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 抵抗の相対性について

抵抗の強さは相対的なものであること

 締め切り間際問題や片づけができないという問題(笠原、2011年)に直面した経験のある人たちなら、抵抗の強さは、その対象によっては尋常一様のものではなく、とてつもないものであることがよくわかっているはずです。頭では重々承知していても、体が言うことを聞かないのです。むりやりそれに向かおうとすると、自分の中にある何者かが全力で阻止しようとします。それが体に現われる場合には、眠気やあくびという形をとることもあれば、頭痛やだるさなどという身体的反応という形をとることもあります。これが頻繁に起こる場合には、ナルコレプシーや特発性過眠症ということになるかもしれませんし、自律神経失調症や慢性疲労症候群という診断がつけられるかもしれません。これが、心身症などの心因性疾患が出現する仕組みのひとつなのです。

 抵抗はそれほど強力なものなのですが、では絶対的に強いのかといえば、そうではありません。そのことは、もっと難しいことに直面しようとすると、それまでどうしてもできなかった課題が、比較的簡単にできてしまうという観察事実からわかります。たとえば、試験のための勉強を、 試験前夜になってようやく始めようとすると、ふだんはできない片づけをいつのまにかしてしまったり、ふだんは読めない別の本を、いつのまにか熱心に読んでしまったりするわけです。いつもできないことが、しかも、いつもなら、それにとり組もうとするだけでさまざまな症状に襲われるるのに、その時には、何の症状もなく、しかも苦もなくできてしまうのです。

 イタリアへ留学することを考えていた30代の女性は、「イタリア語の勉強をしようとすると、英語の勉強がはかどって、困ってしまいます」と語っていました(笠原、1997年)。この女性は、イタリア語の勉強を始めるまでは、英語の勉強が難しかったのです。では、英語の勉強自体が簡単にできるようになったのかといえば、おそらくそうではないでしょう。イタリア語の勉強とは無関係に英語の勉強を単独でしようとすると、相変わらずできないはずだからです。このように、それまでできなかったことができるのは、より強い抵抗に直面しようとした時にほぼ限られるのです。

 このことは、一般的な知識にはなっていませんが、個々の体験者には、よく知られている現象です。その意味でこれは、かつての“青木まりこ現象”(笠原、2011年)のように、孤立した知識と言えるかもしれません。いずれ、体験者たちの情報交換が進めば、きわめて多くの人たちが同じような経験をしていることがわかるはずです。また、これは、ストレス仮説をはじめとする従来的な科学知識では説明できない現象です。それ以前に、専門家は、この種の現象の重要性に気づこうとしないでしょう。いわゆる無意識のうちに、その重要性がわかり、それを避けて通ろうとするからです。一般に真理を突き止めることに抵抗が働くのは、このような仕組みがあるためだと思います。

古典的な実例――フロイト自身に起こったこと

 精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、自著(『日常生活の精神病理学』所収の「計画の度忘れ」という節)の中で自分自身の事例を紹介しています。これも、抵抗が相対的なものであることを教えてくれる格好の実例です。フロイトは、ある若手の研究者に、その著書の書評を書く約束をしていました。ところがフロイトは、「内的な無意識の抵抗」のため、その執筆を先送りしていたのだそうです。そうこうしているうちに、相手の研究者に書評の執筆を催促されます。そこで、あらためて、その晩のうちに書きあげる約束をしたのでした。ところが、「本気で書くつもりでいた」にもかかわらず、その晩に、どうしても先延ばしできない鑑定書を書く予定があったのを、突如として思い出したのだそうです。その結果、「こうして私は、自分の計画が間違っていることを悟ったので、内心の抵抗にさからうことを止め、その男に対する約束を取り消した」(フロイト、1970年、140ページ)のでした。

 フロイトは、みっともないことを承知のうえで、実に率直に、自分の心(この場合、意識)の動きをさらけ出しています。それは、あるはっきりした(とはいえ、フロイトは意識していない)目的があったからだと思います。そのためにフロイトは、相手との約束を再び破るという不面目な結果を招いたわけですし、自分自身が信頼の置けない人間であることを自ら暴露するという悲惨な結末になったわけです。そうすると、その目的は、こうした不利益を補って余りあるほど重要なものだということです。

 フロイトが語っていることがすべてであれば、書評を書く約束を破る必要はなかったはずです。鑑定書の執筆のほうが、書評の執筆よりも重要だというフロイトの考えを尊重するとしても、書評執筆の約束は、その晩であれ翌日であれ、 鑑定書を書きあげた後に果たせばよいからです。翌日に書く場合にも、確かに相手との約束を破ることになりますが、書かないことと比べれば、その約束違反は小さなもので、自らの品性を落とすような結果は回避されますし、相手を落胆させる度合も少ないはずです。

