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心理療法随想 6

 時間という問題

 ある作家は、新聞のコラムで、さまざまな具体例を列挙したうえ、「退屈との戦争にいかに勝利を収めるか? これは大問題である」(『朝日新聞』1997年1月7日夕刊)と述べている。この作家が、どこまで真剣にこの主張をしているのかはわからないが、心の専門家がこれまで、ごく一部の研究者(たとえば、小木、1974年)を例外として、退屈や時間という問題に真剣に取り組んだことがほとんどなかったのはまちがいない。それは、心の専門家が、そうした問題にそれほどの意味がないことを先刻承知しているためなのであろうか。それとも、この作家の方が、この問題の重要性を鋭く見抜いているということなのであろうか。

 ところで、退屈な時に発生しやすい、「ゲームにはまる」という現象を生理学的に検討しようという試みが、わが国で始まっているという(『朝日新聞』1998年5月21日夕刊)。その記事によれば、脳内で産生される化学物質の影響によって、「はまる」が「依存」に移行するのではないかと推定されているようである。とはいえ、仮にそのような状態にある者の脳内に、特定の化学物質が有意に多く検出されたとしても、それがゲームのようなものに「はまる」(あるいは依存する)原因になっているのかどうかは、それだけではわからない。そのような化学物質が検出されたとしても、それは、「はまった」(あるいは依存するようになった)結果かもしれないからである。前回の連載で指摘したように、そうした化学物質によって人間の行動を説明するためには、人間の行動について観察される、さまざまな側面をことごとく無視する必要がある。このような話を聞くと、現代科学は、人間をロボットと見なす傾向をますます強めていることがわかる。今回は、少々寄り道のように感じられるかもしれないが、これまで心理臨床でほとんど無視されてきた時間という側面から、いわゆる異常行動を眺めてみることにしたい。

時間をつぶすことの意味

 二十代のある女性は、仕事で拘束される以外の時間に、友人と会うなどの予定を、2週間先まで入れておかないと不安で、ひとり暮らしであるにもかかわらず、自宅に早く帰るのを極度に嫌うという、いわば帰宅恐怖症の状態に陥っていた。たまたま何の予定もなく、しかたなく早く帰宅した場合や、仕事がなく、朝から自宅にいる休日などは恐怖である。テレビやビデオを視て、あるいはゲームなどをして時間をつぶすどころか、食事を採ることすらできず、ひたすら眠り続けるか、それもできない場合には、パニックを起こし、夜中でも友人宅にタクシーで押しかけ、泊めてもらったりしていたのである。また、四十代のある女性は、朝、夫が出勤する時間になると、毎日のようにパニック発作を起こす。そして、出勤しようとする夫にすがりつき、出勤を止めようとするため、やさしい夫は、できる限り妻の要望に応えようとした。しかし、現実には職場を何日も休み続けることはできず、結婚して別居している娘に来てもらい、アルバイト料を払って母親の相手をしてもらっていた。

 このふたりの女性はいずれも、精神病など重度の疾患を持っていたわけではない。パニックを起こす時以外は、特に異常な行動は示さないし、誰かと一緒にいさえすれば、落ち着いてふつうの行動を取るのである。心の専門家は、このような事例について、心理的に未熟であるとか、自立心が弱いなどとして片づけようとすることが多いが、そのような“診断”を行なったところで、言葉の遊び以上のものにはならず、何の解決も図れない。被治療者に対して、そのような断定を行なうのであれば、専門家には、具体的な解決策を提示する義務や責任があるのではなかろうか。

 さて、以上の事例からわかるのは、こうした形のパニック症候群は、基本的に幸せな状態にあって、家事や仕事から解放されており、趣味や娯楽などの通常の時間つぶしができない状況で発生するということである。ところで、時間つぶしにふけろうとするのは、時間が自由に使える状況の中で、自律的生活であれリラックスであれ、前向きの行動を回避しようとする時だと言えよう。ところが、時間つぶしすらできない者の場合には、自らの前向きの行動を避ける手段として、パニックなどの症状が作られることになる。もちろん、パニックは、その場合に選ばれるひとつの症状にすぎず、飲酒や多食にふけったり、自傷行為に走ったり、自己憐憫に陥ったり、頭の働きを止めたりなど、他にもさまざまな症状がある。これは、単に私の推定を並べているわけではない。そのような角度から治療を行なった結果、先の女性は、現実にパニックその他の症状を消失させ、自宅でゆったりとすごせるようになっているからである。

 四〇代のある男性は、自宅の新築を人一倍楽しみにしていたが、いざ家が引き渡されると、その直後から強い強迫神経症を出現させた。引っ越しうつ病という名称はよく知られているが、一般に、単なる引っ越しでは症状は出ないので、これまでの引っ越しうつ病は、新築うつ病と呼ばれるべきであろう。また、家の新築に際しては、うつ病ばかりでなく、さまざまな心因性疾患が発生する。この男性の強迫神経症は、そのひとつのパターンなのである。この男性は、玄関の鍵の開閉やつり銭の確認を長時間繰り返すなど、よく見られる強迫症状を持っていたが、症状が最も強い時でも、車の運転中には強迫症状を起こすことはなかった。これは、四六時中、喘息の発作が続いている患者でも、運転中には発作が消えるか弱くなるのと軌を一にする現象である。

