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 死後生存研究をめぐって

 1991年は、日本の超常現象研究史の中で、特筆すべき出来事がふたつありました。ひとつは、NHK総合テレビで取りあげられたおかげもあって、どうやら臨死体験という言葉が市民権を得たように思われることです。そのことは、読者の投稿を中心に構成される朝日新聞の「こころ」という欄で同年の9月30日に臨死体験が取りあげられたことからも明らかでしょう。

 もうひとつは、そうした“ブーム”に呼応して、しばらく鳴りを潜めていた批判勢力が再び台頭してきたことです。JAPAN SKEPTICSの結成はそのひとつの象徴と言えるかもしれません。その『ニューズレター』第1号によると、「私達のJAPAN SKEPTICSは、CSICOPと同じように、『超自然現象』を批判的・科学的に究明することを目的」としているそうです。

 CSICOPとは、アメリカの「超常現象の主張を科学的に検討する委員会」のことですが、この頭文字は、“サイコップ”つまり、サイ現象を取り締まる警察官という意味を持たせた語呂合わせにもなっているわけです。CSICOP会長の哲学者ポール・カーツは、「超常現象の主張を厳密に検討するに当たって科学の方法を用い、それによって世の人々の啓蒙を行なう」責任を持つ「科学者は、それがいかに空想的に見えようとも、非正統的な主張を即座に棄却すべきではないし、それどころか、そうした主張を慎重に検討する義務を担っている」(ラオ、1994年)と述べています。それが事実なら、CSICOPの会員は、『死後の生命』(TBSブリタニカ)の著者や超心理学者=心霊研究者と同じ立場から超常現象の研究に取り組んでいることになるのですが、その看板に偽りのあったことは、すでに明らかにされている通りです(関心のある方は、拙著〔笠原,1994年〕に収録されているK・R・ラオの論文〔ラオ、1994年〕と拙編書〔笠原、1987年a〕第V、W部を参照してください)。その自称“合理主義者”たちが展開している論理は読む者を一驚させますが、既成の科学知識を絶対的権威として用いるその保守反動的論理(私の言葉では“論理帝国主義”〔笠原、1991年b〕)により財団から援助を絶たれ、資金難のため閉鎖に追い込まれた超心理学関係の研究所がアメリカにはいくつかあるようです。

 skeptic という英語の本来の意味は、「一般に受け入れられている事柄に対して、常に疑いを抱いたり、疑問を差し挟んだり、判断を差し控えたりする者」(ウェブスター新ユニヴァーサル大辞典)のことです。したがって、懐疑主義者を自称するのであれば、超心理学者と同じように、何よりもまず既成の科学知識を、つまりは唯物論という憶説をこそ疑ってかかるべきなのです。その点を考えると、少なくともJAPAN SKEPTICSが手本にしようとしているCSICOPの会員たちは、ある超心理学者(Palmer, 1986)の言葉を借りれば、伝統的理論信奉者と呼ばれるべきであって、真の意味での懐疑主義者とは言えないようです。

 JAPAN SKEPTICSについては今後の活動に注目することにして、ここでは、先述のブームのおかげで最近日本でも数多く発表されている、死後生存問題を扱った図書や記事を取りあげて検討することにしましょう[註1]。こうした出版物のほとんどに共通して言えるのは、肯定的なものであれ否定的なものであれ、死後生存研究や超心理学的研究の知識を十分持たないまま執筆している著者がほとんどであることです。東北福祉大学の浅見定雄氏は、先ごろ亡くなったイザヤ・ベンダサン=山本七平氏の『日本人とユダヤ人』に見られる膨大な数の誤りや偽りを、さらにはその裏に潜む意図を、自著『ニセ日本人とユダヤ人』(朝日新聞社)の中で徹底的に暴露、検証していますが、私もこのように、超常現象全般の批判書をいつか徹底的に反批判してみたいと思っています(ところが、皮肉なことに、浅見氏自身は、その後、オウム真理教問題に関連して、山本氏と同様の論法で超常現象の存在を否定しています)。しかし今はその余裕もないので、一部に留めるしかありません。

