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 超常現象批判の論理学と病理学

はじめに

 最近、超常現象を扱った翻訳書や著書が数多く出版されるようになりました。そして、それに呼応するかのように、その批判書も次々と出版されるようになってきています。後者の代表格は、早稲田大学理工学部の大槻義彦教授によるものでしょう。“科学者”が表面に出て行なわれる、このような論争は、日本では、1911年頃(透視と念写に関係した論争)と、1974年頃(いわゆるスプーン曲げに関係した論争)に続いて、今回が三度目です。前2回の論争では、一見すると批判者側が勝利を収めたかに見えました。しかしながら、その後、超常現象の“信者”が減るどころか、増加すらしているという事実を見ても、このような論争は、“科学者”側がいつも敗北している特殊な論争であることがわかるでしょう。科学的なものに限らず、ふつうの論争は、一度決着が着くと、何度も繰り返されることはないからです。

 この論争は、科学論争に見えながら、実は科学の作法に従っていないという点でも特殊なものです。つまり、ある科学的主張に対して反論するのであれば、従来のパラダイムからの論証によってではなく、それを否定する証拠(事実)を提示することによって行なわなければならないのですが、信じられないことに、こうした“科学者”たちは、従来のパラダイムに則った没論理的、感情的な非難を浴びせかけ、力によって相手をねじ伏せようとしてきたにすぎませんでした。

 このような論争が繰り返される状況は、旧来の権威を倒した革命政権が、後年、自分たちが革命さるべき立場になった時、真の革命戦士を“反革命分子”などと蔑称し、弾圧を繰り返しているにもかかわらず、次々と“反政府暴動”が発生する状況と似ています。

 これまで私は、超常現象の研究に強い関心を抱いてきました。こうした研究は、現行の唯物論的科学知識体系を覆す目的で行なわれていると言えますが、この点でこそ、その意義が大きいのであって、超常現象が現行の唯物論の枠内に還元できると考えたとすれば、大半の超心理学者は、このような研究に従事することはなかったでしょう。私見によれば、これこそ、全ての問題の核心ではないかと思われます。

 もちろん、超常現象の研究は、他の科学分野と同じく、慎重に行なうべきものであり、軽信的態度が許されるはずもありません。したがって、証拠もなく、あるいは厳密な検討もせずに、超常現象の実在を主張する人たちに対しては、言うまでもなく、きちんとした批判をしなければなりません。その点では、こうした批判者と超心理学者とは共通した土俵に立っているかに見えますが、現実にはそうでもなさそうです。

 少なくとも現在の日本の超常現象批判者は、国の内外を問わず、超心理学者に対しては批判するどころかほとんど無視しており、宜保愛子さんなどのタレント超能力者をそのターゲットにしていることが多いようです。仮に、宜保さんや清田益章さんやユリ・ゲラーさんの“能力”に疑問があったとしても、それによって超常現象全体が否定されることは、論理的に言ってありません。ところが、批判者の結論は、ここでも論理の飛躍により、たいていの場合、超常現象の実在そのものの否定になっているのです。そのことから推定しても、意識的にせよ、無意識的にせよ、従来的な批判者の真のターゲットは、タレント超能力者やその信者などではなく、超常現象全体、ひいては科学的超心理学そのものであることはまちがいないようです。

 本稿では、超常現象の批判者が弄している論理がいかなるものであるかを実例をあげて明確にしたうえ、批判を行なうのであればどのようにすべきかを示唆しようと思います。その前に、このような批判者が繰り返し用いる“合理的”という言葉について考えてみましょう。

合理的とはどういうことか

 千葉敦子さんというジャーナリストが、癌を発病し、その治療を受けるためアメリカに行き、そのまま亡くなったことについてはご存じの方も多いと思います。アメリカに行った理由として千葉さんが挙げている説明は、私には根拠が薄いように思えますが、それを別にしても、千葉さんの行動には不可解な点があります。

 やはり癌になり、それを民間療法で治療して好成績を挙げているとされる母親から民間療法を勧められた千葉さんは、「非科学的な」治療は受けたくないと拒絶し、最先端の医療を受けるためと称してアメリカに行き、二度と故国の土を踏むことなく亡くなってしまうわけです。誤診の連続で、副作用に悩ませつつ千葉さんを死に至らしめた現代医学と、結果的に母親の予後を好転させたらしい民間療法の、どちらがこの場合“合理的”なのでしょうか[註1]

