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 「懲りない・困らない症候群」とはどのようなものか

日常的に見られる不思議な行動

夏休みの宿題

 夏休みが終わりに近づく8月末になると、それまで手をつけていなかった宿題をあわてて始める子どもたちは、私たちの身の回りにもたくさんいる。夏休みに入る前に、休み中の計画表を提出していたとしても、それに従って着々と宿題を片づける子どもは、実際にはかなり少ないのではなかろうか。夏休みに入ってまもない頃は、迷うことなく遊びに専念し、宿題は8月に入ってから始めようと思っているが、実際に8月になるとなかなか着手できず、そうこうしているうちに8月も半ばを過ぎ、少しはあせりを感じ始めるとしても、結局、ほとんど手つかずのまま8月の末を迎えてしまう。そして、時間が絶対的に足りなくなり、大変な思いをして宿題に取り組むが、できあがりはどうしても不十分なものになりやすい。また、家族が手伝って仕上げることもあるが、その場合ですら、一部の宿題の提出が9月の新学期に間に合わないこともある。その結果、担任の教師に叱られ、その時には恥ずかしい思いやみじめな思いをして多少なりとも反省するのかもしれないが、「喉もと過ぎれば熱さを忘れ」て、その後もなぜか同じことを繰り返し、多くの場合、その傾向は成人に達して以降も延々と続く。

試験前日の不思議な行動

 同じような傾向は、もちろん夏休みの時以外にも見られる。ふだんは家にいて、テレビを見たりゲームをしたりすることで夕食後の時間をのんびり過ごしている中高生が、中間・期末テストの前になると、なぜか落ち着かず、必要以上に外出が多くなったり、ふだんにもまして睡眠時間が長くなったりするという現象も、よく知られているところであろう。テストが目前に迫り、勉強すると言って友人の家や図書館に出かけても、実際には遊んでばかりで時間をむだにしていることが多いし、自宅で勉強するつもりでいても、机の前に座ることすら容易ではない。何とか覚悟を決めて座っても、ふだんは思い出さない別の用事をすぐに思い出して気持ちが逸れ、そちらに取りかかってしまったり、いつのまにか眠り込んでいたり、なぜか頭が働かない状態に陥ったりして、結局〈一夜漬け〉という形を取らざるをえなくなる。そこまで切迫しても、また、あせる気持ちもないわけではないのに、どうでもよいことばかりに時間をつぶし、深夜になってからようやく教科書を開くことができる段階になる。受験生にも、同種の行動は頻繁に観察される。「自分には実力があるのだから、本気を出せば合格する」などと思いつつ、現実には真剣に勉強に取り組むことなく、それまで以上にのんびりした生活を送り、最終的に「本気になる」ことがないまま受験期を迎えてしまうのである。こうした行動は、一般には「計画性がない」とか「現実からの逃避」などとして説明される。

締切り前日まで着手できない

 成人の場合には、この傾向は、締め切りのある仕事の着手が難しいという形を取る。明日になったら始めようと思い、その明日が来ると、また明日にしようと先延ばしにし、「締切まぎわになった方が集中力が湧き、いいアイデアが浮かぶ」などという理屈をつけながら、結局、締め切りが間近に迫ってしまう。しかし、そろそろ始めなければと思いつつも、遊び回ったり、長電話をかけたり、テレビやビデオを見たり、ゲームをしたり、雑誌をめくったり、飲食にふけったり、どうでもよい片づけをしたりして、肝心の時間をつぶしてしまう。極端な場合には、前日の夜にならなければ、実際に着手するのが難しい。それでも一大決心が必要かもしれない。そして、徹夜をしても時間が不足し、締め切りの日に不十分な形でとりあえず提出しておき、その後に修正やつけ加えをさせてもらうこともある。言うまでもないが、小中学生よりも成人の方が、その結果は重大である。サラリーマンであれば、先輩や上司から注意や叱責を受けるし、自営業者であれば、取引先や顧客から苦情が入り、信用を失う恐れがあるのみならず、それが将来の昇進に響いたり、取り引きの停止を申し渡されたりすることになるかもしれないからである。このような行動は、〈意志が弱い〉結果などと考えられることも多い。

