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 超常現象と出版社

 このホームページのみならず、さまざまな情報源から明に暗にうかがわれるように、超常現象に対しては、肯定的なものであれ否定的なものであれ、感情的な態度を示す人たちがきわめて多い(もしかすると、それ以外の人たちは例外的にしか存在しない)ようです。そのため、超常現象にまつわる記述は、ほとんどの場合、両方向に誤っています。つまり、肯定的な人たちは、明確な証拠がない時でも断定的に実在を主張するし、否定的な人たちは、明確な証拠があった場合でもそれを無視して、やはり断定的に実在を否定しようとします。そして、この両陣営に属する人々は、互いに正反対の態度を取りながら、超常現象の実在を裏づける証拠を軽視ないし無視しています。その点では、驚くべきことに、両者は同じ陣営に属しているわけです。換言すれば、両陣営とも、自らの態度を信仰に基づいて決めていることになります。

 超常現象が実在するしないを別にしても、超常現象にまつわる記述が正しいかまちがっているかの判断は、かなりの場合、可能です。そのうち、最もはっきりした判断ができるのは、誰かが提示したデータや文章が引用(あるいは翻訳)されている時でしょう。本稿では、主として、そうした引用(や翻訳)が正確に行なわれているかどうかに関連する、いくつかの出版社とのやりとりを取りあげることにします。

 個人の場合には、いずれの陣営に属しているにせよ、記述が誤っているとして批判を受けても、少なくとも経済的実害を直接に受けることは、相手の名誉をひどく毀損して裁判や調停に持ち込まれるようなことでもない限りないでしょうが、出版社のような営利団体の場合には、「看板が傷つく」ことや経済的実害を直接間接に受けることに対する恐れも大きな問題になります。

 もちろん、出版社の中には、超常現象に対して、肯定、否定双方の立場から書かれた書籍を、各著者の意見を尊重する形で、いわば公平に刊行しているところもありますが、多くの出版社は、自らの立場を押し出す形で、いずれかの立場に与する著者による著書のみを出しています。どちらの出版社から出された著書にしても、その中の記述がまちがっていた場合、それは直接には著者の責任ですが、同時に、それを(専門性の高い部分は別にして)きちんとチェックしないまま出した編集者の、ひいては出版社の責任も、当然のことながら問われるべきでしょう。

 超常現象の否定を主題にした著書に関する限り、誤りを指摘されても、著者個人がそれをすなおに認めることは、これまでの私の経験からほとんどないようですが、文化の一翼を担うという社会的使命を持っていることのほかに、看板が傷つき、経済的な実害を受けるおそれのある出版社の場合には(もちろん同じ出版社でも、担当者に判断が委ねられた場合には、担当者によっても多少なりとも異なるでしょうが)、個人の場合と少々違う態度を取ることが予測されます。ここで、看板が傷つくという意味はふたつあります。ひとつは、問題を持つ本を出してしまったこと自体に関するものであり、もうひとつは、それとは逆に、問題のある本であれ、いったん出版した本のまちがいを認めて修正することに関するものです。私の目下の関心は、超常現象が実在することに対する心理的抵抗と、出版社の看板が傷つくことに対する恐れとの接点がどの辺にあるのかを明らかにすることにあります。

 とはいえ、それを明確にするには、さまざまな条件を揃えたうえで、超常現象に関係する以外の場合と比較しなければなりません。しかしながら、私の手元には、少なくとも最近のそうしたデータはないので、超常現象にまつわる出版社の態度を直接に検討することは、現段階ではできません。それ以外にも、いろいろな意味でまだきわめて不十分なので、今回は、そのような目的で行なわれた最近のフィールド調査の結果の一端をとりあえず紹介するに留めることにします。

岩波書店

 わが国を代表する硬派の出版社も、宮城音弥氏による岩波新書の心理学啓蒙シリーズの一環として、『神秘の世界』(1961年)と、その改訂版である『超能力の世界』(1985年)を出しています。その一方で、自ら発行する雑誌に、超常現象の実在を、証拠もなしに否定する記事を掲載してもいます。その点では、ここは、“両陣営”の主張を“公平”に取りあげている出版社と言えるでしょう。

 オウム真理教を取りあげたテレビ番組に時おり出演していた精神科医が、同書店から刊行されている『叢書 現代の宗教』の一環として、1997年2月頃に『超能力と霊能者』という著書を出版したことを知り、さっそく目を通してみました。すると、案の定というべきか、この著者が超心理学研究に関する知識をほとんど欠いていることがすぐに見て取れる、岩波書店の出版物とはとうてい思えないほどの内容であることが判明しました。そこで、同年3月中旬に、次のような長文の手紙を担当編集部宛てに出しました。なお、文中、傍点を付した部分は、ここでは太字になっています。

 前略、お忙しいところ恐縮ですが、貴社から最近出版された『叢書 現代の宗教 8 超能力と霊能者』を拝見し、さまざまな問題点に気付きましたので、率直にそれを指摘させていただきます。申し遅れましたが、私は、同書の中で(一五五ページで)編著書が引用されている心理療法家です。

 『超能力者と霊能者』は、全体として意味をよく知らないまま言葉を羅列しているらしき箇所が多く、ピンぼけ写真を見せられているような印象を随所で受けますが、時間もないので、ここでは、私の関係する超心理学の研究に限定して話を進めます。この著者は、早稲田大学の大槻教授や立命館大学の安斎教授と同列の人物のようで、私のインターネット・ホームページから取った同封の「超常現象とは何か」にも書いておいたように、その点では別段珍しくありません(付け加えておくと、一般に、進歩的と見られている人物や出版社の方が超常現象に否定的な態度を取りやすく、保守反動的と見られている人物や出版社の方が肯定的な態度を取りやすいという、何か法則のようなものがあるように見受けられます)。問題は、これまで私が(おそらく世間一般も)出版社として別格と考えてきた貴社が、この程度の人物を、叢書の一著者として取りあげたことにあります。超心理学についてほとんど知らないまま、同じ陣営に属する人々の書き散らしたものを孫引きしあって、その批判をしたつもりになっているのは、この種の批判者に特に目立つ特徴なのですが、この著者の場合、自分の専門分野である精神医学関係の文献に関する知識も少々欠けているようです。

