この文章が書かれたのは、科学がわが国にもたらされた明治初年から 125 年ほどを経た時点のことですが、それからさらに 25 年が経過した現在(2018年)でも、事情はほとんど変わっていないのではないでしょうか。わが国には、真の意味での科学が未だに根づいていないということであり、これからも当分の間は変わらないだろうということです。その理由を、岡田先生は次のように推測しています。
明治時代に大あわてで科学を輸入したので、富国強兵の具とはなり得ない博物学的生物学に対して学問としての市民権を与えず、趣味として位置付けて蔑視したことのつけが、今やこういう形で現れ始めているのだ。(岡田、2000年、165ページ)
科学とは、実験および観察という研究法を使った森羅万象の探検ないし探究のことですが、この文章では、科学の方法を使った真理の探究に関心をもつ者はわが国にはきわめて少ない、という事実[註1]が明言されています。この指摘を見ると、理由の当否はともかくとして、わが国での「純粋科学」の位置づけがよくわかると思います。伊谷先生の恩師でもあった今西先生は、この発言より前に、この問題に関連して、「『今西自然学』について」という論考の中で次のように語っています。
明治になってあわてて輸入した日本の学問は、原産地のヨーロッパやアメリカからみたら、一種の植民地的学問やろな。伝統に根をおろしていない二流か三流の学問ということや。だから例えば、物理学にしてもそうやが、外国へ行ってそこで業績が認められたということになって、初めてノーベル賞のお声がかかったりする[註2]のやが、日本にいて日本語で発表しているかぎり、それでは世界の学界の認めるところにはならない。〔中略〕
ぼくは伝統の根の浅い学問的植民地に生まれてよかったと思っている。というのは、伝統の根が浅いから、昔の伝統にとらわれないで、自由にぼくの「自然学」を構想することができたからです。これを逆にすると、学問の原産地で生まれた人は気の毒やね。伝統的な考えにしばられて、とうていダーウィン以来の進化論に反対するなどという、おおそれた考えにはなれないのではなかろうか。(今西、1986年、21ページ)
では、自らの上位に置いている欧米の科学界から、下位にあるわが国にすべての科学分野が流入したのかといえば、ふしぎなことに、そうではありません。そこには、なぜかわが国特有のフィルターが介在しているらしいのです。たとえば、偽薬(プラシーボ)効果という現象の科学的研究は、欧米ではおそらく2千件を越えて行なわれているのに対して、わが国には事実上ひとつも存在しません[註3]。その点については、心理療法研究 psychotherapy research や疾患別の同類婚 assortative mating 研究も同じです。
心理療法研究とは、各種の心理療法の比較研究のことで、その邦訳書(フランク、1969年;アイゼンク、1988年)や紹介論文(多田、1986年)は出ているのですが、それ以上に関心をもたれることもなく、わが国での研究はほとんどないようなのです。また、疾患別の同類婚とは、原語は生物学の同類交配と同じですが、社会学的、人類学的な意味で、同じような疾患をいずれ発症する相手と、意識の上ではわからないまま配偶関係を結ぶ傾向があるかどうかを研究する分野です。わが国で知られているのは、アルコール依存症の父親をもつ娘は、将来、アルコール依存症になる男性と結婚する傾向があるかという問題にほぼ限られています[註4]。
また、わが国に導入されても、欧米のレベルとは比較にならない状況のまま推移する分野もあります。本稿に関係のある領域で言えば、ひとつは超常現象の研究であり、もうひとつは、少々はずれるかもしれませんが、UFO現象の研究です。前者は、わずかな数の研究者を除けばほとんど趣味の領域であり、後者は、わが国では科学的研究の分野であることすら認められていません[註5]。しかし、欧米では状況が大幅に違っており、UFO現象の研究は超常現象の研究より難しいにしても、大学に所属する研究者たちが真剣にとり組んでいるのです。
生まれ変わりの事例研究で知られるイアン・スティーヴンソン(1918-2007年)[註6]は、宇宙物理学者でありUFOの研究者でもあるスタンフォード大学のピーター・スタロックたちと連携して、そうした真理の探検家たちが集う学会として、Society for Scientific Exploration(科学的探検学会)を創設しました(Stevenson, 2006, p. 19)。英国の心霊研究協会が創立 100 周年を迎えた 1982 年のことでした。5年後の 1987 年に機関誌である Journal of Scientific Exploration が創刊されましたが、この雑誌には、生まれ変わりの事例研究や他の超常現象の研究論文と並んで、UFO現象に関する科学的な研究論文も、ごくふつうに掲載されています[註7]。
パウリ効果(パウリこうか、英: Pauli effect)は、物理学界における古典的なジョークの一つ。
理論物理学者ヴォルフガング・パウリ(1900年-1958年)は実験が不得手で、機材をよく壊していた。時には、彼が装置に触れただけで実験機材が壊れたり、近付いただけで壊れたりするという現象も起きた。これにちなんで、機械装置・電子装置を問わず、ある人物がその装置に触れただけで、あるいは近くに寄っただけで不可解な壊れ方をした場合、その人物が「装置にパウリ効果を及ぼした」と言うようになった。
驚いたことに、この文章は、「ほぼ日刊イトイ新聞」という通俗的な媒体に掲載された、サイエンスライター(内田麻理香)による、おもしろおかしく脚色された記述をもとに書かれたもののようです。加えて、悪いことに内田さんの原文では、パウリ効果という現象は、所有者や実験者が機械を荒っぽく扱うなどの、機械との「相性が悪い」ために起こるとされているようです。この日本語版は、「古典的なジョーク」という位置づけとともに、これだけで、パウリ効果という現象を真剣に、つまり科学の枠内で扱おうとしていないことが、ただちにわかります。
では、英語版では、この現象はどのように扱われているのでしょうか。やはり冒頭の部分を引用します。
The Pauli effect is a term referring to the supposed tendency of technical equipment to encounter critical failure in the presence of certain people. The term was coined after mysterious anecdotal stories involving Austrian theoretical physicist Wolfgang Pauli, describing numerous instances in which demonstrations involving equipment suffered technical problems only when he was present.
The Pauli effect is not related with the Pauli exclusion principle, which is a bona fide physical phenomenon named after Pauli. However the Pauli effect was humorously tagged as a second Pauli exclusion principle, according to which a functioning device and Wolfgang Pauli may not occupy the same room. Pauli himself was convinced that the effect named after him was real. Pauli corresponded with Hans Bender and Carl Jung and saw the effect as an example of the concept of synchronicity.
