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心理療法随想 4

 無視される事実群

 『精神身体医学の進歩』誌編集長ハリス・ディーンストフライは、ごく最近の論文の中で、心を扱っているはずの心身医学ですら、実際には心が不在になっている事実を的確に指摘し、「心の存在がなければ、心身研究の潜在的に革命的な医学的発見が意味をなさない」と述べている(Dienstfrey, 1999, p. 231)。同じことは、精神分裂病についても言える。その点から見ても、分裂病をめぐる専門家の態度はきわめて興味深い。

 小坂英世先生は、自ら開発した心理療法に関連して興味深いのは、それに対する専門家たちの態度だと語っていた。群馬大学で創始された生活臨床と似通った社会生活指導(小坂、1970年)という方法を採用していた段階では、小坂先生もまだ学界に受け入れられていたが、その後、分裂病の抑圧理論を前面に押し出すようになってからは、次第に無視されるようになり、現在ではその存在は完全に抹殺され、小坂先生自身も漢方医に転身してしまっている。学会の中ですら、根も葉もないうわさが流されたと聞いたが、私が直接耳にしたのは、当時、わが国で指導的な立場にあった精神科教授の発言である。ある会合で紹介された温厚そうなその教授は、私が小坂療法を行なっていると聞くや、「君、小坂の言ってることはみんなうそだよ」と即座に断言した。しかし、実際には、単にうわさを耳にしているだけで、小坂療法についてはほとんど知らなかったのである。

分裂病の原因論

 分裂病のような難治性の奇妙な疾患が心理的原因によって起こるとは、常識的には確かに考えにくいであろう。分裂病の心因論や家族研究が多少なりとも真剣に取り沙汰されていたのは、それほど昔のことではないが、向精神薬による治療が排他的に行なわれるようになった昨今では、分裂病の脳内異常仮説が流行の先端を行くようになったかに見える。この流行は当分続くことが予測されるが、この種の仮説は、実は、ほとんど意識されることのない、きわめてあやういいくつかの前提に立っていることを知っておかなければならない。つまり、いずれは、その学説に沿った治療法により、分裂病患者全員を少なくとも現段階より好転させることができなければならないことに加えて、次の5条件を、最低でも満たさなければならないのである。

 ここで、分裂病の“完治”の定義を述べておく。それは、ひとことで言えば、ふつうの人になること、つまり、分裂病については一切の治療を受ける必要がなくなり、常識を発揮するようになり、経済的、心理的に自立するということである。特に、自発的に前向きに生活するという意味での心理的自立は重要である。最近は精神科医の中にも“治癒”という言葉を使う人々が見られるようになったが、昔はその言葉は禁忌とされ、症状が収まった状態は“寛解”と表現されていた。しかし、治癒という表現を使う昨今の精神科医たちの中にも、“本物”の分裂病がそのような意味で完治する可能性があると考える者は、まず皆無であろう。

専門家に無視される事実群

 先の五条件には重なり合う部分があるが、ここでは、とりあえず別に扱うことにしよう。さて、(1)の仮説を反証する証拠はいくつかある。弱い方からあげると、(イ)いわゆる分裂病症状を生涯示すことのない者の中にも、経済的、心理的自立を拒絶する一群の人たちが見られること。その人たちの示す傾向は、暗黙のうちに、分裂病患者のそれとは起源が異なることにされているが、これまでのところでは、そのことが直接に証明されているわけではない。(ロ)心因反応のように、一見したところ分裂病と酷似した症状を示すけれども、まったく異なる経過を辿り、放置しておいても後に完治してしまう疾患を持つ者が、少数ながら存在すること。これについても、経過以外には、原因論的に分裂病とどこがどう違うかが明確にされているわけではない。(ハ)ほとんどの分裂病患者は、分裂病症状を発現させる以前から、経済的、心理的自立を絶対的とも言えるほど回避ないし拒絶していること。この場合の心理的自立には、人に迷惑をかけるような行動を取らないことも、当然のことながら含まれる。これに対する反論としては、この観察を誤りとするか、そのような傾向も脳内の異常に起因すると考える以外ないであろう。

(2)分裂病患者には、その幻覚・妄想にも反映される通り、極度の他罰傾向が顕著に見られ、その傾向は、日常生活という現実の中で患者と接している家族や同僚などには十二分に知られているが、精神医学では、その事実は、重視されていないどころか、まったくと言ってよいほど知られていない。そのため、このような傾向については、説明する用意すらできていないであろう。

