ストレス理論に対する批判
現行の心身症理論
現在の心身症理論の基盤になっているストレス学説は、カナダの生理学者ハンス・セリエが、動物実験に基づいて最初に唱えたもので、生体が外界からの刺激(ストレッサー)に直面した時に、自らの破綻を回避する目的で起こす適応反応に関する理論である(セリエ、1962年)。ストレッサーに直面した生体は、まず、副腎皮質の肥大、胸腺の拡大などを伴う警告反応を起こす。そして、最初に侵襲を受けた部位が引き続き刺激されると、徐々にではあるが、事態に十分対処できるような形で局所的反応が起こる。それによって微生物を包囲する結合組織が成長し、その侵入を阻止することができるのである。しかし、刺激が長期にわたって続くと、直接に影響を受けた細胞は疲労から破壊される。疲憊期に入ると、磨壊により防衛の最適径路が壊れるため、反応は再び拡大する。その結果、炎症性の障壁は崩れ、細菌がその周囲を侵害するようになる。そして、「補助径路が再び消耗しつくされたあとでは、回復はもはや不可能であり、死がつづくのみである」(セリエ、1962年、128-29ページ)。この場合、ストレッサーは細菌でなければならないわけではない。「あるネズミは鋭い音にさらされ、他のネズミは厳寒に曝露され、また他のネズミは手足に熱湯火傷をうけたとすると、そこにはどのネズミにも中等度の副腎皮質肥大の見られることがわかった」(同書、92ページ)からである。このようにセリエのストレス学説は、外傷、出血、感染、薬物、寒暖、心理的刺激、絶食をはじめとする種々の“有害な”作因によって非特異的反応が発生するという、きわめて定型的な機械的、生物学的反応を記述した理論なのである。
以上から推測できるように、ストレス学説には、一般適応症候群という概念と“適応病”という概念とが含まれている。初期には、こうしたストレス学説にまつわる論争は、全面的に実験に依拠しつつ行なわれたわけではなかったが、その中で、心理的なものと身体的なものという質的に異なったストレッサーが、さらには、身体的なものの中では暑さと寒さといった正反対のストレッサーがなぜ同一の適応反応を示すのか、という問題のあることが当然のことながら指摘された。そして、「もし生体が“身体的ストレス”状況を十分脅威に感ずるとすれば、おそらく精神内分泌反応はかなり一般的に起こり、純粋に“身体的”な刺激に対する内分泌的その他の身体的反応に重なることであろう。この解釈が正しければ、“ストレス”という概念は生理的概念というよりはむしろ、行動的概念と考えるべきである」(Mason, 1971、330-31ページ)として、いずれのストレッサーに起因する反応も最終的には共通した経路を取るとされ、この難問は解決されたと考えられた。このようにしてストレスは、単なる生理学的概念から、心理的、行動的概念へと拡張されたのである。
心身症のストレス学説の問題点
その後、実生活の中でのストレスをランク付け、その得点によって病気の発生を予測しようとする試みが行なわれた(たとえば、Holmes & Rahe, 1967)けれども、ストレスと病気の相関関係はそれほど高いものではないことがわかり、ストレスは心理的な現象であるのみならず、対処の仕方によって打撃が異なる、個人差の大きい現象であるとも考えられるようになった(ラザルス、1990年、35ページ。Lazarus, 1966, 74)。しかしながら、(イ)ものごとが自分の思うようにならない、あるいはなりにくいという感じを抱いた時、(ロ)身体的、心理的な痛みの起こることが予測され、発生した時、(ハ)身近な人間からの感情的、社会的支持が失われた時、(ニ)不快な刺激や状況を避けようと懸命に努力している時といった状況は、誰にとっても脅威になるとされた(Bowers & Kelly, 1979、490-91ページ)。
カナダのオンタリオ州にあるウォータールー大学心理学科のケネス・S・ボワーズらによれば、その後に明らかになった、感情的、心理的要因と病気の発生との関係について特筆すべき事柄としては、(イ)心臓疾患や癌、結核など、それまで心身症とは考えられていなかった疾患にも心理的要因が関係していることがわかってきたこと、(ロ)心臓血管系の疾患とA型性格、癌と癌的性格とを除けば、特定の疾患と性格傾向とを結び付けることが少なくなり、発病に先行していると思しき状況や対人関係が重視されるようになったこと、(ハ)癌やリウマチなどの疾患で、免疫的要因が見つかったのをはじめ、ストレス因性の疾患のメカニズムが明らかになったとされることなどが挙げられるという(Bowers & Kelly, 1979、491-92ページ)。