 問題となる箇所はたくさんありますが、以下、説明しやすい部分に限定し、できる限り具体的証拠をあげてページ順に指摘します。ひとつひとつは、もしかしたら些細なものに見えるかもしれませんが、全体として、本書のような著書を執筆するのに必要な基本的知識が、この著者には致命的に欠落していることがおわかりいただけると思います。

 ところで、参考までに同封した「催眠状態の中で起こる不思議な現象」をご覧いただくとわかりますが、暗示という概念は心理学の範疇に属するにもかかわらず、その本質はこれまでのところまったく不明です。つまり、言葉による〈暗示〉が、ウイルス性皮膚疾患であるいぼを消してしまうとか、冷たい金属を押し当てただけで皮膚に火傷様の変性を起こすなど、意識的な、あるいは医学的なコントロールが不可能なはずの身体的変化を、時おり即座に誘発することがあるわけですが、そうした現象は、現在の科学知識ではまったく説明できていないのです。ですから、そこに超常的要素が関係していないという保証はありません。現に、先のベロフをはじめ、そのような疑いを抱いている心理学者や医師も何人かいます。また、やはり同封した「多重人格の人格交替に伴う精神生理学的変化」についても、同じことが言えます。つまり、人格が入れ代わったとたんに、現在の医学知識では説明できない精神生理学的変化が起こってしまう例がきわめて多いのです。もしかすると超常現象の一部は、このように、「暗示による効果」などという別の名称が付けられて、これまで心理学や医学の中で観察、研究されてきたのかもしれないのです。

 話を戻すと、この著者は、精神科医なのでしょうから、少なくとも、同じ精神科医であるスティーヴンソン教授の著書くらい、邦訳でもよいから読んでほしかったと思います(ただし、この著者が一七〇ページでタイトルを引用している『前世を記憶する二〇人の子供たち』)〔叢文社〕──正確には『前世を記憶する二〇人の子供』──は、原書をもとにした訳者による小説になってしまっているため、スティーヴンソンの指示で絶版になっています。したがって、この〈翻訳書〉を読んでも参考になりません)。そうすれば、スティーヴンソンがどれほど厳密な研究法をとっているかがわかり、その研究をここまで誤解せずにすんだでしょう。(スティーヴンソンを私は、二〇年近く前から個人的に知っていますが、これほど厳密な研究をする科学者は、日本にはまずいないと思います。そのスティーヴンソンが、長年にわたる自らの実地研究を中核に、医学や心理学の古今の文献を大量に駆使して、アメリカの科学出版社から『生まれ変わりと生物学 Reincarnation and Biology』というタイトルの、二巻で二二〇〇ページにも昇る大著を近々出版します。参考までに、そのパンフレットを同封しましたのでご覧ください。スティーヴンソンの研究は、現実には、この著者の空想的スティーヴンソン観をはるかに越えたレベルで行なわれているのです。)

 長々と書き連ねてきましたが、時間があまりに少なかったため、まだまだ不十分です。もしこの著書を再検討する必要を感じられた場合には、その旨言ってくだされば、もう少し厳密かつ徹底的に検証することができると思います。

 現在、貴社の社長代行〔現在、社長〕をしておられる大塚信一氏に、数年前、超心理学関係の著書ないし翻訳書出版の件でお会いしたことがありました。その時に、氏は、「もし、出すことになれば、規模はどれほどでもかまいません」とおっしゃってくださいましたが、その後、連絡がなくなり、そのままになってしまっています。いずれにせよ、貴社にも、超心理学関係の本格的著書を出版する意欲がない、あるいはなかったわけではないのです。

 超心理学を批判する本でも、超心理学者が書いた著書や論文を徹底的に読み込み、超心理学者がどのような方法を用いて、どのような結果を得て、それに基づいてどのような主張をしているのかを十分知ったうえで、それらを厳密に検証したものであれば、本当の意味で、科学の進展に役立つでしょう。しかし、この『超能力と霊能者』は、偽りの知識によって人々を洗脳するという、この著者が批判の対象にしている人たちと同種の方法を使って、読者をだましていることになってしまうのではないでしょうか。また、私たちの立場からすれば、オウム真理教事件という歴史的大事件を利用して、超常現象全般の否定論をここぞとばかり強化しているようにも見えるわけです。そう言うと、この著者やその賛同者たちは、私たちを被害的に考えすぎると非難するのかもしれませんが、もしそのような態度を取るとしたら、現実を認めないまま南京大虐殺を否定する日本の右翼文化人たちが、中国政府を被害的だと非難するのと同じことでしょうし、広島と長崎に原爆を落としたのは正当だと、同じく現実を認めないまま主張するアメリカ政府が、日本人を被害的だと言うのと同じことでしょう。

 ご賢察のほどお願い申し上げます。

草々

一九九七年三月一四日
岩波書店
 『講座 現代の宗教』編集部殿

 いくつかの出版社の編集者に聞いたところ、このような手紙をもらった場合、編集者は、まず受け取ったことを知らせる礼状を出し、それから著者に問い合わせるのが常識ではないかという回答を全員から得たので、まもなく返信があるのではないかと期待していたのですが、3ヵ月経っても半年経っても、いっこうに反応がありません。そこで、7ヵ月近く経過した10月初旬に、ある出版社の幹部から聞いた、「編集者は社長から言われるのが一番恐いので、社長宛てに出したら返事をもらえるのではないか」という示唆をそのまま実行に移すことにして、編集部長時代に一度お会いしたことのある現社長に宛てて、次のような問い合わせを出しました。

