それに対して、東南アジアを中心とする国々には、幼少時にそうした“記憶”を蘇らせた人々が数多く見つかっている。その中でも特に多いのは、インドやミャンマー、タイ、スリランカなど、輪廻転生を奉ずるヒンドゥー教徒や仏教徒が多い文化圏である。しかし、それは必ずしも必要条件ではない。そのような信仰を持たない北アメリカの白人の間にも、300例ほどの事例が見つかっているからである。
死後生存研究が開始されたのは、19世紀末のイギリスであるが、現在、臨死体験の研究などとともに死後生存研究の一分野とされている“生まれ変わり”の科学的研究が開始されたのはごく最近であり、アメリカのヴァージニア大学精神科のイアン・スティーヴンソン教授が1960年頃インドで開始した調査がその嚆矢とされる。爾来、三十有余年が経過した現在、スティーヴンソンのグループは、世界中から二千数百例を収集している。ごく最近まで、このグループ以外には、この方面の調査を行なう研究者は事実上存在しなかったが、現在では、スティーヴンソンのグループとは独立に、数名の研究者が生まれ変わり型事例の研究を開始したことについても、ここで触れておかなければならない。
また、成人になってから、瞑想や夢の中で記憶を蘇らせたと称する事例も存在するが、そのような事例は、一般には、生後の記憶と区別することが困難であり、したがって、そうした事例の中には、研究の対象になるものは稀である。
スティーヴンソンが対象にしているのは、主として2歳から5歳までの間に偶発的に“記憶”を蘇らせた子どもである。そのような事例であれば、生後の記憶との混乱も最小限ですむし、おとなたちが不正に“記憶”を捏造する可能性も少ないからである。スティーヴンソンは、そのような子どもやその家族を中心に、繰り返し面接調査を行ない、記憶の歪みや相互の証言の食い違いを徹底的に洗い出す。そして、前世の人物が特定できる事例では、前世の家族の調査も合わせて行なう。さらに、双方の家族がまだ対面していない事例で、しかも可能な場合には、その場面に立ち会い、前世の記憶を持つ子どもが、前世の家族や場所や物品などを、誘導することなくどこまで特定、指名できるかを確認するのである。
以上のことからおわかりいただけるように、“前世の記憶”を持つ子どもたちは、単に記憶らしきものを持っているだけではなく、それと相補的な関係にある事実や特徴も持っている。したがって、信憑性の高い有力な事例では、本当に前世の記憶を持っていると考える以外なさそうである。紙面の関係で、意味のある程度詳しく事例を紹介することはもちろんできないので、しかるべき参考書(文献1-3)を参照していただくとして、ここでは、スティーヴンソンの研究に基づいて、そのような子どもたちの特徴を列挙したうえ、前世の記憶にまつわるいくつかの問題点を簡単に考えてみることにしよう。
文化圏に関係なく、女性よりも男性の方が、非業の死を遂げる比率は高いはずである。スティーヴンソンは、そのような観点から事例を統計的に検討し、いくつかの文化圏では、自然死を遂げた事例の場合にはやはり男女差がないことを明らかにしている。しかし、タイやスリランカ、レバノンでは、それでも男児が圧倒的に多かったという。
前世と現世の性別については、一部の文化圏を除き、同じ性別で生まれ変わってくる例が圧倒的に多い。逆に“性転換例”の多いのは、カナダ北西部に住むクチン族(50パーセント)やミャンマー(28パーセント)などである。しかし、いずれにせよ、前世と同じ性別で生まれてくる場合の方が多いのである。
記憶の内容で興味深いのは、幸福だった前世を記憶している子どもがほとんど見つからないことである。これはどういうことなのであろうか。非業の死を遂げている場合の方が、人生に悔いを残し、死にまつわる記憶が鮮明で、生まれ変わるまでの時間が短いために、記憶を残している子どもが多いということなのであろうか。それとも、何らかの理由から、幸福感を記憶に留めないようにしているためなのであろうか。この点は、前世の記憶の本質を考えるうえで重要な手がかりになるかもしれない。
また、前世の人物が死亡してから、新しい肉体を持って生まれ変わるまでの間隔は、文化圏によって多少の差はあるが、平均すると3年未満だったという。しかし、中央値は、レバノンの6ヵ月から、アラスカのトリンギットの48ヵ月までの開きがあるが、全体の中央値は15ヵ月であった。
つまり、前世の記憶を持っている子どもの事例では、前世で非業の死を遂げた男性が、生まれ変わり型事例の見つかりやすい文化圏に、3年以内に男児として生まれてくる場合が多いということになる。
そのうちの一例は、1960年にオーストラリアの医学雑誌に掲載された症例で、未婚で妊娠した16歳の自分の娘に腹を立てた母親が、そのまま出産すれば、その子は「手足のない、目の見えない」状態で生まれてくる、と娘に呪いの言葉を繰り返し発したところ、生まれてきた子どもは、盲目ではなかったものの、両足は完全に欠落しており、右腕は上腕部の半分しか付いていなかったという。
この事例について報告者は、通常の原因は見つからなかったとしているが、それが事実であれば、それは、生まれてくる子どもの意志によるものではなく、母親か祖母の意志(つまりは、念力)によるものであることになろう。そうすると、動機さえあれば、生まれてくる人物が自らの意志によって前世時代の傷痕やあざを持ち越すことも不可能ではないらしいことが推測される。
その場合、その動機は少なくともふたつ考えられる。ひとつは、生まれてくる人物がその母斑を証拠ないし目印に用いる目的で再現した可能性と、何らかの理由から不幸を作ろうとした可能性である。第一の可能性は実際にも、前世の人物がそのような目印をあらかじめ予言して死んでゆく事例が存在することによって裏づけられるが、第二の可能性についてはどうであろうか。腕を切られて死んだ人間が、その腕を欠いたまま生まれ変わって来ることは、目印ということだけで説明するのは困難であるように思われる。しかし、だからといって、不幸を最初から作る理由があるかどうかということになると、現段階ではよくわからない。この点については、私の今後の課題としておきたい。
その条件を全て数えあげることは、現段階ではもちろんできない。しかし、前世の記憶が意識に昇っている以外の者の場合には、もし潜在的に記憶が残っているとしても、意識に昇っている者の記憶とはどこか異なっていることが推測される。特に、幸福な一生を送り、自然死を遂げ、生まれ変わり型事例の見つかりにくい文化圏で、女性として生まれた者の場合には、どのような記憶が潜在的に保持されているものであろうか。もし保持されているとしても、催眠などの手段によってそれを探り出すことはできないであろうが、何らかの方法でそれを探り出すことができれば、前世の記憶の本質がさらに明らかになるのはまちがいないであろう。