大意は次の通りです。日本語版とは、一見して論調の違うことがわかるでしょう。
パウリ効果とは、特定の人物がいると、装置が重大な故障を起こしやすいことを指して用いられる言葉で、オーストリアの理論物理学者であったウォルフガング・パウリの周辺で起こった不可思議な現象にちなんで命名された。パウリがいるだけで、そのような現象が起こることが少なからずあったからである。パウリ効果は、パウリの提唱する理論物理学の排他律とは無関係であるが、装置とパウリを同じ部屋に置くことができないという意味で、たわむれに第二排他律と呼ばれることもある。パウリ自身は、自分の名前にちなむこの現象が事実であることを確信していた。パウリは、ハンス・ベンダーやカール・ユングと私信を交わしており、この現象を、共時性という概念の実例と考えていた。
この文章も、原典からの引用ではないことが問題ではありますが、事実をゆがめて書いているわけではありません。何よりも、パウリがこの現象の真性性を確信していたことが明記されています。「物理学界における古典的なジョーク」などとは、どこにも書かれていないことがわかるでしょう。なお、文中の「第二排他律 zweite Paulische Ausschliessungsprinzip」という言葉は、ウィーン大学理論物理学研究所のヘルベルト・ピーチュマンが 1995 年の論文中の「パウリの逸話 Die Pauli-Anekdoten」という節で、「いわゆる」という連体詞を付して使っている(Pietschmann, 1995, p. 43)ので、それ以前から通俗的な呼称として使われていたのかもしれません[註8]。
なお、この引用文の文末に名前があがっているハンス・ベンダー(1907-1991年)とは、ピエール・ジャネやカール・ユング(1875-1961年)の弟子に当たるドイツの心理学者で、特にポルターガイスト現象[註9]の研究で知られていました(ベンダー、1986、1995年)。また、周知のように、ユングの周辺でも同種の現象が繰り返し起こったことが、その自伝(Jung, 1965, pp. 104-6, 152;ユング、1972年、157-159、224ページ)に記録されています[註10]。ちなみに、電化製品に関連して起こる、通常の説明ができない物理現象を扱った著書(シャリス、1992年)が邦訳されているので、関心のある方はご覧ください。
ちなみにユングは、複数の事象が時間的に符合して起こるにもかかわらず、直接の因果関係が見つかりそうにない出来事を “共時性現象 synchronicity phenomenon ” と呼びました。ただし、ユングによれば、共時性現象では、複数の事象が時間的に同期して発生するだけでなく、それらが意味のある形で結びついている必要があります。
アメリカのジョゼフ・B・ライン(1895-1980年)は、1934 年に、超常的能力の実験的研究を扱った最初の著書 Extra-Sensory Perception が出版されると、恩師である著名な心理学者、ウィリアム・マクドゥーガル(1871-1938年)の示唆により、私信とともに同書をユングに献本しました。この時から 25 年以上にわたって、ふたりの間で文通が続けられることになるのです(Palmer, 2004)。
それに対して、ユングの書簡集にも掲載されていない、1951 年9月3日付のライン宛ての私信で、ユングは、ラインたちによる「ESP実験に大幅に依拠した論文を書きあげることができました」(Mansfield, Rhine-Feather & Hall, 1998, p. 3)と報告しています。これは、翌年にパウリとの共著として発表される、共時性を扱った論文のことです。しかしながら、ラインの一貫した主張にもかかわらず、ユングは、超常現象を因果関係のもとにとらえることはついにありませんでした。
話を戻すと、ここであらためて明らかになるのは、日本語版の「物理学界における古典的なジョーク」という記述は、日本語版独自のもの、つまり根拠なく作りあげられた偽りの説明だということです。言うまでもないことを言わなければならないのですが、科学的根拠もなく勝手に事実をゆがめることは、許されることではありません。
行動療法の創始者として知られる英国の著名な心理学者、ハンス・アイゼンク(1916-1997年)の著書 Sense and Nonsense in Psychology が邦訳(アイゼンク、1968年)された時、「テレパシーと透視 Telepathy and clairvoyance」という章(第3章)を含めた数章が勝手に省略されたという出来事がありましたが、ひとつにはそれは、特にわが国の心理学者や科学者が超常現象の研究をことさら嫌う傾向をもっているためなのでしょう。
しかしながら、既に 1961 年の段階で、超常現象の研究を紹介する『神秘の世界』という著書が、宮城音弥という著名な心理学者(当時、東京工業大学教授)によって岩波新書の一点として出版されていたので、それなりの数の読者がいたはずなのです。UFO現象にも強い関心を示していた三島由紀夫も、そのひとりだったようです。
当のゾンマーフェルトによれば、パウリは「〔ギムナジウムで〕 “机の下で” 密かにアインシュタインの執筆になる専門書を既に何冊か読んでいた」ほどだった(Sommerfeld, 1949, p. 316)そうです。とはいえ、ゾンマーフェルトは、それ以上のことを語っているわけではありません。したがって、上述のような出来事が本当にあったかどうかはわかりませんが、パウリはそれほどの神童だったということなのでしょう。ちなみに、パウリはゾンマーフェルトに対して、その研究室を巣立った後も恩義を感じていて、後年に対面した時にも、いつもは物おじしないのに、この恩師の前では小さくなっていたそうです(Peierls, 1960, p. 176)。とはいえ、実際には、「物おじしない」どころではなかったようです。その点については後述します。
ウィーン大学の著名な医化学教授の息子であったパウリは、ウィーンのギムナジウムを卒業し、1918 年にミュンヘン大学に入学します。そして、ゾンマーフェルトのもとで研究を始めたわけです。後の著名な量子力学者、ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976年)は、いわば弟弟子に当たります。当時、ゾンマーフェルトは、恩師であるフェリックス・クライン(1849-1925年)に依頼されて、『数理科学百科事典 Encyklopadie der Mathematischen Wissenschaften』の物理学の巻(第5巻第2分冊)の編集を担当していました。ゾンマーフェルトは、「相対性理論」の項の執筆をアルベルト・アインシュタイン(1879-1955年)自身に依頼したのですが、アインシュタインは書きたがらなかったため、自分で書くことにして、パウリにその協力を求めました。
その要請に従ったパウリは、昼には博士論文を、夜にはその原稿を、特に最後の部分についてはクラインの助言を受けながら書き続けたそうです(Enz, 2002, p. 28)。パウリが 21 歳の時のことでした。当時は、第一次大戦終結後まもない頃ですから、途方もないインフレに悩まされた時代でした。奨学金をもらっていたのですが、父親が不足を心配して送金してくれたそうです。ところが、パウリによると、銀行で引き出しても微々たるものにしかなりませんでした(Peierls, 1960, p. 176)。
パウリは、その原稿を 1921 年5月に完成させました(Enz, 2002, p. 28)。パウリが提出した草稿を見ると、非常にできがよかったため、ゾンマーフェルトは自分が手を入れるのをやめて、そのままの形で掲載したのだそうです(Sommerfeld, 1949, p. 316)。百科事典が出版されると、その相対性理論の項目(pp. 539-775)の評価が高かったため、その抜き刷りが、相対性理論の概説書として別売されました。『自然科学 Die Naturwissenschaften』誌第 10 巻に、その短評を書いたアインシュタインは、その中で、