 最近日本で出版された、この方面の著書や記事は、大半が臨死体験に関係したものです。しかし、死後生存問題との関連でとらえているものは少なく、たいていが脳の活動や幻覚などで臨死体験を説明しようとしています。臨死体験の要素の中には、たとえばトンネル体験や走馬燈的体験(生涯の回顧)のように、他の背景の中でも起こるものが少なくありません。しかし、だからといって、臨死体験を全て脳の活動で説明可能だとすることはできません。それは、事実に反することに加え、論理的に正しくないし、科学的方法とは言えないからです。

 『死後の生命』でも指摘されているように、死後生存研究は、肉体の死後にも心ないし魂が残るかどうか、心と肉体は別ものかどうかを明らかにするために行われているわけですが、そのような観点から、まず臨死体験に関する日本の著書や記事について簡単に検討することにします。最初に取りあげるのは、ある生理学者による、臨死体験をテーマにした著書(高田、1991年)です。この著者は、後ほど取りあげる解剖学者とは異なり、臨死体験に真正面から取り組んでいるように見えます。日本の医師がここまで“真剣”に臨死体験を扱ったのは、おそらくこの著者が最初でしょう。この著書は、その点ではおおいに評価できると思います。また、「国際的に一流の科学雑誌に発表された報告のみをとり上げ」(同書、17ページ)たと述べられているように、多くの専門家による一次資料をかなり引用、紹介している点も評価できます(ただし、一般向け図書のためか、出典が不明のものが少なくなく、その点が惜しまれます)。

 ところがこの著書には、根本的な点で大きな問題があります。それは、次のような記述に明確に現れています。

 臨死体験も脳の反応ですから、その基礎には、神経細胞の反応性の変化があるのは当然でしょう。‥‥(同書、50ページ)

 さて、臨死体験ですが、欧米の学者が、これを死に近い人の脳の反応と見ているのに、日本では、霊界を見たように解釈する人が多いのには驚きました。‥‥(同書、257ページ)

 第一の問題は、もちろん、臨死体験を脳の反応だと最初から決めつけてしまっていることです。臨死研究者、特に超心理学者は、それでは説明できないと思うからこそこうした研究をしているのに、どうしてそう断定してすませることができるのでしょうか。こうした論理は、唯物論が絶対的に正しいという大前提があって初めて成立しうるものですが、唯物論という憶説が絶対的に正しいことは、科学の方法を用いたのでは証明できないのです。

 第二の問題は、欧米の学者が臨死体験を死に瀕した人間の脳の反応と見ている、という主張の根拠がはっきりしないことです。一般の医学および科学雑誌に投稿している研究者の多くの見解はそうなのかもしれませんが、ムーディやグレイソン、セイボム、リング、オシス、ハラルドソンらの見解はそうではありません。この著者は、このような臨死研究者や超心理学者の研究を引用しながら先のような主張をしているわけですが、これはいったいどういうことなのでしょうか。また、たとえば、この著書に紹介されているロディンの論文(Rodin, 1980)に対しては、同じ雑誌のすぐ後で、ムーディやセイボム、スティーヴンソン、リングらが反論しているのに、そちらの見解はなぜ完全に無視されているのでしょうか。

 また、日本で「霊界を見たように解釈する」人とはどういう母集団を指しているのか不明ですが、これが一般人だとすれば、どうして欧米の学者と日本の一般人とを対比させる必要があるのでしょうか。欧米、特にアメリカの一般人の方が、現在ではむしろ日本の一般人よりも死後の世界信仰が強いことを示す調査結果はすでに何回か発表されている(たとえば、1990年にアメリカで行なわれたギャラップ世論調査によれば、71パーセントの成人が死後の世界を信じている〔たとえば Anonymous, 1991〕)わけですが、なぜここで、いかに日本人が“不合理”な考え方をしているかとでも言わんばかりに、欧米の一般人をおいて日本人のみを引き合いに出すのでしょうか。このような論法は、私には理解できません