 “超能力者”ユリ・ゲラーは、現在、ESPを利用した鉱脈探査を職業にしているそうです。つまり、鉱山会社などから、鉱脈の探査を一件当たり百万ドルほどで請け負い、それで商売が成立しているということですから、百パーセント確実に当てられるわけではないにせよ、“科学的”方法を用いた時よりも成績が良いということでしょう。もちろん、この事実は、それ自体が超常現象実在の証拠になるわけではありません。現在の科学知識には加えられていないものの、何らかの物理的手がかりを用いている可能性があるからです。しかし、少なくともユリ・ゲラーにそのような依頼をする営利会社は、従来的な“科学的探査法”の方がユリ・ゲラーの方法よりも“合理的”であるとは考えていないということでしょう。

 このような例を見ると、いわゆる“科学的方法”は、現行の科学知識体系には忠実かもしれませんが、真の意味で“合理的”であるとは言えないことがわかります。

 科学とは、現行の科学知識を、観察と実験というふたつの柱を用いながら、絶えず塗り変えようとする営みであるはずです。ところが、超常現象を批判する“科学者”は、現行の科学知識を絶対的なものとして超常現象の批判に用いるという反則を犯しているのです。その時代の科学知識から演繹を進めるという方法を使えば、地動説であれ、進化論であれ、新しい仮説は当然のことながら簡単に棄却できます。大論争の最中には、一時的にこのような反則が用いられますが、しばらくして新しい仮説が勝利を収めると、そうした反則は影を潜めます。ところが“科学者”は、相手が超常現象の場合には、同じ反則を延々と続けていても問題がないと考えているようです。

 このあたりの事情については、デューク大学のエドワード・ケリー教授が、次のように的確に指摘しています。

 心霊研究に従事してきたのはわずかな期間に過ぎないが、その間にすら何度となく驚かされてきたことがある。他の点では有能な、場合によっては著名ですらある科学者が、その発言を聞く限り何も知らないことは明らかなのに、この問題に関して十把一からげ的に白黒をつけたがる、という事実である。この分野の批判者を自称する者は、学問的な礼儀作法の基準に縛られていないと思っているらしいが、それはなぜなのであろうか。また、信頼の置ける超心理学的研究やその批判の論文の掲載を事実上拒絶している科学専門誌が、節度をひどく欠いた非難の文章ですらあっさり掲載を認めるのはなぜなのであろうか(ケリー、1987年、380ページ)。

 ここで言う科学専門誌とは、アメリカ科学振興協会の機関紙『サイエンス』やイギリスの科学雑誌『ネイチャー』などを指していますが、信じがたいことに、このような一流誌ですら、こと超常現象の批判に関しては、この指摘にあるような状況が現実なのです(その点に関心のある方は、拙編書〔笠原、1987年〕を参照してください)。

 このように不合理な“合理主義”の立場から、超常現象の徹底的否定を試みているグループの筆頭格は、アメリカに本部を置くCSICOPでしょう。欧米では、こうした論争が既に百年以上にもわたって続けられているわけですが、日本での論争が散発的なのは、超常現象の研究がまだ本格的に行なわれていないためでしょうか。現在、郵政省や通産省は、この方面の取り組みを念頭に置いたプロジェクトを発足させつつあるようですが、もし日本でも超常現象や“気”を真剣に研究する機関が設立されれば、欧米と同じく現在よりもさらに滅裂な反対運動が起ってくるのは確実だと思われます。

 ところで、現代医療による癌治療については、悲観的な状況が今後二、三十年は続くと予測されているためか、最近になって、民間療法がようやく真剣に取りあげられるようになりました。その象徴は、NHK教育テレビで、癌の自然退縮に関する番組が3回にわたって放映されたことと、朝日新聞社から『自分で治すがん』という本が、「朝日ワンテーマ・マガジン」の一冊として出版されたことでしょう。

 皮肉なことに、最近このシリーズに、呉智英(監修)『オカルト徹底批判』が加わりました。この本には、不思議な現象の「検証や考察の前提として知っておきたい話ばかり」(同書、4ページ)が集められているそうです。しかし、目を通してみると、この本は、従来の類書と根本的には何ら変わっていないように見えます。