本書の読者は、著者がわずか 21 歳の青年とはとても信じられないであろう。着想の発展を心理的レベルで把握していること、数学的演繹が確実であること、深い物理学的視野をもっていること、系統立った明確な提示をする能力をもっていること、文献に通じていること、事実が完全に把握されていること、批判が確かなものであること、といったいずれの点についても、どれほど賞賛してもとうていしきれるものではない。
として、パウリの俊才を絶賛するのです[註11]。右の図は、1926 年秋にライデンで、パウル・エーレンフェスト(1880-1933年)が撮影したアインシュタインとパウリです(Enz, 2002, p. 22 より引用)。ちなみに、20 歳ほど年長であったエーレンフェストは、パウリのこの概説書について、「パウリ君、私は、君の百科事典論文のほうが、君より好きだよ」という言葉を皮肉のこもった顔つきで投げかけたのに対して、パウリは、「それは妙です。私の場合、先生に対してはちょうどその正反対ですから」と答えたのだそうです(Mehra & Rechenberg, 2000, p. 488)。この応対ぶりには、パウリの面目躍如たるものがあります。
女性理論物理学者として著名なリーゼ・マイトナー(1878-1968年)の甥に当たり、ルドルフ・パイエルス(1907-1995年)の共同研究者でもあったオットー・フリッシュ(1904-1979年)によると、パウリには奇妙な特徴がありました。体を前後に揺さぶるのですが、それは椅子に座っている時だけでなく、歩いている時にも同じだったのだそうです。こうした体の動きは歩くテンポとどうしてもずれるため、歩行は不安定なものになりました。かなりの早足で二、三歩進んだかと思うと、体を揺らすせいで脚の動きが妨害されるため、次の二、三歩は、どうしても小股になってしまったというのです。
加えて、パウリは、身内の研究者たちに対して無作法なふるまいを平気でしていたそうです。たとえば、仕事でまちがいを見つけると、誰であっても人前で無能者呼ばわりをしたのです。ふだんは少々丁重な対応をされている年長のニルス・ボーア(1885-1962年)ですら、その例外ではなかったそうです。ただし、こうしたふるまいについては、そういう人だとして大目に見られていました(Frisch, 1979, pp.47-48)。
ところで、ハンブルクの時代には、パウリにとって大きな事件がいくつかありました。パウリは、1925 年まで、クリスマス・シーズンを実家で過ごしていたのですが、1926 年秋に 20 歳の妹が家を出て、ブレスラウ劇場の舞台女優になったため、ウィーンの実家は淋しいものになってしまいました。加えて、翌 1927 年 11 月に母親が自殺を遂げるという悲痛な出来事が起こったのです。さらにその翌年に父親が再婚したため、はた目にはわからなかったものの、パウリは大きな精神的打撃を受けたようです(Enz, 2002, p. 162)。
それとは別に、パウリは、自らも問題を抱えていました。1929 年末に最初の結婚をするのですが、1年ともたず、翌年 11 月には離婚に至っています。そして、1931 年の秋頃から心理的な不安定に陥ったのです。父親の勧めでチューリヒのユングの治療を受けるべく、1932 年1月に連絡をとると、ユングは、弟子であるエルナ・ローゼンバウム(1897-1957年)という若い女性にパウリの治療に当たらせました。パウリは、ローゼンバウムに宛てた手紙で、「私は、学問的な成功を収めるほうが、女性とうまくやっていくより簡単です」(Enz, 2002, p. 241)と書き送っています。
おそらく不安定が始まる少し前に当たる 1931 年7月に、パウリは、弟子のパイエルスに宛てた手紙で、「あいにく(dummerweise)先日(ちょっとほろ酔いの状態で)倒れて、それが運悪く階段だったものだから、肩を骨折して、骨が完全にもとに戻るまで寝てなきゃならないことになった――退屈でいやになる」と書いています(von Meyenn, 1985, p. 89)。パウリ効果では、パウリ自身が被害をこうむることはなかった(Pieierls, 1960, p. 185; Enz, 2002, p. 492)とされているので、ゾンマーフェルトはこの出来事に、冗談で「逆転パウリ効果 inverse Pauli effect」と名づけたそうです(Enz, 2002, p. 224)。
パウリは、ゾンマーフェルトのもとで博士号を取得した後、ゲッチンゲン大学やコペンハーゲンのニルス・ボーア研究所を経て、1923 年にハンブルク大学で Privatdozent(私講師)の資格を得るのですが、“パウリ効果” と呼ばれる現象が始まったのは、この時代のようです。
パウリ効果については、ロシア出身のアメリカの理論物理学者であるジョージ・ガモフ(1904-1968年)が、Scientific American 誌に寄せた、排他律に関する論文の冒頭で、具体例をあげて解説している(Gamow, 1959, p. 74)ほかに、自著の中でも、「非常に不可思議な現象で、純然たる実体的基礎の上に(on a purely materialistic basis 単なる唯物論の立場に)立つだけでは、これを理解することはできないし、また、将来もそうであろう」(ガモフ、1967 年、92 ページ;Gamow, 1966, p. 64)と率直に述べています。簡単に片づけることのできない現象であることを、きちんと認めていたということです。
理論物理学者は、一般に実験器具の扱いが不得手なため、慎重な扱いを要する器具に手をふれただけで壊してしまうかどうかでその能力が測れる、と言われているほどだそうですが、ガモフは、そうした経験則らしきものにふれた後、次のような逸話を紹介しています。
この基準からすると、ウォルフガング・パウリは、非常に優れた理論物理学者であった。パウリが研究所に一歩踏み込んだだけで、実験器具は倒れ、壊れ、破裂し、火を噴いたからである。ゲッチンゲン大学のジェームズ・フランクの研究室で、ある精巧な真空装置が破裂したことがあったが、それは、まさしくパウリ効果のためだとされた。その後、はっきり確認されたのであるが、その災難が起こったのは、パウリを乗せた列車がゲッチンゲン駅に停車した時だったのである。(Gamow, 1959, p. 74)
この事件については、少々異なる証言があります。オットー・フリッシュによれば、ゲッチンゲンで研究していたフランク(1882-1964年)は、ある日の朝、実験室に入ったところ、水冷装置が故障して、ポンプが破裂し、床一面にガラスの破片が散乱しており、手がつけられないほどめちゃくちゃな状態になっていたのだそうです。それを見たフランクは、すぐにパウリに電報を打ち、「サクバンハ ドコニイマシタカ」と尋ねたところ、「レッシャデ チューリッヒカラ ベルリンニムカッテイタ」という返信が、パウリから届いたというのです(Frisch, 1979, p. 48)。
ガモフは、1966年に刊行された自著(Thirty Years that Shook Physics: The Story of Quantam Theory. 邦訳、『現代の物理学――量子論物語』)の中で、先に引用したものよりも、さらに詳しい証言をしています。次の通りです。
あるとき、一見パウリの存在とは何の関係もないと思われる不思議な事件が、ゲッチンゲンのJ・フランク教授の実験室で生じた。ある昼すぎ、原子現象研究のための複雑な装置が、これといった理由もなしに、動かなくなって(collapsed=壊れて)しまったのである。フランクは、このことをユーモアたっぷりチューリッヒのパウリあてに書き送った。すると数日後(after some delay=少々遅れて)、デンマークのスタンプのある封筒に入った返事が届いた。パウリがいうには、彼は〔デンマークに〕ボーアを訪ねていくところであったが、フランクの実験室で災難が起こっていた時刻には、彼の乗っていた列車がゲッチンゲン駅に数分間(for a few minutes)停車していたことになる、というのである。(ガモフ、1967年、92-93ページ、Gamow, 1966, p. 64)
なお、ガモフは、この逸話の信憑性を認めなくてもかまわないが、パウリ効果の実在を示す観察事実は、他にも数多く存在することを付言しています。この出来事がなかったとしても、パウリ効果の真性性は揺るがないということです。