 また細かい点ですが、明らかな誤りもいくつか見られます。たとえば、「サボム〔セイボム〕博士とクロイツィガー博士は、脳の低酸素状態のために起こるテンカン発作を臨死体験と関係づけようとして」(高田、1991年、204ページ)いると書かれていますが、私の知る限りセイボムらはそうした立場を批判はしても(セイボム、1986年、292ページ)そのような主張をしたことはありません。この文章は、「欧米人の『臨死体験』観」という節の中にあるのですが、この節では、“欧米の学者”は臨死体験を「精神説、器質的変化説、心理的変化説」(高田、1991年、202ページ)の3通りの仮説で説明しようとしているとされ、皮肉なことに、セイボムの唱える心身分離説(セイボム、1986年、311ページ)は全く無視されているのです。

 次に取りあげるのは、先ほどの生理学者のようには臨死体験の内容に踏み込まないまま、この体験を観念的に扱ってすませている解剖学者の主張です。

 ‥‥臨死というのは、意識水準が低下した状態である。そこで起こったことを、正気に戻ってから語る。これは、夢を語るのと、その点ではほとんど違いはない。‥‥瀕死の状態では、目はつぶっているから見えていないが、それ以外の知覚、とくに耳は生きて働いていることである。脳は諸感覚からの情報を総合する傾向がある。‥‥耳やその他の感覚から入った情報を、脳は総合するほかはない。そうすると、面白いことに、自分が高いところにいて、「死にそうな自分を見ている」という判断が生じるらしい(養老、1991年、83-84ページ)。

 だれも真面目に聞いてくれないから、何度でも繰り返す。‥‥脳に二つ以上の機能部分があるから、その脳を使って「人間」という観念を作ると、人間が心と身体に分離する。そもそもの始めから、人間が心と身体からできているのではない。そんなことは、当り前のことであろう(同書、226ページ)。

 まず第一の問題は、臨死研究者や超心理学者が何を問題にして、どういう研究をしているのかをこの解剖学者は全くわかろうとしないまま、観念的に議論を進めていることでしょう。ここに見られる、聴覚的情報を視覚的なものに置き換えたのではないかとする主張は、比較的一般的なものです。それに対しては、たとえば『死後の生命』にも紹介されているアメリカの心臓病専門医のマイクル・セイボム(セイボム、1986年)をはじめとする研究者が、そのような仮説では説明できない事例を多数集めて具体的に反証しているわけですが、こうした研究を科学的データを用いて再反証しようとしない限り科学的議論にはなりえないし、したがって、唯物論という憶説を本尊に据えた信仰以上のものにはならないのではないでしょうか。

 この解剖学者が「真面目に聞いてくれないから、何度でも繰り返」しますが、人間は、「心と身体からできているのではない」とする主張を「当り前のこと」ではないと思うからこそ、超心理学者=心霊研究者は超常現象の研究を重ねてきたわけですが、この解剖学者には、どうしてそのような立場が理解できないのでしょう。また、“唯脳論”(=唯物論)の正当性は、前述のように、科学的方法を用いたのでは証明できません。「反証可能性」[註2])のないものは科学の仮説になりえないことくらい、科学者であれば知っていなければならないわけですが、相手が超常現象なら、この種の没論理も許されるということなのでしょうか。それともこの解剖学者は、科学的仮説や理論ではなく、自らの哲学や信仰を開陳しているにすぎないと考えてよいのでしょうか[註3]

 ついでながらこの解剖学者は、念力によるスプーン曲げについて触れる中で、「スプーンはともかく曲がった。だが、だからどうしたというのか」(養老、1991年、87ページ)という、物理学者から見れば信じがたい発言をしています。超常現象のある批判者は、「万が一、精神力といったものでスプーンを曲げることができるとしたら、これはこれまでの自然科学の根底をくつがえす大発見ということになります。量子力学や相対性理論の発見も科学に大革命をもたらしましたが、そんななまぬるいことではありません」(板倉、1977年、147ページ)と的確に認めています。念力でスプーンが曲がるとなると、この解剖学者の論理が破綻し、唯物論=唯脳論も崩壊してしまうのではないかと私などは心配してしまいますが、大丈夫なのでしょうか。