 日本の著者による批判書は、これまで大手の出版社からはあまり出版されてきませんでした。その意味では、他のものと比較して取りあげる意義が大きいと思われますので、ここでは、この本に掲載されている論文の中から、特に科学者の立場から書かれたものを抜き出し、分析を加えることにしましょう。

“科学者”による超常現象批判の論理学

 『オカルト徹底批判』は、題名の通り“オカルト”に対する批判書となっており、世間の軽信的傾向に対して警鐘を鳴らす論文がいくつか含まれているなど、一般の超常現象に対する批判とは少々趣の異なる部分があります。そのため、超心理学の立場から考える場合、その点に注意しなければなりません。

 さて、監修者の言葉である「信じる前に――オカルト批判の常識」に、次のような発言があります。

 ……“不思議な現象”を頭から否定せよと言うのではない。検証の結果、その現象が事実あるなら、これを認めた上で合理的で納得のゆく説明を考えるべきなのだ(同書、4ページ)。

 一見するとこれは、超常現象を研究している側の態度と全く同じです。違うのは、「合理的で納得のゆく」説明という言葉の意味だけでしょう。超心理学者は、その説明が現行の科学知識を越えることを想定しているのに対して、別の発言(同書、142ページ)からわかりますが、この監修者は、あくまでも現行の科学知識の枠内にその説明を収めようとしているからです。こうした批判者は、そのような大前提のもとに論理を進めて行きますが、こういう方法であれば、超常現象の否定は、赤児の手をひねるごとく、実に簡単です。超常現象の定義そのものが、「現行の科学知識では説明できない現象」となっているからです。このような批判者は、単に循環論法を用いているだけなのですが、当の批判者はそのことには、少なくとも意識では全く気づいていないかのように見えます。

 では、次に、科学者による没論理的発言を、項目別に整理したうえ、その問題点を指摘することにしましょう。余裕があれば『ニセ日本人とユダヤ人』(朝日新聞社)のように徹底した分析が加えられるのですが、今回は紙幅の関係から、長文の引用の必要がない、一部の発言に限定せざるをえませんでした。したがって、ここに取りあげられていないからといって、問題がなかったということではありません。

 この中で科学者と考えられるのは、安斎育郎、大槻義彦、久場川哲二、丸山悠司、藤木文彦の五氏のようです。しかし、今回のテーマに関係した発言をしているのは、安斎、大槻、久場川の三氏ですので、ここでは、この方々の発言を取りあげることにします。

“科学”と“科学知識”のすりかえ

 “科学”と“科学知識”のすりかえは、このような批判者の常套手段で、実に頻繁に見られます。たとえば、次の通りです。

 私の宜保愛子批判は、その〔女性週刊誌に取りあげられる〕半年余り前から続けており、女性誌の誘いに乗ってやったわけではない。それに、私の方から宜保愛子バッシングを始めたのではない。話は逆で、彼女が「科学バッシング」を始めたから私は許せなくなったのだ。……自分には反重力が働くとか、飛行機のコックピットの方位磁石を狂わせてしまうとか、レオナルド・ダ・ビンチの絵の霊視ができるとか言い始めた。つまり、科学の否定を始めたわけである(大槻、1994年、91ページ)。

 「科学の否定」などというと、何か大罪を犯しているような感じがしてしまいますが、「科学」を「科学知識」と置き換え直すと、最後の文章は、現行の「科学知識の否定を始めたわけである」となり、「宜保愛子バッシング」の正当性が薄れることがわかるでしょう。「科学知識」とすべきところを「科学」という言葉を使うことで、このような批判者は、自分たちの批判が正当なものであることを自他ともに印象づけているのではないかと思われます。

 また、仮に宜保さんが「科学の否定を始めた」のだとしても、大槻氏は物理学者なのでしょうから、同じく「科学の否定」をしている物理学者を相手にすべきなのではないでしょうか。前世紀末に登場したクルックスなどを引き合いに出さずとも、たとえばプリンストン大学のロバート・ジャン教授(ジャン&ダン、1992年)をはじめ、超常現象を真剣に研究している物理学者は、現在でもかなりの数に昇ります。大槻氏は、なぜ物理学者を相手にしないのでしょうか。このような及び腰的批判をしたのでは、保守反動的文化人が正当な批判ができないためよく行なう“犬の遠吠え的”発言と同じではありませんか。