フリッシュとガモフの記述は、事件が起こった時点で列車がゲッチンゲン駅に停車中だったかどうかという点の他にも、いくつかの点で違っています。その中でも大きいのは、そのことを即座に電報で問い合わせたのか、後日、手紙で問い合わせたのかという点でしょう。どちらがより正確かについては、両者の証言を比較しただけではわかりません。フリッシュもガモフも、自分の目で見たわけではないので、この事件を誰かから聞いたのはまちがいありませんが、それをフランクやパウリからじかに聞いていたとすれば、その分だけ信憑性が高いはずです[註12]。
フリッシュは、同じゲッチンゲン大学にいて、パウリと身近に接していたことがあったので、後にチューリヒ工科大学に移っていたパウリから、その話を直接に聞いている可能性がありそうです。では、ガモフの場合はどうなのでしょうか。左図(左からガモフとパウリ。スイスでの物理学会の時に撮影されたと推定されている)からもわかるように、ガモフはパウリと何度か会っているので、その縁で、パウリから聞いている可能性がありそうです。
また、ガモフは、実際にも “パウリ効果” に遭遇しているようです(Enz, 2002, p. 91)。この出来事については、後ほど説明します。
そうすると、フランクの実験室での出来事について、フリッシュはフランクから、ガモフはパウリから聞いた可能性が高いことになりそうです。とはいえ、ガモフの証言は、フランクの視点に立った記述になっているので、もしかすると、フランクからも情報を得ていたのかもしれません。
また、ガモフの最初の報告が公刊されたのは、Scientific American 誌の 1959 年7月号であり、その逸話が紹介されたフリッシュの自伝が出版されたのは 1979 年になってからです。したがって、フリッシュがガモフの紹介を読んでいなかったとは考えにくいでしょう。電報か手紙かという食い違いがどこで生じたのかはわかりませんが、フリッシュの説明はガモフのものとは違っているので、やはりそれなりに信憑性が高いように思います。
ただし、「もちろん、この話が言葉通りのものであることは信じていない」(Frisch, 1979, p. 48)とフリッシュが述べているように、仮にガモフの証言が正しくて、その事件が起こった時にパウリの乗った列車がゲッチンゲン駅に停車していたのが事実であるとしても、この出来事に本当にパウリが関係していたかどうかは、それだけではわかりません。
ついでながらふれておくと、アメリカの物理学者、ジョン・ホイーラーの証言によれば、ユダヤ人であるフリッシュと、ジョンズ・ホプキンズ大学で1年間だけ教授を務めたジェームズ・フランクは、ナチス・ドイツから脱出してコペンハーゲンのニルス・ボーア研究所を、そこで研究生活を送るべく相次いで訪れたそうです。そして、このふたりは、第二次世界大戦中に、ホイーラーとともにアメリカのマンハッタン計画に参加するのです。
ドイツやその支配下にあった国々のユダヤ系物理学者たちは、英米に逃れて、多かれ少なかれ原爆開発にかかわるのですが、スイスに留まったユダヤ系のパウリは、ロバート・オッペンハイマーの要請にもかかわらず、珍しくマンハッタン計画には関与しませんでした。戦後は、自分がかかわっていなかったことで胸をなでおろしたそうですが、戦争中は、実際にはどうしていいかわからなかったようです(Gieser, 2005, p. 19)。
ある時、パウリはふたりの同僚と、地下鉄の切符を急いで買おうとしていた。同僚たちは、券売機に硬貨を入れたが、切符は2回とも出てこなかった。ところが、次にパウリが投入すると、すぐに切符が出てきたのである。「対照実験をしよう」とひとりが言って、硬貨をもう一度入れたが、券売機はまた故障してしまった。(ibid., p. 206)
ヨルダンは、他の出来事についても書いています。
ハンブルクの数名の物理学者が、遠方の都市で開催された会合に列車で出かけた時のことである。パウリは、食堂車に一番乗りしたが、他の物理学者たちは二番手に甘んじた。パウリが戻ってくると、食堂車の軸受が異常に加熱した状態になっていることがわかったため、すぐに切り離されてしまい、その後は食堂車がないまま運行されたのである。(ibid., p. 206)
先のオットー・フリッシュは、「いわゆるパウリ効果は、邪眼 evil eye に似て、パウリがどこであれ研究所の近くにいると、悲惨な出来事がよく起こった。実験器具の一部が落ちて粉々になったり破裂したりなどである」と前置きして、次のような逸話を紹介しています。
ハンブルクにいた時、パウリは天文台に招かれたことがあった。最初、パウリは、「いやいや。望遠鏡は高価ですから」と言って、この招待を辞退した。天文学者たちは、笑いながら、パウリ効果は天文台には及ばないので安心してほしいと言った。パウリがドームに入ると、耳をつんざくような轟音が鳴り響いた。みると、一台の天体望遠鏡から外れた大きな鋳鉄製の覆いが、コンクリートの床に落下し、いくつかの破片になっていたのである。(Frisch, 1979, p. 49)
一方、パイエルスは、物理学者たちがパウリ効果を逆手にとり、パウリをからかおうとして仕掛けを施した時のことについても書いています。これも非常に興味深い現象です。
あるレセプションの際に、パウリ効果をまねて、パウリが入室したら落下して粉々になるように、シャンデリアに細工してロープで吊り下げておいたのであるが、いざパウリが来ると、そのロープが滑車に食い込んでしまい、何ごとも起こらなかったのである。――典型的なパウリ効果であった!(Peierls, 1960, p. 185)
ここで「典型的なパウリ効果」という表現を使っているのは、パウリ効果ではパウリ自身が不利益をこうむることがないことになっているためなのでしょう。この場合は、偶然に起こった可能性もありますが、もしそうでなければ、パウリ自身か他の誰かが、それを超常的な方法で阻止したことになるはずです。
次は、パウリの最晩年の弟子に当たるスイスの理論物理学者であるチャールズ・エンツ(1925年〜)が、1955 年に自ら体験した出来事です。エンツはこの一連の出来事を、「多重パウリ効果」と呼んでいます。
相対性理論 50 周年を祝う会で、パウリがアインシュタインについて講演するので、エンツは、チューリヒに留学していたラルフ・クローニッヒ(1904-1995年)と、レス・ヨスト、デヴィッド・スパイザーと一緒に、駅の近くの “絶対禁酒” レストランで夕食をとった後、会場に向かった。その際、それぞれに事件が起こったのである。スパイザーは、自分のスクーターのガソリンがなくなっていたため、ガソリン・スタンドに行ったが、そこでスクーターがいきなり火を噴いたのであった。水をかけて火は消し止められたものの、スクーターは使えなくなったため、やむなく徒歩で会場に向かった。
エンツは、自分のバイクのタイヤがすり減っているのに気がついて、やはり歩いて会場に向かわざるをえなかった。クローニッヒも結局は徒歩で向かうことになった。最初は電車で会場に向かったのだが、最寄り駅のグローリアシュトラーセで降りるのを忘れ、気がついたら数駅も乗り越してしまっていたからであった。とはいえ、全員がパウリの講演に間に合った。パウリは、3人の “冒険” をことのほか喜び、それらをパウリ効果によるものと明らかに考えていた。(Enz, 2002, pp. 491-92)
フリッシュは、逆に、案じていたパウリ効果が起こらなかった時のことも書いています。ある時、フリッシュは、ガラス吹き職人と一緒に実験室で器具を作っていたのだそうです。フリッシュは、床に座ってガラス部品の一方を支え、職人はトーチランプでもう一方の部品と接合しようとしていました。そのように集中を要する作業をしている最中にドアが開き、パウリが入ってきたのです。にもかかわらず、何ごとも起こらなかったので、フリッシュは胸をなでおろしたというのです(Frisch, 1979, p. 49)。
カシミールは、1929 年4月に、エレンフェストに連れられて、コペンハーゲンのボーア研究所で開催された第1回カンファレンスに出席した際に起こった出来事について書いています。その出来事について、その会議に一緒に出席していたベルギーの物理学者、レオン・ローゼンフェルト(1904-1974年)と、それぞれの記憶の当否を確認し合い、それが正確であることがわかったとして、事実であることが十分に確認された信憑性の高い authentic and well-established「ほとんど信じがたいほどのパウリ現象の実例」を報告しています。ローゼンフェルトの記憶では、それは、次のようなものです。