 他にも、「ミスター・マリック」のタネあかしで知られるサイエンス・ライターによる解釈もありますが、ここでは、超心理学の基本的知識が少々欠けていることに加え、手品のように限界がはっきりしているものを対象にしたタネあかし的手法を、限界の不明な未知の現象(この場合は死後生存問題)に適用するという根本的誤りをこのライターが犯していることを指摘するに止めましょう[註4]。このような解釈(仮説)もあるので超心理学者はそれを考慮すべきだ、という主張なら正当ですし、超心理学者もそれには耳を傾けるでしょう(ただし、その中でこのライターが、自分が初めて考えついたかのように主張している内容は、大半がすでに超心理学者によって検討されていることですが)。

 しかし、ごく一部の知見をもとに演繹を重ねたあげく、「肉体が死滅してもなお、そのような状況下にて意識が存続しえるかどうか、といった問題は、残念ではあるが(筆者の「体脱体験」の解析がどこかしらで根本的な間違いでも犯していないかぎり)、まずありえない」(ゆうむ、1991年、110ページ)とする論証は、繰り返しますが、科学の方法ではありません。つまり、こうした論証をいくら積み重ねても、超心理学者に影響を与えることは残念ながらできないということです。

 臨死体験の項を終えるにあたり、著名な評論家がある月刊誌に連載している記事で行っている、私の訳語に対する批判に触れておきます。アメリカとアイスランドの超心理学者がアメリカとインドで行なった臨死研究(拙訳書)を紹介する中で、この評論家は次のように述べています。

 オシスとハラルドソン〔オシス&ハラルドソン、1991年〕は、このような人物幻像の出現が、臨終時体験においては実によく見られるということを実地調査をもとに明らかにし、この現象を“Apparition”と名づけている。これに対して、邦訳は「霊姿」という何とも奇妙な造語を訳語にあてているが、このような訳語はあまりにオカルト的で感心しない。この本がもともとオカルト的というならともかく、これは、あくまでこの問題に科学的調査と分析で迫っていこうとしている著書なのである(立花、1991年、278ページ)。

 残念ながら「霊姿」は私の造語ではありませんが、この訳語を奇妙に感ずるかどうかは主観の問題ですので、ここでは触れないことにします。この引用文で第一の問題は、apparition という英語の意味をあまり正確にとらえていないか、知っていながら歪めているかのいずれかのように思われることです。たとえば研究社の『新英和大辞典 第五版』や小学館の『ランダムハウス英和大辞典』を見ても、第一義として「幽霊、亡霊、妖怪」といった訳語が出ていますし、他の英和辞典も大同小異です。apparition という英語は、要するに“幽霊”を意味する言葉なのです。それを“科学的”ではないとして原義を歪めることが科学的態度なのでしょうか。

 ですから、日本超心理学会の大谷宗司会長も、『新版心理学事典』(平凡社)の「心霊研究」の項(451ページ)で、この言葉に、やはり「幽霊」という訳語をあてているわけです(ついでながら、先に引用した生理学者は、これに“亡霊”という訳語をあてています)。この評論家の論理からすると、日本の超心理学者の中でオカルト的要素を最も嫌う大谷氏の執筆した事典の項目も、やはり“オカルト的”ということになってしまうのでしょうか。

 第二の問題は、「この現象を“Apparition”と名づけている」という表現を見る限り、この評論家はこの言葉が昔から超心理学用語になっている事実を知らなかったように思われることです。オシスとハラルドソンは、他の臨死研究者とは異なり、根っからの超心理学者です。そして、超心理学の入門書や概説書に載っている用語集を見ればわかるように、“apparition”とは、「五感によっては感じとられるはずのない、死んだ人間や動物、もしくは生きている人間や動物の幻影」のことであり、「一度ないし稀にしか見られないものに対して用いられ」、同じ場所で繰り返し目撃される幽霊 ghost とは区別されるのです。

 したがって、霊姿という訳語が適切かどうかはともかく、ghost に「幽霊」という訳語を対応させるとすれば、この言葉には「幽霊」とは別の、動物をも含む訳語をあてる必要があるわけです。ですから、ただの「幻像」や「幻影」ならまだしも、「人物幻像」という訳語は正しくありません。依然として私は、“性懲りもなく”霊姿という訳語を、幽霊と分けて使っています。