根拠を欠く脅しの、科学的議論へのすりかえ

 迷信が蔓延すると健全な社会が崩壊する、などという脅し的論法も少なくありません。次の論法もこの中に入ります。

 私がいつも心配しているのは“信じる”“信じない”といった議論よりも、祈祷やオカルト雑誌に凝った後、あるいは占いや浄霊後に精神分裂病のような状態に陥ったり、幻覚や妄想など精神に変調をきたす外来患者が近年、増加していることである(久場川、1994年、100ページ)。
 超能力者といわれる人は、我々と同じ精神療法を施行しているに過ぎない。心配な事は彼らが治療行為を行う資格のないまま、一部の人々を精神病状態に陥らせていることだ(久場川、1994年、108ページ)。

 昔から、祈祷性精神病などの存在は知られていますが、最近、本当にそのような患者が増加しているのでしょうか。また、現在の精神医学では、少なくとも精神病の原因は“内因性”であり、心理的原因によるものではない、とされているのではなかったでしょうか。それが原因で発病していることが本当に確認されたうえでこのような発言をしているのでしょうか。もちろん、この発言が万が一本当だとすれば、そのような外来患者が増加していることや、超能力者が「治療行為を行う資格のないまま、一部の人々を精神病状態に陥らせている」のはゆゆしきことかもしれません。しかし、そうだとしても、そのことと超常現象が存在するしないとは無関係でしょう。にもかかわらずこの精神科医は、次のように、根拠のない断定を行なっているのです。

根拠のない断定

霊の存在などあり得ない(久場川、1994年、108ページ)。

 「霊」の存在をありえないと考える根拠は、いったいどこにあるのでしょうか。この論理が正当であるためには、唯物論的科学知識体系が絶対的に正しいことが必要ですが、残念ながら、その証明は不可能です。唯物論に限らず、何かの仮説や理論を反証することは可能ですが、科学的方法によってその絶対的正当性を証明することはできないからです。よく持ち出されるカラスのたとえを使うと、白いカラスが一羽でもいれば、カラスが全て黒いという命題を反証することはできますが、科学的方法によってこの命題の正当性を証明することはできません。ですから、「霊の存在などありえない」という発言が、「そう思いたい」という本人の信念の表明であるのなら、科学とは無関係ですので、それはそれでかまいませんが、それを科学的事実ということはできないのです。

 この精神科医には、同じく精神科医で“霊”的存在について研究しているヴァージニア大学のスティーヴンソン氏の研究(たとえば、スティーヴンソン、1989年)をよく検討したうえで再考されることを望みます。

信念と事実のすりかえ

 私は医師として“超能力”や“オカルト”などの存在は全く信じていない(久場川、1994年、100ページ)。

 これは、信念の表明とする以外、ほとんど意味のない文章です。「医師として」は、「科学者として」という意味なのかもしれませんが、それならば、「信じていない」という表現を使うべきではないでしょう。この精神科医は、前項のような断言にすぐ飛躍してしまうのですが、真の科学者であれば、わからないものはわからない、と言うべきなのです。

 この精神科医の調査によれば、さまざまな超常現象の存在を信ずる者は、看護学生群で6割、教師・医師群では3割5分だったそうです(久場川、1994年、104ページ)。この精神科医は、「“西欧の科学=知”と考える教師・医師群と、将来の目標を持ちながらも漂流している若い女性の差」にその原因を求め、この差の方を強調していますが、それよりも、教師・医師群でこれほどの「信者」がいるという事実の方が、私には興味深く思えます。

現行の科学知識の絶対視

 超常現象の否定をするためには、したがって、現行の科学知識を絶対的なものと見なす必要があります。

 現在、物理学では約八百の法則がある。化学や生物学を入れると、さらに膨れあがる。そのある部分は年を追うごとに否定されたり書き直されたりしてきている。しかし、決して否定されない、いや否定されてはいけない法則・原理が物理学にはある。相対性原理もその一つだ。それが否定されたら科学自体が否定される。さらに、宇宙の存在そのもの、空間とか時間も否定される。人間の進化、宇宙の進化も否定されることになる(大槻、1994年、92-93ページ)。