肝心な場面での眠気

 授業中や会議中にあくびばかりしたり、眠気が襲ってきたり、実際に眠り込んでしまう人たちもそれほど珍しくない。それが授業中であれば、数学や英語などの主要教科で起こりやすいし、会議中であれば、ある程度重要な会議の時の方が起こりやすい。もちろん本人は、その先生が嫌いだからとか、授業や会議がおもしろくないからとかの理由をつけているが、自分でも眠ってはいけないと思っていても、やはり眠り込んでしまう。そして、休み時間や休憩に入ると、速やかに目覚めるのである。ところが、不思議なことに、眠っていた最中に教師が話したことや会議の話題にのぼったことを、なぜか明確に記憶している人たちもある。このことからすると、この種の眠りは、浅いというよりは、催眠によるものに近いと考えた方がよいのかもしれない。とはいえ、このような眠気については、どのように説明したらよいのであろうか。

主婦の片づけ

 もちろん、問題は、外で働く人たちにしかないわけではない。家事を本業とする主婦の場合にも、やはり同質の問題が起こるのである。ところで、家事と総称される仕事の中でも、食事の仕度や洗濯に抵抗を示す主婦は、なぜか比較的少ないように思われる。それに対して、食器の後片づけを嫌う主婦は、少なからずいる。しかし、それよりもはるかに難しいのは、部屋や押し入れなどの片づけなのではなかろうか。片づけなければならないことを十分承知しているが、あるいは、衣替えのために衣服を出し入れしなければならないことを頭ではよくわかっているが、やはり先延ばしにして、それに着手するのが難しい。掃除機をかけられる部分だけかろうじて掃除できたとしても、片づけは依然としてできない。ひどい場合には、数年の間、満足な片づけができないことすらある。これは、一般には「だらしがない」と言われる行動であろう。ところが、それほど容易ならざる片づけが、来客があるのをあらかじめ承知している時には、必要最小限にではあるが、それほど無理をせずとも、比較的短時間のうちにできてしまうのである。

片づけができない

 また、自分の部屋を持たない主婦の場合にはわかりにくいが、他の部屋やどうでもよい部分の片づけはできても、自分の部屋の必要な部分の片づけが難しい者は、男女を問わずきわめて多い。他の部屋はある程度にせよ片づけることができるのに、自分の部屋は、足の踏み場もないほど、いろいろなものが床に散乱したままなのである。ただし、ほとんど使わない机の奥などの、あまり意味の綯い部分の片づけだけはできる者もある。人によっては、必要な部分を片づけようと思っただけで、あるいは自分の部屋に入っただけで、だるくなったり、すぐに眠ってしまったり、喘息や鼻炎などのいわゆるアレルギー症状が出たりして、片づけを始めるどころではない。ひどい時には、自室にある不要な空き箱を室外へ出すだけでも2、3年を要することすらある。また、片づけというほどのものではなく、テーブルの上にある書類一枚を机の上に移したり、それほど手がかかるわけではない作業をしたりなどの、ちょっとしたことさえできない人たちもある。一方、学業を本業とする学生や事務的な仕事を本業とするサラリーマンなどの場合には、自分の机の上の片づけが難しい。そのため、やむなく机の片隅にわずかなスペースを作って、そこで勉強したり書類を整理したりすることもあるし、こたつや食卓や寝床など、机以外の場所で勉強や仕事をすることもある。自室でひとり勉強する学生と違って、同僚たちと同じ部屋で仕事をしているサラリーマンの場合には、「人にだらしがないと見られたくない」とは思っていないかのようである。

 以上のことからわかるのは、かなりの比率の人たちが、何よりも自分本来の仕事すなわち本業に取り組むのが難しいらしいということである。それに対して、本業以外のことは、本業を避けるための手段として絶えず用いられるという事実からもわかる通り、抵抗はほとんどない場合が多い。