 また私には、この評論家の“オカルト的”という言葉の意味が正確にはわかりませんが、先に引用した文章のすぐ後で、「現世の客観世界とは別の次元で霊的世界というものが存在しており、死後はこの世から、そちらの世界に移行するのだと考える」のを「オカルト的解釈」としているところからすると、まさかとは思いますが、“死後の世界”という考え方自体がすでにオカルト的ということになるのでしょうか。とすれば、霊姿はもとより、生まれ変わりや死者からの通信も、したがって本稿の主題自体も、最終的には死後生存研究もオカルト的ということになるのでしょうか。これが第三の問題です。

 レズリー・シェパード編 Encyclopedia of Occultism and Parapsychology. 1st edition (Detroit: Gale) によると、オカルティズムは、「精神および霊の、より高次の力に関する理論および実践の、またそうした力を獲得するための哲学体系」と定義されており、「その実践的側面は、心霊現象と関連している」そうです。したがって、超心理学が研究対象としているサイ(超常、心霊)現象に関する、哲学的実践的企てがオカルティズムの一部になっているのであり、扱う対象というよりはむしろ、接近の仕方によって超心理学=心霊研究とオカルティズムとが分かれるわけです。より適切な用語や訳語を選択する必要があるのはもちろんですが、科学的かどうかは、ひとつの言葉によって決まるのではなく、主として、どのような方法論を用いて研究しているかによって決まるのです。

 臨死体験については、東京都老人医療センターの名誉院長である豊倉康夫氏が、『精神医学』という精神科の専門誌に「臨死体験の記録」(1991年、第33巻6号、巻頭言)、「臨死体験の記録――死直前の Euphoria は『物質』によるものか」(第33巻10号)という論文を寄稿していることからも予測できるように、日本でもいずれ専門家が研究に乗り出すでしょう。しかし、日本の場合には、『死後の生命』で扱われているような基礎的なものではなく、臨床的、応用的なものに留まるのではないか、と私は考えている(笠原、1991年a)のですが、いかがなものでしょうか。

次は、その他の死後生存研究に対する日本の研究者の批判です。最近、著名な心理学啓蒙家が、6年ぶりに超心理学関係の著書(宮城、1991年)を執筆しました。「精神医学界最高の叡知が全力を傾けて迫る」という宣伝文句は割り引いて考えるとしても、私はこの著書を一読して大変驚きました。内容的には前著(宮城、1985年)の貧弱な引き写しであるばかりか、最近の研究が、ごく一部を除き完全に無視されているうえ、事実や論証の誤りが少なからず見られるからです。ここでは、生まれ変わりに関するこの心理学者の記述を検討してみましょう。まず第一の問題としては、この心理学者が、『死後の生命』でも中心的な位置を占めている、ヴァージニア大学精神科のイアン・スティーヴンソンの研究を全く引用していないことがあげられます。そして、与しやすい事例を取りあげて批判を加えたうえ、次のように述べています。

 前世に生きた経験といったものは、この深層心理の表れにすぎないと考えられるのである(宮城、1991年、118ページ)。

 自分は前世に生きていたことがあるなんていう話を調べてみると、それはそんなことがないことがわかる。‥‥結局霊というものが、深層心理的な現象のものである、ということになりはしないでしょうか(同書、200ページ)。

 批判者には、批判する相手が提出している最も有力な証拠や論拠を批判する責務があります。そうしなければ批判の意味がないからです。したがって、この心理学者が生まれ変わりという現象を否定するのであれば、その研究の第一人者たるスティーヴンソンの研究を引用していないこと自体がまず大きな問題になるわけです。スティーヴンソンの緻密な論証に対してこのような観念的批判が通用するかどうかは、スティーヴンソンの著書(スティーヴンソン、1990年)や論文(スティーヴンソン、1984年a、b)はもちろん、『死後の生命』を読まれた方にも、ある程度おわかりいただけると思います。

