サイトマップ 
心の研究室バナー

 臨死体験とは何か

 アメリカ心霊研究協会の研究者カーリス・オシスとアイスランド大学の心理学者エルレンドゥール・ハラルドソンが書いた『人は死ぬ時何を見るのか』の日本版初版が出版されたのは1979年でした。それから実に12年の歳月が流れたわけですが、その間わが国でも臨死体験に対する関心は予測した以上に高まりました。その中心的役割を果たしたのは、レイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』(ムーディ、1977年)やマイクル・セイボムの『「あの世」からの帰還』(セイボム、1986年)でした。その他にも、臨死研究者によるいくつかの著書が邦訳されました。そのうちのひとり、コネチカット大学の心理学者であり、臨死研究の中心人物のひとりでもあるケネス・リングは、『人は死ぬ時何を見るのか』の日本版第2版(日本教文社)の研究について次のように述べています。

 死に関連した現象に対する関心は、カーリス・オシスの研究から再び高まりを見せた。‥‥オシスは、アイスランドの共同研究者であるハラルドソンとともにこの分野で重要な研究を続けてきたけれども、臨終時の幻の研究自体は、超心理学の死後生存研究の伝統にしっかり根をおろした現代のNDE〔臨死体験〕研究からすると支流にあたると考えるべきである(リング、1991年、7ページ)。

 リングの考える主流とは、リング自身をはじめ、ムーディやノイエス、フリン、セイボム、グレイソンなど、多くは国際臨死研究学会(IANDS)に関係する主として医学、心理学方面の研究者による臨死研究のことです。たしかに『かいまみた死後の世界』の世界的ヒットのおかげもあり、IANDSに関係する各方面の自然および人文科学者が行なっている研究は、件数のうえでは、『人は死ぬ時何を見るのか』のような超心理学=心霊研究の方面からの研究をはるかに凌いでいます。

 この方面の研究は、『人は死ぬ時何を見るのか』や、ヴァージニア大学精神科のスティーヴンソン教授とその共同研究者による論文を除けば、現在でもほとんどないのが現状ですから、件数という点ではリングの主張は正当です。しかし、ここで肝心なのは、同書でも指摘されているように、両者の研究法の違いでありその裏にある研究姿勢の違いです。超心理学=心霊研究の方面からの研究は、人間の死後、心ないし魂が肉体から離れて生存を続けるとする主張が事実かどうかを明らかにしようとする死後生存研究の一環として行なわれています。しかし、先のリングの発言にも、「超心理学の死後生存研究の伝統にしっかり根をおろした現代のNDE研究」という言葉があります。それが事実なら、両者の目的や研究法はほとんど一致することになりますが、実際にはどうやらそうでもなさそうです。(ただし、超心理学に通じている哲学者のグロッソが、「これまでのところ、臨死研究は、〔オシスらによるものを除けば〕死後生存研究には取り組んでいない。‥‥臨死体験の体脱成分を検証しようとしたセイボムの研究が、死後生存問題に取り組んだ唯一の研究なのである」〔グロッソ、1991年、248ページ〕と述べているように、セイボムの研究はある意味でその例外です。)では、どこがどう違うのでしょうか。

 まずひとつは、オシスとハラルドソンもスティーヴンソンも、当然のことながら他の方面の死後生存研究に携わっているという事実が挙げられます。たとえば、ハラルドソンは霊媒による死後の世界からの通信の研究(ハラルドソン、スティーヴンソン、1984年)を、オシスは、体脱体験中の“体脱体”の捕捉(Osis & McCormick, 1980)や中心人物のいないポルターガイストや霊姿(オシス、1984年)の研究を行なっていますし、スティーヴンソンは生まれ変わりの研究(スティーヴンソン、1990年)で有名です。それに対して、“主流”の臨死研究者の中には、臨死体験以外の死後生存研究を行なっている科学者はほとんどおりません。

