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 脳と心の関係

 現行の生理学や心理学の知識では、人間が自らの肉体を自在に操る仕組みが、脳からの指令という観点で、完全に説明できることになっている。確かに、脳障害の後遺症として、身体的障害や失語症が起こったり、アルコールをはじめとする薬物によって認知的、行動的障害が発生するのを見ると、そうした考え方が裏づけられるように感じられるかもしれない。しかしながらそれは、脳といういわばコンピュータが一時的ないし永続的に故障した結果、コンピュータによって操られていた周辺機器[註1]がそれまでのようには動かなくなったことを裏づける以上の証拠になるわけではない。問題は、そのコンピュータを動かしている主体は何かという点にこそなければならないのである。

 ワイルダー・ペンフィールド、ジョン・エックルズ、ロジャー・スペリーなど、一時代を画した脳研究者たちは、自らの実験的研究などを通じて、そのような唯物論的見解を放棄するに至っている(ペンフィールド、1977年。エックルズ、1984年。Sperry, 1988)。特にエックルズは、1976年に開催された超心理学協会年次総会の招待講演の中で、要するに脳は心が念力で操っている[註2]のではないかとまで発言し(Eccles, 1977, p. 256)、ペンフィールドとともに、心と脳は別の実在だとする二元論を唱えているのである。

 しかしながら、このような着想に至ったのはエックルズが最初ではない。次に引用するのは、エックルズ以前に提出された、イギリスの心理学者による「シン仮説」[註3]と呼ばれる仮説にまつわる発言である。

〔第二の仮説は〕「私〔人間〕は、念力実験で好成績を挙げる被験者がサイコロその他の物体を支配するのと同じ手段、すなわちサイ・カッパ〔=念力〕によって、自分の神経系の活動を支配している(また、自分の肉体や思路のようなものも間接的に支配している)」〔というものである〕。……生体を自在にコントロールし、知覚過程の中で生体から情報を受ける何らかの実在があると示唆しても、そこに目新しい点がないのは明らかである。魂や自己という考え方が生理学者や実験心理学者に放棄され、自由意志や認知を含むあらゆる心的過程が生体の物理的過程の単なる側面と見なされるようになる比較的最近まで、このような考え方は広く信奉されてきた。事実、19世紀半ばですら〔スコットランドの医師ジェイムズ・〕ブレイドは、「私は、脳を単なる心の器官と見な」し、「魂と身体の器官」の関係を音楽家と楽器の関係と同等なものと考えることができる、と発言することが可能だったのである(Thouless & Wiesner, 1948, pp. 197, 209-10)。

 心と体の関係を扱う、いわゆる心身問題については、古来、さまざまな科学者や哲学者が好んで考察しているけれども、このように超常現象の実在を踏まえた検討は、それほど行なわれているわけではない[註4]。これ以前にも、それほど明確な形ではないものの、イギリスの物理学者ウィリアム・バレット(Barrett, 1886)、イギリスの古典学者F・W・H・マイヤーズ(Myers, 1886-87)、アメリカの超心理学者ジョゼフ・B・ライン(Rhine, 1943, p, 70)らが同様の着想を公にしているし、それ以降にも、エジンバラ大学の心理学者ジョン・ベロフ(Beloff, 1976, 79, 89)らがその考察を行なっている。また、日本大学の物理学者・堀伸夫も、自著の中でその着想を簡単に述べている。

 PK〔念力〕をあり得べからざることとして簡単に否定し去ろうという人は果して心と物との関係について深く考えた上でのことであろうか。肉体という物質には作用を及ぼし得るが肉体以外の物質には間接にしか作用を及ぼし得ないということをうまく説明できる理論があるのだろうか。……これを要するに、一つの原因に対して無数にあり得る結果のうち確率の少い方向へ現象を導くとか、或は無数の可能な結果の中の特定の結果にだけ現象を導くとかいうようなことが精神力で可能ならば奇蹟は起り得るのである。……我々は今日まだ精神力の何たるかを知らない。それを知らない以上、たとえどのような「奇蹟」的事実があろうと、事実は事実として謙虚に認めるほかない。……奇蹟は今日の物理学から見て絶対不可能事ではない……もし理論上絶対不可能という結論が出るならば、事実をではなく物理学の理論の方を変えなくてはならないだろう(堀、1986年、161、163ぺージ)。

 そのような検討をしているひとりであるベロフは、最近、弱い二元論(随伴現象仮説――心は脳の活動の随伴現象にすぎないとする仮説)、強い二元論(相互作用仮説――心と脳が別の実在であるとする仮説)、一元論的唯物論という、昔から取りあげられてきた三通りの仮説をあらためて掲げ、最後の仮説を「はなはだしく直観に反している」として却下し、前二者のみについて検討を加えている。そして、

 という三通りの理由から、随伴現象仮説を棄却しているのである(Beloff, 1994)。とはいえ、超常現象の存在が随伴現象仮説――本書で言うところの唯物論的仮説――と相容れないことについては、これまでにも繰り返し指摘されてきたので、ベロフのこの結論に新味があるわけではない。

 ところで、先述のように私の心理療法では、幸福否定をする主体である内心と呼ばれる心の一部が、自らの意識に(本当は幸福な時にこそ)幸福ではないことを言い聞かせる目的で、自分の身体をある程度自在に操って症状その他を作りあげると考える。このような立場から見ると、脳と心の関係は従来のものとは根本から異なってくるのである。

[註1]ところがこのコンピュータは、周辺機器の側からもある程度の修復が可能らしいのである(ドーマン、1974年)。

[註2]プリンストン精神物理学研究所のチャールズ・ホノートンは、乱数発生装置を用いて、エックルズの仮説の探索的実験を試み、ある程度の成功を収めている(Honorton, 1979)。

[註3]シンとは、サイ(ψ)というギリシャ文字が超常的過程を現わす言葉として既に使われているため、“魂”という別次元の事象を表現する目的でタウレスらが用いたヘブライ文字である(Thouless & Wiesner, 1948, p. 199)。

[註4]超常現象と唯物論的仮説の関係を考察しているさまざまな研究については、バス大学の社会学者H・M・コリンズらの著書(Collins & Pinch, 1982)の第3章を参照されたい。

参考文献

[笠原敏雄著『隠された心の力──唯物論という幻想』(春秋社)pp. 111-13 を改変]


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