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心理療法随想 5

 盲点について

 精神病の原因を脳内の異常に求める人たちが、人間の心について、さらには自らが人間の心を知らないことについて、いかに無知かを知ると唖然とするが、その天真爛漫な理論は、行動主義心理学を創始したJ・B・ワトソンらの天真爛漫さと奇妙に通ずるところがある。それに対して、人間の心を詳細に観察すると、そのような理論では説明できない現象群が数多く存在することが明らかになる。それらは、これまでの常識とは大幅に異なり、従来の人間観の根本的修正を迫るのである。今回は、そうした観点から、心の専門家が抱いている共同幻想の盲点について述べることにしたい。

ストレス理論の盲点

 心因性疾患の原因ということになると、現在では、どの文化圏でも心理的ストレスを考える。ストレスによって“心”に負担がかかり、その結果、心身症をはじめとする心因性疾患が起こるというのである。この仮説は非常にわかりやすいけれども、では、それが臨床的に実証されているかといえば、必ずしもそうではないし、この理論のおかげで心因性疾患の治療が進展したかというと、これも必ずしもそうではないのである。その具体的論証については拙著(笠原、1995年)第3章を参照していただくことにして、ここでは、ストレスという考え方の盲点を明らかにすることにしよう。

 試してみるまでもなかろうが、人間は一般に、悪いことは際限なく考えることができる。しかし、そのこと自体が原因で心因性の症状が出ることはない。それに対して、自分にとって幸福なことを、空想的にではなく現実的に考え続けるのはきわめて難しく、実感を伴ってそれを考えようとすると、強い抵抗が起こる。これは、常識的には非常に考えにくいことであろうから、実際に試してみられるとよい。たとえば、病気や不安があれば、それが解消した状況でもよいし、さらには、周囲から認められたり信頼されたりしている状況でも、自分の能力が十分に発揮されている状況でもよい。

 最初はどうしても空想的になるので、それほどではないかもしれないが、時間を追うにつれて雑念が湧きやすくなり、それとともに次第に苦痛が増してくるであろう。悪いことであれば、ほとんど雑念もなく、そのつもりはなかったにせよ、結果的に丸一日考え続けることすら難なくできるが、自分にとってよいことを、一時間程度であれ持続的に考えることは、たとえ瞑想の達人であっても、空想にでものめり込まない限り、このうえなく難しい。加えて、途中から、あくびが出たり、眠ってしまったり、不安が湧いたり、頭痛や脱力や鼻炎などの身体症状が出現したりするのである。あくびや眠気は退屈の結果として片づけることができるかもしれないが、不安や身体症状については、どのように説明したらよいのであろうか。こうした現象をストレス仮説で説明しようとすれば、人間は、悪いことよりもよいことの方がストレスになると考えなければならないであろう。これは、ストレス仮説の大きな盲点である。

 ところで、昔から、戦争が始まると喘息患者がほとんどいなくなることが経験的に知られているが、阪神大震災の後にも、アトピー性皮膚炎を持つ患者のほとんどが、皮膚症状を好転させたことがわかっている(『朝日新聞』大阪版、1995年4月20日夕刊)。病院に受診できないため薬物も使えず、入浴もできないため皮膚は清潔に保てず、食事もそれまでとは大幅に異なるうえに、家屋や家族に大きな被害が発生するという大変なストレス状況のはずなのに、どうして皮膚症状が好転しなければならないのであろうか。緊急時にはストレスによる反応が持ち越され、ストレス状況が過ぎてからその反応を遅延して発生させると考えることができれば好都合であろうが、それにしても症状の好転を説明することはできないし、このように考えると、主として動物実験から導き出されたストレス仮説自体が破綻してしまうため、この現象をストレスによって説明できないのは明らかである。

 やはり阪神大震災で話題になった心的外傷後ストレス障害(PTSD)という考え方にも、大きな問題が潜んでいる。これは、もともと、ナチの強制収容所から解放された人たちに、解放後しばらくしてから観察された、さまざまな心身症状をもとに考え出された理論で、同様の症状が、ベトナム戦争から帰還した数多くのアメリカ兵にも観察されたことから、この考え方は一挙に注目されるようになった。しかし、このような症状は、その名称の通り、解放後に起こっていることに注意しなければならない。

 震災後のあるアンケート調査(たとえば、岡本他、1998年)によれば、その時の「ショック体験以後、感情が鈍くなり、心が死んでしまったように感じる。優しさ、愛情などの感情を感じにくい」など、心身の不調に関連する質問に肯定的に回答した被災者が少なくなかったという。PTSDの理論では、その原因を、大震災によるショック体験と断定的に考える。しかし、その統計的データの精度が高かったとしても、このような結果から言えるのは、被災体験と感情の変化との間に高い相関が認められたということにすぎず、両者の間に因果関係のあることが証明されたわけではない。にもかかわらず、何のためらいもなく因果関係があることにされてしまうのは、心理的原因はストレス以外ありえないという思い込みが、暗黙の前提としてあるためであろう。