 「決して否定されない、いや否定されてはいけない法則・原理が物理学にはある」のですか。また、「それが否定されたら科学自体が否定される。さらに、宇宙の存在そのもの、空間とか時間も否定される。人間の進化、宇宙の進化も否定されることになる」のだそうです。もはや、「ああ、そうですか」としか言いようのない、滅裂な論法です。否定されるのは単なる科学知識であり、それが否定されたところで世界がどうなるわけでもありません。相対性原理が発表される以前の世界と以後の世界が変わったとでも言うのでしょうか。確かに、原爆は登場しましたが。

 このような論法は、たとえば「南京大虐殺のまぼろし」説の正当性を証明しようとして、ある出版社が発行した雑誌に書かれていることは絶対に正しいと断言する態度と全く等価なのではないでしょうか。

牽強付会な論理

 このような強引な主張を、自分で勝手に空想した内容を自ら否定することによって裏づけようとする戦略も頻繁に見られます。

 かつて、日本テレビの番組の企画で、ユリ・ゲラーがカナダから念を送って日本の故障した時計を動かしてみせたことがあった。しかし、エネルギー伝達の逆2乗の法則というのがあってエネルギーは放出されると距離とともに減少してゆく。ユリ・ゲラーが本当にこうしたパワーを送ったとすれば、送り先であるカナダは水爆十個以上の爆発のエネルギーがなければいけない計算になり、カナダは壊滅している。しかし、そんなことは検証するまでもなく、絶対にあり得ない(大槻、1994年、93-94ページ)。
 彼〔吉村作治〕も簡単には引き下がらず、「宜保愛子の霊能力を簡単に否定していいものか」と反論したが、否定していいのだ。理由もはっきりしている。例えば、物理学の世界にエネルギー保存の法則があるが、これはどんな時代が来ても崩れることのない基本的な原理で、絶対に正しい。「エントロピー増大の法則」も、そういう絶対に壊れない法則の一つだ。……ついでに言うと、人の生まれ変わりも絶対にない。死んだ人が焼かれると、人の体を構成していた原子は一夜にして中空にばらまかれる。死後3年ぐらいすると、原子は地球全土に散らばる。そうすると、私が死んだあと、私の原子が例えばイタリアに全部再び集まって、生まれてくる子供に結集するなどということは、エントロピーの増大の法則から絶対にない。従って前世はない(大槻、1994年、92ページ)。

 これも欠陥だらけの論理ですが、それ以前に、演繹によって、たとえば前世の記憶の存在を裏づける証拠を否定することはできませんし、前世がないことを証明したいとしても、経験科学ではそれ自体が不可能であることは、既におわかりいただけたと思います。先のスティーヴンソン氏は、生まれ変わりという現象の実在を証明すべく、世界中から数多くの事例を集めて厳密な検討を30年以上にわたって続けています。それによると、前世の記憶を持つ子どもの典型例は、そうした記憶を持っているのみならず、前世の人物が持っていた知識や技術や身体的特徴の一部をそのまま持ち越しているかに見えるそうです。さらには、現在の家族を、前世の家族のもとへ本人が案内し、初対面のはずの人たちを正確に見分けることなどもできるということです。ですから、否定するのであれば、このような証拠そのものを反証する事実を提示しなければならないのです。

 大槻氏には、スティーヴンソン氏が提示している証拠を丹念に検討されることを願うばかりです。

与しやすい部分に対する選択的攻撃

 有力な証拠を避け、与しやすい部分を選択的に攻撃し、それによって全てを否定するという論法もよく用いられます。

 死後の世界を信じようと信じまいと、それは個人の価値観の問題であって、「恐れながら」などと科学がしゃしゃり出てとやかく言う筋の問題ではない。しかし、「死後の世界」が「科学」の趣で展開されるとなると、科学は何か言わなければなるまい(安斎、1994年、84ページ)。

 そして、「たとえば」と前置きして、物理学者・岡部金治郎氏の「霊魂進化論」を俎上にあげて批判します。しかし、イアン・スティーヴンソン氏の研究についてはなぜ批判しないのでしょう。批判しやすい非専門家の発言を取りあげても、全くインパクトはないでしょうに。そのスティーヴンソン氏は次のように述べています。

