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 専門家の誤訳という問題について

本項の目的

 私は、翻訳の経験が少々長く、1979年から最近までの30年ほどの間に、編著書を含めると、30点ほどの翻訳書を出版してきました。出版社側から依頼されたものはほとんどなく、事実上すべてが私が邦訳したいと思ったものなので、一般の翻訳家とは少々立ち位置が違っています。最初の動機は、自分の本を出してみたいという程度の軽率なものでしたが、欧米の超常現象研究の現状を知るにつけ、さらには、ヴァージニア大学超心理学研究室(現、知覚研究室)のイアン・スティーヴンソン教授と知遇を得てからは、欧米で出版されたその方面の良書を日本語で読めるようにしたいという、新たな動機が生まれました。そして、死後存続研究が中心ですが、長い年月をかけて、かなりの点数を出版することができました。ひと昔前までは、現在とは違って、出版社側に「いい本を出そう」という気概がまだ残っていたので、良書を出版するのはむしろ容易でした。

 その一方で、翻訳には誤訳という大きな問題が絶えずつきまとっていることも承知していました。テイヤール・ド・シャルダン著作集の翻訳者としても知られるグロータース神父の『誤訳――ほんやく文化論』(1967年、三省堂新書)を一所懸命に読んだのもその頃です。その前には、『誤訳――大学教授の頭の程』(1964年、潮文社)という著作があったことを、グロータース神父の著書から知りましたが、私はまだ読んでいません。その後、同系列の著作としては、東京外国語大学教授・河野一郎『翻訳上達法』(1975年、講談社現代新書)や、上智大学教授・別宮貞徳『翻訳読本―初心者のための八章』(1979年、講談社現代新書)という名著も出ています。もちろん最近は、もっとたくさんの本が出ているでしょう。その一方で、誤訳とはおよそ無縁の優秀な翻訳家も数多く登場しています。現在、私がたくさん読んでいる生物学関係の翻訳書の訳者としては、たとえば渡辺政隆さんなどがいます。渡辺さんについては、公務を果たしながら、よくもここまで膨大な数の名訳が出版できるものだと、いつも驚嘆しています。『種の起原』(2009年、光文社古典新訳文庫)の翻訳など、いかにも学者然とした八杉龍一さんの翻訳とはひと味もふた味も違って、本当にすばらしいと思います。

 まだ小樽市の精神科病院に勤めていた1974年のことでした。4名の名立たる精神科教授たちによって医学書院から邦訳刊行された、オイゲン・ブロイラー著『早発性痴呆または精神分裂病群』を、刊行後まもなく購入し、読もうとしたことがありました。ところが、何度読んでも意味がわからない訳文の続出に呆れはて、ついに担当編集者にその不満を訴える手紙を出したのです。すると、意外なことに即座に返信がありました。そこには、ご指摘はその通りで、自分でもそう思うが、高名な専門家たちが出してきた訳文に手を加えることが憚られ、結局、不本意な形のまま出版に至ってしまった、という経緯が率直に述べられていました。そして、まことに申しわけなく思うと言って、自分が担当した2点の精神医学書のうち、希望するほうをお詫びのしるしに送りたいという申し出まで記されていたのです。その申し出はありがたくお受けしたのですが、それによって問題が解消されるわけではありません。仮に、それで私の不満が解消されたとしても、正確な改訳書が出版し直されるわけではないので、問題がそのまま残ってしまうからです。これは、実にゆゆしきことだと思います。

 この経験から、ひどい誤訳のまま邦訳書が世に出てしまう構造の一端はわかりましたが、この問題を解消するには、やはり翻訳者の質を上げる以外の道はありません。とはいえ、他人の批判は簡単ですが、自分が翻訳書を出版する側になると、今度は、自分が放った矢がそのまま自分に返ってくることになります。そのため、絶えず読者側に立って、正確に翻訳を進める努力を重ねて行くしかありません。それには、原文の正確な把握が不可欠です。しかし、これは、「言うは易く行なうは難し」で、たとえば、同時通訳ができるほどの英語の専門家とある著書を共訳したことがあるのですが、そのクラスの専門家ですら、分野が違うせいもあるかもしれないにせよ、正確な把握となるとかなり難しいことがわかったのです。

 そのため、わからないところは英語を母語とする専門家に聞いたり、それでも疑問が残る場合には、著者に直接質問するなどして、正確な把握を絶えず心がけながら翻訳して行くしかないことを、いつも肝に銘じながら原文に向かってきました。とはいえ、これでよしと思って出版した後に誤訳に気づき、後悔することも一再ならずあります。