しかしながら、ストレス学説を唱導する研究者の中にすら、「これら慢性的な消化器の潰瘍……は、われわれのネズミで警告反応の期間中に胃腸や十二指腸の内部に発達する急性の出血性の表層傷害とはたぶん同じものではないだろう」(セリエ、1962年、188ページ)と指摘している者もあるし、「複雑で微妙な『心と病の関係』をストレス学説のみによって説明しきれるものではない」(池見、1963年、38ページ)と認めている者もあるので、ストレスと病気の関係は、厳密な意味では依然として明確になっていないと考えてよいのであろう。それどころか、ストレスと病気の関係に対して強い疑念を表明するストレス研究者(Dantzer, 1993)すら存在するのである。
最近、ストレス因性の疾患のメカニズムのひとつに数えられるようになった免疫の研究にも、やはり問題がある。ストレスを受けた結果、免疫の監視機構が弱体化するため、癌細胞がその検出を免れる可能性が高まり、それが臨床的な癌にまで発展する、という仮説を立てている研究者たちは、近親を亡くしてまもない者の場合、死亡率がかなり高いことが既に知られている(Parkes et al., 1969; Rees & Lutkins, 1967)ことに加えて、それ以外の者よりも、癌細胞の発育を妨げると考えられている免疫能が抑制されることまでは明らかにできた(たとえば、Herbert & Cohen, 1993)けれども、肉親を亡くしてまもない群で実際に癌の発生率が高いことは立証できなかった(Baker, 1987、5ページ。Jones et al., 1984)し、1900年から87年までに英文で発表された、信頼の置ける癌の自然退縮に関する論文を検討したふたりの心理学者の言うように、「癌の“自然退縮”に関係する正確な免疫機構はわかっておらず、こうした説明をしている研究者は、それに関与するメカニズムを明確に把握したうえでというよりは、それが何らかの手がかりになるのではないかとの希望のもとに、そのような説明をしているように思われる」(Challis & Stam, 1990、548ページ)からである。ストレスとされるものと臨床的な癌の発生との相関関係は、これまでの研究からある程度明確になっていると言えるのかもしれない(註1)が、その一方で、日常生活の中でのストレス状況が癌の発生率に関係しているとする仮説がほとんど裏づけられなかったとする研究もある(Joffres et al., 1985)。
とはいえ、これまで指摘されてこなかった視点から言えば、胃透視をしながら行なわれる“ストレス面接”によって胃酸の過剰分泌などが観察され、それが仮に胃炎や胃潰瘍に発展したことが確認されたとしても、本人にとってその内容が本当にストレスなのかどうかは、また別の問題なのである。結果的に心因性の症状を発生させる契機となる出来事を“ストレス”と呼ぶとすれば、それは確かにストレスということになるが、しかしながらそれでは、“ストレス”の本質に関する考察を回避したまま議論を進めていることになるであろう。たとえば、私の知っているある電器店の店長は、新しくできた支店に手伝いに行くよう社長に指示される度、その直後から蕁麻疹を広範に出現させた。私自身もそれを何度か観察しているので、このふたつの事象の間に因果関係があることはまちがいないであろう。そして、本人も店員たちも、その支店の支店長と本人が昔から折り合いが悪く、その支店に手伝いに行くのを嫌っているため、その“ストレス”によって蕁麻疹が出たと考えていたのであった。とはいえ、このような事例は、本人(や周囲)がストレスと考えているものとその症状との間に因果関係があることを示す証拠にはなる(註2)が、私の理論からすると、双方の意識とは裏腹に、このふたりが本当は仲がよく、したがって手伝いに行くことが本人にとってはうれしくて、それを意識に対して否定する目的で蕁麻疹を作った可能性が、私の考え方からするときわめて高いため、本人の本心にとってそれがうれしい出来事ではないことが明確にならない限り、その“刺激”が本当にストレスであることの証拠にはならないのである。
