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 小中学生のための超心理学入門 11


超常現象の特徴

 これまで、いろいろな超常現象について話してきた。これからは、超常現象の特徴について話すことにしよう。

 これまででわかったかもしれないが、超常現象は非常にとらえにくいものだ。暗闇や後ろ向きなど、見えにくい条件の時に比較的起こりやすいけれども、明るいところや人が見ている時などにはほとんど何も起こらなくなってしまう。批判者から見れば、全てインチキであって本当には超常現象など存在しないため、インチキができにくい状況で何も起こらないのは当然だということになる。しかし、超常現象が本当にあるとすると、人間の視線やカメラのレンズを避けるようにして現象が起こることこそ超常現象の特徴ということになる。これまで見てきたように、超常現象が実在するとすれば、超常現象は、必ず人やカメラの視線を避けるようにして起こるといえる。

 そのことは、イギリスの心理学者ケネス・バチェルダーさんの実験でも証明されている。バチェルダーさんは、昔の交霊(こうれい)会のような状況で何人かでテーブルを囲み、実験を行なった。初めは“サクラ”が手や足でテーブルを持ち上げたりするが、そのようなきっかけによって、その場にいる者が、超常現象は本当にあると思い込むと、今度はテーブルが、手足で触れなくとも空中に浮かんだりするという。ところが、完全に明るいところではそこまでの現象は起こりにくいし、その場にいる者に、これは不思議な現象なのではないかという疑いが起こると、浮かんでいたテーブルはたちまち床に落ちてしまうという。

 超常現象は確かに不思議だが、超常現象そのものよりも、このように、決定的な証拠を残さないように起こるという特徴の方がもっと不思議なのではないだろうか。このような特徴は、超常現象が人間の心と密接に関係していることを裏付ける証拠になるし、このような特徴こそ、超常現象の謎を解く鍵になるのではないだろうか。ところが不思議なことに、この点に関心を持って研究している超心理学者はほとんどいないのだ。これはどういうことなのだろうか。

 とらえにくさということに関連して、超常現象には他にも、いくつかの特徴がある。“サイ・ミッシング”と呼ばれる現象もそのひとつだ。たとえば、よく切り混ぜたトランプを1枚ずつ伏せて透視の実験を行なった場合、超能力がなくとも、偶然だけで何枚か当たるはずだが、偶然では考えられないほど少ない数しか当たらない場合がある。これを、サイ・ミッシングという。本当は正解を知っているからこそ、偶然以下の得点にすることができると考えられているわけだ。たとえば、5者択一式のテストを考えてみよう。100問の問題があるとすると、全部でたらめに○を付けて正解する確率は5分の1なので、偶然では20点前後の得点になるはずだが、それが〇点だとすれば、正解を知っているからこそ当たらないように○を付けることができたと言える。それと同じことがサイ現象の場合にもあるのだ。

 “ズレ効果”と呼ばれる現象もある。これは、本来のターゲットのたとえばひとつ前、あるいはひとつ後のターゲットを当てるという現象で、実験ばかりか偶発的状況でも見られる。1から5までの数字を当てる実験であれば、ターゲットがたとえば53142だとすると、被験(ひけん)者が45314と言った場合、ふつうに見るとひとつも当たっていないけれども、ひとつ前のターゲットと対照させると、四つも当たっていることになる。

 “下降現象”もよく知られている。サイ実験を続けて行くと、最初はかなり超能力を発揮していたのに、次第に能力が低下し、最後には、偶然で起こる程度の成績に落ちてしまう現象のことだ。ふつうはこれを、実験にあきがくるために起こる現象と考えるが、それよりもやはり、とらえにくさのひとつの側面と考えた方が的確のようだ。

 それ以外にも、超常現象にはいくつかの特徴がある。しかし、特にこの3つの特徴は、だれが見てもまちがいなく超常現象の証拠と考えられるような形ではなぜか現象が起こらないという、超常現象最大の特徴の側面と考えることができるのだ。

 とらえにくさの重要な側面は、もうひとつある。それは、超常現象や、それを研究する超心理学に対する、一般の科学者の批判だ。サイ現象が存在するかどうかは別にしても、肉眼で見えない世界を探る天体物理学や原子物理学が正当なのと同じく、サイ現象の研究も正当なのだ。ところが、超心理学の批判者は、非常に変わった論理を使って超心理学の批判をする。