 その一方で、定評のある高名な専門家が、おそるべき誤訳を重ねているにもかかわらず、ふしぎなことに、その名声のためか、読者がそれに全く気づかないどころか、その訳文を賛美すらしている例もあることにも、次第に気づかされるようになりました。その翻訳書がわが国で大きな影響力を持っている場合には、その領域の学問の発展に直接かかわる大問題になりますから、その旨を担当編集者に手紙で知らせることも何度かしてきました。しかし、その場合の対応が良心的なものであったとしても、せいぜいのところ、次回の増刷時に訂正するという程度のものですから、増刷がなければ訂正もされず、仮に増刷されたとしても、増刷分を購入した読者にしかそれが伝わらない、という大きな問題がそのまま残ってしまいます。

 ただいま執筆中の拙著のための資料として、今回、読んで気づいたケースも、相当に深刻なものです。訳者がこの方面のわが国の第一人者であることも、問題をきわめて深刻なものにしています。この訳書自体は、出版された当時に購入し、私の手元にずっとあったのですが、30年以上もの間、目を通す機会がなかったので、この深刻な問題にこれまで全く気づかないまま今日に至ってしまいました。もう少し早く見ておくべきだったと、今になって後悔しています。

 実は私は、海鳴社というこの出版社の社長の辻信行さんとは面識があります。紀伊國屋書店にいた仙波喜三さんという有力編集者が独立して蒼樹書房を創立してまもない1973年頃に、今から考えれば実につまらない拙著の企画について仙波さんに手紙を書き、北海道から上京したおり、確か水道橋にあった同社を訪ねたことがあるのですが、まだ20代の辻さんが、編集者としてそこにいたのです。その辻さんが、しばらくして蒼樹書房から独立して創ったのが海鳴社だったわけです。辻さんからは、会社創立の案内をもらったこともありますし、その後も少しやりとりがありました。今回とりあげる『自然現象と心の構造』という翻訳書は、この海鳴社が初期に出した本です。

 そのような事情もあるので、辻さんに知らせないまま、このような形で問題をあからさまにするのは好ましくないのかもしれません。しかしながら、ことはもっと重大のように思われるため、あえてこのような形をとることにしました。言うまでもないことですが、それは、訳者や編集者や出版社を責めるためではありません。また、ここで問題にするのは、あくまでこの訳者のこの邦訳書に限っており、他の邦訳がどうなっているのかはわかりませんし、訳者の他の業績を問題にしているわけでもありません。その点は誤解なきよう、ここにお願い申しあげておきます。本項の目的は、あくまでこの邦訳書について、現実にどのような状況にあるのかを広く知っていただき、大げさに言えば、わが国の翻訳文化の根本的なありかたを再考するためのきっかけとして、ひとつの問題提起を行なうことにあります。

専門家の翻訳の実例

 拙著を執筆するうえで、ユングの共時性という考えかたを理解する必要があり、『自然現象と心の構造――非因果的連関の原理』(1976年、海鳴社)を読んでみました。ところが、いくら読んでもどうしても理解できない箇所があまりにたくさんあったのです。通常の誤訳は、だいたい原文が推定できることが多く、どのような原因によるものかがおおよそわかるものなのですが、この邦訳書の場合は、それがまったくわかりませんでした。拙著に引用するため、原文(英語版)と正確に対照させる必要を感じ、原著(Jung & Pauli, 1955)を取り寄せて、例によって必要な部分を対照させてみたわけです。すると、驚いたことに、意味がわからないまま“翻訳”しているところがたくさんあることが判明しました。それも、相当に深刻なものです。いつもなら、この段階でリストを作り、担当編集者に知らせていたわけです。

 この問題は、既に同書のアマゾンのレビューでも指摘しています。実は、別の大家の、やはり影響力が非常に大きい精神医学関係の翻訳書に見られる深刻な誤訳についても、アマゾンのレビューに書いたことがあります。ところが、このような指摘は、書籍を販売する側には好ましくないためなのでしょうが、そのレビューはまもなく削除されてしまいました。今回のレビューも、そう遠からず削除される可能性が高いのではないかと思います。それはそれで仕方がないことですが、このことも、時間的な余裕がないにもかかわらず、急遽このページを作成したひとつの理由です。