1997年10月7日

前略、突然のお手紙で失礼します。ご記憶かどうかわかりませんが、私は数年前に、超心理学関係の本のことで、渋谷の喫茶店でお会いしたことのある心理療法家です。

 既に半年以上前になるのですが、今年3月に、「講座 現代の宗教」編集部にお送りした、『超能力と霊能者』に頻出する誤りを細かく指摘した長文の書状について、貴社からこれまで何のコメントもいただいておりません。そこで、失礼ながら、大塚社長のご意見をお伺いしたいと思い、そのコピーをお送りすることにしました。

 お忙しいところ恐縮ですが、大変重要な問題なので、ご返信をたまわりたく存じます。

草々
笠原敏雄

 すると、3日後に、まず社長から、さらにその4日後に担当編集者から返信が届きました。少々強硬ではありますが、これはやはり大変効果的な方法でした。

 社長の返信には、返事が遅れていることの謝罪と、既に担当編集者が著者に問い合わせを出していること、担当編集者から直接説明があるはずであることが明記されていました。続いて届いた編集者の手紙には、返信が遅れたことの謝罪の他に、次のようなことが書かれていました。

 この著書の問題の核心は、岩波書店という、わが国でも最も信頼性が高い書籍を出版すると一般に考えられている出版社が、この程度の本を出したことにあると思いますので、このような編集者の手紙は意外でした。私の最初の手紙には、「もしこの著書を再検討する必要を感じられた場合には、その旨言ってくだされば、もう少し厳密かつ徹底的に検証することができると思います」と書かれているのですから、もっと徹底的に見直し、胸を張って世に問える本にしようとする姿勢があれば、さらに細かい検討を私に依頼してくるか、自分たちでそれをするかの道が考えられるでしょう。しかし、そのような方法を選ばずに、最低限以下の修正に留めようとしているようです。そのことから、この出版社に、一流出版社としての矜持が、私にはほとんど感じられないのです。いずれにせよ、増刷でどの程度の修正が行なわれるのかを楽しみに待つことにしましょう。

化学同人

 CSICOP会員のギロビッチによる著書の翻訳などを出版し、これまで、超常現象に対して否定的な方向の本しか出版していなかった同社は、最近、どちらの陣営にも属さない中立的な態度を取るイギリス出身のふたりの科学社会学者の著書の邦訳を出版しました。今さら言うまでもないことですが、翻訳という仕事は、原著者の言わんとすることをできる限り正確に別の言語で表現しなおすことであって、翻訳者は、それが自分の意見と異なる場合でも、その内容を変更してはなりません。もし、これほど初歩的なことが守られていないとすれば、そこに重大な意図が隠されていることになるのは明らかでしょう。ここでは、やはりニフティーサーブのFMISTYというフォーラムにある「超心理学会議室」での書き込みを中心に、岩波書店と比べると多少なりとも潔く感じられる同社の態度を紹介しましょう。

 ここで取りあげるのは、最近出版された、H・コリンズ、T・ピンチ共著『七つの科学事件ファイル』(福岡伸一訳、化学同人)です。原著者のふたりは、日本では、R・ウォリス編『排除される知』(青土社)所収の「超心理学は科学か?」で知られる科学社会学者です。このふたりの著書は、いつもおもしろいので、この訳書もさっそく読んでみました。本書では、たとえば、相対性理論を巡る実験データや観測データの改竄(というか、本末転倒の取捨選択)などが詳しく紹介された後、「相対性理論が本当の真理であると断定する確実な証拠といったものは実は存在しない。……科学上の真理とは、実は社会のなかで、科学はこうあるべきだ、あるいは科学的なものの見方としてこの方法がよいと判断された結果として表現されるものである。新しい事物の見方に関して、あらかじめ結論があり、その結論を特定の人々が承認してはじめて『真理』が誕生する」のであると、実に的確な指摘が行なわれています(訳書、121ページ)。

 しかし、気になる箇所もいくつかあり、念のため、原著(Collins, H. and Pinch, T. (1993). The Golem: What Everyone Should Know About Science. Cambridge: Cambridge University Press)を取り寄せ、それと対照させてみました。超常現象に触れた部分は、一箇所だけ、常温核融合に関する章の中にあります。ここでは、その文章だけを取りあげることにします。

 ……モリソンはこの騒ぎが「病んだ科学」であると書いた。「病んだ科学」とはもともとアーウィン・ラングミュアの言葉で、ありもしない超能力や透視光線といった幻想に基づくエセ科学を切って捨てた時に彼が使った言葉であった(訳書、64ページ)。

 この文章を読んだ人は、体制科学のさまざまな理論に対してきわめて懐疑的な姿勢を取る原著者も、さすがに超常現象に対しては“健全な”態度を示していることを“知って”安心するかもしれません。しかし、これが、原著者自身の言葉ではなく、引用文であるとしても、「ありもしない超能力」とか「幻想に基づくエセ科学を切って捨てた」などという、断定的にして勇ましい表現を、括弧も付けずに、このふたりの原著者が使うとは、私には思えませんでした。この訳文の原文は、原著69ページの中ほどにあります。次の通りです。

 Morrison soon became sceptical of the claims and referred scientists to Irving Langmuir's notorious talk on 'pathological science', where a number of cases of controversial phenomena (including N-Rays and ESP) in science were dismissed as a product of mass delusion.