 また、ある物理学者は、『死後の世界』という著書の中で次のように述べています。

 推理科学的立場からいうと、〔死の際には〕その魂の核だけが抜け出るのであって、それは非活性状態に保たれているものである。したがって、それが、不思議な能力を発揮するというようなことは、とうてい考えられない。また、死によって、魂(霊魂)が、そのままの状態で抜け出るというようなこともありえないであろうから、上述の超常現象〔肉親の死と同期して起こる奇妙な物理現象〕は、すべて「偶然の一致」であるということになろう(岡部、1982年、51-52ページ)。

 これも、細かいことには触れませんが、単なる“推理”であって、科学的考察ではありません。「人間が死ねば、その魂の核だけが抜け出し、非活性状態に保たれる」という“仮説”を唱えるならともかく、その仮説を検証することなく演繹を進めるという方法は、何度も言いますが、科学的方法ではないということです。ついでながら、ルイザ・E・ライン(ライン、1983年)やI・スティーヴンソン(スティーヴンソン、1981年)は、肉親や友人の死に同期して起こる超常現象を取りあげて検討していますので、関心のある方は参照してください。

 また、先ほどの生理学者は、同じ著書の中で、「私たちは‥‥再び生まれ変わるのだろうか。もし、そうなら、なぜ誰も、生まれ変わったという証明ができないのだろうか。どうして、どこにも転生の証拠はないのだろうか」(高田、1991年、212ページ)と述べています。ところが、その著書の別のページには、「1977年、『神経・精神病ジャーナル』という医学雑誌が、輪廻転生と死後の世界の特集を組み、大反響を呼びました」(同書、27ページ)という記述があるのです。したがってこの生理学者は、この号(Ian Stevenson on Reincarnation と題された特集号)に掲載されたスティーヴンソンの死後生存に関する概説論文(スティーヴンソン、1984年a)と、事例研究(スティーヴンソン、1984年b)とを見ているはずなのです。スティーヴンソンの研究を具体的に批判するのならともかく、なぜ完全に無視するような発言をするのでしょうか。

 スティーヴンソンの研究は、世界的に名高いこの専門誌の編集長(メリーランド大学精神医学・人間行動学研究所ユージン・ブローディ教授)をも動かしたわけですが、それでもこの生理学者は、スティーヴンソンの研究など取るに足らぬと判断したのでしょうか。それとも、一般読者ならそこまで調べることはなかろうと思ってのことなのでしょうか。いずれにしても、科学者の取るべき態度とは思えません。

 ふだんから没論理的論理を弄している“御用学者”的な人たちがこの種の批判をするのならあまり驚きもしないのですが、ふだんは緻密な論理を展開している(はずの)進歩的な人たちまでが、対象がこと超常現象になるとふだんの冷静さを失い、自分たちがいつも批判の対象にしている保守反動的な人たちと同種の論理を弄するようになることに、私はいつも驚かされてきました。その結果私は、そうした“現象”自体にも関心を持つようになったわけです(笠原、1987年a)。

 たとえば、ある大学で自然科学概論の講座を持っている放射線防護学者は、他の著書を見る限りきわめて進歩的な人物のように見受けられるのですが、超常現象の批判になると、とたんにそれまでの緻密な論証を捨て、体制派文化人が用いるような歪曲や没論理を多用するので、私などは大変がっかりしてしまいます。『「超能力」を科学する』と題した、批判者がよく行なう「手品の種あかし」的手法を列挙した自著の中でこの“超能力”教授は、いちいち取りあげることもできないほどの誤りを犯しています。余裕がないのでひとつだけ例をあげますと、「『希代の女霊媒』エウサピア・パラディノ」という章の中で、この教授は次のように述べています。

 ‥‥1895年、イギリスのケンブリッジで行われた実験会に、「霊媒」の詐術についての識者ホジソン博士がアメリカから参加し、「エウサピアのあらわす奇現象には、徹頭徹尾インチキが用いられている」ことが示唆されたのです。
 ‥‥フランスのリシェー教授やロシアのオヒョロウィッチ博士らは、「霊媒はいつでも詐術を用いるので、本当に不思議な現象を得るためには、監督を厳重にして霊媒が詐術を弄するスキのないようにしなければならない。ケンブリッジの実験会でパラディノがインチキをやったのは、実験者側が監視を怠ったためであって、パラディノに霊能力がないことを証明したことにはならない」と弁護する急先鋒に立ったのです。「屁理屈も理屈のうち」というところでしょうか。‥‥

