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心理療法随想 7

 心の実在

共同幻想再考

 ある精神科医は、恋愛感情について次のように述べている。「恋愛という特殊な精神状態を精神科医がみると、その恋人がいなければ自分は生きていけないと思い込む一種の妄想状態である」(中村、1989年、191ページ)。この精神科医が、妄想の本質をまったく理解していないことについては驚くほかないが、ここでの問題は、この程度の思い込みや妄想的とも言える断定が、さまざまな立場の心の専門家に少なからず見られるという事実である。

 しかし、このような発言は、誤りがすぐにわかるので、まだ罪が軽いと言える。もっと重大なのは、脳や脳内産生物質の専門家による、次のような発言であろう。「心の世界は、測定もできず、観察もできない。ましてや心の働きを法則を立てて予測することなどできそうにない。……常に動いているのが心であり、その方向は本質的に不定である」(山鳥、1998年、190、202ページ。傍点、引用者)。「脳内をかけめぐる伝達物質の種類と量によって、“心”が決まるのだ」(生田、1999年、5ページ)。これらは一般向けの著書に書かれた文章ではあるが、著者の基本的姿勢がそのまま現われていることに変わりはない。こうした発言からわかるのは、脳や脳内産生物質の研究を専門とする人々は、心に関する粗雑な観察や思い込みを出発点として、その理論を組み上げようとしていることであり、どうやら、このような態度こそ科学的だと思い込んでいるらしいことである。

 その点については、これまで見てきたように、心の専門家も同じである。その程度の思い込みを出発点として、もっともらしい原因論を組み立て、それに基づいて心因性疾患を治療しようとするが、現実にはほとんど歯が立たず、根本療法にはほど遠い薬物療法にほぼ完全に依存するという状況が、今なお、世界中で続いているのである。のみならず、特に分裂病を筆頭とする精神病の患者に対しては、「薬は一日も欠かさず、一生飲み続けてください」とか、「病気と仲よくしなさい」などという仰天すべき発言が、ぼかした表現を使うことはあるにせよ、当然のように行なわれている。

 では、その指示に従って、一日も欠かさずに医師の処方する薬物を服用し続ければ、再発を免れ、真の意味で病気から立ち直る可能性があるのであろうか。残念ながら、それに対しては、きわめて難しいと言わざるをえない。また、病識がないとされる人たちに対して、病気と仲よくせよとは、どのような意味なのであろうか。心の専門家は、このような、根拠を欠く恐るべき発言を一方で行ないながら、これまで見てきたように、精神病を含む心因性疾患の根本療法の手がかりになりそうな観察事実を、ことごとく無視してきたのである。「精神病は治らなくて当然」とでも言わんばかりの、自らを説得するためとも思える態度に加えて、心の専門家は、おそらく無自覚のまま、ある種の見下しをしながら被治療者と接している。それは、自らの心の動きと被治療者の心の動きは、まったく別種の法則に従うはずだと思い込もうとしているためなのであろうか。

私の人間観

 これまでの経験から、私は、幸福の否定という奇妙な心の動きがおそらく万人に潜んでいることや、それがいわゆる心因性疾患を作りあげる出発点になっていることを次第に確信するようになった。拙著『隠された心の力』と『懲りない・困らない症候群』(いずれも春秋社刊)は、そのような視点から書かれたものである。私は、分裂病と診断された患者が、薬物を服用せずとも分裂病症状を完全に消失させ、経済的、心理的に自立し、いずれは親の面倒を見なければならないことなど、将来直面することになる現実的問題についても前向きに考え、常識や能力を自発的に発揮しながら生活するようになった──つまり、誰から見てもふつうの人になった──のを自分で確認している。さらには、痴呆状態にまで陥っていた分裂病の患者であっても、再び動作が機敏になり、手先が器用になり、要領がよくなり、頭の働きが格段に改善されるまでの経過も追うことができた。

 また、感情がまったく意識に昇らなかった人でも、喜びも含め、自然な感情が次第に湧き上がるようになるのも見てきた。そして、精神病であれ、心身症や神経症であれ、登校拒否や出社拒否であれ、心因性の疾患や行動異常は、“感情の演技”という、ひとつの方法で根本的に治療できることもわかってきた。さらに私は、幸福の否定を弱めた人たちが、それまで発揮できなかった能力を自然に発揮するようになる過程も観察し続けてきた。このような観察事実からすると、幸福の否定は、心因性の症状を作る出発点であるばかりか、能力の発揮を妨げる主体にもなっていることがわかる。

 人間は誰しもが、潜在的にかなりの自信や能力を持っている。にもかかわらず、自らの幸福を否定するために、そうした自信や能力を自らの意識に隠し、いわゆる心因性の症状を作ったり引っ込めたりしながら、自分には自信も能力もないとする芝居を、自らの意識に見せるため、現実の中で打っているらしいのである。幸福の否定などというふしぎな心の動きがなぜあるのかはまだわからないけれども、これが、現在の私の人間観である。この人間観は、進化論を含め、現行のいずれの理論とも根本から対立してしまう。