覚えている限りでは、パウリはおとなしくしていた。ただし、ある壮観な場面を除いては。ハイトラー〔ヴァルター・ハイトラー 1904-1981年〕は、等極結合〔化学結合〕理論について講演したのであるが、そのことが思いがけず、パウリを激怒させた。後でわかったのであるが、パウリはこの理論を極度に嫌っていたのである。ハイトラーが話し終わるが早いか、ひどく興奮した面持ちのパウリが黒板の前に進み出て、速足で行ったり来たりしながら、それが自分にとっていかに不満かを、怒りにまかせてぶちまけ始めた。その間、ハイトラーは演壇の端に置かれた椅子に座っていた。パウリは、「距離が遠い場合には、その理論は明らかにまちがってる。それはファンデルワールス引力があるからだ。距離が近い場合にも、完全にまちがってるのは確かだ」。この時点で、パウリは、ハイトラーが座っているのとは反対側の演壇の端にいた。そこから踵を返し、今度は手に持ったチョークをハイトラーに向けて脅しながら、ハイトラーの方に歩き始めた。"Und nun, gibt es eine an den guten Glauben der Physiker appellierende Aussage, die behauptet, das diese Naherung, die falsch ist in grossen Abstanden und falsch in kleinen Abstanden, trotzdem in einem Zwischengebiet qualitativ richtig sein soll!" (へえ、そういう言いぐさもあるんだな。距離が遠い場合はまちがってて、近い場合にもまちがってるようなそういう近似でも、物理学者どもの軽薄なところに寄りすがれば、中間のあたりでは定性的に正しいことになるってわけだ)[註14]。今やパウリは、ハイトラーのすぐ近くまで来ていた。ハイトラーは、急にうしろにもたれかかった。椅子の背もたれは、すさまじい音を立ててうしろに倒れた。ハイトラーは、かわいそうに、そのまま背後に転倒してしまったのである(幸いなことに、さほどのけがはなかった)。
やはりこの出来事を覚えていたカシミールは、ガモフが真っ先に「パウリ効果だ」と叫んだことを覚えていた。また、それに補足して、「時どき、ガモフがその椅子にあらかじめ何かしてたんじゃないかと考えていた」と語った。(ibid., p. 91)
カシミールは、特につけ加えることはないとしながらも、ハイトラーは、パウリと違って明らかに軽量で、そのおかげで、この実例がさらに印象的なものになった、と述べています(ibid., p. 92)。椅子の背もたれは、強く寄りかかったくらいでは壊れないようにできているわけですから、誰かが事前に工作でもしていない限り、壊れることはないでしょう。しかし、いかにジョークが好きなガモフであっても、このような展開になることまでは予測していなかったはずですから、時間的な余裕がなかったらしいこと(Casimir, 1963)もあって、ガモフが仕掛けをしていた可能性はほとんど考えられないように思います。
カシミールは、ローゼンフェルトらとともに、コペンハーゲンの理論物理学研究所で、著名な科学史家であったトマス・クーンのインタビューを、1963 年7月5日に受けている(そのインタビューの書き起こしは、アメリカ物理学協会のホームページに掲載されている)のですが、その中では、ハイトラーの座っていた椅子の背もたれではなく、椅子の本体が壊れた the chair collapsed under him ような説明をしています。これは、先に引用した著書(1983 年刊行)よりも 20 年ほど前の発言なので、信憑性はこちらのほうが高いかもしれません。そうであれば、椅子が壊れた原因を通常の理由で説明するのはさらに難しくなるはずです。
1956 年夏に、イタリア物理学会主催でサマースクールが開催されたため、それを楽しみにしていたというパウリ夫妻とエンツ夫妻は、コモ湖のほとりの村に滞在していました。ある日、4人が絶景を眺めようとしてタクシーで丘に登ろうとしたら、タクシーがエンジン・トラブルを起こして動かなくなってしまったのです。運転手がエンジンをのぞき込んでいた時、エンツは、おそるおそる、「パウリ効果だ」と言ったのですが、パウリは、その見立てには承服していないように見えたそうです。エンツによれば、この伝記を書いている時に初めて、「本物のパウリ効果の場合、パウリ自身はなぜ一度も不利益をこうむったことがないのか、その理由がようやくわかった」のでした(Enz, 2002, p. 511)。
この種の現象は、いわゆる超能力者の周辺では珍しくありません。ただし、それは偶然に起こった出来事にすぎないのではないかと言われても、それに適切に応えるのは難しいでしょう。それは、ひとつには、両者の間に因果関係があることを証明できないからです。とはいえ、パウリ効果の場合には、そうした事象の観察をしたのは、多くはノーベル賞を受賞することになる、世界的に著名な――それも少なからざる――理論物理学者たちでした。したがって、それらが少なくとも「統計的に意味のある確率」で起こった事実が確認されていることだけは、まちがいないでしょう。
チューリヒ工科大学でパウリの後継者となったマルクス・フィールツ(1912-2006年)によれば、パウリは、自分の周辺で偶発的に起こるそうした現象が事実であること――つまり、自分に関係して起こっていること――を、やはり確信していたそうです。そして、パウリから非常に重要な証言を得ているのです。
それは、実験器具などの故障が起こる前に、既に「いやな緊張」を感じているのだそうですが、予測されていた故障が実際に起こると、「また当たった」という感じになって、奇妙な解放感に包まれ、ぱっと明るくなるということです(Fierz, 1988, p. 191)。
ポルターガイスト(反復性偶発性念力=RSPK)現象の中心人物も、同じような側面をもっていることが知られています。パウリは、最晩年の 1957 年に、この種の現象の研究者であったハンス・ベンダーと私信を交わしていたわけですが、それは、この問題に関係していたのではないかと思われます。
この「いやな緊張」と、次に起こる現象との間に因果関係があるとすれば、次のような可能性を考えることができます。
1.念力を使って物理現象を発生させることに関係して起こった可能性
1a.その緊張を解放させるために物理現象を起こす
1b.物理現象をまもなく起こすことに前駆して、その緊張が発生する
2.次に起こる現象を予知したことに関係して起こった可能性
発生する現象が多種多様で頻度も高かったらしいことを考えると、この3通りの可能性の中では、現象の予知という可能性よりも、パウリの念力による可能性のほうがはるかに高そうです。ポルターガイスト現象の場合、思春期の少年少女が中心人物になっている比率が高いこともあって、フラストレーションや緊張を解消するために起こると解釈されることが多いようです[註15]。パウリの場合も、似たような経過を辿っているので、その可能性が高いかもしれません。ただし、この場合でも、因果関係はどうなっているのか、つまり上の1a のほうが正しいのか、それとも1b のほうが正しいのかは、これだけではわかりません。
パウリは、1940 年にナチスから逃れてアメリカに渡り、プリンストン大学の教授に就任します。戦後はチューリヒに戻っているのですが、その後もプリンストンに短期間ずつ滞在しています。1950 年2月 26 日に、プリンストンにいたパウリは、スイスのユング派心理学者であるカール・マイヤーに宛てた手紙の中で、大学のサイクロトロンが、原因不明の出火のため完全に焼失したという出来事[註16]について書いています。そしてその中で、「これは “パウリ効果” か」と自問しているのです(von Meyenn, 1996, p. 37)。ただ、この場合は、その出来事の前に「いやな緊張」があったとは書かれていないので、もしそうであれば、この基準に従う限り、パウリ効果によって起こった可能性は低くなるでしょう。なお、この出来事については、スイス物理学会のパウリ没後 50 年を記念するページにも紹介されています。
1.排他律
2.ニュートリノ
3.パウリ効果