 前置きが長くなりましたが、それは、本項の目的を誤解していただきたくないためにぜひとも必要な説明でした。それに対して、ここで実際に指摘するのは非常に短いもので、この邦訳書のごくごく一部を対象としたものにすぎません。しかし、わずかそれだけで、この邦訳書が抱える問題の重大性がおわかりいただけると思います。なお、この翻訳書は、前半がユングの論文、後半がパウリの論文の抱き合わせになっていて、それぞれ訳者が異なりますが、ここで問題にしているのは前半の部分だけです。また、この翻訳には何度か目を通しましたが、原文との対照は、必要な個所についてしか行なっていないので、他の部分にどの程度の誤訳があるかまでは、明確にはわかりません。

第1例

 では、いよいよ本題です。ここでは、共時性という概念が誤解を招きやすいとして、ユングがわざわざ追加説明した「要約」の部分(145ページ)から、2例のみをとりあげます。(a) (b) (c) という3項目が並んでいるのですが、(a) については、誤訳の深刻度が少々低いため、ここでは (b) (c) のみを引用します。上が訳文、下が原文です。

 これは、明らかに全く意味がわからないまま“翻訳”しています。(b) の原文は、主観的な心的状態と幻影(夢ないし幻)とが時間的に符合して発生するが、遠方で起こった出来事であるため、その時点ではその符合が確認できないものについて言っているのです。にもかかわらず、この訳文では、「偶然に一致」しているのはどれとどれなのかが全くわからないばかりか、全体的に何を言っているのかもわかりません。これでは、いくら読んでもわからないはずでした。「反射」などの細かい誤訳はともかくとして、この誤訳は、文法的には、coincidence と with が対応しているのに気づかないという、実に初歩的な見落としから発生しています。coincidence があったら、次に with を自然に探すようでなければ、翻訳などできるものではありませんが、この場合の問題はそれに留まりません。

 ユングは、主観的な心的状態と幻影とが同期して発生したと言っているのに、訳者は、with を独立した前置詞と誤解したため、「幻像(夢とか幻)をともなった主観的心理状態の偶然の一致」という訳にしてしまったのです。ここには、ふたつの事象――この場合は、主観的な心的状態と幻影――がなければならないのに、この支離滅裂な訳文では、その2項をひとつにまとめてしまったため、対応するものがなくなり、共時性という現象の説明に全くならなくなってしまったわけです。のみならず、それに付随して発生した誤解の連鎖のため、係り結びがわからなくなり、文章を切り刻んでしまった結果、全体も大きくゆがんでしまいました。これでは共時性というユングの根本概念を理解していないと言われても、文句が言えないところでしょう。

第2例

 次も、これに勝るとも劣らないほど深刻な誤訳です。言うまでもありませんが、翻訳は、原著者が何を言っているのかを正確に把握することから始まります。昔から言われるように、横のものを縦にすればよいわけではないのです。

 これは、その時点で確認できないという点では(b)と同じであるが、出来事が未来に起こるという点で違っていると言っているのです。ここでユングは、予知的な幻影[註1]について説明しているのですが、わけのわからないことを言っているわけではありません。にもかかわらず、いくら考えても、原文が推測できないほど大きくゆがんだ訳文になってしまったのです。原文を見る前の、訳文を見た段階では、逆なら意味は通じると思ったものの、原文を推測することまではできませんでした。

 この誤訳は、文法的には、「……を除いて〔あとは同じ〕」という拘束条件を示す except that を、「同じだが……を除いたもの」と正反対にとってしまったことから発生しています。しかし、文法がわからなかったとしても、この邦訳ではまるで意味が通じないでしょう。「事象が未来に生じるが……現在において幻像によってのみ、表現される場合を除いたもの」ではなく、逆に、「事象は未来に生じるが……現在の時点では幻像によってのみ表現されるもの」とすれば、特に問題は起こりませんでした。 (c) の訳文では、指示するものがどこかに消えてしてしまうわけです。

 この文章では、内容を真剣に理解しようとすればするほど混乱してくるはずですが、訳者も編集者も、そのことになぜ気づかなかったのでしょうか。原文から離れて、訳文だけを見れば、すぐに異常がわかるのに、それがわからなかったのは、なぜなのでしょうか。この種の現象は、実は翻訳者に比較的起こりがちなものです。この場合、直接の原因として推定されるのは、意味が理解できないまま、原文にからめとられてしまったため、訳文の日本語を原文から離れて検討することができず、翻訳作業を途中で放棄し、あとは読者に判断を委ねたということでしょう。しかし、その判断を委ねられたはずの読者は、真剣に考えれば考えるほど、意味がわからず混乱するばかりになるのです。