 人間の心は、それほど単純なものでもなければ、弱いものでもない。また、このような大天災の後には、他にも種々の体験が必然的に続発するので、原因の特定にあたっては、当然のことながら、そうした要因をも考慮しなければならない。幸福の否定理論(笠原、1997年)からすれば、たとえば、大惨事に遭ったにもかかわらず、それを切り抜ける力が自分にあることがわかったとか、家族の愛情の強さが明らかになったとかの要因が、そうした症状の原因としてまず推定されるであろう。したがって、ショック体験を原因とするためには、このようなものを含め、他の可能性が否定できなければならない。ところが、その点についての考察は、これまで全く行なわれないまま、そのような断定がなされてきたのである。

妄想や異常行動にまつわる盲点

 正常と異常の境界は意外に不明瞭で、明確な線引きはかなり難しいことが多い。主としてそれは、“正常者”と言われる人たちにも、いわゆる異常行動がかなりの比率で見られることによる。とはいえ、分裂病を筆頭とする精神病についてはその限りではない。ある精神病理学者は、「家族や友人の……判断の的確さは一驚に値する」(木村、1994年、5ページ)と述べているが、このように、本当に素人が鋭いということなのであろうか。それとも、分裂病患者の側が、誰から見てもすぐに異常とわかる発言や行動をするのであろうか。

 それを明確にするには、幻覚や妄想の内容を検討すればよい。幻覚にせよ妄想にせよ、おおよそ次のような特徴を持っている。

 の3点である。つまり、現実に反しているにもかかわらず、それを訂正不能なほど強く思い込んでいるのがその特徴ということになる。この場合の核心は、「現実に反している」という点にあるが、現実に反していれば何でも妄想になるのかと言えば、もちろんそうではない。たとえば、貯金をほとんど持っていない者が「100万円の貯金がある」と思い込んでいても、理屈の上では妄想ということになるが、今とは貨幣価値の大幅に異なる時代に生まれた、よほど年配の患者でもない限り、現実にはそのようなことはまずない。実際には、「何十億円の貯金がある」というふうに、より非現実的な形を取るのである。

 被害的、関係的な妄想についても同じことが言える。「テレビを通じて自分のうわさが世界中に流されている」とか、「会社の同僚がテレパシーで自分の悪口を頭の中に吹き込んでくる」とか、「自分の考えが人に取られてしまう」などのように、ほとんど例外なく、誰が考えてもありえない、根本的に非現実的な内容なのである。しかも、幻覚にせよ妄想にせよ、その内容は、迫害・侮蔑的なもの、命令・誘導的なもの、慰撫・賞揚的なものにほぼ限定される。加えて、相手のとまどいをまるで無視した、憑かれたような異様な態度でそれを一方的に主張するため、超常現象の実在を認めている者からしても、強い違和感を覚える表現形態になってしまうのである。それなら、精神病の知識がなくとも、誰であれ直観的におかしいと思うであろう。やはり、素人が鋭いということではなく、誰が見ても(他の分裂病患者が見てすら)すぐに異常がわかるほど極端なのが妄想の特徴なのである。

 そうすると、きわめて大きな問題が発生する。なぜ誰から見ても異常と思えることしか妄想の内容にならないのであろうか。ここに至ってはっきりしてくるのは、うそをつくには本当のことを知っていなければならないのと同じように、正常と異常の区別を、患者がどこかで明確に行なっているはずだということである。妄想の原因を脳内の異常に求める人たちは、そのような区別が行なわれている理由をも、脳内の異常により説明しなければならないという難題を負わされる。いずれにせよ、分裂病の妄想は、(その時代や文化圏における)正常とは何かを(もちろん無意識的にではあるが)熟知していることが出発点となって成立する思い込みと言えるであろう。

 分裂病の患者もそうであるが、やはり脳内の異常が原因とされている小児自閉症の患者でも、その行動に興味深い特徴が観察される。それは、他者の指示によらず、自発的に何らかの行動を起こす場合、日常的な習慣的行動を除けば、ほとんどが人を困らせる結果になってしまうということである。たとえば、小児自閉症の場合、登校時や下校時には親がつき添わなければ電車やバスの乗り降りが速やかにできない子どもでも、無断で遠方まで電車を乗り継いで行く時などは、迷わずに目的を果たすことが難なくできるのである。一般に考えられているように、善悪の判断がつかないだけであれば、偶然に人を喜ばせる行動を取ることも時にはあるはずなのに、家族や周囲を喜ばせる行動を自発的に取ることが(年長になるにつれ、徐々に改善されてくるけれども)ほとんどないのは、なぜなのであろうか。ここでも、やはり、善悪の判断が実はどこかで適切にできていると考えざるをえないであろう。

参考文献

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Copyright 1996-2011 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/10/11