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幸福否定とは何か 7

 体力の否定

 幸福を否定する結果として起こる、自分が本来持っている能力の否定には、おおまかに言うと、心理的能力の否定と身体的能力の否定とが含まれるけれども、前者については別の章で扱うことにして、ここでは、後者についてのみ検討することにしたい。ここで言う身体的能力の中には、体力や器用さなどが入るが、本節では、主として体力の否定を取りあげることにしよう。

 自分をいわゆる病弱と考えている人たちは、決して少なくない。そのような人たちは、当然のことのように自分には体力がないと思っている。しかし、その中には、本当に体力がない場合と、本当は体力があるのに、ないと思い込んでいる場合とがあるため、両者を区別して考えなければならない。表面的に見る限り、両者はほとんど区別できないが、たとえば緊急時に、いわゆる火事場のばか力≠フようなものが発揮されたとしたら、それだけの、あるいはそれに近い体力を本当は持っているとみるべきなのであろう。

 ところでフランクルは、先に引用した著書の中で、“火事場のばか力”的に発揮された体力の驚くべき実例を報告している。

〔アウシュヴィッツでは〕すてばちなユーモアの他に、別な一つの感情がわれわれを支配し始めた。すなわち好奇心だった。……われわれはすべての起ること、及びその結果が何であるかについて好奇的であった。たとえば一糸纏わぬ裸体で、まだ水に濡れたまま晩秋の寒さの中に戸外に立たされたことがどんなことになるかと思っていたところが、翌日になってわれわれの誰も鼻風邪ひとつひかなかったのには驚かされた。彼等の中の医学者は特に次のことを学んだのであった。すなわち医学の教科書は偽りを述べていることであった。たとえば教科書のある場所では、人間はこれこれの時間以上眠らなかったならばやっていけないなどと書いてあるが、しかしそれは全く誤っていた。……人間には何でも可能なものだというかかる数多くの驚きのうち、たとえば次の幾つかのことだけでも引用しておこう。すなわち収容所生活の初めから終りまで一度でも歯を磨くことはできず、また食物の明らかに著しいヴィタミン不足にも拘わらず、以前の最も健康な栄養の時代よりもよい歯肉をもっていたということである。
 あるいは半年間も同じシャツを着て、そして最後にはどう見てもそれはシャツとは言えないようになり、そして洗濯場の水道が凍ってしまったために一度も洗うことができず、また手は土工の仕事で汚れて傷だらけであったにも拘わらず、一度も傷が化膿することはなかったということである(もちろん凍傷になれば話は別であるが)。あるいは以前は隣の部屋のほんの一寸した音でも目を醒まし、もう眠れなくなった人間が、同僚の囚人とぴったり押し合って横になり、彼の耳の数糎の所に同僚の鼻が恐ろしいいびきを響かせていても目を醒まさず、また横になるや否や深い眠りに陥るのであった。(フランクル、一九六一年、九四―九六ページ)

 災害の被害者の中にも、医学常識に反する実例が時おり報告される。新聞報道(1995年7月16日付け各紙)によれば、1995年夏に韓国で起こった百貨店崩落事故の現場から、16日ぶりに救出された18歳の女性は、その間、食物はもちろん水も一滴も口にできないまま、真っ暗闇の中で、狭い空間に閉じ込められていたにもかかわらず、助け出された時には、転落による打撲を除いては、軽い脱水症状程度しか見られず、医師も驚くほど元気だったという。このような実例を見ると、人間の体力は、これまでの医学常識をはるかに凌ぐ場合のあることがわかる。

 幼少期から、自らを病弱だと考えていた三十代半ばの男性は、ある時、予測に反して、重い荷物を持って長距離を歩かざるをえなくなった。快適な秋空のもと、広い丘陵を、同行者たちはピクニック気分で歩き続けている。そのグループの後を、もうひとりの同行者と話しながら、ようやくの思いでついて行った時、突然ひどく気分が悪くなった。それでも苦しい思いをしながら何とか歩き続けたが、その直後から、体調が全般的に崩れたばかりか、仰向けになることができなくなった。のみならず、上を向くこともできなくなってしまったのである。そのため、虫歯の治療をしなければならないのに、歯科に行くこともできなくなったし、内科の診察や心電図の測定の時にも、床屋でひげを剃ってもらう時にも、仰向けになることができなくなってしまった。

 この男性は、その後10年以上も同じ状態を続けていたが、その症状は、心理療法の進展とともに徐々に改善されてきた。また、そのあたりの状況が明らかになり、そこに焦点を当てて治療したところ、特に訓練したわけでもないのに、体力や持久力が急激に向上し、同年輩の人たちと比べても、ひけを取らないどころか、むしろそれを上回るようにすらなった。このような経過からすると、この男性は、本人が意識で考えていたよりも、本当ははるかに体力があったのに、意識ではそれを否定し、体力を出さないようにしていたことになる。そして、たまたま体力を発揮せざるをえなくなった時に、いかにも体力がないかのような状態を自ら作りあげたのであった。