 前半の訳にももちろん問題がありますが、ここでは、where 以下の文章だけを検討します。この原文のどこに、「ありもしない」とか「エセ科学」とかに相当する言葉があるのでしょう。だいたいコリンズとピンチが「ありもしない超能力」とか「幻想に基づくエセ科学」などという表現を使うはずもないのです。それは、「新しい事物の見方に関して、あらかじめ結論があり、その結論を特定の人々が承認してはじめて『真理』が誕生する」という文章からふたりの姿勢を知れば、すぐにわかることでしょう。

 「ありもしない」は、controversial の訳語のつもりなのかもしれません。しかし、それでは原著者の姿勢とは大幅に食い違ってしまいます。この文章は、おおよそ次のような意味になるでしょう。

 〔そこでは、〕科学の中で(N線やESPをはじめ)議論の多い現象に関するいくつかの問題が、集団妄想の産物として却下されたのである。

「幻想に基づくエセ科学」という“訳文”は a product of mass delusion からきたのかもしれませんが、いずれにせよ、これでは、原著者の意図とは正反対の“翻訳”になってしまうのではないでしょうか。そして、これは、誤訳ではなく、明らかな歪曲です。そしてこれは、訳者だけの問題ではなく、訳文をチェックする立場にある編集者の問題でもあります。また、この種の問題は、“懐疑論者”による著書や訳書の場合よりも、罪が重いかもしれません。読者はそれと気づかないまま、知らず知らずのうちにその“訳文”を、原著者が本当に言っていることと思い込んでしまうからです。

 そこで、バス大学のハリー・コリンズ教授〔現、サザンプトン大学社会学・社会政策学科の Centre for the Study of Knowledge, Expertise and Science〕に(電子メールで)問い合わせてみました。教授に送った、例の“訳文”の私なりの再英訳と、それに対する教授の返信の当該部分をそのまま引用すると、

 The phrase 'pathological science' was originally formed and used by Irving Langmuir when he rejected pseudoscience which based on such deception as impossible psychic power and clairvoyant rays.

 I'm extremely puzzled about this as I do not remember endorsing Langmuir. (Collins, H.M., personal communication, May 26, 1997)

 この翻訳には、以上のように大きな問題がありますが、この著書自体には、否定的な意味を含めて超心理学に関心を持つ人たちにとって、傾聴すべき発言が数多く見られます。この著書自体が非常に優れたものであることを明らかにするためにも、以下に、そうした発言を、念のため原文を付しつつ列挙してみます。中には特定の問題を指している発言もありますが、お読みになれば、他のことにも同じように当てはまる発言であることがおわかりいただけるでしょう。

 誰の目にも決定的な否定の証拠と思われたことが、よく調べてみるとその証拠もまた、実は問題を含んでいることがわかる。結果として否定の証拠自体が否定される。これは科学論争の常である(コリンズ、ピンチ〔1997〕『七つの科学事件ファイル』化学同人、66ページ)。(As in other controversies what was taken by most people to be a 'knockdown' negative result turns out, on closer examination, to be itself subject to the same kinds of ambiguities as the results it claims to demolish [Collins, H., and Pinch, T. [1993]. The Golem. Cambridge: Cambridge University Press. p. 70-1].)

 とくにクローズは常温核融合支持派の実験の問題点はことごとく指弾している一方で、反対派の実験はすべて正しく明確なものとして取り扱っている。このように一方的な記述は単に反対派の主張を代弁しているものにすぎない(同書、74ページ)。(Close, in particular, falls into the trap of exposing all the gory detail of the proponents' experiments, leaving the critics' experiments to appear as clear-cut and decisive. Such a one-sided narrative merely serves to reaffirm the critics' victory [op. cit, p. 75].)

 一九三三年、ミラーは一連の論争をまとめた論文を発表し、エーテルの存在を示す証拠はなお強力なものであると結論した。ここに科学論争における典型的な「再現性の問題」を見ることができる。ミラーはズレを見いだし、反対派はズレを観測できなかった。しかしミラーは、反対派の実験が自分の実験と同じ条件で行われていないという点を指摘する。特に彼の実験は高度のある場所で、エーテル風を遮る障害物や障壁をできるだけ取り除いた条件で行なわれた唯一の実験である(同書、101ページ)。(In 1933 Miller published a paper reviewing the field and concluding that the evidence for an aether wind was still strong. We have then a classic situation of so-called replication in physics. Miller claimed a positive result, critics claimed negative results, but Miller was able to show that the conditions under which the negative experiments were conducted were not the same as the conditions of his own experiment. In particular, his was the only experiment that was done at altitude and with a minimum of the kind of shielding that might prevent the aether wind blowing past the test apparatus [op. cit, p.41].)

 実験結果というものが信用される要件は、その実験がいかに巧みに計画され、細心の注意を払って遂行されたかによるのではない。人びとが信用する準備があれば実験結果は信用されるのである(同書、103ページ)。(The meaning of an experimental result does not, then, depend only upon the care with which it is designed and carried out, it depends upon what people are ready to believe [op. cit, p. 42].)

 理論から導き出された予測値と実験による観測値とは、それぞれ独立したものである、というのが通常の科学の考え方である。ところがここでは理論と実験が互いにもたれあった関係にあるのだ。つまり、理論が実験によって検証されるという流れではなく、理論を追認するための「やらせ」実験があったというべきである。実際、エディントンの実験を詳しく調べてみると、観測結果を手にするのにどれほどアインシュタインの理論に依存していたかが明らかになる(同書、108ページ)。(Observation and prediction were linked in a circle of mutual confirmation rather than being independent of each other as we would expect according to the conventional idea of an experimental test. The proper description, then, is that there was 'agreement to agree' rather than that there was a theory, then a test, then a confirmation. When we describe Eddington's observations we will see just how much he needed Einstein's theory in order to know what his observations were [op.cit, p. 45].)