という3点で、その令名が轟いていると述べています。そのうえで、パウリ効果を、「単なる唯物論をもとにしたのでは、理解できないし、おそらくは今後もそうであろう」(Gamow, 1966, p. 64)と明言していたわけです。ガモフは、これを(ふだんと違って)冗談と思わせる書きかたをしているわけではないので、本当にそう考えていたのはまちがいないでしょう。
次に、パウリよりも一回りほど年長で、アインシュタインの助手を務めたこともある理論物理学者、オットー・シュテルン(1888-1969年)を、スイスの理論物理学者、レス・ヨスト(1918-1990年)がインタビューした時の記録を引用します。現象の真性性を認めていたにもかかわらず、さすがに欧米の科学者であっても、それを研究の対象にしようと考えたことすらなかったことが、はっきりわかるからです。
シュテルン もちろん、パウリといるととても楽しかった。相当の知識人だったんだが、それでもパウリと議論することが実際にできたからね。それから、パウリは、われわれの研究室に入れないようになっていたんだ。パウリ効果のためにね。あの有名なパウリ効果のことは知ってるかね。
ヨスト よく知ってますが、そういう経緯は知りませんでした。
シュテルン あのね、さっきも言ったが、私たちはいつも一緒に食事に行ってて、必ず私を連れてくんだよ。でも、パウリは店に入ろうとしないで、ただノックするだけなんだ。それで私がドアの前に出て、入るよと言う。そうなんだ、当時、私たちはずいぶん迷信深かったんだよ。
ヨスト 何か起こったんですか。
シュテルン ああ、いろんなことが起こった。たくさんのパウリ効果が、それも、折り紙つきの(verburgten)パウリ効果が、とんでもないほどたくさん起こった。
ヨスト 先生の研究所でもですか。
シュテルン いや、私のところには入らせないようにしてたからね。そうだ、あのね、実験物理学の迷信深さはね、本当に大変なものだ。たとえばだね……誰だったか忘れたが、パウリの実験装置のところに花をもってきてくれていたんだよ、それも毎日だ。そう、器械が機嫌よくしててくれるようにね。……私は、もうちょっと高度なやりかたをしてた。フランクフルトにいた時〔第一次世界大戦中に軍務に服した期間を除く 1914-1921 年〕には、〔つまり、パウリが登場するよりも前から〕実験装置の横に木槌を置いててね、いつも装置を脅かしてたわけだ。ある時、その木槌がどこかに行ってしまってね、それから、装置が動かなくなったんだが、3日後に見つかった――その木槌がね――それからまた動くようになった。……ある時には、運が悪い(Strahne Malheur)ことがひどく重なってね。それは、パウリを昼食に呼んでた時だった――ハンブルクには、最高のレストランがいくつもあるからね。(Enz, 2002, p. 149。強調=引用者)
こうした発言を見ると、パウリに関係して、さまざまな物理現象が「とんでもないほどたくさん起こった」ことを、シュテルンも認めていたのはまちがいないでしょう。しかしながら、シュテルンは、それらの出来事について驚きを込めて証言するだけで終わってしまっているわけです。パウリは、この種の現象を、ユングの共時性という概念を使って説明しようとしていたようです(Atmanspacher & Primas, 1996, p. 119)が、そのパウリ自身を除けば、他の理論物理学者たちは、なぜかそれ以上のことはしなかったのです[註17]。
ある時、パウリ効果が、物理学者たちのたまり場のようになっていた、マックス・ボルン(1882-1970年)邸の昼食の席で話題になったことがあったそうです。そこには、パウリとハイゼンベルクがいました。ハイゼンベルクは、パウリ効果という “神話” を払拭しようとして、「心理学的には当然のことなんでしょうけど、ぼくたちは、起こりそうもない、変わった出来事を、いっさいがっさいパウリのせいにしようとするわけですよ。それはですね、この男がそんじょそこらにはちょっといない変人だからです」と発言したというのです(Jordan, 1975, p. 206)。
ハイゼンベルクの発言をみると、パウリの周辺で、ふつうには「起こりそうもない、変わった」物理現象が突発していること自体ははっきり認めていることがわかります。だからこそ、それを、何とかして通常の理由で説明しようとしているわけです。
パウリ効果は、現行の物理学の知識やその延長で説明できないのは明らかなので、真正面からとり組もうとすると、唯物論的世界観と真っ向から対立します。ハイゼンベルクは、そこをあいまいにしたまますませようとしたのでしょう。では、それはなぜなのでしょうか。いずれにせよ、物理学者たちは、そうした現象を十分に承知していたにもかかわらず無視し、その上に、理論物理学を構築しようとしていたし、今でもそうだということです。後述するように、パウリは、そうした姿勢に苛立ちを覚えていたようです。
では、物理学者たちは、現在の物理学の知識体系を完全に超えるところにある、こうした現象に関心がないのかといえば、少なくとも個人としては必ずしもそうではなさそうです。ノーベル物理学賞の受賞者である江崎玲於奈(1925 年〜)は、ユリ・ゲラーに触発されて出現した “スプーン曲げ少年” たちを見て、「私自身が、この現象を解明しようとしても、多分できないでしょう。〔中略〕私自身、非常に興味深くこれらのデータを見たし、こんなことが現実にあるんだという事実をあらためて認識しました。これを簡単に無視してしまう科学者のやり方には問題があると考えます」(『週刊プレイボーイ』1974 年4月 23 日号)と、ことの本質について包み隠さず語っています。
わが国のロケット研究のパイオニアである糸川英夫(1912-1999年)も、「この研究をするためには、莫大な費用と時間がかかるでしょう。いま科学者たちは、公的機関なり民間機関なりに属して、それぞれの研究をしているわけで、その片手間にちょいと超能力の研究をするというわけにはいかないのです」(『週刊プレイボーイ』1974 年5月 28 日号)として、少々弁解的で消極的な形ではありますが、基本的には超常現象の科学的研究を容認する発言をしていました。
アルバート・アインシュタインは、この点について実に天真爛漫でした。著名な作家、アプトン・シンクレア(1878-1968年)が、妻との間で行なった描画ESP実験について書いた Mental Radio(『心の無線』)という著書(Sinclair, 1930)に序文を寄せているのですが、その中で、「本書に、注意深くかつ平明に書かれているテレパシー実験の結果は、自然界の研究者が実際にありうると考える範囲をまちがいなく超えたところにある」(Einstein, 1930, p. viii)という肯定的見解を素直に表明しているのです[註18]。
もちろん、同じ物理学者でも、早稲田大学理工学部の教授であった大槻義彦は、超常現象の頑強な否定論者として有名でしたし、私が自分の目で見た、それからまもなくノーベル物理学賞を受賞することになった物理学者も同じでした。それに対して、物理学者でありませんが、1987 年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進(1939年〜)は違っていました。もう三十数年前のことになりますが、かつて “スプーン曲げ少年” であった清田益章の父親から聞いたところでは、その能力を確かめるべく、帰国したおりにでしょうが、わざわざ北千住の自宅を訪ねてきたそうです。利根川先生は、筋金入りの唯物論者を標榜している方ですが、その点を考えると、この態度はりっぱだと思います。
それに対して、わが国でも一般向けの物理学書の著者として知られている、キングズ・カレッジのジョン・G・テイラー(1930-2012年)は、実に興味深いアンビバレンツを示しています。テイラーは、ユリ・ゲラー自身を被験者として一連の実験を行ない、ゲラーが、厳密な条件のもとでスプーンを破断することに成功したことを確認したそうです。さらに、送り手から送られたテレパシーによる情報を、ある程度にせよ正しく再現したことから、テイラーは、自著の中で次のように高らかに宣言したのです。