 死後生存の裏づけになりそうな証拠は、一種類の体験からしか得られていないわけではない。霊姿、体脱体験、臨終時の幻、霊媒によるある種の交信、生まれ変わり型事例といった、数種の体験群から得られており、しかも、それぞれについて研究者が報告している事例は、一例や二例に留まらず、かなりの数にのぼり、ある種の体験では数百数千にものぼる、という事実についても指摘しておく必要がある。……死後生存を信じたくなければ、死後生存の証拠を否定する以外道はない。人間の死後生存の裏づけになりそうな証拠が相当数蓄積されているからであり、こうした証拠の存在を知った者は、誰しもが、その証拠を元に自らの立場を明確にする必要があるからである(スティーヴンソン、1984年、51-52ページ)。

 安斎氏は、岡部金治郎氏の説を批判して、「これが、文化勲章を受賞した科学者の同じ脳から出た思惟の結果かと、訝しく感じるほどだ」(安斎、1994年、85ページ)と述べていますが、自らの論理についてはそうは思っていないようです。

 ここで取りあげた三氏のみならず、超常現象の批判者一般にも、「その証拠を」丹念に検討していただいたうえ、それを元に自らの立場を明確にしていただきたいと切に望むものです。

誤った、ないしは不確実な事実を出発点とする批判

 誤った事実や不確実な事実を明確なものであるかのごとく強く主張し、それをもとにして論証を進めるという戦術も少なくありません。たとえば、この本では、岩波書店の『科学』誌編集長が行なっている(宮部、1994年、155ページ)ように、ユリ・ゲラーが壊れた時計を遠方からの念力で動かしたという主張に対して、止まっていた時計を揺り動かせば少しは動くので、それは念力によるものではない、という形で反論することはできません。こうすればインチキでも再現できる、という主張はもちろん正当ですが、全てがそのような不正によって起こったことは、言うまでもなく証明できないのです。逆に、あらかじめ機械部に詰めものがされている時計を、それと知らず渡されたユリ・ゲラーが動かしたという、自ら奇術師でもある超心理学者が行なった実験もあります(Cox, 1974)ので、反論するのであれば、そのような証拠をこそ取りあげなければなりません。

 次の論法も、これと同じものです。

 こっくりさんは「霊の祟り」でもないし、「キツネ憑き」でもない。すでに1853年6月30日付の『ザ・タイムズ』紙でイギリスの科学者マイケル・ファラデーが科学的に解明済みだし、日本でも明治20年に井上圓了が同じ結論に達している。つまり、テーブルやコインに手をかけている人が心の奥底にもつ潜在意識(予期意向)を反映して、無意識の筋肉運動(不覚筋動)で動かしているにすぎないのだ(安斎、1994年、82ページ)。

 しかしながら、ファラデーのテーブルは、「指先で押せば容易に動く、天板の固定されていない」ものだったらしく、これでは「客間や食堂の重いテーブルが動く説明になっていない」という投書がその後、同紙に寄せられている事実があるそうです(イングリス、1994年、85ページ)。しかし、それよりもっと重要なのは、万が一ファラデーの実験が正しいとしても、それによって「こっくりさん」の運動は全て「無意識の筋肉運動」によると考えるのは、やはり論理の飛躍だということです。つまり、この論理が正当であるためには、これまた「現行の物理法則が正しいとして」という大前提が必要なのです。

勝手な推測に基づく否定

 たとえば、大天才のアインシュタインなら宇宙の謎が全て解明できるはずだ。それができなければ、アインシュタインは天才ではない、という論理に等しい批判もあります。

 スプーン曲げが何の苦もなくできるのなら、なぜ生産に役立てないのか。ミスター・マリックが競馬の予言ができるのなら、なぜ自ら競馬場に行って稼がないのか。フィリピンの心霊手術師の奇跡の業が本物なら、どうして昭和天皇の膵臓癌を治癒してもらわなかったのか。宜保さんの霊視能力が本物なら、女優を泣かしたりしないで、どうして行方不明の坂本弁護士一家の命運を霊視してくれないのか(安斎、1994年、89ページ)。

 この発言には、冷静さを欠いた感情的否定という側面が明瞭に出ています。安斎氏からすると、生産に役立たせることができなければ、スプーン曲げは全てインチキによるものであり、坂本弁護士一家の命運を霊視してくれないなら、宜保さんの“霊視能力”は全てインチキによるものだということになるようです。これについては、もはや言うべき言葉もありません。