 科学の予測が筋道立った論理の産物であり、明確な実験結果によって立証されるもの、というイメージは全くの誤りである(同書、118ページ)。(The picture of a quasi-logical deduction of a prediction, followed by a straightforward observational test is simply wrong [op. cit, p. 52].)

 ひとたび論争に火がついたのちは、理論的予測と実験結果のせめぎあいは永久に解決しない状態となる。実験科学の膠着状態である。この膠着状態の解決もしくは決着は、「科学的」と普通考えられる方法とは別の強引なやり方でもたらされるのである。こうしないことには科学論争が収まることはない(同書、148ページ)。(Then, once the controversy was under way, a combination of theory and experiment alone was not enough to settle matters; the experimenter's regress stands in the way. We have seen some of the ways in which such issues actually are resolved. These resolving, or 'closure', mechanisms are not normally thought of as 'scientific' activities yet, without them, controversial science cannot work [op. cit, p. 106].)

 多くの科学上の論争がそうであったように、反対意見を打ち負かすものは事実でも理屈でもなく、力と数の論理なのである。事実と理屈は常に確実な根拠とはならない。注意深く観察すれば真実が見えるというのは科学に対する幻想に過ぎない(同書、153ページ)。(As in so many other scientific controversies, it was neither facts nor reason, but death and weight of numbers that defeated the minority view; facts and reasons, as always, were ambiguous. Nor should it be thought that it is just a matter of 'those who will not see' [op. cit, p. 80].)

 現実にはきわめて稀でしょうが、著者たちのように、通常科学とされるものに対しても、このような立場を取ることのできる人たちこそが、真の意味で懐疑論者と言えるのではないでしょうか。

 私と電子メールで2往復ほどやりとりをした後、コリンズ教授は、邦訳書『七つの科学実験ファイル』の当該部分について、次のような見解を述べておられます。これは、私が予測したよりもはるかに穏当な判断でした。

 It should be corrected if there is a reprint after this printing is exhausted.

 そこで、以上の意見を添え、一読者として出版社に訂正を求めたところ、まもなく出版社から、それに対する丁重な返信が届きました。この出版社は、誠実というか、出版社として当然の応対をしてくださり、訳者にも連絡し、「不適切な翻訳であったと、ともども反省しております」と認めたうえ、「次回の刷りの際には、ご指示いただきました訳文で謹んで訂正させていただきますことをお詫びにかえてお約束申し上げます」と書いてくださいました。

 わが国の著者による書き下ろしと外国の著者による著書の翻訳であること、出版社に知らせる前に原著者が問題を把握しているかしていないかという点が違うこと、全体として問題が大きいことと一ヵ所だけの誤訳であることなど、条件が大きく異なることから、両者を直接に比較することはできません。したがって、先の岩波書店の対応と比べて、化学同人の方がはるかに適切であったと安易に言うことはできません。しかし、原著者から訂正の申し入れが入ることが予測されたとはいえ、すぐに翻訳者に問い合わせを出し、増刷の際に訂正することを決めて、速やかに私に返信してきたことは、少なくとも岩波書店よりも誠実な態度だと思います。

宝島社

 ここは、同社の宣伝文句によれば、「きわどいルポから先端ノウハウまで」の、いわゆる売れ筋の書籍や雑誌を好んで出版している出版社で、“両陣営”に属する著者の書き散らしたものを出しています。昨年9月、同社の発行する別冊宝島という雑誌の334号として、『トンデモさんの大逆襲』が出版され、その中に、私の対する批判が掲載されました。と学会という同好会の会長である山本弘氏が執筆したその記事は、実際には批判ではなく、ほとんどが作話に基づく中傷でした。そのため、昨年10月7日に、やはりニフティーサーブFMISTYフォーラムにある「超心理学会議室」に書き込んだ文章のコピーを同封し、出版社の見解を求める手紙を、同誌編集部宛てに出しました。

 前略、お忙しいところ恐縮ですが、貴社から最近出版された『別冊宝島』「トンデモさんの大逆襲」所載の山本弘氏の記事「トンデモさんたちはどこで間違えたのか?」について事実を指摘しておきたく、お手紙を差しあげることにしました。私は、その中で取りあげられている心理療法家です。この種の記事に対しては、目くじらを立てるほどのことはないのでしょうが、本気にされる方がおられるかもしれませんので、念のため申しあげておきます。

 山本氏がその中で引き合いに出している“論争”は、ニフティサーブのFMISTY第10番会議室の「超心理学研究室」でかなり前に行なわれたものです。この会議室の過去の一連の書き込みおよびやりとりと、この記事について私が最近(9月14日)、同会議室に書き込んだ文章(以下に再録)をご覧いただければ、山本氏がこの記事の中で私について書いていることは、ほとんどが事実無根であることが容易におわかりいただけるはずです。

 このように、そのうちの多くは、出典を調べさえすれば、超常現象が存在すると思っているかどうかとは無関係に、また専門的な知識とも無関係に、誰にでも誤りが議論の余地なくすぐにわかる程度のものですが、その中でも特にわかりやすいのは、私が、退屈による眠気という可能性に気づいていないという主張です(山本氏は、この部分だけでも、1段と3分の1ほどの誌面を費やしています)。再録したニフティの書き込み〔文末に添付〕でも指摘しておきましたが、山本氏が槍玉にあげている『超常現象のとらえにくさ』〔春秋社〕所収の私の章でも、そのこと(退屈による眠気という可能性)を当然のことながら検討の対象にしている(同書、667ページ)にもかかわらず、“論争”では、それを山本氏が“読み落とし”て私を批判してきたため、その“論争”の中で、その“読み落とし”をあらためて指摘したのでした。にもかかわらず、もう一度それを無視して今回も同じ主張を繰り返すとは、私には尋常なふるまいとは思えません。  