まとめと解説

 この訳文には、それ以外の問題もあります。ひとつは、先ほどの指摘と重複するようですが、ユングが言っていることの意味を正確に把握しようとする努力の跡が、ここには全く見られないことです。文法がわからなくても、きちんと意味の通る文章にしようとするつもりさえあれば、ここまで滅裂な“訳文”にならずにすんだはずなのです。この原文は共時性の説明なのですから、ふたつの事象が存在しなければ意味をなさないわけですが、その当然の前提が、どこかに飛んでしまったということです。そのことのほうが、むしろふしぎであり驚きです。

 もうひとつは、訳者自身も編集者も、意味がわからないはずのこうした訳文を、そのまま読者に提示してしまったことです。これは、訳者や編集者個人の責任というよりは、誤訳に関する書籍がたくさん出版されていることからもわかるように、もっと規模の大きい問題のように思います。

 にもかかわらず、訳者も編集者も、さらには読者も、この訳文でユングの主張がわかったことになっているようです。ここにこそ、さらに深刻な問題があるのではないでしょうか。その結果、著者であるユングの言っていることが大きくゆがめられてしまい、原文と対照させて、ことの次第を知った者を除く全員が、自覚のないまま、正確な理解とはほど遠いところにもって行かれてしまうからです。また、この文章は、誤解を解消するためにユングがつけ加えた部分であるだけに、問題はさらに深刻です。

 共時性という概念が誤解を招きやすいために、わかりやすくしようとしてわざわざ説明を加えた部分で、このように深刻な誤訳が発生したことを知ったら、ユングは何と言うでしょうか。しかも訳者は、チューリヒのユング研究所で学んできた、ユングの理論に最も通じているはずの心理学者です。一般の読者は、理解できないのは自分の能力不足のためだと自分を責めながら、この訳文を理解しようとむなしく奮闘するか、さもなければ、ユングの言っていることは、やはり難しくてわからないとあきらめるかの、どちらかの道をとらざるをえないでしょう。このような翻訳を通じてユングの共時性概念を正確に理解することは、控えめに言ってもきわめて難しいのではないでしょうか。

 誤訳はともかくとしても、ユングの論理には確かに問題があると思います。たとえば、著名なカナダの科学評論家は、この本の英語版が出てまもない頃の書評で、本書には「哲学全体をユング主義の寓話と見なそうとする、ユングの少々躁病的な傾向」(Frye, 1957, p. 669)が見られることを指摘していますが、経験主義者を自称する[註2]にしては、ユングの論理には、裏づけを欠いた独善的な飛躍が多く、私などにはとてもついて行けないところがあります。もちろん、それはまた次元の違う問題なのですが、ユングの論理に内在するこうした傾向の上に、このような誤訳が重なると、いったいどういうことになるのでしょうか。

おわりに

 わが国には、ユング心理学の学会や研究会がいくつかあるようです。ですから、ユング心理学の研究者はたくさんいるのでしょうし、それ以外のユングファンも少なくないのでしょう。しかし、本書の訳者は、この分野の一番の権威でしたから、読者は誤訳に気づいても、訳者に遠慮して発言を避けているのかもしれません。しかしながら、ホームページやブログなどになら、遠慮する立場にない読者が、この問題について率直な発言をしているのではないかと思って調べてみたのですが、これまでのところでは、そのような書き込みはまったく見当たりませんでした。ひとつだけ見つかったのは、易経を扱った翻訳書に重症の誤植と誤訳があり、それを指摘したところ、それを認めた訳者から、「次の版に修正いたします」という丁重な返信をもらったことが書かれたホームページでした。本書の誤訳に関する指摘は、どうやらホームページやブログなどにすら書かれていないようです。

 やはり硬派の一流出版社でしたが、ある翻訳書でたくさんの誤訳を見つけたことを、担当編集者に知らせたことがあります。当方の指摘はそのまま受け入れてくださったのですが、その編集者は、こうした問題が起こるひとつの理由として、人員不足のため、実際に訳文を原文と照合するだけの時間的余裕がないことをあげてきました。それに対して私は、最近読んだ、同じ出版社の別の翻訳書の訳者後記に、ある編集者が訳文を丹念にチェックしてくれたことが書かれているのを見つけています。その時の仕事の混み具合などの条件も関係してくるでしょうから、単純には言えないことですが、同じ出版社の編集者でも、訳文に対する接しかたは個人によって多少なりとも違うということなのでしょう。しかし、以前と比べると、全般的に編集者の余裕がなくなってきているのもまちがいない事実のようです。しかし、だからといって、この状況をそのまま放置してよいわけではありません。良書の出版を考えた場合、このことも、大変深刻な問題だと思います。