 やはり自分では体力がないと思っていた、出社拒否を起こして休職中であった三十代半ばの女性は、ある時、いつものように、かけておいた目覚ましの音で早朝に床を抜け出し、電気釜のスイッチを入れてからもう一度横になった。いつもなら、その後しばらくして起床し、昼食用の弁当を作って出かけるのであるが、この時には、そのまま起き上がれなくなってしまったのである。その原因らしきものを探ったところ、いつもは体力がないことを理由に、病院の外来受診ならそれだけというふうに、一日にひとつの用事しか予定に入れないようにしていたが、この時にはふたつの用事を入れていたことがわかった。そして、そのことが、朝いったん目覚めて電気釜のスイッチを入れながら、その後起きあがれなくなってしまった原因なのであった。その事実が明らかになりそれに沿った治療を行なってから、この女性は、一日に複数の用件を片づけることができるようになり、体力も全般的に向上し疲れにくくなってきた。そして、まもなく、長期にわたる休職から抜け出し、もとの職場に復帰している。

 五十代後半のある女性は、数日前から、台所に立っていると腰痛が起こるようになったことを訴えた。主婦の本業である食事の仕度をしている最中に、腰痛などの症状が出る女性は少なくないので、心因性の腰痛ならそのような原因であろうと思いながら聞いてゆくと、腰痛が出るのは、実は、台所に立って食事の仕度を始めるより前であることが判明した。そしてそれは、食材料を買い出しに行き、それを持って上り坂を自宅に向かって歩いて来る時に起こっていたのである。

 また、六十代前半のある女性は、春先に近くの花卉農家から、ビニールポットに入った鉢植え用の花を大量に購入し、それを入れたポリ袋を両手に下げて自宅まで歩いて戻った。ところが、自宅に着くなり強い疲労感に襲われ、買って来た花をそのままにして、部屋に入って寝込んでしまったのである。この2例も、自分の意識で思っていたよりも現実に体力のあることが意識にわかりそうになったため、それを否定する目的で、このような症状を出していたことが後に判明している。その後、ふたりとも、それまでなら、かなりむりをしてもできなかった仕事をしても、あるいはかなり遠方まで歩いても、疲れをほとんど感じないようになっている。

 体力の否定という現象は、これまであまり注目されたことがなく、したがって考察の対象になったことのない現象かもしれないが、広い意味での能力の否定を考えるうえでは、きわめて重要な糸口になるであろう。

 本節で扱うのは適切ではないかもしれないが、パーキンソン症候群の患者に見られる奇妙な現象にも、ここで簡単に触れておくことにしたい。パーキンソン症候群とは、脳幹の特定の部位が、何らかの原因で侵され、振戦麻痺および筋肉の硬直などの運動障害や、自発的な協同運動および感情表出の抑制が主として出現する疾患である。最近は薬物療法などにより症状をある程度抑えることができるようになったが、症状の進行を食い止めることはできない。ここで取りあげるのは、ふだんはできない動作が、一時的にではあるが突然できるようになる、逆説動作と呼ばれる現象である。ふだんは洋服のボタンがかけられないのに、ある時それが突然かけられるようになったり、ふだんは包丁でジャガイモの皮がむけないのに、やはり突然にむけるようになったりするのである。

 それと同列の現象であろうが、状況によって筋肉の動きにかなりの差が見られる場合がある。たとえば、パーキンソン症候群の母親を持つある女性によれば、母親を病院につれて行った時には、足の動きが悪いためかなり苦労したが、大好きな芝居見物につれて行った時には、足がかなりスムーズに出て、あまり苦労せずにすんだという。特に観劇後の帰り道では、歩くのにほとんど支障がないほどであった。やはりパーキンソン症候群を持つ女性は、同じ量の薬を服用しても、夫がいる時といない時とでは、その効果にかなりの差が見られることを話してくれた。

 この女性も例外ではないが、歩くのには支障があっても、自転車には問題なく乗れたり、台所仕事では手先が思うように動かないのに、ピアノは何の支障もなく弾ける、といった不均衡が存在する事例もある。このような例が少なくないことからすれば、パーキンソン症候群は、単なる脳疾患ではなく、その裏に心理的要因が大きく関与している疾患であることがうかがえよう。その推定は、症状がある程度好転すると、その後に、症状が後戻りするという、次節で述べる心因性疾患に共通するパターンが、パーキンソン症候群の患者にも時おり観察されるという事実によっても裏づけられる。

 ついでながら触れておくと、パーキンソン症候群を持つ患者の中には、リハビリや筋力トレーニングなどにより、進行が多少なりとも抑えられる可能性があるにもかかわらず、それが、本人の自主性に任せられると、なるべく手を抜こうとして、まもなくトレーニングをやめてしまうという傾向をきわめて強く示す者が多いようである。こうした傾向も、これらの疾患に心理的要因が関与していることの裏づけになるであろう。


【『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』〔春秋社〕第3、4章より】
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