 もうひとつは、オシスとハラルドソンも指摘しているように、“主流”研究者が、100年以上にわたって蓄積されてきた超心理学=心霊研究の研究成果を(参考文献として引用はしても)ほとんど無視するという姿勢を取っていることです。主流派は、死の臨床などに臨死研究の成果を応用することを大きな目的にしているのは確かでしょうが、それはそれで問題はありません。しかし、そのような目的があるからといって、方法論に厳密性が欠けてよいことにはならないでしょう。しかも、過去に典拠とすべきものが何もないのであればともかく、現実に『人は死ぬ時何を見るのか』のような超心理学的研究があるのですから、それを無視してはなりません。その結果どういう問題が生じているかについては同書序文で指摘されていますが、ここで簡単にまとめておくと、次のようになります。

 まず第一に、主流派の臨死研究では、蘇った、つまり実際には死に至らなかった患者ばかりを研究の対象にしているため、死が避けられなかったこともこの体験に関係する要因になっている可能性が見落されていることが挙げられます。オシスとハラルドソンの言葉を借りれば「蘇生した者の体験は誤報と考えることができ」る(同書、ixページ)かもしれないわけです。にもかかわらず、主流派の研究者は、本研究を参考にして自らの研究法の弱点を見きわめることは、どうやらしていないようです。

 『人は死ぬ時何を見るのか』は、主流派の臨死研究の重大な欠陥を埋め合わせているばかりでなく、さまざまな要因を比較文化的研究法により分析していることが、最大の特徴と言えるでしょう。主流派の研究でも比較文化的なものがありますが、インドのような、宗教的文化的背景が欧米と全く異なる文化圏との比較を直接しているわけではありません。(厳密に言えば、同書でも、臨死体験の要素の出現率を両文化間で組織的に比較しているわけではありません。その結果、臨死体験のどこからどこまでが真の中核的体験であり、どこから先が文化や宗教によって色付けされた雑音かが不明確になってしまっていることが第二の問題点です。(つまり,主流派の言う臨死体験とは欧米人の臨死体験のことなのです。)

 第三には、死後生存仮説を検証しようとする姿勢がないか弱いため、本研究のように、死滅仮説のような対立仮説との対置による研究法を取っておらず、その結果、“死後の世界”の実在を証明しようという目的が空回りしていることが挙げられます。還元主義的批判に対する反論も重要ですが、そればかりに終始せず、もっと積極的に“死後の世界”の実在を証明する方法を超心理学=心霊研究から借用するか新たに考案するかすべきでしょう。ムーディは、蘇生処置を受けている患者の腹部や天井からしか見えないところに変わったものを置き、後で患者がそれを見たことを証言すれば体脱仮説が証明されるのではないか、というある研究者の提案を紹介しています(リング、1991年)。超心理学的研究法に通じていれば、このような方法ではふつうのESPが働いた証拠以上のものにはなりにくいことがすぐにわかるのですが、ここでも、超心理学の死後生存研究の成果が無視されている事実が見て取れます。

 しかしながら、超心理学=心霊研究でも、死後生存仮説が実証できているわけではありません。その最大の理由は、超ESP仮説の存在です。この仮説は、死後生存仮説の対立仮説として作られた、ESPを無制限に拡大させた万能仮説です。たとえば、霊媒が、本人の知らないはずの故人について、いかに正確に語ったとしても、それが不正行為によるものでなければ、その故人に関する情報をESPによって探し出し、読み取ったためということになりますし、誰かが体脱体験の中で遠方にあるターゲットを通常のESP以上に正確に言い当てることができたとしても、やはり超ESP仮説によって“説明”することが可能です。死後生存研究の歴史は、特に1950年代以降は、超ESP仮説との苦闘の歴史と言っても過言ではありません。

 そのため、超心理学=心霊研究では、たとえば生まれ変わりの研究(スティーヴンソン、1990年)であれば、“前世の記憶”以外の証拠(母斑や習ったはずのない技能など)をも探し求めてきましたし、体脱体験の研究であれば、遠方にあるターゲットを当てさせるのみならず、そこに“来て”いるはずの“体脱体”を捕捉しようとする実験(モリス他、1983年;Osis & McCormick, 1980)まで考案されてきました。その結果、死後生存仮説を支持するデータが得られているわけです。では、臨死研究で、超ESP仮説によっては説明できにくい現象はあるのでしょうか。その場合、肉体が置かれている場所からはわからないはずのことがわかった、というESP的な証拠だけではもちろん不十分です。