 日本超心理学会の小熊虎之助氏は、「エウサピアの奇現象は、彼女が、立ち会い人たちの監視のスキをついて、敏速巧妙におこなった早業にすぎなかった」という見解を示しました(安斎、1990年、20-21ページ)。

 例によって出典が明記されていないので、推定するほかありませんが、おそらく、引用文中に名前の出てくる、先代の日本超心理学会会長、故・小熊虎之助氏の『心霊現象の科学』(芙蓉書房)ではないかと思われます。第一の問題は、小熊氏の著書から引用すればはっきりします。小熊氏は、「‥‥外見上詐術の加わらぬ神怪的にみえた部分の現象も、やはり実験者の注意の弛緩と隙とに乗じて行われた、彼女の敏速巧妙な早や業にすぎなかったのだろうと推定するのが適当に思われる」(小熊、1924/74年、364ページ)と述べているのです。つまり、推定が断定にすり替えられていたわけです。この教授は、原発推進論者がこのようなすり替えを行ったとしても、黙って見過ごすのでしょうか。

 エウサピア・パラディーノという人物は、超心理学界で未だに論争が続いていることからもわかるように、どうやら、(一部の超能力者と同じく)本物の超能力を一方で示しつつ、もう一方では、研究者の隙をついて不正行為も平気で行う能力者だったらしいのです。ですから、先に取りあげた、かなり疑り深い心理学者ですら、自著の中で、パラディーノの実験を詳しく考察したあげく、「エウサピア・パラディーノの示した現象は、たしかに驚異的なものであった」(宮城、1985年、88ページ)と認めざるをえませんでした。また、小熊氏は、リシェーの主張について自著の中で次のように述べています。

〔リシェーらは〕ホジソンが指摘したようなエウサピアの欺瞞手段を十分熟知していた。そして実験者がこれを妨げる方法を取らなければ霊媒はいつでもこれを行うのであるから、真に不思議な現象をえようとするには、監督を厳重にし、霊媒が詐術を弄することのできぬようにしなくてはならぬ。そして監督が十分であればある程奇怪な現象が起るのであって、ケンブリッジの実験は、実験者がエウサピアの現象とその方法とに未熟なためにこの監督が不十分で、霊媒のなすがままに委したから、詐術を妨げるよりもむしろそれを奨励する結果となって、以上の不成功に終ったのであると抗言した(小熊、1924/74年、297-298ページ)。

 リシェやオチョロヴィッツの見解が妥当かどうかは別にしても、その発言は、そうした背景を考えると頷けるのではないでしょうか。

 この教授は、同じ著書の中で、「わからないことについては短絡的な判断を避け、今後の研究の成果を待つという態度が、科学的です」(安斎、1990年、43ページ)と正当な発言をしていながら、実際には自らその禁を破ってしまっていたわけです。

 この教授は、先述のように、こうして奇術で再現できるから全てトリックだとして、超能力者による(実験ではなく)“実演”を説明しています。しかし、再三言いますが、このような論法は、科学的にはもちろん論理的にもまちがっています。「逆は必ずしも真ならず」だからです。つまり、この論理が成立するためには、またしても唯物論の正当性が大前提になっているのです。

 また、この教授はユリ・ゲラーを「インチキ手品師」(安斎、1990年、37ページ)と断定していますが、ユリ・ゲラーが“インチキ”をしたことが、信憑性のある一次資料のどこかに書かれているのでしょうか。私は知りませんが、知っていたらぜひ教えていただきたいと思います。また、それとは逆に、自らも奇術師である超心理学者が、アルミ箔を機械部分に差し込み動かないようにした私物の懐中時計を、そのことをゲラーに告げずに渡したところ、ゲラーはそれを隠したり強く振ったりすることなく動かしたという報告(Cox, 1974)があるのですが、このような報告を、この教授はどう考えるのでしょうか。ついでながら、CSICOPの有力会員の奇術師ジェイムズ・ランディは、同様の論法でユリ・ゲラーを攻撃し続けた結果、ゲラーを含め三人から訴訟を起こされたようです(ゆうむ、1991年)。

