を持っているとされる子どもの典型例は、次のような特徴を持っている。

 スティーヴンソンの調べた事例でも、このような特徴を完全に揃えた事例はほとんどないが、こうした特徴のいくつかが相互に矛盾なく見られる事例は数多い。そのため、前世の人物が特定できた事例では、少なくとも、その個人に関する記憶や行動特徴、母斑などが相補的に見られる理由が説明できなければならない。超ESP仮説を用いたのでは、“記憶”はともかく、行動特徴や母斑については説明できず、したがって、きわめて信憑性の高い事例では、生まれ変わりという概念が最善の説明となるのである。

死後生存研究が科学者に無視される理由

 以上、これまで得られている死後生存の証拠を急ぎ足で見てきた。紙数の関係で具体的な事例に触れることはできなかったが、少なくとも、簡単に無視できるようなものではないことだけは、おわかりいただけたのではなかろうか。この点について、スティーヴンソンは次のように述べている。「死後生存を信じたくなければ、死後生存の証拠を否定する以外道はない。人間の死後生存の裏付けになりそうな証拠が相当数蓄積されているからであり、こうした証拠の存在を知った者は、誰しもが、その証拠をもとに自らの立場を明確にする必要があるからである」(文献7、52ページ)。 控え目に言っても、科学者の探検すべき山は、やはり存在する可能性が高そうである。そうなると、こうした研究を一般の科学者が無視する理由が大きな問題になってくる。

 欧米では、古くはベルクソンやアメリカ心理学の創始者とされるウィリアム・ジェイムズから、近くは、アメリカ心理学会会長も務めたことのある心理学者ガードナー・マーフィー、英米の著名な哲学者C・D・ブロード、C・J・デュカッスに至るまで、死後生存問題を真剣に考えた研究者が著名人の中にも少なくないが、わが国ではそうした研究者は皆無と言ってよい。とはいえ、欧米でもわが国でも、一般の科学者の圧倒的多数がこうした研究を無視している事実に変わりはない。

 その理由はふたつ考えられる。ひとつは、所詮うさんくさい研究なのだから、通り一遍の理屈で片付けておけばよいという、単なる偏見に基づいた通常の理由である。もちろんこの場合には、現行の科学的パラダイムが崩壊し、自らの立場が危うくなることに対する恐れが、その裏に潜んでいることであろう。科学史を繙くまでもなく、科学者は一般にきわめて保守的だからである。しかし、私がこれまで考察してきたところによれば、そうした理由のみでは、このような“現象”は十分説明できないように思う(文献4)。この種の証拠を否定する科学者は、あまりに感情的になり、自らの分野では決して用いないほどの没論理的論理を振りかざす場合が多いからである。

 もうひとつの理由は、超常現象のとらえにくさ(文献5)にも関係するものである。アメリカのある心理学者(文献12)によれば、人間には、心の働きを解明したいという欲求とともに、神秘のままに留め置きたいとする強い意志が働いているのではないかという。確かに人間は、心を直接扱うことをこれまで極力避けてきたように見える。人間の心を扱っているはずの心理学ですら、間接的にしか扱おうとしていないからである。もちろん、心を的確かつ直接的に扱う方法がこれまでに知られているわけではない。しかし、それは、人間が自らの心を直接扱うことを避けつづけてきた結果なのではなかろうか。この考え方が正しければ、人間には、人間の心の本質を直接見ないようにしようとする強い意志が働いていることになる。さらには、当座は抵抗が強くとも、いかなる仮説や証拠であれ、それが正当であれば時間の経過とともに自然に受け入れられるはずだとする従来的、クーン的“科学知識観”はこの場合当てはまらず、人間の側のそうした抵抗を減衰ないし消滅させない限り、この種の仮説や証拠は受け入れられないことになる。

 これは、奇妙な考え方に聞こえるかもしれないが、そう考えると逆に視界が急速に開け、科学者の間で超常現象に対する抵抗がかくも強い理由が明確になるのみならず、人間が自らの能力を過小に評価したがり、自らを精密機械のように考えたがる傾向を固持している理由も、新たな観点から捉え直すことができる。心と肉体の関係はもとより、このように重大な問題を考えるうえでも、人間の死後生存研究は重要な出発点と言えるのではなかろうか。

参考文献


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