 『人は死ぬ時何を見るのか』には、超ESP仮説では説明できない死後生存の証拠になりそうなものがいくつか提示されています。そのうちのひとつが、同書228ページに紹介されている、“あの世”から人違いとして戻されたところ、同姓同名の別の患者が入れ替わるように死亡した、という事例です。インド国立精神衛生神経科学研究所のサトワント・パスリチャとスティーヴンソンがインドで集めた16例の蘇生型臨死体験のうち、人違いとして“戻され”、同姓同名だがカーストの違う、あるいは近くの別の村に住む、“本来死ぬべき”人物が本当に入れ替わるように死亡したとされた例が6例(37.5パーセント)あるそうです(Pasricha & Stevenson, 1986)。いずれも証言だけでそれ以上の確認はされていませんが、その確認ができれば、超ESPでは説明しにくい死後生存の有力な証拠になることでしょう。

 もちろん、同書にも欠点はあります。ひとつは、患者自身の証言を得るかわりに、患者の体験を死の直前に聞かされた医療関係者の証言をもとに研究を進めているため、記憶の歪みや偏りが混入する可能性が高くなってしまったことです。しかし、その点については可能なかぎりの補正が行なわれております。また、主流派が蘇った患者のみを研究の対象にしているのに対して、本研究では、主として死んでいった患者が臨終のまぎわに体験した事柄(臨終時体験)を研究の対象にしているため、体脱体験などに関する情報がほとんど得られず、その方面の検討ができなかったことも欠点と言えるでしょう。

 以上のように欧米では、臨死研究は既に長い歴史を持ち、数多くの研究が発表されているのに対して、わが国では、いずれの立場からの臨死研究もまだ発表されておりません。しかし、死の直前に起こる一部の現象の調査なら、もちろん臨死体験の研究としてではありませんが、わずかながら行なわれております。その中に、昔からわが国の医療界で“中なおり”として知られている現象があります。これは、死ぬ数日前に、燃え尽きる寸前のろうそくが明るさを増すように病状や気分が一時的に好転する、という現象です。国立療養所末期結核実存分析療法協同研究班では、この現象を、既に死亡した患者を対象に、過去に遡って調査したばかりか、末期患者を対象に、死亡するまで観察を続けることによっても調査しています(濱田、1974年、222-234ページ)。

 それによると、1968年8月1日からの1年間に死亡した77名(男53名、女24名)のうち、主治医の(過去に遡っての)判断で中なおり現象が「はっきり認められた」ものが10名(13パーセント、男4名、女6名)、「かなりよく認められた」ものが20名(25パーセント、男16名、女4名)、「よくわからなかった」ものが47名(61パーセント、男33名、女14名)となっています。第1回の未来指向型の調査は、1970年5月から71年2月までの10カ月間に死亡した93名(男69名、女24名)の患者について行なわれました。その結果は、「はっきり」が8名(9パーセント)、「かなりよく」が21名(22パーセント)、「よくわからなかった」が64名(69パーセント)でした。いずれの調査でも30パーセント以上の者が死の直前に身体的状態や心理的状態を多少なりとも好転させたわけです。これがはたして『人は死ぬ時何を見るのか』で扱っている臨終時体験(特に,気分の高揚現象)とどこまで関係のあるものかはわかりませんが、少なくとも一部については、ある程度関係はあるのではないでしょうか。いずれにせよ、現在の医学や心理学の知識では説明できない現象なのですから、丹念に調査する必要があるでしょう。そしてその場合、当然のことながら、臨死体験の可能性を念頭に置いて調査を進めなければならないでしょう。

参考文献


Copyright 1996-2007 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/13/11