 相手に催促されてその晩に書評を書く約束をしたという経緯が本当なら、その翌日が、たとえば雑誌掲載のための締め切りだったということはないでしょう。そうすると、その約束を果たさなかった理由は、別のところにあることになります。フロイトの言葉を使えば、それは、その書評を書くことに「内的な無意識の抵抗」[註1]が依然として強く働いていた結果としか考えられません。したがって、その“抵抗”が依然として解消されずに続いていた理由がどうしても必要になります。

 おそらくフロイトは、その若手研究者との約束を守る、あるいは自分がその書評を書くことによって若手の研究者を鼓舞するという、より大きな喜びに対するきわめて強い抵抗に直面した結果、それまで先延ばしにしたまま意識から記憶を消していた(フロイトの用語を使えば、“苦痛”のあまり、それまで“抑圧”していた) 鑑定書の執筆[註2]という、抵抗が相対的に弱い(つまり、フロイトにとっては喜びの少ない)ほうの仕事を思い出し(フロイトの用語を使えば、 その“抑圧が解除”され)、 それに飛びついた (正確に言えば、 それに飛びつくために、 記憶の隠蔽を解除した) ということなのでしょう。そうすると、ここには、フロイトの見かたとは正反対の構図というか人間観が見えてきます。

 ついでながらふれておくと、このように記憶は、幸福の否定(笠原、2004年)を続ける都合上、 もちろん無意識的にではありますが、かなり恣意的に操作されるのです。精神分析という考えかたは、 無意識を扱っていると言いながら、実際には全体が意識で許容されやすい方向に変形されてしまっていることが、他ならぬフロイト自身の事例から明らかになったと言えるでしょう。無意識を扱うのであれば、可能な限り意識を介在させないように工夫した方法を使うしかないのです。

 では、先ほど述べたフロイトの(隠れた)目的は何であったかというと、この場合それは、おそらく精神分析という自ら構築した理論体系を護持することではないでしょう。意識が認めることに対して、それよりも抵抗が強いものでなければなりません。それを明らかにするには、フロイトがとりあげているフロイト自身のもうひとつの事例が参考になります。それは次のようなものです。

 計画の度忘れの中には、その動機がこれほど簡単には見つからず、また、見つかった場合には、意外だという感じを非常に強く受けるようなものもある。何年か前、私は非常に多くの患者を往診していた。それでも私は、無料の患者か同僚を往診する場合以外はけっして忘れないことに気づいた。そのことを恥ずかしく感じて以来、私はその日の往診の予定を午前中のうちにメモしておくようにした。(フロイト、1970年、136ページ)

 フロイト流の解釈では、無料で診療している患者や同僚の往診を忘れるのは、意識に置いておくと不快ないし苦痛であるため以外の何ものでもありません。したがって、精神分析の考えかたからすると、フロイトは、経済的に困窮している人々を“無意識”のうちに見下している、きわめて打算的で冷たい人間であることになります。この“解釈”がフロイトにとってどの程度意外だったのかはわかりませんが、いずれにせよ、フロイトが結局それを受け入れたのは、この文面からしてまちがいありません。したがって、自分で考えつき、自力で認めたということですから、この抵抗の強さは、その程度の弱いものだったことになります。

 私の考えかたでは、それとは全く逆の結論になります。実はフロイトは、(1)無料の患者や同僚に対して非常にやさしく好意的な人物か、(2)そのような人々から感謝されることを喜びにしている人物か、(3)何らかの理由で(診療費を受け取る受け取らないとは無関係に)往診そのものが好きな人物かの、いずれかの可能性が高いことになるわけです。このうちでは、第1の可能性が最も高いでしょう。しかしながら、どれをとっても、恥ずかしく感ずる必要があるどころか、自分が患者の治療を真っ先に考えている良心的な人間であることの裏づけにもなるので、そうした往診を選択的に忘れる傾向があることは、むしろ誇ってもよいことなのです。

 しかし、いくら気をつけても、その記憶が繰り返し消えてしまうという事実は、そのことをフロイトが自分の意識で認めるのをきわめて強く避けようとしていたことを意味します。そして、幸福否定という考え方からすれば、それは、そのことにフロイトが非常に強い(意識が許容できないほど強い)喜びを感じているということに他なりません。

 ここで先ほどの疑問に戻ります。フロイトの隠れた目的を考えていたのでした。それは、フロイトが、そこに幸福感を感じていることを、あるいはそのような素直な人間であることを、自分の意識で認めないようにすることではないかと思います。もちろん、今となっては、この仮説を直接に確認することはできません。しかしながら、他の数多くの事例から、このような仮説が正しいことを裏づける証拠がたくさん得られていることを、ここにはっきりと書いておきます。