 ランディの場合、どういう決着がつくのかわかりませんが、ある雑誌によれば、やはりあちこちで手品師扱いされていたソビエトの念力能力者、故・ニーナ・クラギナは、「ペテン師でイカサマ師」と誹謗されたことで、ソビエト司法省発行の『人間と法律』誌を相手どって起こした訴訟で勝訴した(Anonymous. 1988)そうです(もちろん、訴訟に勝つことと、クラギナの能力が科学的に実証されることとは別問題ですが)。今日では、人権という観点から、犯罪者でもこれほどひどい扱いは受けないようになっているのに、明確な根拠もなく、疑いだけでこうした非難を浴びせかけるのはなぜなのでしょうか。“進歩的”に見える人たちが、どうしてこのようなことを平然とするのでしょうか。

 アメリカの精神分析学者であるとともに超心理学者でもあるジュール・アイゼンバッド氏は、このような不合理な批判について次のように述べています。「〔ある超心理学批判者は〕適切に管理された実験条件が必要だということを再三強調しておられます。それはすばらしいことです。しかし、重大な批判もきちんと管理されるべきなのではないでしょうか」(アイゼンバッド、1987年、336ページ)。超常現象や超心理学の批判者は、なぜこのように、なりふりかまわぬ批判を性懲りもなく繰り返すのでしょうか。その理由が何であれ、そこまでの歪曲を余儀なくさせるだけの要素が超常現象に内在していることだけは、少なくとも確かなようです。

[註1]私は、死後生存研究を含む超常現象に対して、日本国内で行なわれた不合理な批判をすでに2回取りあげています(笠原、1987年b、1994年)。今回取りあげるのは、その2回に含まれていないものです。

[註2]科学的仮説であるためには、それが科学的事実によって立証ないし反証できなければなりません。どのような証拠があれば“唯脳論”の正しさが証明でき、どのような証拠があれば“唯脳論”の誤りが証明できるのでしょうか。

[註3]この解剖学者は、別の論文(養老、1991年)の中で、心身二元論を唱える脳研究者であるワイルダー・ペンフィールドとジョン・エックルスの仮説に対して、同様の反論を行なっています。私は長年の実証的治療経験から、精神分裂病や躁鬱病は心理的原因の疾患だと確信していますが、そのような主張に対して、少なからぬ精神科医から、「分裂病は原因不明だから心因性疾患ではない」などという実に不思議な“反論”を耳にしたことがあります。ペンフィールドらの、まさに科学的見解に対してこの解剖学者は、これと同質の“反論”をしているのですが、これでは科学的対話は成立しません。対話を成立させるためには、先の例を取ると、たとえば「分裂病は、これこれの理由で身体因性の疾患だと思う」という形で反論しなければならないのです。このような論法は、原発反対論者が具体的データをあげて原発の危険性を訴えているのに、政府の方針という権威を後ろ楯にして、ただただ「安全だから心配ない」と繰り返しているのと同じだし、どこかの政治家のように、南京大虐殺を実証するデータを完全に無視して、「大虐殺などなかった」と平然と主張し続けるのと同じだと、私などは思ってしまいます。

[註4]「ミスター・マリック」を弁護するわけではありませんが、その“超魔術”が全面的に奇術どうかは、実際のところ誰にもわからないのではないでしょうか。仮に本人が全て奇術であると認めても、本人の管理外のところで、(可能性はきわめて低いでしょうが)“本物”の超常現象が起こっているかもしれないからです。ですから、種あかし的手法は、実証性のあるものを除き、全て奇術であることを前提にして初めて適用できるにすぎないのです。

参考文献

【R・アルメダー(1991)『死後の生命』〔TBSブリタニカ〕所収の「訳者後記」を修正加筆】


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