(3)分裂病を発病した者の予後は、先進工業国と発展途上国とでは大幅に異なるようである。マサチューセッツ精神保健センターのナンシー・ワクスラーがスリランカの農村部で行なった、かなり厳密な調査によれば、「医学的疾患モデルに従うと、患者がどの社会で見つかるにしても、分裂病はそれ自体、基本的に同じ現われ方をすると考えなければならない」(Waxler, 1979, p. 145)のに対して、現実には、スリランカ農村部では、先進諸国の分裂病患者と比較すると、世界保健機構の報告と軌を一にして、臨床的にも社会的にも予後が格段によかったという。医学的疾患モデルに従う限り、このような結果が得られたのは、調査法に問題があったためとする以外ないであろうが、ワクスラーの研究では、そうした問題点が、あらかじめかなり慎重に排除されている。そして、興味深いことに、このような調査は、他にはほとんど存在しないし、この研究自体も、専門家からほとんど無視されているのである(批判的な論説〔Edgerton & Cohen, 1994〕はあるが、その批判に沿った調査が行なわれているわけではない)。また、しばらく前から注目されている、分裂病のいわゆる“軽症化”傾向も、脳内異常仮説では説明困難な現象である。(しかし、幻覚・妄想ではなく、「ふつうの生き方をしようとしないこと」を中核症状と考えるとすれば、分裂病は現在でも軽症化しているわけではないことがわかる。)

 また、(4)分裂病の症状を、偽薬によって抑えることなどできるはずがない、とほとんどの専門家は考えるであろうが、少なくとも慢性症状についてはそうでもなさそうである。研究によってその数値は異なるが、20パーセントから40パーセント弱の慢性分裂病患者で偽薬効果が観察されたとする報告があるからである(たとえば、Karon, 1989; Talminen, et al., 1997 を参照のこと)。

 最後に、(5)専門家はほとんど例外なく信じないであろうし、そのような主張に対してはきわめて強い不快感さえ示すことであろうが、分裂病の幻覚・妄想を心理的方法によって消失させることは、実際にはそれほど難しくない。私は、精神科病院に勤めていた6年弱の間に、主として明確な急性症状を示す分裂病患者100名強に、小坂療法的な観点から面接を行ない、数分から一時間程度の面接を平均で2.7回繰り返し、7割強の患者の分裂病症状を眼の前で軽快ないし消失させることに成功している。本連載の第1回目で紹介した2例もその中に含まれる。中でも興味深かったのは、父親の葬儀に出席したにもかかわらず、父親が病院の近くの町で暮らしているという妄想を、電撃療法や薬物療法が継続されてきたにもかかわらず、10年近くも訴え続けてきた五十代の分裂病患者の症例である。町内の住宅地図を持参し、「お父さんが暮らしている家を教えてください」と求めただけで、本人は、その地図を見ることなくその場を逃げ出したが、その直後から、その妄想を消失させてしまったのである(笠原、1997年、173-74ページ)。

 また、分裂病の症状は、決して固定されたものではなく、症状出現の心理的原因に近づくと強まり、それから遠ざかると弱まるという性質を、他の心因性症状と同じく持っているので、細かく観察すれば、特定の場所や状況や人物に近づくと悪化し、それらから遠ざかると軽快することがわかる。

 ところで、分裂病の症状を、心理的方法によって大幅に軽減させうることを別の方向から示す、きわめて興味深い実験的研究がある。厚生連安曇病院の栗木藤基が発表したその研究によると、長期にわたって幻聴や誇大妄想を持ち、職員との接触性が悪く対応に苦慮していた、長期入院中のふたりの分裂病患者の母親を、内観療法を受けさせた後に、それぞれの患者と対面させたところ、双方の患者ともその直後から幻聴や妄想を大幅に軽減させ、接触性も際立って改善されたという(栗本、1980年)。しかし、こうした研究に注目する専門家もなぜか存在しない。

 分裂病の脳内異常仮説は、以上のようなさまざまな証拠を無視したうえで、初めて成立すると言える。逆に言えば、専門家の間では、分裂病が心因性疾患であることを否定しようとする意志が、ここまで強く働いていると考えることができるであろう。

参考文献

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