 いずれにせよ、この問題は、一朝一夕で解決できるものではありません。ではどうすればよいのでしょうか。医療業界も、最近では、患者たちの要望が強くなった結果として、ずいぶん対応を変えざるをえなくなっています。そうした事実を見ても、理解できない翻訳については、やはり読者側が、そのことをきちんと指摘するようにして行くことでしょう。そうすれば、翻訳者も出版社も、この問題を真剣に考えざるをえなくなるはずです。

 何ごとについても言えることでしょうが、事実を明らかにすることは、それ自体がきわめて強い力を持っています。ここで扱ったことは、それぞれの読者が不利益を被るという程度の問題には留まらない、それよりもはるかに大きな問題です。ですから、これは堂々と発言してよいことであるどころか、発言して行かなければならないことだと思います。人間の歴史を振り返ると、どの民族も、権威の“顔を立てる”、ただそれだけのために、信じがたいほど大きな犠牲を払ってきています。しかしながら、それは、権威の側の問題にとどまらず、権威に従順に従ってしまう側の問題でもあるのではないでしょうか。むしろ、そのほうが大きいように思います。

 人間は、自分を自発的に前向きに変えるのは非常に難しいものなので、読者側から強く迫られたほうが、翻訳者や出版社としても、解決に向けた行動がはるかに起こしやすいはずです。加えて、昔と違って最近は、自分の意見をブログなりホームページなりで、あるいはフェースブックやツィッターなどを通じて簡単に発信できる仕組みになっています。北朝鮮や中国で、こうした方法が強力に規制されている理由を考えればわかるように、こうした方法には大きな力が秘められているわけです。したがって、こうした方法を利用しない手はありませんが、その場合、正確な把握に基づく正確な情報でなければならないことは、言うまでもありません。本項が、わずかであれ、そのための試金石になれば、それにまさる喜びはありません。

[註1]ユングは、超常現象の実在は認めていましたが、それをすべて、因果関係を越えた共時性という概念で説明しようとしたのです。超心理学の専門家であったJ・B・ラインと25年もの長きにわたって文通していた(Mansfield, Rhine-Feather & Hall, 1998; Palmer, 2004)にもかかわらず、超常現象を、個人が持つ能力という観点から説明することは、最後までありませんでした。

[註2]確かにユングは、フロイトと出会う前後の研究生活の初期に、言語連想実験でGSR(皮膚電気反射)を利用するなど、客観的な生理学的指標を導入した先駆的研究者でした(Jung, 1907; Peterson & Jung, 1907)。ちなみに、1909年にユングは、コロンビア大学精神科教授フレデリック・ピーターソンらとの共同研究に関する講演のため、アメリカに招聘されています(Jung, 1965, p. 120)が、たまたま同時に招聘されたフロイトが、クラーク大学で精神分析の連続講演を行なった時、同大学のスタンレー・ホール教授のもとに留学していた蠣瀬(かきせ)彦藏というわが国の心理学者が、そこでフロイトとユングのふたりと対面しているのです。それが、フロイトとわが国の研究者との交流の出発点になったということです(フロイト博物館)。蠣瀬は、その時、ユングから生理的指標の研究(Jung, 1907)について聞き、自ら実験を行なって、それを論文(Kakise, 1911;蠣瀬、1913年)にまとめて発表しています。そして、その英文論文がユングの言語連想論文(Jung, 1919)(の参考文献欄)に引用されるのです。さらに言えば、フレデリック・ピーターソンは、1909年夏に、わが国の精神科医療の実態を調査するため来日しています。そして、東京帝国大学医学部の呉秀三、三浦謹之助の両教授と、京都帝国大学精神病学教授の今村新吉の3人の援助を受けて,わが国の精神科医療の歴史を調べ,各地の精神科病院を訪ねて歩いたのです(Peterson, 1910)。もうひとつついでに言えば、1911年には、呉、今村と、三浦の義父に当たる三宅秀(ひいず)が、元東京帝国大学総長・山川健次郎らとともに、福来友吉が行なった透視実験に立ち会っています(岡田,1982年,326ページ)。この1910年前後に起こった研究者たちのつながりは、非常に興味深いと思います。これらの一端については、近日中に別のページとして掲載する予定です。

参考文献


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