自分が予定通り動いてくれない

 もちろん、本業とは関係なく難しいものもある。そのうちのひとつは、三日坊主と総称される問題に関係したものである。日記や家計簿をつけ始めても、数日程度でやめてしまう。また、長年の念願であったスポーツや勉強を始めても、半年分や1年分の授業料を最初に払い込んでしまっていてすら、やはり長続きしない。スポーツクラブや外国語の会話教室に自分から進んで入会したのに、しばらくすると通うのがおっくうないし苦痛になってくる。そして、まもなくまったく通わなくなってしまう。月会費が銀行口座から引き落としになっている場合には、通わなくなっても、引き落とし停止の手続きもせず、かなりの金額が何ヵ月も引き落とされるのを黙って放置している者もある。それに対して、テレビ・ゲームなどの単なる娯楽であれば、飽きもせず延々と続けることができる。このように、無益な遊びであれば、かなりの時間を要するものでも、抵抗なく続けることができるのである。人間は、自らの意志に反して、困難な仕事を続けるよう自らを鞭打って努力しなければ、堕落するようにできているのであろうか。

 遅刻とも関係が深いが、朝、起床が難しいという人たちも多い。目覚ましをかけておき、所定の時刻にベルが鳴っても、「もう少し」と思いつつ、それを止めてまた眠り込んでしまう。それを何度か繰り返すという儀式を経て、ようやく床から抜け出すことができる。そして、あわただしく身仕度を整え、登校ないし出勤するのである。起床が遅れる分だけ早く床に就いても、結局、朝になって目覚める時間は同じになってしまう。ところが、平日にはそれほど苦労するのに、休日に遊びに出かける時には、早朝でも速やかに目が覚めるのである。

 筆無精と言われる人たちも、私たちのまわりにはたくさんいる。贈り物が届いたので礼状を書かなければ、あるいは手紙をもらったので返信を出さなければと思いながら、「また後にしよう」などと考えているうちに、いつのまにか日にちが経ち、出すべきタイミングを失ってしまう。その結果、次にその相手に会った時に居心地の悪い思いをしなければならないので、今度こそすぐに礼状を書こうなどと思っても、依然として同じことを繰り返してしまうのである。

肝心なことが決められない

 また、優柔不断と言われる行動もある。いくつかの選択肢がある場合、どれを選んでよいのかわからず、結局、人に決めてもらったりする行動のことである。もちろん、重大な決定を伴う場合には、慎重にならざるをえないし、そうすべきであろう。しかし、いわゆる優柔不断な人たちは、誰かに相談するほどでもないことまで、人に決めてもらいたがる。それが極端になると、たとえば、レストランで何を注文したらよいかが決められない。誰かにつれられて行き、好きなものを注文するよう言われても、どれにしてよいかわからず、結局、いつも一番安い料理を選んだりするのである。

 優柔不断の亞型に、他人から意見を聞くと、そのつど、それをそのまま自分の意見にしてしまうというパターンがある。もちろん、他者から直接聞いた意見の場合もあれば、本などに書かれているものの場合もある。この種の人たちは、そのため、人から意見を聞かされるたびに自分の考えを変えてしまう。次に聞いた考えが、それまでの考えと正反対の場合であっても、あっさりと、しかも平然と意見を変えることすらあるので、「自分がない」とか「節操がない」とかと見られることになる。このような人たちは、もちろん、自分が発した言葉に責任を感じることがないし、信頼性がないことを強く指摘されてすらそれを認めない。その時その時の考えなのだからしかたがないというわけである。その人が周囲に及ぼす影響が小さければ問題も小さくてすむけれども、その人が社会的に重要な立場に置かれている場合には、問題は大変大きなものとなる。

物の扱いに見られる不思議

 人から物をもらったり、自分の食事代を出してもらったりすることを極度に嫌う人たちもある。また、母親や子どもからもらったものを、素直に喜ばず、逆に文句を言ったり、けちをつけたり、すぐにしまい込んでしまったり、人にあげてしまったり、壊してしまったりする人たちも少なくない。それでいて、あまり親しくない人からもらった物に対しては、必要以上に喜んだり、ひどく大事にしたりするのである。このような落差は、どこに由来するのであろうか。