 心の専門家は、たとえば、強迫症状の原因は行動の不全感にあるなどと断定的に主張する。そして、それは、幼少期に両親から行動を途中で阻止されたためだ、などというのである。確かに、不全感は本人の意識にはあるが、それは強迫症状の必然的な随伴症状であって、強迫神経症の原因ではない。そのため、不全感を原因として治療を進めても、強迫症状を消すことはできない。

 ところで、詳細に観察すると、強迫症状には次のような特徴のあることがわかる。

 つまり、強迫神経症の患者は、たとえば家の新築などで、幸福感を感ずるはずの状況に置かれていて、しかも時間的、心理的にある程度──その程度には多少の個人差はあるが──余裕がある時に限り、無意味なばかりか確認ずみの事柄にのみ執着して、そこから抜け出せないという、自分の首を絞めるような状態を自ら作りあげるということである。そのためもあって、幸福感は意識から完全に隠蔽されてしまう。(私見によれば、これは、強迫症状の部分をそれぞれの症状に置き換えれば、心因性疾患全体に共通するメカニズムである。)このような視点からすれば、パニック障害や強迫神経症の症状には、原因の内容とは無関係に、時間浪費的な要素も含まれていることがわかるであろう。

時間の問題の本質

 ほとんどの人々は体験的に承知しているであろうが、時間つぶし以外の行動の場合、同じことをするのでも、時間がない時の方ができやすく、時間があるとかえってできにくいという、パラドックスのような法則が一般に存在する。人間にとって最も難しいのは、自由に使える時間がある時に、自分が本当にしたいことを自発的にするという、ごくあたりまえのことである。とはいえ、自分が本当にしたいことを意識で完全に自覚している者はきわめて少ない。

 音楽のある部門では、全国的なレベルでかなりの能力を持っている四十代の女性は、たまたま心理療法の中で、書道に深い関心のあることが確認された。振り返って見ると、これまでも書道には何度か挑戦していたが、いつも途中で挫折していたのであった。そこで、さっそく書道の道具を買い揃え、自宅近くに有力な書道家を見つけて弟子入りした。最初の稽古日に、その先生がいくつかの手本を書いてくれた。最後に、中腰になった先生が、畳に置いた大きな紙に字を書いているのを見た瞬間、本人は、弟子たちが居並ぶ中で、強い眠気に襲われ、一瞬のうちに眠り込みそうになったのである。そうした経過から、この女性は、大きな字を書くことに、なぜか強い抵抗のあることが推定された。そこで、心理療法の中で、大きな字を自分が書いている場面のイメージを作らせると、それだけで強い眠気に襲われ、わずか数十秒程度で熟睡してしまうのであった。それからは、書道の稽古への直面を避けるため、帰宅が遅くなり、家事も、一時的にではあったが、放棄するようになった。

 本当にしたいことは、もちろんひとつだけではないけれども、このように強い抵抗のあるものが、実は本人が本当にしたい事柄のひとつだと考えてよい。その理由については、ここで説明する余裕はないので、関心のある方は、拙著(笠原、1995年)第2章を参照されたい。意識で自分のしたいことがわかっている場合もいない場合も、時間がない時の方が、それに充てられる時間が少ない分だけ抵抗が少なく、時間が多い時の方が逆に抵抗が強くなる。そのため、人によっては、休日には、外に出かける約束や予定をいつも入れてしまうか、それができない時には一日中寝ているという形を取ることになる。そして、起きている場合でも、不安やパニックなどの心因性の症状を作るか、つまらないことで時間をつぶすか、一過性の痴呆状態を作るかするのである。このような症候群を、私は、有閑症候群と呼んでいる(笠原、1997年、第7章)。ところで、家事労働にそれほど時間を割く必要がない、子育ての終わった専業主婦や、仕事がなくなった定年後の人々にとっては、毎日が休日のようなものである。この場合、有閑症候群は、一過性のもので終わらず、時間との戦いが最後まで続くことになる。

 とはいえ、時間の余裕がある時に、自分が本当にしたいことを自発的、主体的にすることが、あらゆる人間の行動の中で最も難しいのは、なぜなのであろうか。その理由を、私は、幸福を否定しようとする心の動き(笠原、1997年)に求めている。

 では、心の専門家が心の主体性を無視しようとするのは、つまり、人間の行動を、受身的、環境因的、機械論的に説明しようとするのは、なぜなのであろうか。この問題については次回の最終回で検討することにして、ここでは、生活の心配がなく、義務から解放され、時間の余裕がある時に、周囲から迫られてではなく自発的に取る行動を、難しい順に並べておくことにしよう。ただし、5と6は、ふつうの人には難しい選択肢であろう。

 このうち、4と5の間には、心身症と精神病の違いに匹敵するほどの開きがあるが、1と2の間には、それよりもはるかに大きな開きがあるのである。

参考文献

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Copyright 1996-2011 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/10/11