能力の否定と能力の発揮の関係――今回発見された格好の実例

 ところで、幸福否定という考えかたが、一部の人たちだけでなく人類全体に当てはまるのなら、世の中で能力を十分発揮している人たちはどうなのか、という質問を私はたびたび受けてきました。それに対しては、(1)幸福否定をどこかでしているはずなので、もし能力を十分に発揮しているとすれば、たとえば家庭を崩壊させるなど、別のことで“けち”をつけて、いわば帳尻を合わせているか、(2)能力を発揮しているように見えても、それは本人の一番したいことではなく、二番目以下のことなのではないか、という返答をしてきました。それぞれについて、その裏づけとなる事例はたくさんあるので、この回答自体がまちがっているとは思いませんが、残念ながら、実際に世間で活躍している人たちの実例は、これまでひとつも見つかっていませんでした。ところがこのたび、全く予想外のところで、まさに理想的な実例が発見されたのです。

 それは、誰もが知っている俳人・正岡子規の事例で、「墨汁一滴」という晩年の随筆の中に、その経過が明確に書かれているのです。少々長いですが、あまり省略せずに引用します。この頃の子規は、東京帝国大学国文科の学生で、同級生に夏目金之助(漱石)がいました。これは、結核になって2年後のことで、俳句は既に7年前から作るようになっていました。しかし、まだそれほど本格的なものではありませんでした。

 一時間ばかりも散歩すると又二階へ歸る。併し歸るとくたびれて居るので直に哲學の勉強などに取り掛る氣は無い。手帳をひろげて半出來の発句を頻(しき)りに作り直して見たりする。この時はまだ發句などは少しも分らぬ頃であるけれどさういふ時の方が却つて興が多い。つまらない一句が出來ると非常の名句のやうに思ふて無暗に嬉しい時代だ。或はくだらない短歌などもひねくつて見る。こんな有様で三日の間に紫字のノートをやうやう一回半ばかり讀む、發句と歌が二、三十首出來る。それでも其時の試験はどうか斯うかごまかして済んだ。もつともブツセといふ先生は落第點はつけないさうだから試験がほんたうに出來たのだかどうだか分つた話ぢやない。(十五日)〔中略〕

 この年〔明治24年=1891年〕の暮には余は駒込に一軒の家を借りて只一人で住んで居た。極めて閑静な處で勉強には適して居る。しかも学課の勉強は出來ないで俳句と小説との勉強になつてしまふた。それで試験があると前二日位に準備にかゝるので其時は机の近邊にある俳書でも何でも盡く片付けてしまふ。さうして机の上には試験に必要なるノートばかり置いてある。そこへ静かに坐をしめて見ると平生亂雑の上にも亂雑を重ねて居た机邊が清潔になつて居るで何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと何だか俳句がのこのこと浮んで來る。ノートを開いて一枚も讀まぬ中に十七字が一句出來た。何に書かうもそこらには句帳も判紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。又一句出來た。又た一句。餘り面白さに試験なんどの事は打ち捨てゝしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ヶ月といふので何々十二ヶ月といふ事はこれから流行り出したのである。

 斯ういふ有様で、試験だから俳句をやめて準備に取りかゝらうと思ふと、俳句が頻りに浮んで來るので、試験があるといつでも俳句が沢山に出來るといふ事になつた。これほど俳魔に魅入られたら最う助かりやうは無い。明治二十五年〔1892年〕の學年試験には落第した。リース先生の歴史で落第しただらうといふ推測であつた。落第もする筈さ、余は少しも歴史の講義聴きに往かぬ、聴きに往ても獨逸人の英語少しも分からぬ、おまけに余は歴史を少しも知らぬ、其上に試験にはノート以外の事が出たといふのだから落第せずには居られぬ。これぎり余は学校をやめてしまふた。(十六日)(島田、1924年、111-112ページ)

 その頃は、学年試験の勉強をしようとすればするほど、俳句が自然に浮かんできて、試験の準備期間になると、たくさんの俳句がいつのまにかできるようになったというのです。その一方で、大学の勉強はわからず、そのうえに勉強もはかどらず、当然の帰結として落第してしまい、あげくに大学を辞めてしまったのでした。そして、2ヵ月後には新聞社に勤め、記者になるのです。10年後、子規は弱冠34歳で早世します。

 ところで、子規の愛弟子のひとりだった河東碧梧桐によれば、子規は、もともと知識欲と研究欲が旺盛な人物だったそうです。その証言に続いて、碧梧桐は、子規の能力的側面について次のように述べています。

 所謂天才的な狂的な詩人肌ではなかつたから、新聞を作る一つの事業にも寧ろ適應する素質を具へてゐた。子規を一俳人、ただ俳句の講義をする先生とのみ見てゐた者は、其の多藝多能、どの仕事にも煥發する敏感性と適應性を驚愕の目をもつて迎へねばならなかつたであらう。若し言ひ得べくんば、子規は個人としても公人としても、詩人としても事業家としても、何處にも意議ある生活を築き得た常識的天才であつたであらう。現に子規が一年間「日本」〔新聞〕で働いた手腕が認められて、明治二十七年二月に「日本」を通俗化した「小日本」の發刊を任されるやうな地位にさへ進んだ。蓋し新聞記者として、異數の成功を意味するものであつた。(河東、1944年、149-150ページ)