思い込みに基づく原因決定
もうひとつの問題は、ほとんどの場合、症状の原因となる“ストレス”が、患者自身の主張や治療者の思い込みに基づいて推定されているにすぎないことである。そのような現状が許容されているひとつの理由は、心因性症状の原因を明確にする方法論が確立されていないことであろう。厳密な議論により“ストレス”理論の正当性を裏づけようとする努力が一方で行なわれたとしても、現実には、その努力を無にするような粗雑な推定が横行しているのである(註3)。ある時、私の知っている白血病の患者が、入院中に軽い神経症症状を出現させたため、主治医の紹介により、わが国で指導的な立場にある大学病院の心療内科に外来受診した。一時間弱の診察の結果、その患者は、要するに「長男であることによるストレス」によってその症状が出現したと明記されている診断書を持って帰院したのであった。
これほど粗雑な推論や断定は論外であろうが、“心因となるストレス”を厳密に検討しているはずの研究を見ても、質的には同様の推定が行なわれ、それを基盤にして議論が展開される。そして、その推定が当たっているかどうかの検討は、不思議なことにほとんど行なわれていないようなのである。
重要な人物を喪失した体験が鬱状態の原因となるかどうかを検討している、ロチェスター大学精神科のアーサー・H・シュメイルが行なった研究を例にとって説明しよう。その中でシュメイルは、喪失体験を、(1)現実に起こった喪失、(2)現実に喪失が起こりそうになった状況、(3)象徴的な喪失、(4)喪失なし、という四段階に分け、発症との時間的関係を調べている。本人や家族の証言のみをもとにそうした出来事を“原因”と決定してしまうという、欠陥の多い方法論を用いていることを別にしても、この研究には大きな問題がある。発症のどれほど前であれば因果関係が考えられるかという点に関する考察がほとんどなく、しかも、原因とされる出来事と結果である症状出現とが、時間的にかなり開いてしまっているからである。特に、一番肝心な、現実に喪失が起こっている群(5名)では、喪失とその結果であるはずの鬱状態とが、短いもので24時間、長いものでは一年も開いてしまっている(Schmale, 1958、264ページ)(註4)。私の経験では、癌などの長期的疾患を除けば、心因性症状の場合、過去形(原因が過去にある事例)では症状出現の直前に、未来形(原因が未来にある事例)では、せいぜいのところ症状が出現した日(ほとんどの場合、その晩)の翌日に、原因に絡む出来事が潜んでいることが明らかになっており、これまでのところでは、ほとんど例外が見つかっていないのである。
新しい心因論へ向けて
このように、ストレス理論という現在の心身医学の根本概念は、いわゆる心身症全般の病因として確実に証明されているものではないことが、特に臨床への適応段階では問題の多いことが、以上の説明である程度おわかりいただけたであろう。本書は私の心理療法の正当性を裏づける証拠の提出を目的としたものではないので、ここでは、一歩譲って、ストレスのような機械的要因以外のものによっても心身症が発症する可能性のあることが明らかになりさえすればよい。宗教心理学研究所の本山 博が指摘しているように、「心身相関の問題を考える時、単に物理的生理的次元においてのみ考えてゆくと、何時かは行き詰りが生ずる……。心身相関の中に非物理的な次元で働く精神を考えに入れてゆかないと、心身相関の問題は根本的には解決されない」(本山、1969年、158ページ)ものかどうかを検討する余地が残されてさえいれば、それで十分なのである。
ところで、現在の心身医学の基本概念を支える理論はもうひとつある。それは、シカゴ精神分析研究所のフランツ・アレキサンダーに代表される、精神分析的視点からの心身症理論(アレキサンダー、1989年。Taylor, 1987)である。しかしながらここでは、「神経症患者の精神分析的研究を通じて、この情動障害が長びけば慢性の身体障害が出現しうることが明らかにされた。……情動が精神的葛藤により抑圧される、つまり意識下に押しこまれ、適切な放出が妨げられた時はいつでも、ヒステリー症状の原因になる慢性緊張のもとになる可能性がある」(アレキサンダー、1989年、24-25ページ)という主張が、憶測に基づく以上のものではないことを指摘しておけば十分であろう(註5)。
註