  念願の洋服や本などを、いざ買おうとすると、「本当はほしくないんじゃないか」などという疑問が浮かんできて、なかなか購入に踏み切れない人たちもある。あるいは、苦労してようやく手に入れても、どういうわけかその直後に関心を失い、簟笥や本棚に突っ込んだままにしてしまう者もある。手に入れるまでは、それを非常に楽しみにしており、その購入のため遠方まで出かけたりすることもあるが、いったん手に入れてしまうと、やはり、どこが気に食わないなどと、どうでもよい部分にけちをつけたり、すぐに壊してしまったり、それを手に入れたことを速やかに忘れてしまったりするのである。さらに異常な例としては、買ったものをいったん自宅に持ち帰りながら、「もしかして必要のないものを買ってしまったのではないか」などと思い始め、いても立ってもいられなくなって、購入した店までわざわざ返しに行く人たちもある。このような例では、購入の目的がさらにわからなくなる。

睡眠薬代わりの本

 昼夜を問わず、難しい本を読むと眠くなると言われる。とはいえ、難しい本といったところで、手元にあるものには違いないので、たいていは自らが購入したものの、「難しくて」ほとんど読めなかった本のことであろうから、最初から全く関心がなかったわけではあるまい。実際には、家族の誰かが購入した、本人には無縁の本を読んでも、それによって眠くなることはほとんどないのに対して、本人が自分の勉強や仕事のために購入していながら、面倒だとしてそれまで手をつけていなかった、あるいは何度挑戦しても読めなかった本を読んだ時に眠気が出ることが多い。その場合には、最初の半ページほど活字を追うだけで眠ってしまうことすらある。このような現象に対しては、退屈だからという説明は成立しにくいであろうが、いずれにせよ、それほど短時間のうちに眠り込んでしまうほど速やかに眠気が出るのはなぜなのであろうか。

 また、書店や図書館など、本がたくさん並んでいる場所に行くと、眠くなったり、頭痛や腹痛が起こったり、ひどい場合には下痢が起こったりする人たちもある。この場合、書店や図書館に入るだけでこのような症状を出す人もあれば、特定のジャンルの本が並んでいるコーナーに行った時にだけ症状を出す人もある。

恋愛感情の不思議

 熱烈な恋愛をしているふたりが、いざ婚約をすると、とたんに後悔を始めることも少なくない。最悪の場合には婚約を解消したりすることもある。また、恋愛時代や新婚時代には、きわめて仲むつまじく見えたふたりが、結婚後しばらくすると、一緒にいるだけで楽しいという状態も次第に薄れ、気遣いあうこともなくなり、会話も途絶え、一緒にいるのが退屈ないし苦痛になり、互いに不満を抱き、つまらない理由で夫婦げんかが頻発するようになる。

 また、夫の箸の上げ下ろしがいちいち気にさわり、夫が帰宅する足音を聞いただけで、頭痛を起こしたりする妻もある。そのような妻の場合には、夫が出勤すると頭痛が消えるところをみると、夫と一緒にいること自体がストレスになっているのであって、それはやはり、夫に対する妻の愛情が冷めたせいなのではないか、と一般には考えられている。また、初めから愛情がなかったのに、誤解に基づいて、あるいは損得勘定から結婚してしまったからではないか、と考える者もあろう。しかし、それでいながら離婚もせず、同居を続ける夫婦も少なくない。それは、互いに愛情はなくとも、夫には家事に従事してくれる妻が、妻には収入をもたらしてくれる夫が必要だからなのであろうか。

 逆に、恋愛関係のような夫婦関係が、結婚後何十年か経ってすら続く夫婦も一部にある。そのような夫婦の場合には、一方が病気で入院すれば、もう一方は毎日でも喜んで面会や看病に通う。このような夫婦は、確かに仲むつまじく見えるが、内づらも外づらも区別がなく、夫婦関係が他人行儀になっているため、事情を知らない者が見ても、どこか不自然に感じられるものである。