 子規は、そもそもは政治家を志して上京しています。ところが、すぐに哲学、さらには文学へと志望を変更しているのです。こうして、文学に目標を定めたところまではよかったのですが、文学のどのジャンルが自分に向いているのかはわかりませんでした(坪内、2011年、504-505ページ)。1891年(明治24年)暮、大学が冬期休暇に入った後、子規は、先の引用文の中ほどで述べているように、駒込に一軒の家を借りてひとりで暮らすようになります。それは、1889年に幸田露伴が出した『風流佛』という最初の小説にヒントを得た、「月の都」という作品を書き始めるためだったのだそうです。ちなみに、露伴と子規は、同じ1867年(慶応3年)の生まれです。

 明けて明治25年の正月は、「來客を謝絶す」と書いた紙を玄関に貼り出し、小説の執筆に打ち込んでいましたが、親友の夏目漱石は例外でした。漱石の回想によれば、子規がその小説を露伴に見せたら、「眉山〔川上眉山〕、漣〔さざなみ=巌谷漣〕の比で無い」と評価してくれたと、子規から聞かされたそうです。「自分も非常にえらいもののやうにいふものだから、其時分何も分らなかつた僕も、えらいもののやうに思つてゐた。あの時分から正岡には何時もごまかされてゐた」と漱石は語っています(坪内、2011年、506ページより引用)。

 子規がうそを言っていたとしても、この小説を露伴に見てもらったこと自体は本当でした。露伴は、子規にある出版社を紹介したのですが、当時の出版事情から、その作品はこの時には日の目を見ませんでした[註3]。露伴は、この小説をあまり評価しなかったそうですが、その中の俳句についてだけは高く評価したのだそうです。そのことが、俳人・正岡子規を生み出すきっかけのひとつになったのでした(同書、508-511ページ)。このように、子規が小説を書きたかったのは確かなようですが、実際に発揮された能力は、俳句と比べればそれほど高いものではなかったようです。

 そうすると、大学の勉強にまちがいなく抵抗があったことから判断すると、子規が本当にしたかったのは、そのまま大学に残り、文学かどうかはわかりませんが、何かの研究をすることだったのではないでしょうか。もちろん、これは単なる推定にすぎません。とはいえ、子規が最もしたかったのは俳句ではなかったことだけは、これではっきりしたと言えるでしょう。

 子規は、俳句という分野を選んだおかげで、残された短い時間の中で、数多くの作品を作り、数多くの弟子を育て、非常に高く評価される結果になりました。短い人生の中で、中身の濃い生きかたができたわけです。では、子規が本当にしたかったらしい研究を実際に選んでいたとしたら、いったいどうなっていたのでしょうか。それは、表面的にはおそらく苦しみの連続で、あまり多くの業績はあげられなかったでしょう。したがって、それほどの評価は得られなかったかもしれません。しかし、本当の意味でとり組みたいことにとり組んだとは言えるでしょう。そして、そのほうが、私のいう“本心”に素直な生きかただったのはまちがいないと思います。

 では、本当にしたいことにとり組むことの意味、あるいはそれが周囲にもたらす影響は、どのようなものなのでしょうか。それは、私にもまだわかりませんが、いわゆる生きがいとか世間の評価とかとは全く別の次元の、何かきわめて重要なことに関係しているように思います。現在、それが何かを突き止めようとしているのですが、今生でそれができるかどうかは、現在のところ不明です。

[註1]ここで、私のいう抵抗と、従来的な抵抗の違いがはっきりします。両者は正反対のもので、私のいう抵抗が本当に存在すると、それだけで、人間観が正反対のものに変わってしまうことがわかるでしょう。

[註2]問題はもうひとつあります。この晩に書評を書く約束をしなければ、フロイトが鑑定書の締め切りを思い出すことはなかったらしいので、その記憶を消していた理由は何か、という問題です。これは、自分の本業にかかわる、しかも社会的な責任がかかっている、きわめて重要な問題でしょう。その記憶を消していたということは、精神分析の枠内ではどのように説明するのでしょうか。不快なものを無意識に追いやるという発想からすると、鑑定書の執筆が不快だったということになるのでしょうが、社会的に考えた場合、それだけですむ問題ではないのは明らかです。

[註3]「月の都」は、子規が1894年に「小日本」という新聞の主筆になった時、同紙に連載小説として掲載されることになります。

参考文献


Copyright 1996-2013 © by 笠原敏雄 | created on 4/12/13 | last modified on 4/13/13