[註1] ローレンス・ルシャン以来、癌の発病ないし悪化の心理的要因に関する研究は数多く行なわれている(たとえば、吾郷、1994年。バルトラッシュ、1963年。キッセン、1967年。Brown, 1966: Jacobs et al., 1980; Morris et al., 1981; Pettingale et al., 1985; Robinson et al., 1985; Thomas, 1974; Wirsching et al., 1982)。ハンス・J・アイゼンクは、共同研究者とともに、きわめて組織的な介入研究を長期にわたって行ない、有望な結果を得たことを発表している。アイゼンクらの主張によれば、心理的要因と癌の発病や悪化との間に、相関関係を越えた因果関係が認められたという(アイゼンク、1993年。Eysenck & Grossarth-Maticek, 1991; Grossarth-Maticek & Eysenck, 1991)。他にも、癌患者の介入研究はいくつか行なわれている(たとえば、Fawzy et al., 1990a, b, 1993)。また、癌患者の心理療法による効果については、エラスマス大学医学心理療法科のR・W・トリユスブルクらの総説論文(Trijsburg et al., 1992)を参照されたい。また、日本語で一般向けに概説されたものとしては川村らの論文(川村ら、1994年)がある。
[註2] 藤田らは、インシュリンの投与をほとんど必要としないまでに血糖値が低下し、尿糖が減少していたにもかかわらず、退院が近づき復職の話題が出ると、自律神経系の症状が出現した糖尿病患者の症例を報告している。しかしながら、「課長を辞めて出勤することに話が決まると自覚症状は改善し、血糖も安定し、現在もそのままのよいコントロールが続いて」いたという(藤田他、1967年、269ページ)。このような事例は時おり見聞きするが、通常はこれも、退院が近づいたストレスによる再発と断定されてしまうのである。
[註3] アメリカの心理療法“業界”にも同様の問題がある。その点については、カーネギー・メロン大学の心理学者ロビン・M・ドウズの近著『トランプの家 House of Cards: Psychology and Psychotherapy Built on Myth』(Dawes, 1994)に詳しいので参照されたい。
[註4] イアン・スティーヴンソンは、「関連するストレスと症状との間には、あるいはストレスの発生と最初の症状および患者が医療を求めることとの間には、かなりの時間的開きが生ずる」(Stevenson, 1969、1231ページ)場合があると述べている。しかしながら、その“ストレス”と症状の内容との類似性を除けば、それが症状出現の真の原因であることの証明はできないのである。
[註5] ただし、いわゆるストレスに起因する症状は存在しないと主張しているわけではない。そうした原因によって心身症が起こることがあるとしても、私たちが診療場面で日常的に接する心因性疾患は、経験的に見て、そのようなストレスによるものではないのではないか、と言っているのである。動物を用いて、実験的に胃潰瘍を作ることもできるとされるし、極限状況で胃や小腸に急性の潰瘍を発生させたとされる事例(たとえば松田、1983年、262ページ)や突然死を起こしたとされる事例群(Bruhn et al., 1974; Engel, 1971; Lown et al., 1980; Richter, 1957)も存在するので、ストレスによる心身症もあるのかもしれない。しかしながら、ネズミよりも系統発生的に人間に近いサルを対象にした実験の中には、拘束状態のサルに単純な刺激を与え続けただけでは胃潰瘍は発生せず、胃潰瘍を作るにはかなり微妙な条件が必要であったという報告(小川、1962年、139ページ)がある一方で、一頭のサルを檻に入れて別の群の中心に置き、“いじめられる”状態を続けさせたところ、3日目に胃体上部から出血が始まったという報告(原田、1990年、89ページ)もある。種によって感受性がかなり異なるらしいことを示すこのような相対立する報告を見ると、控え目な言い方をしても、現在の心身医学では安易にストレスに原因を求めすぎているように思われる。
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