相手に対する個人攻撃

 最後には、差別的な個人攻撃的言辞も平然と用いられます。

 精神科学的に言うと、彼女の霊視能力なるものは、視力障害に伴う代償性幻視と、T型直観像資質(脳裏に細部にわたる明瞭な像をイメージできる資質)を本質とするヒステリー性女性の言説ということになるようだが……(安斎、1994年、89ページ)。

 この“学説”を提出したのが誰かは知りませんが、自らの論理を正当化するために、単なる推測をこのような形で主張するのは、名誉毀損以外の何ものでもないのではありませんか。逆に考えれば、正当な方法で否定ができないため、このような戦略を使う以外なかった、ということなのでしょう。

一般論としての的確な指摘

 一方で、的確な指摘も見られます。ところが、それが当然のことながら、それまでの自分の主張と完全に矛盾してしまうのです。

 現代科学で説明できないからといって、すぐに「霊能力」とか「心霊現象」などと考えるのは、あまりにも短絡的だ。わからないことは引き続き調べればいいだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。不思議な現象に出会ったら、徹底的に原因にこだわって調べること――これこそが科学の立場である。……もしも、徹底的に調べた結果、その現象はやはり現代科学の体系的知識と矛盾することが客観的に確定したら、その時は遠慮なく現代科学を捨てればいい。現代科学を捨てて、見つかった不思議現象も説明できるように科学の知識の体系を再構築すればいい。科学はずっとそのようにして発展してきたのだから、今更変わった考え方を取る必要はない。……不思議現象に出くわしたら、それを「超能力」あるいは「霊能力」として科学研究の対象から外してしまうのではなく、「わからないことは調べればいい」の精神で原因にこだわること――これが、科学的態度だろう。その結果、現代の科学的常識が打ち破られることになっても、それは「科学の敗北」ではなく、「科学の勝利」にほかならないのだ(安斎、1994年、90ページ)。

 超心理学者は、“不思議現象”を「科学研究の対象から外してしまう」どころか、それをまさに科学的研究の対象にしているわけですが、この引用文は、大筋としては、板倉聖宣氏の論旨(板倉、1977年)と全く同じで、超心理学者の立場をみごとに代弁してくださっている正当な文章です。問題は、そう発言する当の本人が、これまで見てきたように、その発言とは矛盾する「短絡的」結論を出してしまっていることなのです。この決定的矛盾については、このような方々はどう考えるのでしょうか。問題はその裏にあるわけですが、それについては次節で検討することにしましょう。

“科学者”による超常現象否定の病理学

 南京大虐殺を巡る論争は、1971年に本多勝一さんが『朝日新聞』に連載していた「中国の旅」でこの事件に肯定的に触れたことが契機になって始まったわけですが、最近の永野法相の発言の顛末を見るとわかるように、この論争は既に決着が付いております。これからも虐殺を否定する発言は繰り返し出て来ると思われますが、しかし、これまでの経過を見る限り、それも徐々にトーン・ダウンして行くはずです。しかし、超常現象を巡る論争は、これまでの経過を考えると、今後も同じことが繰り返されるだけで、簡単には決着が付かないと思われます。

 安斎氏は、一方では京都の「かもがわ出版」から反原発の著書を出版されていることでもわかりますが、反体制の良心的な科学者[註2]であり、大槻氏にしても、『噂の真相』の愛読者だそうです(『ダ・ヴィンチ』1994年6月号、93ページ)し、“まじめな”科学者なら相手にしない現象に取り組んでおられるわけですから、やはり反体制の良心的な科学者なのでしょう。それなのに、南京大虐殺を否定するような右翼文化人が多用するのと同じ論理を、なぜ平然と用いることができるのでしょうか。

 明治時代の科学者は、もう少し冷静でした。たとえば、岩波書店の『科学』を創刊した石原純は、藤・藤原『千里眼實験録』(大日本図書)所収の「跋」の中で、次のように述べています。