科学者たちは、「ユリ・ゲラーのやったような超自然現象に対して、合理的な説明がなされえないのだから、その現象そのものが存在しない」という結論を下すであろうが、「私は、そんな容易な結論はとらない。なぜならば私は、インチキが絶対に不可能な状態の下で、ユリ・ゲラーが奇跡を演じ、テレパシーを成功させたのを、じかに目撃しているからである」。(テイラー、1976年、186ページ。強調=引用者)
ところがテイラーは、そのわずか4年後に、合理的な説明ができないとして、正当な理由がないにもかかわらず、自ら確認したはずの超常現象の実在を全否定してしまったのです(テイラー、1987年;テイラー、バラノフスキー、1987年)。このように正当な理由なき変節[註19]を見ると、超常的な現象が、物理学者にとっても本来は無視できないはずの現象であることが、さらにはっきりするように思います。
最後に、パウリが残した言葉をここに引用しておきます。ある時、カシミールがコロンビア大学を訪れた時、ちょうどその日の午後にパウリの講演が予定されていました。パウリに依頼されたカシミールは、パウリが行なってきた数々の貢献を手短に紹介しました。そのうえで、パウリ効果のことに最後にふれたのだそうです。それに対して、パウリは、カシミールに謝意を表したうえで、次のように述べたというのです。
理論物理学者が〔現役を退いて、研究所の〕“所長先生” になる時、パウリ効果について検討すべきかどうかを決めるのは、ひとえにあなたがた自身に任されているのです。(Casimir, 1983, p. 245)
[註1]京都大学こころの未来研究センター教授を務めていた、私の 30 年来の親友でもあるカール・ベッカーは、それこそもう 30 年近く前のことになりますが、日本人に真理の重要性をいくら説明しても、どうも理解できないようだと話していたことがあります。科学がわが国で生まれなかったことからもわかりますが、昔から応用や技術に強い関心は抱いても、真理の探究にはほとんど関心がなかったし、今でもないということです。
[註2]非常に自負心の強い今西先生が珍しく師とあがめていた京都帝国大学地質学教授、小川琢治(1870-1941年)の三男が湯川秀樹であり、今西先生の思想形成に大きな影響を及ぼしたとされる同大学の哲学者、西田幾多郎の同僚だった朝永三十郎(哲学史)の息子が朝永振一郎です。当時の理学部部長は小川琢治でした。5歳ほど年下の湯川先生を、少なくとも学生時代から知っていた今西先生には、ノーベル賞はかなり身近なものに感じられたのでしょう。ちなみに、興味深い縁ですが、湯川先生と朝永先生は、第三高等学校の時から京都帝国大学の研究室時代まで、ずっと同級だったそうです(後に飛び級で朝永先生と同級になるのですが、湯川先生は京都府立第一中学校では一学年下でした。そして、このふたりが、わが国で最初と2番目のノーベル賞受賞者となるのです)。
ちなみに、パウリの最晩年の弟子であるチャールズ・エンツが書いたパウリの長大な伝記(Enz, 2002)には、日本人研究者として、湯川、朝永、仁科芳雄の他に、Kusaka, Shuichi という名前が出てきます。これは、31 歳で事故により夭折した日下周一(1915-1947年)という、オッペンハイマーの弟子にあたる理論物理学者のことです。日下には、パウリとの共著論文もありました。
[註3]たとえば、拙編書『偽薬効果』(笠原、2002年)に対するアマゾンに掲載されたレビューには、「本書には偽薬効果のメカニズムについての生理学的・神経学的研究は入っていない。〔中略〕各研究がその後どのように追試され現在どんな価値を持つのかが不明」と書かれています。しかしながら、このように少々的外れで高飛車な批判はしても、偽薬効果という、心身問題を探究するうえできわめて重要な分野の研究をすることは決してないのです。
また、ある内科医は、私について、「〔同書の〕編者に聞き覚えがあったが、超心理学の人だった」と自分のブログに書いています。信頼性に乏しいとして片づけてしまいたいのでしょうが、それでは、そこで止まってしまって先に進むことができません。ついでながらふれておくと、この内科医には、「科学で否定できるのは擬似科学です」というもっともらしい発言もありますが、この場合の科学とは、要するに実験と観察という方法論のことなので、この論理も非常に奇妙です。この発言を正確に言い直すと、「現在の科学知識で否定できるのは、現在の科学知識の枠内では説明できない “疑似科学” と呼んでいる(蔑称している)領域です」というふうに、同語反復になってしまい、論理が完全に破綻します。科学知識と言うべきところを、半ば無意識的に、科学という言葉に置き換えることで、権威をもたせるとともに、もっともらしい批判のように見せかけているということです。
[註4]もちろん、例外がないわけではありません。たとえば、家族療法を専門とする精神科医、石川元は、同類婚とソンディの “運命心理学” を関係づけて考えています(石川、1990 年)。
[註5]ただし、刊行物として全く存在しないわけではありません。欧米のいくつかの研究書の邦訳の他にも、たとえば、自衛隊の元空将がまとめた、主として自衛官による体験記(佐藤、2014年)や、南極海洋環境生態学を専門とする永延幹男が、調査船に乗り組んでいる時にたまたまレーダーでとらえた海中の巨大なUFOについて報告した論文やインタビュー記事(永延、1988年a、b)があります。ただし、そのようなお寒い状況と比べると、欧米で発表されてきた著書や論文は、いちおう信憑性を別にすると、大変な数にのぼります。関心のある方は、UFOs and the Extraterrestrial Contact Movement: A Bibliography という、1986 年に刊行された2巻本の編著をご覧ください。ほとんどタイトルと索引だけで 1300 ページにもなる大冊(Eberhart, 1986)です。
[註6]スティーヴンソン先生は、幼少期から幅広い領域の古今の書籍を読んできた大変な碩学であり(生まれ変わりの事例研究の発端となった論考(Stevenson, 1960)の第一例が、わが国の勝五郎の事例だったほどで)、人格的にも非常にすぐれた人物でした。生化学、精神分析、心身医学、超常現象研究というそれぞれの分野で、権威というものの実像を経験的に知り、そうした存在から距離を置いて、最晩年に至るまで真剣に真理を探究し続けた、おそらく歴史的にも稀に見る科学者でした。関心のある方は、医学者としての半生記(Stevenson, 1990)をご覧ください。なお、スティーヴンソンのもとに留学した経験をもつ眼科医、東長人による回想録も参照してください。
[註7]わが国では、超常現象の研究に対しても、没論理的な批判が非常に多いのですが、UFO研究に対しては、さらに滅裂な非難が浴びせかけられます。ある “懐疑論者” は、アメリカ政府が数次にわたってひそかに研究していたUFO現象のうち、5パーセントほどはどうしても通常の説明ができなかったとする結論に対して、その5パーセントもしょせんは未確認飛行物体なのだから、それを「ぶんぶく茶釜が飛んでいる」と言ってさしつかえないという、仰天すべき発言をしてすませてしまっています。その5パーセントこそが真剣な研究に値する対象であるにもかかわらずです。このように、何とも情けないとしか言いようのないわが国の実情を見ると、逆に、この現象は非常に重要なものであることがわかるように思います。
それに対して、NASAに在籍していた経験をもつ、ジョンズ・ホプキンズ大学の天文学教授、リチャード・ヘンリーは、「私自身はUFOがたわごととは思っていないし、NASAの本部でもそのような発言を聞いたことは一度もない。総じて、“公平無私の抑え込み repressed open mindedness” とでも呼べそうな態度を示しているように、私には思われた」(Henry, 1988, p. 106)と述べています。心霊研究協会が創立百周年を記念して刊行した Psychical Research: A Guide to its History, Principles & Practices(邦訳、『心霊研究』1995年、技術出版刊)にも、編者による「UFO研究」という章が収録されている事実からも、そのことは裏づけられるでしょう。