 ひとつは、超常現象などインチキに決まっているという批判だ。確かに、多くの超能力者は時々インチキをするけれども、だからといって全部インチキとして否定することはできない。ある科学者は、「もともと物質的な力以外のものでスプーンを曲げたり折ったりすることなんかできっこない」と述べている。科学とは、最初からこのように結論を出してしまうものではなく、科学的方法(つまり、観察と実験)を使って厳密に研究した結果、初めて結論が出せるものなのだ。

 また、超心理学などは科学ではない、という批判もある。しかし、科学は、研究する対象によって決まるものではなく、科学的方法を使って研究しているかどうかによって決まると考えるべきだ。そうしなければ、新しい分野の研究が最初から否定されてしまうからだ。したがって、科学的方法を使っている超心理学は、科学の一分野と言える。

 もうひとつは、完全な超心理学実験などないではないか、という批判だ。他の、たとえば物理学や化学などと比べると、だれが行なっても同じ結果が得られるかどうかで見る限り、超心理学の実験は確かに再現性が低い。つまり、物理学や化学の実験と違って、超心理学の実験では、別の実験者が別の被験者を使って同様の実験を行なった時はもちろん、同じ実験者が同じ被験者を使って同じような実験を行なっても、同じ結果が得られるとは限らないのだ。しかし、一部の実験については、かなり明確な証拠が得られているので、こうした批判は当たらない。

 このような批判のおかげもあって、超常現象の証拠が不明確になっていることを考えると、このような批判者の心の動きは、とらえにくさに関係していると考えられるのではないだろうか。

 このエッセイでは、まず、死後にも人間は魂となって生き続けるかどうかの研究(死後生存研究)について話すことから始め、後半に、急ぎ足ではあったが、ESPと念力の研究について触れ、最後に超常現象のとらえにくさの問題を考えた。

 ここでまとめてみると、超心理学が扱っている現象から、大きな問題がふたつ引き出せる。ひとつは、人間の死後生存の問題だ。もし人間が死後にも生き続けるとしたら、進化についての考え方を大幅に改める必要が出てくる。肉体と心が別々に存在することになるので、肉体の進化ばかりでなく、心の進化も平行して起こったと考えなければならなくなるからだ。また、心と肉体がどのような形で結び付いているのか、という疑問についても新たに考えなければならなくなる。今の科学知識では、脳が活動する結果、心が生まれることになっているが、その考え方がまちがっていることになるからだ。

 もうひとつの問題は、超常現象のとらえにくさだ。超常現象がこれほどまでにとらえにくいということは、だれかが、あるいは何者かが、超常現象の決定的証拠を残さないよう厳重な監視を続けていることになる。それが本当だとすると、いったいだれがそのようなことをしているのだろうか。また、何のためなのだろうか。

 そのように考えると、人間は、今の科学知識で考えられているような精密機械のような存在ではなく、もっと大きな能力を持った、非機械的な存在であることになる。しかも不思議なことに、人間は、そのようなとてつもない自分の能力を、自分自身に隠そうとしていることになるのだ。

 人間とは、生物とは、いったい何者なのだろうか。また、それを生み、育んだ宇宙とは、いったい何なのだろうか。今の科学知識では答えようのない、このような疑問こそ、21世紀の科学者が研究の対象にすべきものなのではないだろうか。君たちの中から、このような大きな問題について真剣に考える科学者が出てくることを心から願っている。

参考図書

K・オシス他『人は死ぬ時何を見るのか』日本教文社
笠原敏雄編『霊魂離脱の科学』叢文社
笠原敏雄編『死後の生存の科学』叢文社
I・スティーヴンソン『虫の知らせの科学』叢文社
I・スティーヴンソン『前世を記憶する子どもたち』日本教文社
M・セイボム『「あの世」からの帰還』日本教文社
『別冊QA―チャネリング』平凡社
松谷みよ子『夢の知らせ・火の玉・ぬけ出した魂』立風書房
R・ムーディ『かいまみた死後の世界』評論社
L・E・ライン『PSI――その不思議な世界』日本教文社
K・リッチモンド他『死後生存の証拠』技術出版
〔『毎日中学生新聞』(1992年7月-1993年6月)所収の拙論を一部改変〕
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