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幸福否定とは何か 6

 子どもに対する嫌悪感、恐怖心、虐待

 ところで、子どもの要求を叶えたくないという気持ちの延長線上に、子どもに対して嫌悪感や恐怖心を抱いたり、子どもを虐待したりする状態がある。これは、出産後すぐに起こることもあれば、離乳した時やおむつが外れた時、子どもが言葉を発するようになった時、母子間でコミュニケーションが成立するようになった時、初めて歩いた時など、子どもの成長の節目に始まることもある。虐待や嫌悪感はともかく、子どもに恐怖心を抱くという状態はわかりにくいかもしれない。これは、子どもにどう接すればよいかがわからない状態であり、具体的には、自宅の中で子どもとふたりだけでいる時などに起こりやすい。

 たとえば、三十代のある女性は、平日に夫が出勤して子どもとふたりだけになると、子どもと一緒にいること自体が恐怖で、子どもからなるべく離れ、家事に精を出し、子どもとはなるべく接触しないようにしていたが、午前中に夕食の仕度まですませてしまうと、もうすることがなくなり、パニックに陥ってしまう。天気がよければ、子どもと一緒に公園に出かけ、他の母子たちと夕方まで一緒に過ごすことができるが、天気が悪い時にはそれもできず、恐怖を解消しパニックに陥らないようにするため、子どもを放置してひとりで寝てしまったりするのである。また、このような母子関係の場合、どうしても母親は子どもに振り回されることになる。

 子どもに対する嫌悪感は、程度が弱いだけで、恐怖心と同質のものであろう。その表出のしかたはさまざまで、子どもの食べ残しが汚くて食べられないとか、子どもが吐きそうになると自分の方が気持ち悪くなるとか、子どもが泣き出すとそれだけで不愉快になるとか、子どもが病気になっても看病するのがいやだなど、要するに育児ノイローゼの時に見られやすい態度として現われる。

 二十代のある女性は、保育園で乳児の世話をする仕事を長年続けてきたにもかかわらず、自分の子どもには手がかけられず、おむつもほとんど換えなかったため、子どものお尻の皮膚が赤くただれてしまったが、それでもその部分をろくにタオルで拭くこともせず、新しいおむつを当てるだけで平然としていた。また、三十代の女性は、子どもがまだ小さい頃に腹痛を起こした話を私としていた時、自分がその子のおなかをさすってあげていた場面をたまたま思い出したが、それに対して、「私がそんなことするなんて、信じられません」と、ひどく驚いた表情で言った。この女性は、ふだんは子どもにいつも何かしてあげていないと落ち着かなかったにもかかわらず、子どもにとって必要なことはなるべく避けていたし、うっかりそれをしてあげてしまった場合には、このように、その記憶を消していたのであった。

 3歳になるひとり娘が下痢をした時におなかをさすってあげるかどうか聞いたところ、「そんなこと、考えただけで気分が悪くなります」と答えた三十代の別の女性も、質的には同じ反応をしていると言える。この女性は、生後半年の時、娘に離乳食を与えたところ、娘が下痢を繰り返すようになったが、それを見るたびに本人も下痢を起こすようになった。しかし、ひとりで外出した時や娘が眠っている時には、本人の下痢も止まっていたのである。愛情の否定という観点から考えると、娘が下痢をした時には、娘に対する同情心(すなわち、愛情の一端)を意識に昇らせることを迫られるだけでなく、娘のおなかをさすったりなどの看病も迫られることになるが、そのことと本人の症状とは関係のあることが推定される。ただし、母親の症状が、なぜ娘と同じ下痢に限られるのかについてはわからない。

 ところで、昔から、「かわいさ余って憎さが百倍」と言われるように、愛情がある相手に対してほど、うらみや憎しみが強くなる傾向のあることが経験的に知られている。そのため、かわいい子どもに対しては、他の子ども以上に憎しみが強くなる。そのような事情から、かわいい子どもに対しては、他の子どもに対する以上に、いじめや虐待が起こりやすくなるのである。どうしても長子が一番かわいいことが多いため、長子は、特別扱いされる反面、他の兄弟よりも母親の差別やいじめや虐待に遭いやすい。また、長子でなくとも、最初の男の子も、同じ処遇を受けやすいかもしれない。二十代のある女性は、ひとり娘のおなかをさすっている時には、さすりながら必ずどこかをつねっていた。そうしなければ、おなかをさすることができなかったのであろう。三十代のある女性は、子どもと一緒にふたりだけで自宅にいると、たまらなく苦痛になり、ちょっとしたきっかけで子どもを頻繁に叩いていた。

 先述のように、将来、精神分裂病を発病することになる子どもは、両親から相当の虐待を受けることがある。子どもの側も、謝ることをしないため、その虐待は必要以上にエスカレートする。二十代のある男性は、小学生の頃、いたずらをして両親に叱られたが謝らなかったため、寒い屋外で分厚い氷が張った洗面器の上に裸足で立たされた。ところが、それでも謝らず、結局、気を失うまでそこに立っていたのであった。


【『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』〔春秋社〕第3、4章より】
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