心理的距離という問題

 また、どこの家庭でも、祖父母は孫を、ほとんど無条件にかわいがる。自分の子どもは抱いたこともなければ一緒に遊んだこともない祖父が、あるいは子どもにはつらく当たってきた祖母が、なぜか孫に対しては、「目の中に入れても痛くない」ほどかわいがることができるのである。それについては、親は子どものしつけをしなければならない責任があるのに対して、祖父母にはその責任がなく、かわいがっているだけですむため、心理的に余裕があるからではないかとか、育児に習熟しているためなのではないか、と言われるかもしれない。しかし、それだけなら、自分の子どもには感情をむき出しにしてきた祖父母が、孫に頭を叩かれても怒りもせずかわいがることなどについては、説明できにくいであろう。そのこととも関連するが、母親がミルクをあげても飲まなかったり吐いたりする子どもが、祖母に抱かれると素直に飲むことが多いのは、また、母親が抱いても泣きやまない乳幼児を祖母が抱くと泣きやむことが多いのは、なぜなのであろうか。この疑問についても、母親は育児に慣れていないのに対して、祖母は慣れているからではないか、という答えが返ってくるかもしれない。

 これまで並べてきた行動は、不思議ではあるが必ずしも異常とは言えない程度のものであった。しかし、次に列挙するように、日常的に見られる行動や変化の中にも、少々異常と呼ぶべきものもある。

日常的に見られる少々異常な行動

遅刻や忘れ物の常習犯

 始業時間や待ち合わせの約束に必ず遅れる遅刻の常習犯も、私たちの身の回りで時おり見られるものである。それも不思議なことに、いつも決まった時間だけ遅れる者が多い。それなら、その時間だけ早く家を出れば、始業時間や約束にいつも遅れずにすむはずである。もちろん本人は、たいてい意識でそれを承知しているので、そうしようと努力することも少なくないが、それでもほとんどの場合は、やはり同じ時間だけ遅刻してしまう。その結果、職場であれば、上司に厳しく注意されたり、減俸処分を受けたり、また友人同士の待ち合わせであれば、友人に皮肉を言われたりあいそをつかされたりするが、にもかかわらず、遅刻は依然として続く。これは、このような傾向を持つ者以外には理解しがたい行動であろう。

 また、学校の宿題を必ず忘れる子どもも、1クラスにひとりやふたりはいるであろう。担任の教師が厳重に注意したり、場合によっては罰を与えたりするにもかかわらず、相変わらず宿題を忘れるのは、記憶力が極端に悪いせいなのであろうか。とはいえ、記憶力の欠陥がその原因であれば、他の点でも同様の問題が頻発するはずである。もし宿題などの一部の領域にそれが限定されているとすれば、それを記憶力で説明することはできまい。学校の宿題などどうでもよいと思っているからか、いわゆる怠け者だからか、意志が弱いからかの、いずれかの理由が通常は考えやすいであろう。

 同じ問題は、もちろん成人でも観察される。その場合、特定の人物や特定の仕事、特定の範囲の約束や出来事を選択的に忘れるという形を取ることが多いので、周囲から見るときわめて奇妙に感じられるものである。たとえばある主婦の場合には、子どもから買い物を頼まれた時には、それが何であれ忘れることはないのに、夫から頼まれた時には、決まったものであるにもかかわらず、どのような工夫をしても必ず忘れてしまうのであった。夫に頼まれたものだけを選択的に忘れてしまうのは、子どもには愛情を感じているのに対して、夫を意識的、無意識的に嫌っているからではないかと思われるかもしれないが、それにしても、なぜそこまであからさまな態度を取る必要があるのかは不明であろう。

