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 超常現象とは何か

 超常現象の科学的研究は、1882年に、ロンドンでケンブリッジ大学の研究者が中心となって心霊研究協会 Society for Psychical Research を創設したのが始まりとされている。したがって、超心理学の歴史は、既に120年以上続いていることになる。当時は、世界的に著名な科学者や研究者が参加してさまざまな研究活動が続けられたが、それなりの成果は得られたものの、他の分野の科学者の説得という点から見る限り、残念ながら、現在までに大きな進展があったと言うことはできない。

 超常現象の研究には、他の分野には見られない奇妙な特徴がいくつかある。そのうちのひとつは、超常現象に対する人間の態度、つまり、熱狂的に信ずるか、同じく熱狂的に否定するかのどちらかの態度を取る人たちが圧倒的に多いという事実である。逆に言えば、超常現象の実在を裏づけるとされる証拠を、冷静な態度で厳密に検討しようとする人は、きわめて少ないのである。超常現象は、このように、人間の感情を大きく巻き込んでしまうという点で特異な位置を占める、きわめて重要な現象であると言えよう。

 超常現象という言葉は、超心理学用語集にもあるように、通常の因果律を超えて起こる現象の総称であって、よく誤解されるように、珍しい現象や怪奇な現象を指して用いられる、あるいはそうした現象がそれに含まれるわけではない。現在、超心理学や心霊研究と呼ばれる分野では、ESP(超感覚的知覚)、念力、死後生存(死後存続)という3通りのカテゴリーに分けて研究が進められている。また、それぞれの領域は、以下のように、さらに細かく分けられている。

 超常現象の実在を熱狂的に信ずる人たちは、その証拠をほとんど検討することなく現象を過大に評価する傾向が強いのに対して、熱狂的に否定しようとする人たちは、これまた証拠をほとんど検討することなく、最初から全否定しようとする傾向をきわめて強く持っている。後者は、ほとんどの場合、次のような、非常に興味深い特徴を、判で押したように示す。

 これは、超常現象が実在するか否かを別にしても、論理学的にはもちろん、心理学的に見ても、大変に興味深い態度と言わなければならない。たとえば、現代物理学に対して、門外漢が、そのような研究についてほとんど知ろうとしないまま、研究者を専門家として認めずに、没論理的論理を用いて、その研究や研究領域を、表面的な態度はともかく、高飛車に否定したとすれば、正気を疑われることであろう。ところが、超常現象の研究に対しては、このような態度が、数のうえではむしろふつうなのである。現行の科学知識という権威をうしろ楯にして、超常現象などあるはずがないという態度を取っているわけであるが、このような態度を取ること自体が、既に過剰防衛になってしまっており、そこに、鎧の亀裂がかいま見えるのである。これについては、拙著『サイの戦場──超心理学論争全史』(平凡社、絶版)で詳細に検討しているので、関心のある方は参照されたい。(ついでながら触れておくと、否定論者の多くもこの拙著を評価してくださっているようであるが、これは、否定論者の論理がいかに奇妙なものであるかを実証しようとしている本なので、否定論者がこの拙著を評価しているとすれば、まことに残念ながら、私が言おうとしていることを完全に読み違えていることになる。)

 確かに、超常現象が容易に再現できるとすれば、その実在を否定したくともできないであろう。たとえば、通常の物理的手段を用いずに、白昼に、屋外で、しかも衆人環視の中で、大量の水を空中に浮かべるとか、一瞬のうちに気温を10度変化させるとかができれば、何の問題もなく、超常現象の実在は認められる。ところが、現実にはそのようなことは、絶対と言ってよいほど起こらない。私見によれば、その最も大きな理由は、超常現象がとらえにくい性質を持っていることである。このとらえにくさは、量子力学で知られる不確定性関係のようなものとは根本的に異なっている。不確定性関係の場合には、いわば不確定が確定されているのに対して、超常現象の場合には、現象自体があたかも意志を持っているかのように、捕捉しようとする網をすり抜けようとするのである。

 このような同義反復的な擬人的表現をすると、特に超常現象の実在を“信じて”いない人たちは、猛烈に反発するか、「肯定論者の尻尾をつかまえた」として勝ち鬨を挙げることであろう。確かに、超常現象は生物ではないので、それ自体に意志があるはずはない。したがって、捕捉しようとしてもできないとすれば、それは、超常現象が実在しない、何よりの証拠なのではないか。

 ところが、そのように単純に片づけることはできない。実際に、超常現象を起こす主体が人間にある限り、人間の側にそうした抵抗が働けば、現象そのものに、そのような性質が観察されることは十分考えられる。さらには、肉眼で鮮明なマクロPK現象が観察される場合が稀にあることに加えて、その証拠が、不十分ながらビデオなどで録画されることも、きわめて稀にはあるのである。ところが、そうした証拠も、それを長い間追い求めていたはずの研究者側からもそれほど重視されないまま忘れさられてしまうし、そうした証拠の提示を求めていたはずの批判者側からは完全に無視されてしまう。この、きわめて興味深いとらえにくさ問題については、拙編著『超常現象のとらえにくさ』(春秋社)を参照されたい。また、その内容を簡単にお知りになりたい方は、拙論「超常現象のとらえにくさについて」をお読みいただきたい。

 いずれにせよ、はっきり言えるのは、超常現象が存在しないとすれば、その証拠とされてきたものは、すべてが錯覚や観察の誤りの結果か、実験者や被験者の不正行為の結果か、これまで知られていなかった自然現象であることになる。逆に、実在するとすれば、超常現象は、必然的にとらえにくい性質を持っていることになる。そして、超常現象の実在を裏づける証拠は、これまで、かなり蓄積されているのである。超常現象を肯定したい人であれ、否定したい人であれ、そうした証拠を厳密に検討した後でなければ、それについて安易に口を挟むべきではないであろう。それが、一個の科学的研究分野に対する、欠くべからざる礼儀と言えるのではなかろうか。


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