 透覺、念寫を以て絶對に不可能なりと豫言するは盖し似て非なる知者の言である。透覺、念寫を以て神變幽妙なる心靈の發露なりと信仰するは恐らくは愚昧者の語に聞くべくして、遂に識者の言ではない。透覺念寫は、或は可能――現在に於て吾々は其可能を極めて少なりと認む可き理由を見出し得るのみではあるけれども――なることは有り得やう。然かも其可能なる曉に於て、之れ亦嚴として存する宇宙の法則に從ふ現象たるべきことは豫め斷ずることが出來る。(藤、藤原、1911年、9-10ページ)。

 石原氏の言う「宇宙の法則」がどのようなものかはわかりませんが、現象としての透視や念写を最初から否定する大槻氏や安斎氏とはずいぶん違う態度であることがおわかりいただけると思います。

 ところで、先ほどの安斎氏の矛盾についてですが、最初に問題にした、唯物論の枠外まで許容するつもりがあるかどうか、という点に関係して発生していると考えてよいと思います。つまり、一般論としては「不思議な現象に出会ったら、徹底的に原因にこだわって調べること――これこそが科学の立場」であり、「その結果、現代の科学的常識が打ち破られることになっても、それは『科学の敗北』ではなく、『科学の勝利』にほかならない」ことまではわかっているのですが、その大前提に、唯物論の枠内に全てが収まるはずだ、という憶説というか思い込みがあるのです。つまり、たとえば南京大虐殺はなかったとしたい、という願望を出発点にして、大虐殺を裏づける証拠をさまざまな理由を付けて否定するのと全く同じで、大虐殺があったら自分たちはどうするのか、という視点が全く欠けているというか、その時の覚悟が、少なくとも意識ではできていないというということなのです[註3]

 たとえば、超常現象らしきものは自己暗示や催眠によって説明できるという発言も少なくありませんが、では、自己暗示や催眠に、たとえば念力などの超常現象が関係していないという保証がどこかにあるのでしょうか。もし関係していることが明らかになったとしたら、そのような発言をする人たちはいったいどうするのでしょう。

 科学の目的からして、ジャーナリストと同じく、科学者も、それぞれの領域で反体制でなければなりません。その中でも超心理学は特に反体制的要素が強い領域です。「科学は、だれかが勝手に〔何が〕科学的科学的真理かを決めるのではなく、人々の批判にすべて答え、最後まで崩れずに残ったものが科学的真理だ。そうすると、オカルトを最初から批判しない科学者はもう初歩から誤っている」(大槻、1994年、98ページ)という大槻氏の発言の後半を正当なものにすると、次のようになります。

 超常現象の研究を最初からしない科学者は、もう初歩から誤っている。

 もう一度繰り返すと、この論証の焦点は、唯物論が正しいかどうかであり、それを否定ないし肯定する実証的証拠を巡る論争が超常現象論争であるべきなのですが、これまでのところでは、批判者の批判が以上のように本質を突いていないため、真の論争にならないまま同じことが繰り返されているということでしょう。つまり、超心理学者の基本的前提――現行の唯物論的科学知識体系が不十分なものであることを証明すべく、超常現象の研究を続けていること――がまちがっていることを、証拠に基づいて反証することはできませんので、批判者の批判を当を得たものにするためには、超心理学者が提出した証拠を否定する事実があるのであれば、それを見つけ出し、それを、同じ論法で否定している人たちの主張を孫引きするのではなく、自分の手で、科学的方法を用いて丹念に反証しようとする努力を重ねてゆく以外ないということなのです。そして、それこそが、健全な科学の営みなのではないでしょうか。

 残念ながら、世界的に見て、超心理学に対する正当な批判はこれまで全くといってよいほどありませんでした。世界に先駆けて、正当な批判が日本で起こることを切に望むものです。

[註1]千葉さんの母親が本当にこのような治療によって好転したのかどうかはわかりませんが、現代医学による治療を受けずにさまざまな民間療法だけで、末期であっても癌が好転したとされる症例は稀ならずあるようです。

[註2]この2、3年の間に、原爆や被曝という問題を調べるようになって、その方面での安斎氏のりっぱな業績をたくさん知るようになりました。そうなると、皮肉なことに、本稿で述べたことがまちがっていなかったことがますますはっきりしてきます。(2008年12月11日追記)

[註3]このことから、意識下では本当はその実在を承知しているのではないか、という推定も可能です。

参考文献

〔『オカルトがなぜ悪い』(新人物往来社)所収の「科学者たちの“非科学的”超常現象批判」を改変〕


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