なお、参考までに記しておくと、UFO現象に関係する地球外の知的存在と接触したという体験をもつ、世界各地の 3256 名を対象とした、エドガー・ミッチェル財団の研究者グループによる調査報告(Hernandez, Davis, Scalpone & Schild, 2018)が、同誌の最近の号(第 32 巻2号)に掲載されています。それによると、たとえば、全体の7割ほどは、そうした接触体験により、その後の行動が前向きに変化したと回答しているそうです(ibid., p. 308)。その変化は、臨死体験後に見られるものとほとんど同じであることも明らかになったということです。
[註8]第二排他律という言葉は他では見たことがないと書きましたが、あらためて調べたところ、上記のことがわかりましたので、ここで訂正しておきます。
[註9]ポルターガイスト現象に似たものとして、幽霊屋敷 haunted houses があります。どちらの場合もほとんど同じ現象が観察されるのですが、前者は人物を中心にしているのに対して、後者は、場所を中心にしているという点で違っています。つまり、前者は、その人物(中心人物 agent)に現象がついて回るのに対して、後者は、その家に誰が住んでも同じ現象が起こるということです。幽霊屋敷と言うと、とたんにうさんくさく感じられるでしょうが、英米ではそのような事例が真剣に研究されています(たとえば、マハーら、1984年;ニスベット、1995年;McClenon, 2001)。
わが国でも、そうした現象が知られていないわけではありません。たとえば、2000 年秋から、岐阜県富加町の新築まもない町営団地の各戸で、長期にわたって起こった事件がありました。これは、深夜の報道番組でも実況中継されたほどで、しばらくの間、全国的な話題になったようです。今でもウェブ検索をすればたくさんの記事を見つけることができます。
[註10]パウリがユングと私信を交わし始めたのは、1934 年 10 月末に、ユングからパウリに宛てた手紙が嚆矢のようです(von Meyenn, 1985, p. 741)。
[註11]アインシュタインがこの書評を書いた 1922 年は、アインシュタインにとって記念すべき年でもありました。ひとつは、新渡戸稲造が事務局長を務める、現在のユネスコの前身に当たる国際連盟知的協力委員会に参加したことです。その議長はアンリ・ベルクソンであり、副議長はマリー・キュリーでした。もうひとつは、ラフカディオ・ハーンの著作に影響を受けていたとされるアインシュタインが、あこがれの日本を訪問したことです。そのためにはまず、日本への旅行を渋っていた妻のエルザを説得する必要がありました。たまたまベルリンに留学中であった、西田幾多郎の当時の同僚であった田辺元は、アインシュタインを招聘する改造社という出版社の特派員(室伏高信)とともに、ベルリンの自宅を何度か訪れます。そのような状況の中で、アインシュタインは、田辺の目の前でようやく妻を説き伏せ、訪日を決めたのでした(金子、1981年、85-87ページ)。そして、日本郵船の北野丸で日本訪問の旅に出るのですが、その途上でノーベル物理学賞受賞の知らせを受けるのです。
[註12]この事件が起こったのはいつなのかを突き止めるのは意外に難しく、それはまだ誰にもできていないようです。パウリ効果が起こり始めたのは、パウリがハンブルクに移った 1923 年以降であり、パウリがチューリヒにいたのは、1928 年4月の赴任時から(プリンストン大学にいた 1940-1946 年までを除く)最晩年の 1958 年までですが、フランクがゲッチンゲンにいたのは、1920 年の赴任からヒトラーが台頭する 1933 年までですから、この事件が起こったのは、1928 年から 1933 年までの間ということになります。ゲッチンゲンのジェームズ・フランクからコペンハーゲンのニルス・ボーア研究所を訪問していたパウリに、あるいは逆にパウリからフランクに宛てた宛てた手紙か電報があれば簡単なのですが、いくつかの資料(Hermann, von Meyenn & Weisskopf, 1979; von Meyenn, Hermann & Weisskopf, 1985; Shifman, 2017)を調べた範囲では、私の見落としがない限り、公開されていないか存在しないらしく、それを突き止めることはできませんでした。
[註13]カラスがすべて黒いわけではないことを証明するためには、すべてのカラスを調べる必要はなく、白いカラスを一羽見つけるだけでよいという原理のことで、アメリカ心理学の創始者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910年)が唱えたものです。ジェームズはそれを、1896 年1月 31 日にロンドンで開催された心霊研究協会総会で、フレデリック・マイヤーズ(1843-1901年)が代読した会長講演の中で提唱したのです。ここでは、 Science 誌に転載されたものを紹介しておきます。
[註14]この出来事については、わが国では珍しく、現代物理学史の専門家である西尾成子(1935年〜)が、「Pauli と『パウリ効果』」という論考(西尾、1993年、793ページ)の中で紹介しています。同じカシミールの著書からの引用なのですが、肝心の部分が、「物理学者達の不信感を買うようなことを主張している」となっています。しかしながら、カシミールの文章は、invoking the credulity of the physicists となっているので、残念ながらこれは、おそらく、無難な発言として収めようとしたための誤訳です。credulity は、不信感の意味をもつ credibility とは違って、「(特にはっきりした証拠もないのに)信じやすい性質[傾向],軽信性,だまされやすさ」(ランダムハウス)という意味であり、invoke も、「〈法〉に訴える, たよる;〈復讐・助けなどを〉切願する」という意味だからです。ここで、パウリは、物理学者たちの軽信性やそれにすがって理論を展開している物理学者を批判しているのですから、パウリの主張の当否はいちおう別にしても、西尾先生の訳では、パウリの実像が伝わらなくなってしまいます。
[註15]たとえば、アメリカのポルターガイスト研究者であったウィリアム・ロル(1926-2012年)は、あるポルターガイストの中心人物の心理的傾向について調べ、攻撃性などを含むさまざまな問題点があることを指摘しています(Roll, 1972, pp. 154-58;ロル、1975年、268-275ページ)。ちなみに、ポルタガイスト現象は、中心人物にとって重要な日――たとえば、本人や家族の誕生日など――に始まることもあるそうです(Roll, 1972, pp. 156)。
ついでながらふれておくと、そうした記念日に、心臓発作などを含む症状や疾患が起こったり再発したりする、“記念日の反応 anniversary reactions” として知られる現象があります(たとえば、Earls & Wolf, 1963)。また、誕生日などの重要な記念日に、「致命的な事故や正常な心的能力の喪失」が有意に多発することが、死亡統計の分析によって確認されたという報告も出ています(Csef, 2015)。
[註16]プリンストン大学の週刊交友会報(1950 年3月3日号と 11 月 24 日号)によれば、1950 年2月 21 日夜に、サイクロトロンから火が出ているのが見つかり、地元の消防団と海軍飛行場の特殊消火器による8時間に及ぶ消火活動の末、22 日早朝にようやく消し止められたのだそうです(von Meyenn, 1996, p. 38)。パウリが言っているのは、この事故のことです。
[註17]ただし、ヨルダンやフィールツは、心理的側面に関心があったのか、ユングと私信を交わしています(たとえば、Adler, 1973, pp. 176-78, 365-67)。
[註18]とはいえ、自らの理論との “整合性” や競合については、あまり考えていなかったようです。逆に言えば、むりやり自分の理論の中に収めようとしていなかったことになり、むしろそうした折衷的態度を讃えるべきなのかもしれません。
[註19]他の科学者たちからは、「だから言っただろ」と言われたようです(Smith, 1980, p. 297)。後に “ミーム理論” の紹介者としても有名になった英国の心理学者、スーザン・ブラックモアもそうでした(スティーヴンソン、1993年、118ページ)が、それ相応の覚悟がない場合には、こうした現象の研究に手を出すべきではないということです。