 必要な書類などをどこかに必ずしまい忘れる人たちも少なくない。いつか整理しようと思っているうちにどこかに埋もれてわからなくなるため、今度こそ忘れまいとしてファイルにきちんと納めたはずなのに、今度はそのファイルがどこに行ったのかわからない。その結果、それを探し出すのに半日がかりになることすらある。また、必ず電車の切符をなくしてしまうという人たちもいる。いつも切符がどこかに行ってしまうので、今度こそなくさないようにと気をつけているにもかかわらず、いざ降りる段になると、ポケットや財布の中を探しても見つからない。しまいにはバッグの中身を全部出すが、その中からもやはり出てこない。ところが、なくしてしまう切符は、近距離のものに限り、ある程度高額の遠距離切符の場合には、まずなくすことはない。これなどは、適度に自分を困らせているかに見える行動である。

正当な自己主張ができない

 相手から働きかけられると、それを断われないという人たちも少なからず見られるものである。デパートなどで店員が近寄ってくると断わりきれないので、いつも逃げるようにしているが、うまく逃げきれず、つかまってしまうと、その店員の薦めに従って、高額の買い物をしてしまう人たちもあるし、自宅を訪ねてきたセールスマンに、やはり高額の商品を買わされてしまう人たちもある。そのような人たちは、いったん説明してもらうと、断わっては申し訳ない気持ちになるのだという。また、友人からかかってきた電話が自分からは切れず、それが真夜中であっても、あるいは眠っているのを起こされてすら、長々と相手の話を聞く人たちもある。相手も同じように気を遣っている場合には、どちらからも電話が切れず、どうでもよい長話が延々と続くことになる。このような行動を取るのは、「人がよい」からなのであろうか。

あくびの伝染

 時間があり余った時には、すぐに眠くなってしまったり、生あくびばかり出たり、場合によっては頭痛や腹痛などの身体症状が出たりする人もある。何人かの人たちと一緒にいても、話題がなくなったり、何もすることがなくなったりすると、誰かが最初にしたあくびが伝染することもある。このような、いわゆる手持ちぶさたの状態になった時には、極端に居心地が悪くなり、やたらたばこを吹かしたり、貧乏揺すりをしたり、急にその場を立ったりする人もある。人間は、時間があり余った時には、なぜすぐに眠気が出たり、生あくびを繰り返したりするのであろうか。さらには、横になったり眠ったりすることのできない状況では、時間をつぶすことになぜ苦労するのであろうか。

子どもの虐待

 明らかに病気の症状として扱うべきものも、日常生活の中で頻繁に観察される。妊娠中には問題がなかったのに、出産したとたんにうつ状態に陥る女性は、かなりの数に昇るようである。マタニティー・ブルーとして最近よく知られるようになったこの現象は、ホルモンのバランスが崩れた結果起こるとされたり、心理的に未熟な女性が子どもを育てざるをえなくなったことに、あるいは、無意識のうちで子どもを望んでいなかった女性が子どもを持ったことに起因する心理的負担の結果とされたりすることが多い。それと同列の現象であろうが、自分の子どもを心からかわいがることができず、いじめたり虐待したりする母親も決して少なくない。そうしてはいけないことを意識で承知していながら、ついつい虐待してしまうのは、やはり無意識のうちに子どもを嫌っているせいなのであろうか。それとも、ある心理学者の言うように、人間は本能が壊れているからなのであろうか。そのためか、子どもが病気になったりすると、看病らしいことがどうしてもできず、放置しておいたり、必要な処置を回避したりする母親も珍しくない。一方、子どもの側は、それを根拠にして、母親に対するうらみを発展させることが多い。また、長子が虐待の対象になる傾向がきわめて高いようであるが、逆に言えば、母親は、それ以外の子どもには、なぜか比較的ふつうに接することができるということである。

新築と症状

 家を新築すると、いろいろな病気が起こりやすいことも昔からよく知られている。それは、新しい土地に注文で建てたり、建て売り住宅を購入したりした時にも、それまで住んでいた古い家を壊し、そこに新築の家を建てた時にも同じように起こる。その結果として、自覚症状が中心の自律神経失調症になることもあるし、胃潰瘍や喘息などの心身症を起こすことも、神経症や精神病を発症させることもある。昔は、その原因を鬼門の方角などに求めることも少なくなかったが、現在では、ローンの返済にまつわるストレスや、新しい環境に適応できないことによる、あるいは慣れ親しんだ環境から引き離されたことによるストレスなどが、その原因として考えられている。しかし、完成直前まで楽しみにしていたのに、いざ新築の家屋が引き渡されると、とたんにそれまでの喜びが消え、さまざまな症状が出現するという現象が、そのような理由で説明できるものであろうか。