『超科学をきる』についても、“論争”の時に用いたのと同じ、驚くべき主張が、それについて既に指摘されているにもかかわらず繰り返されています。私が“論争”の中で指摘ないし示唆したのは、たとえば南京大虐殺という歴史的事件について、その事件は「まぼろし」だとする否定論者が互いに孫引きし合っている信憑性のないデータを肯定論者がそのまま採用することはないのと同じで、原則としてそのような立場から書かれている『超科学をきる』は、私たちの立場から見るとほとんど無意味であるし、一部の正しい記述にしても、私たちが既によく知っている、超常現象研究の中で暴露されてきた昔の詐欺的事件が時代錯誤的に繰り返されているだけであり、新しい事実の提示や目新しい指摘が行なわれているわけではないので、今さら読む価値はないということなのですが、このような単純な事実を指摘されても、山本氏には、その意味がわからないようです。そして、この本を読まない理由として、私が「否定的なことばかり書いてあるから」と主張していると変形するわけです。

“とらえにくさ”という超常現象の性質についても、私はその証明が不要と考えているのではなく、現実にそれを証明するにはどうしたらよいかを、『超常現象のとらえにくさ』の私の章の中で具体的に列挙しています(同書、684ページ)。ふつうの科学教育を受けていれば、そのようなこと(山本氏の言う「説明と証明の区別」をすること)は当然でしょう。(どうも山本氏は、きちんとした科学教育を受けたことがないように思えるのですが、どうなのでしょうか。貴社にお聞きしても仕方がありませんが。)山本氏の主張をうのみにした人たちは、私が完全に妄想の世界にいると思ってしまうでしょう。それが山本氏のねらいなのかもしれませんが。

 以上のように、山本氏は、自分の言いたい結論にもってゆくために、明確に書かれている事柄をくり返し指摘されてもあっさり無視しているわけです(このようなことから、私には、山本氏が自滅しようとしていると思えてなりません)。山本氏が私の主張や事実を正確に把握したうえで、それに反論したり「トンデモ」扱いしたりしたのであれば、私としても、それに再反論する(つまり、通常の意味での論争になる)か笑ってすませるかする以上のことはないでしょうが、出発点が歪曲だらけで、しかもその歪曲が一般読者にわからないようになっているのでは、問題が大きすぎます。

 要するに、現在の山本氏には、超心理学という一個の科学分野を批判するだけの知識と力量がない(にもかかわらず、黙っていられない)だけなのですが、“論争”の後にも、時間は十二分にあったのに基本的な超心理学の勉強をした形跡がほとんど見られないにもかかわらず、山本氏は、自分が「理解力がない」とか「無知だ」と言われることを極度に恐れているようで、笠原から“論争”の中で「知識と理解力がないと言われたが、それはまちがいだ」という反論をする代わりに、私から「抵抗があることがわかりました」と断定的に言われたと作話して、知識と理解力がないと疑われたこと自体なかったかのような態度を装っています。(このことから、山本氏が事実をことごとく曲げてまでして私を誹謗しようとしていることの他に、自分の無知ぶりを実は明確に承知していることが推定されます。)

 ニフティの私の書き込みに対して、山本氏自身からはもとより、山本氏と共著で本を出しておられる久保田裕氏と志水一夫氏からも、現在のところ反応はありません。しかし、おふたりは、山本氏がここまで常軌を逸した態度を取ることがはっきりした今となっては、もう一緒に行動することが難しくなるのではないかと、私は推測しています。久保田氏や志水氏と貴社との間に接触があるようでしたら、このことについてお聞きになったらいかがでしょう(久保田氏には、この手紙のコピーをお送りしてあります)。

 今回の件に関して、貴社のご見解をお聞かせいただきたく存じます。

草々

cc: 小久保秀之(FMISTY超心理学会議室議長)
  鷲尾徹太 (『超常現象のとらえにくさ』編集者)
  久保田裕 (山本氏の共著者)

追伸、なお、超心理学については、拙著(たとえば、『超心理学研究』〔おうふう〕、『隠された心の力』〔春秋社〕など)の他に、私のホームページにもさまざまな情報が掲載されていますので、ご参照ください。


niftyserve FMISTY 「超心理学会議室」の書き込みの再録
01844/01844 JAC00550 笠原敏雄     re: とんでもさんの逆襲

(10) 97/09/14 21:20 01826へのコメント

 ある出版社の編集者から、この雑誌の中に、私に対する批判が載っていると聞いていましたが、ようやく昨日、それを読むことができました。山本弘氏によるその記事は、前にこの会議室で“論争”した時の、ほとんどそのままを、反省もなく書き連ねているだけのもので、結論として、私は「トンデモさんの典型」とされています。おそれいりました。この記事だけを読むと、私が、超心理学者としても、(退屈による眠気という可能性も考えつかないほどの)心理療法家としても、とんでもなく常識に欠ける人間と映るようになっています。

 その“論争”を読んでいただければわかりますが、山本氏は私の言っていることをことごとく誤解ないし曲解したため、それは、山本氏の理解力が極度に不足しているか、抵抗のためかのどちらかによるのではないかと示唆したうえで、「この程度の知識と、この程度の論理で」超心理学の批判をすることは無意味だとして、山本氏の論理が『サイの戦場』で取りあげた、否定論者の没論理と同質のものであることを細かく指摘したのでした。専門的な分野に対して批判をするのであれば、言うまでもなくそれなりの知識が必要なのですが、山本氏にはそれが決定的に欠けていたからです。それに対して、逃げ出したのは山本氏の方だったのですが、この記事では、何と私が論争を拒否したことになっています。現在、あまりに時間がないし、あまりにばかばかしいのですべてについては書きませんが、それ以外にも、私に関する部分は、ひとつひとつがほとんど事実に反しています。