 このような考え方が、常識からどれほどかけ離れているかを、私はよく承知している。私とて、最初からこうした奇妙な考え方を取っていたわけではない。長い時間をかけ、次第に常識を乗り越えながら現在に至ったのである。私は、その理論体系を裏づけてくれる証拠を豊富に蓄積してきたので、今ではその事実性を確信しているが、常識からすれば、こうした考え方が奇異に映ることもわかる。そこで、仮にこうした理論体系が真理であるとすれば、心の専門家の態度はどのように説明できるかを考えてみることにしよう。

小坂理論の本質

 心の専門家の持つ問題点は、小坂英世先生の分裂病理論(小坂理論)にまつわる態度に、最もはっきりした形で現われている。“抑圧解除”により、分裂病症状が一瞬のうちに消えるとする小坂先生の主張に対しては、ごくわずかの例外を除いて、関心を示した専門家はいなかった。そして、小坂先生の人格攻撃まで行ない、追試もしないまますべてを却下し、現在はその存在すら抹殺してしまったのである。心の専門家は、なぜこうした異常な態度を取ったのであろうか。追試などせずとも、その理論がまちがっていることは明白だったとでも言うのであろうか。

 小坂理論を6年弱にわたって追試し、その後も、自前の心理療法で分裂病の患者を治療してきた私は、症状出現の直前にある、記憶の消えた出来事を想起させれば、その瞬間ないし直後に分裂病症状が消えることを繰り返し確認している。もちろん、それだけでは、分裂病症状の再発傾向は解消できないので、長期にわたって治療を継続しなければならない。その後の再発は、それまでのものとは質的に異なってきて、その解消に相当の時間とエネルギーを割かなければならないが、心理的方法だけで分裂病に対処できるばかりか、同時に、それ以外の方法は、根本的な治療法としては無効であることが明らかになるのである。心理的方法だけで根本的な治療ができ、脳をターゲットにした治療が対症療法以上のものにはならないということは、分裂病は、心に直接働きかけない限り、真の意味での治療はできないということである。

 ところで、現在の科学知識では、心は脳の活動の産物にほかならないとされている。心は脳から独立して存在するわけではなく、脳が活動する結果、心(というか意識)が生じ、それがあたかも自律性を持っているように見えるにすぎないというのである。端的に言えば、人間を、学習機能が不完全で、いつまでも壁にぶつかり続けるロボット類似のものと見なす現行の科学知識体系は、心が脳とは別個に存在するという考え方を、およそ非科学的な盲信と断定する。それに対して、アンリ・ベルクソンは、人間が死ぬと何もなくなるように見えるため、そのように主張されている以上のものではないことを、実に的確に指摘している(ベルクソン、1992年、97ページ)。つまり、現在の“科学的人間観”は、科学的根拠を完全に欠きながら科学の装いをしているにすぎないのである。

心の実在の否定

 ベルクソンは、また、次のようにも述べる。「哲学と科学は、この仮説〔心は脳の活動の産物だとする仮説〕と矛盾するもの、或いはそれに反するものを本能的に避けようとする傾向があります」(同書、88ページ。傍点、引用者)。この指摘は、心の専門家たちの奇妙な態度の本質をも鋭く見抜いたものと言える。本連載で紹介してきたように、心の専門家たちは、本能的という言葉がまさにそのまま当てはまるかのように、心(この場合、いわゆる無意識)にじかに働きかける心理療法を、無条件に否定してきたのである。

 では、小坂理論という分裂病の心理的原因論が、心の専門家によって、いわば感情的に忌避された理由と、心が脳から独立して存在するという考え方が、一般の科学者から不当に却下される理由とは、本質的な意味で関係があるのであろうか。理不尽な理由で拒絶されるという点ではむろん両者は共通しているが、ここで問題にしているのは、そのようなことではなく、その理不尽さが、同じ根から発したものかどうかということである。

 もし、このふたつの根が共通しているとすれば、心の専門家が、心理的原因をストレスのようなものと考えたがる理由もはっきりしてくるし、それとともに、心を扱っているはずの心身医学ですら、実際には心が不在になっているという、4回目の連載で引用したハリス・ディーンストフライの指摘も、意味がより明確になってくる。さらには、精神科医や心理療法家が、心にじかに働きかける方法を工夫しようとしないどころか、そのヒントとなりそうな観察事実をことごとく無視したがる理由も明らかになってくる。

 とはいえ、心の専門家が、心の実在を、本能的とも思えるほど感情的に強く否定しているとすれば、それはなぜなのであろうか。残念ながら、その理由は未だ明確ではないが、私の人間観をそのまま適用するとすれば、心の専門家は、心の独立的実在を無意識のうちに承知しているからこそ、それを避けていることになる。人間は誰しも同じような性向を持っているのであろうが、心の専門家は、職業柄、この問題に直面しなければならない分だけ、一般人よりも抵抗が目立ちやすいのであろう。

 人間には、現代科学からは想像もつかない側面が、依然として数多く残されている。そのためにこそ、私は、自らの人間観や、心の専門家たちの抱える根本的問題の核心に関する推定が正しいかどうかも含め、今後とも、人間の心自体の探究を続ける必要性を強く感ずるのである。

参考文献

月刊『春秋』誌に1999年8・9月合併号から2000年10月号まで、不定期に連載したものを改変。
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