 それとは別に、頻繁に転居を繰り返す人々もある。転勤などのためであればしかたないが、ふつうの意味ではまったく不必要な転居をするのである。本人は、同じ場所に長く暮らして周囲の人たちと顔見知りになると、個人的な質問をされるのでそこにいにくくなるという理由をつけることが多い。近くの商店に入ってもいろいろ聞かれるし、近所の人たちにもあらぬ詮索を受けるので、落ち着いて生活できないというわけである。〈住めば都〉とは逆に、かえって住みにくくなるのはなぜなのであろうか。

禍福はあざなえる縄のごとし

幸福に直面したときに出る症状

 旅行の直前に病気などが起こりやすいことも、やはり昔から知られている。これが、遠足や運動会の前の晩に発熱や喘息発作を起こす小中学生の場合と同じからくりであることは、容易に推測できるであろう。1週間くらい前までは楽しみにしていても、出発の日が近づいてくると、次第に不安が高まり、旅行の楽しみが消し飛んでしまう。同行者とうまくやって行けるだろうか、枕が変わっても眠れるだろうか、といった不安が押し寄せてくるのである。また、家族旅行などでは、誰かが病気になったり、けがをしたり、両親がけんかをしたり、子どもが旅行先で迷子になったりなど、必ずけちがつくことも少なくない。家族はひとつの単位なので、病的な家族の場合には、どこかから必ず膿が吹き出すようにできているのであろうか。それにしても、こうした出来事がこのような時に起こらなければならない必然性は不明であろう。

 昇進の辞令を受け取った直後に落ち込んだり、胃潰瘍を再発させたりするという現象も、昔からよく知られている。通常は、これは、責任の重さによるストレスが原因だとして説明される。常々、昇進を嫌っていた者であれば、そのような説明もあるいは可能かもしれない。しかし、昇進を望んでいた者の場合にも、同じような症状を出現させる者が少なくないのである。もしそうしたストレスが原因だとすると、それまで予測されていなかった責任の重さが、辞令を受け取った瞬間に実感されたと考える以外ないであろう。とはいえ、実務に就いてしばらくしてから責任の重さを実感するようになるのならともかく、これでは、心の動きとして自然ではない。それに、昇進をいったん喜んでから否定するのではなく、辞令を受け取った瞬間から昇進を全く喜ばないことについても、〈責任の重さによるストレス〉では説明できまい。他にも、目標が達成されると喜ばないという現象は、さまざまな方面で観察される。

 何かがうまくゆきそうになると逃げ出す傾向が自分にあることを承知している人たちもある。それが仕事のこともあれば、友人関係のことも、恋愛関係のこともある。このような人たちは、自分の不幸を一方で嘆きながら、いざ幸福が訪れようとすると、自分の方から身を引いてしまうわけである。しかし、それがわかっていても自分の行動が矯正できないのは、なぜなのであろうか。意志が薄弱なためなのであろうか。

 また、子どもの受験準備中には特に症状もなかったのに、子どもの合格を知ったとたんに心身症を発症させたり、寝込んでしまったりする母親も数多いものである。このような現象は、昔から、気の緩みとして説明されてきた。つまり、子どもが受験勉強に打ち込んでいる時には緊張の糸が張り詰めているので寝込めないが、合格を聞いたとたんにその糸が切れて寝込んでしまうというわけである。しかし、気が緩むと心身症になるということが、本当にあるのであろうか。また、単なる気の緩みであれば、子どもの合格そのものはうれしいはずなのに、それを聞いて実際に寝込んでしまった母親に聞くと、誰ひとりとして子どもの合格を喜んでいない。どのような理論であれ、こうした点についても説明できなければならないであろう。