 今回の記事でも、その“論争”の時と同じ問題が、まったく“不思議”なことにそのままくり返されています。前半では、中立を装った自らの姿勢が表明され、実験超心理学に関するもっともらしい知識が開陳されていますが、その中に“誤り”も巧みに挿入されていますし、肝腎のところが欠落してもいます。たとえば、「世界中の研究者は(笠原氏も含めて)誰ひとりとして、超能力が存在する確かな証拠を手にしていない」と断言されていたり、超常現象のとらえにくさの特徴のリストから、目撃抑制と保有抵抗以外の、都合の悪そうな項目(たとえば「否定論者の没論理」や「説得力があると超心理学者の考える証拠を、否定論者が無視するという現象」)が外されたりしているわけです。バチェルダーの理論についても、要するに理解できていないだけなのですが、驚いたことに、山本氏は、自分の力量不足を棚に上げ、もっともらしい“批判”を堂々と展開しています。誰かの批判をするのであれば、相手が何を言おうとしているのかを完全に理解したうえでなければ、当然のことながら意味がありません。山本氏が懐疑論者を標榜したいのであれば、また、超常現象に隠れた関心もあるようですから、特に(少なくとも超心理学に関しては、観念的な、自分に都合のよい知識を書籍から拾い集めるだけのタイプの人らしいので、手品以外の)経験を含めて、超心理学者による超心理学の文献を、欧文のものも含め、真剣に勉強しなければだめです。

 『超常現象のとらえにくさ』の私の章を真面目に読んでいれば、超常現象の話を聞いた、あるいは超常現象関係の本を真剣に読んだ時の、一瞬のうちに起こる眠気は、退屈で眠くなるという日常的に観察される現象ではなく、反応の眠気と考えるべきだと考えるに至るまでの経過や、それ以外の証拠がある程度書かれているし、そのことについては、“論争”の中でもくり返しておきました(ついでに言えば、この場合の反応としては、ある医科大学の皮膚科でも診断がつかず──診察した教授が、「この皮膚病の診断ができる人は、今の日本にはいないでしょう」と言ったほどで──膠原病を疑われたほどの、一見重症の皮膚病が、ごく短時間のうちに──本人の表現では「見る見るうちに」──ほぼ全身に出現した症例など、身体的な反応が出現する例もあります)。にもかかわらず、どうして私が、退屈で眠くなるという日常的な現象に気づかないことになってしまうのでしょう。これは、為にする隠蔽でなければ何ですか。なお、私の言う反応については、拙著『懲りない・困らない症候群──日常生活の精神病理学』(春秋社)の中に詳しく書かれていますので、興味のある方は、それを参照して下さい。

 誤解されている方が多いのですが、超常現象のとらえにくさは、超常現象が実在するとすれば、超常現象研究の長い歴史を考えれば、必ず存在する現象のはずですが、もちろん私は、その証明が必要ないと考えているわけではなく、その実在を証明するための方法論も、その章の中で「今後の仮題」として具体的に列挙しています(同書、684ページ)。

 また、『サイの戦場』と『超常現象のとらえにくさ』の完結編である『隠された心の力』(春秋社)の中でも少し書いているように、医学や心理学の中で、現象として実在を認められていて“暗示”など別の説明が付されていながら、その本質は超常的な現象なのではないかと思われるものに関心が向いてきており、その論文集を、6、7冊の叢書として出版することを計画しています。早ければ来年末には、そのうちの2点が出版されるでしょう。そのような視点は、ヴァージニア大学人格研究室のイアン・スティーヴンソン教授の Reincarnation and Biology: A Contribution to the Etiology of Birthmarks and Birth Defects. 2 vols. Westport, CT: Praeger という、医学書として最近出版された、総計2270ページほどの歴史的な大著や、その一般向けの要約版 Where Reincarnation and Biology Intersect という同じ出版社から出た著書にも明確に書かれているので、関心のある方は参照してください(後者の邦訳書については、既にDTPのファイルができており、来年1月頃に出版される予定です〔本年2月に『生まれ変わりの刻印』として春秋社より出版された〕)。

 今回の山本氏の記事にも、『サイの戦場』の中で取りあげた、事実をくり返し無視したうえでの没論理が全面的に出ているのは興味深いことですが(『サイの戦場』は、実は、このような没論理を封ずることをひとつの目的としてまとめられたのでした。それが、皮肉にも否定論者に評価されるのは、単に誤読されているからにすぎないのですが)、これにより山本氏は、私を攻撃したつもりが、私の罠にはまった形で自らの姿勢をくっきりと浮き彫りにして見せて下さいました。これについては、一緒に活動しておられる久保田裕氏や志水一夫氏のご意見をおうかがいしたいものです。

 なお、この会議室の“論争”の時ですら、既に平田剛氏らにあきれられていますので、山本氏には、勝ち負けにのみこだわるなど、一時の感情に駆られて自らの姿勢を周囲にさらにさらけ出すことにより、長い目で見て後悔することのないよう望むものです。

 最後に、この書き込みにコメントをつけられる方には、ハンドルなる仮名ではなく、所属と専門と実名とを明記していただきたいと思います。ご自分の発言に責任を持っていただくためです。

笠原敏雄

 以上のような手紙に対して、この出版社から返信があることは最初からほとんど期待していませんでしたが、4ヵ月ほど経ってもやはり何の連絡もありませんでした。そこで、岩波書店の例に学んで、本年の2月1日に、この雑誌の発行責任者に、以下のような手紙を送りました。


宝島社『別冊宝島』「トンデモさんの大逆襲」発行人
 蓮見清一様
前略、同封のようなお手紙を、昨年の10月7日に『別冊宝島』「トンデモさんの大逆襲」編集部にお送りして、貴社の見解をお尋ねしましたが、4ヵ月弱が経過した現在でも、まだその返信をいただいておりません。そこで、もう一度同編集部に問い合わせる代わりに、同誌の発行責任者である蓮見様にお手紙を差し上げることにしました。

 同封のお手紙を一読していただければおわかりいただけるように、山本弘氏は、まったくの作話に基づいて私の非難しているだけであって、その点について議論の余地はありません。責任の所在を含めて、貴社の見解をお聞かせくださるよう、重ねてお願い申し上げます。

 なお、これまでのところでは、昨年9月14日の私の書き込みを見ているはずの山本氏本人からも、久保田氏や志水氏からも、この件については何の回答もいただいておりません。この3人とも、その後はニフティのこの会議室に書き込んでおりません(それまで頻繁に書き込んでいた志水氏も、私の書き込み以来、まったく書き込みをしなくなりました)ので、そうした形の反応はあったことになりますが。

 では、よろしくお願い申し上げます。

草々
笠原敏雄


 この手紙に対しても、あまり返信は期待していませんでしたが、このページを書いている4月15日現在でも、やはり宝島社から反応はありません。山本氏の記事を見たある編集者が、「こんな売文業者がいるとは」と驚いていましたが、おもしろそうならウソでもいっこうにかまわないという態度で書かれた、この種の記事を載せて平然としていられる宝島社とは、いったいどういう出版社なのでしょうか。最初から読者の反論は相手にしないようにしているのか、あるいは法的な問題に発展してから重い腰を上げるような「きわどい」やり方をあえて取っているのかもしれませんが、このような応対を見る限り、ここが誠実で良心的な出版社とは、私にはとうてい思えませんし、このような態度は、相手が超常現象かどうかとは、どうやらまったく無関係のようです。

結 語

 書籍の出版は、単なる商行為ではなく、出版社には文化の担い手という重要な社会的使命があると言われてきました。しかし、最近の出版不況の結果、ある出版社の編集者の言葉を借りれば、「昔は『売れる本を出そう』と言ったら『バカなことを言うな』と一蹴されていたが、最近では、『いい本を出そう』と言うと、『何を寝ぼけたことを言ってるんだ』とやはり一蹴される」という状況になってきて、出版も単なる商行為に近づいてきたようです。その大きな原因になっているのが、最近、編集者たちの間で、「日本から知識人が消えた」と言われるように、読者のレベルが極度に低下してきていることです。その結果として、まともな本があまり売れなくなったため、そうした本は初版の部数をかなり抑えて出版されるようになってきました。そうすると、定価は初版の発行部数でほぼ決まりますから、まともな本はますます高額になり、読者からますます敬遠されるという悪循環が生まれます。

 そのような状況から、きわめて多くの出版社は売れ筋の本を中心にというか、売れそうな本しか出版しない(経営的にできにくい)ようになりました。今回紹介した3社のうち2社は、自社で出版した書籍の誤りを指摘され、それを修正しようとする動きを示しましたが、そのうちの1社にはあまり積極性は見られませんでした。また、残る1社は、そうした指摘をどうやら完全に無視したようです。このように誤りを指摘されてもそれに応じようとしないのは、出版不況という現状もひとつの原因になっているのではないか、という指摘があるかもしれません。看板が傷ついたり経済的実害を受けるおそれがあったりしても、それよりもさらに目先の問題にとらわれているのではないかというわけです。しかし、一方では、読者の指摘に真剣に耳を傾ける良心的な出版社も、少数ながら現実にまだ存在するのです。

 かなり昔になりますが、医学書院、小学館、ある有名な心理学系出版社の3社に、それぞれの出版物中の誤りを指摘する手紙を書いたことがあります。医学書院と心理学系出版社は翻訳書の誤りの件で20年ほど前、小学館は『ランダムハウス英和大辞典』のミスプリントの件で10数年前でしょうか。医学書院と小学館は担当編集者から、心理学系出版社は経営幹部から、それぞれ返信をいただきました。

 医学書院の翻訳書に対しては、全体として意味のつかめない訳文が多すぎるという漠然とした指摘をしただけなのですが、編集者は、その指摘を全面的に受け入れてくださいました。ただし、事前に承知していたが、訳者が高名な精神科医なので、あまり注文が付けられなかったという説明が加えられていました。そして、あまりに読者に申し訳ないので、自分の担当した書籍のうち、どれか希望するものを言ってもらえればそれを謹呈したいという申し出までしてくださいました。小学館の『大辞典』については、ミスプリントを数ヵ所指摘しただけなのですが、編集者は丁重な返信をくださり、今まで誰も気づかなかった部分なので大変ありがたい、次回の刷りで修正させていただく、と言ってくださいました。それに対して、心理学系出版社の幹部は強硬で、心理学関係の翻訳書の最初の数ページを、原文と対照させて意味が不明確であることを具体的に指摘したにもかかわらず、不明確とは考えない、したがって修正の必要もないと言ってきました。

 この3例は、いずれもかなり以前の事例であり、内容的にも超心理学とは関係ありません。しかし、そのうちの心理学系出版社は、私の指摘をはねつけ、修正に応じませんでした。とはいえ、私の手紙を無視したわけではなく、いちおう反論の手紙を送ってきているわけです。その点は、今回の宝島社の応対とは大きく異なります。

 以上紹介したこれまでの”フィールド調査”では、もとより事例が少なすぎて一般化ができるはずもありませんが、良心的な出版社も、依然として少数ながら存在していることを考えると、個人の場合よりも出版社のほうが、誤りを指摘された時に、多少なりともそれを受け入れやすいと言えるかもしれません。一方、超心理学が関係している時のほうが、関係していない時よりもやはり率直に修正に応じにくいようにも思われますが、今回、それを裏づける証拠が得られたわけではないので、そのように明言することはできません。今後も機会があれば、同様の調査を続けて行きたいと思います。


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