リラックスの否定

 不眠症の患者は、浴槽やこたつの中でウトウトしたとしても、いざ布団に入ると、先ほどまでの眠気がうそのように消え、目が冴えてしまうものである。自宅の布団の中では寝つきが悪く、朝方にならない限りウトウトしないのは、これまで言われてきたように、眠ろうとあせるあまり、かえって不眠になってしまうということなのであろうか。また、不眠症の患者は、自宅、夜、布団の中という条件の時には、仰向けで入眠することがきわめて難しく、うつ伏せか、せいぜい横向きでしか眠れないうえに、寝つくまでに時間がかかるが、同じ自宅であっても、昼寝の場合には仰向けで速やかに入眠できるものである。さらには、旅行中や海外での滞在中などにも、問題なく仰向けで熟睡できる場合が多い。こうした点については、どのように説明すればよいのであろうか。

 不眠症の他にも、夜間に出やすい症状はいくつかある。そのうち、よく知られているものは、アトピー性皮膚炎のかゆみと気管支喘息の発作であろう。両方とも、不眠症と同じく、自宅、夜、布団の中という三拍子が揃った時に起こりやすい。アトピー性皮膚炎の患者は、布団に入って体が温まるとかゆくなると口を揃えて言うし、喘息患者の多くは、朝方になって部屋の空気が冷たくなると発作が起こると主張する。それに対して、医師たちは、交感神経と副交感神経のバランスなどの身体的要因を持ち出すことが多い。ところで、仰向け、暗い、静かという条件が重なると、症状はさらに強くなる。逆に、先の3条件がひとつでも欠けると、不眠症も、アトピー性皮膚炎のかゆみも、気管支喘息の発作も、軽症ですむ場合が多いし、比較的起こりにくくもなる。このような疾患を持つ患者たちは、たいてい、経験的にそのことを承知しており、そのため、布団に入らず、こたつやソファーで眠ったり、電灯やテレビやステレオを意識的につけたまま眠ったり、場合によっては湯を張った浴槽につかって朝まで眠ったりすることすらある。以上の観察事実から、安眠しにくい条件の時には症状が出にくいという推定が成り立つであろう。

このような現象が起こる理由は何か

 これまで紹介してきた出来事は、昔から日常的に観察されてきた。そのため、各項で述べておいたように、それぞれについてもっともらしい解釈が付されている。もちろん、そうした解釈は、それぞればらばらであり、一貫性に欠けている。もし個々の出来事がまったく無関係に起こっているとすれば、各事象の解釈に一貫性がないのは当然であろうが、逆に、もし個々の出来事に関連性があるとすれば、当然のことながら、解釈にも一貫性がなければならない。

 個人差はあるものの、いくつかの問題を同時に抱えている者が少なくないことは、経験的におわかりいただけるであろう。特に、「日常的に見られる不思議な行動」の中で取りあげたいくつかの行動を並行して示す者は、それほど珍しくない。たとえば宿題や仕事の着手の難しい者が、片づけにも抵抗を示したり、遅刻の常習犯であったり、三日坊主であったりするからである。これらはいずれも〈無精者〉とか〈だらしがない〉といった言葉で一括される。とはいえ、無精とかだらしがないとはどういうことか。このような言葉はそうした状態を説明しているにすぎず、その本質は何かということになると、これまでのところ、明確な解答は出されていない。つまり、だらしがないと言われてきた状態の本質というか原因は、少なくとも未だ不明だということである。

 それに対して、「日常的に見られる少々異常な行動」という節の後半で取りあげた症状出現の状況の大半――家の新築、旅行、昇進、子どもの合格――は、本来ならうれしいはずの状況であることがおわかりいただけるであろう。とはいえ、本来なら幸福感が起こるはずの時に、不快な、あるいは人生を大きく狂わせるほどの症状が出現してしまうのは、なぜなのであろうか。

〔拙著『懲りない困らない症候群──日常生活の精神病理学』(春秋社)第1章を改変〕


Copyright 2008-2011 © by 笠原敏雄 | last modified on 10/24/18