サイトマップ 
心の研究室バナー
戻る 進む 
心理療法随想 3

 “平板化”症候群

「だらしがない」の意味

 締切のある仕事を片づけようと計画を立てても、締切が近づくまでそれに着手できない人たちは、全人口中でどれほどの割合を占めるものであろうか。さらには、締切がなく、自発的に仕事を片づければよいとなると、ほとんどの者がその仕事をせずにすませてしまうことであろう。人間は、一般に、無益な時間つぶしであれば際限なくできるけれども、自発的に前向きな行動を取るのはきわめて難しい。経済的に保証された状況に置かれ、何の制約も課さないので自由に過ごしてよい、と言われた時を想定してみるとよい。そのような状況では、ほとんどの者が、ほとんどの時間を暇つぶしに費やすか眠ってしまうかの、いずれかの道を選ぶであろう。多くの者には、その状態が一過性に出現する時がある。何の予定もない休日である。眠ってしまうというパターンを取る者では、周期性特発性過眠症とでも呼ぶべき状態に陥る。

 やはり多くの人びとにとって難しい部屋の片づけなども、誰かが訪ねて来るという条件があれば簡単にできるが、誰が来るわけでもなく、自分のために自発的に片づけるという条件では、かなり難しいようである。中には、数年にわたって、片づけどころかゴミすら捨てられない──つまり、個々の物品をゴミとして処分してよいかどうかの判断ができない、あるいは判断できても、まとめたり部屋から運び出したりすることができない──ほどの重症例もある。重症と言っても、このような人々の多くは、他に特に大きな心因性疾患を持っているわけではない。そして、いざ片づけようとしても体が動かないし、むりに片づけようとすれば、実際に着手する前に、それを考えただけで、鼻炎などのアレルギー症状が出たり、脱力発作が起こったり、眠ってしまったりして、結局はまったく手つかずのまま終わってしまうのである。

 独り暮らしをしている三十代後半のある女性は、やむをえない事情で収入が半減したため、毎月の家賃が払いきれなくなったが、経済的に自立できる低家賃のアパートへ転居するには、まず、どの部屋にも足の踏み場もないほど散乱している生活用品や資料をゴミと分別し、荷物をまとめなければなければならない。しかし、家賃分の借金が毎月、着実に増えてゆくという状況にあっても、いっこうに片づけができず身動きが取れなかった。そして、このままでは破産状態に陥るのは免れないと考え、その打開策として心理療法を受けることにしたのである。その女性によれば、精神科でその話をしたところ、「自分でできないのなら、友だちにでも手伝ってもらったらいいでしょう」と言われたという。現在の精神科は、薬物以外の治療手段を事実上持っていないため、薬物が効かない症状を扱うのは難しい。そのような事情はあるにしても、それ以前に、片づけができないというこの女性の訴えの意味を、この精神科医がまったく理解できなかったのも事実なのである。

感情に鈍感な専門家

 ある時、わが国で指導的立場にある心理学者に、「かわいそう」と「悲しい」の区別のつかない心身症患者がいるという話をしたことがあった。すると、その心理学者は、「えっ、かわいそうと悲しいとは違うんですか」と聞き返した。これでは、専門家といえども、しろうとと違いがないどころか、それ以下ということになろう。「かわいそう」と「悲しい」にせよ、「楽しい」と「うれしい」にせよ、「ありがたい」と「うれしい」にせよ、このような感情の区別は、ほとんどの者には、教えられなくとも難なくできるが、できない者には、専門的な教育や経験をいくら積み重ねてもできないのである。末期癌で入院していたある女性は、毎日入れ代わり立ち代わり付き添い、世話をしてくれる家族に対して、「ありがたい」と言って涙を流したが、付き添ってくれること自体についてはうれしいと思いますか、という私の質問には、一緒にいてくれるだけでは別にうれしくありません、と答えている。これでは家族を他人と同列に見なしている──つまり、家族と心理的な距離が遠い──ことになるが、その程度のあたりまえのことがわかる専門家は、はたしてどれほどいるものであろうか。

 心の専門家の中には、フロイトをはじめ、感情的に“鈍い”人たちが少なくないらしく、心の専門家は、しろうとが自然に行なっている感情の区別をしていないことが多い。その代表格が、“正当なうらみ”と“逆うらみ”の区別であろう。両者はまったく別種の感情であるにもかかわらず、多くの心理臨床の場面では、信じられないことに、その区別がほとんどされていないようなのである。念のため両者の違いを説明しておくと、正当なうらみでは、その部分については相手にのみ責任があるのに対して、逆うらみでは、その部分について相手には非がなく、自分の側にこそ責任がある、ということになろうか。具体的に言うと、たとえば夫婦げんかのやつあたりで、何も悪いことはしていないのに父親にひどく殴られたとして、その子どもが父親をうらむのが正当なうらみであるのに対して、とりたてて異常はないのに具合が悪いと言って仕事もせず、自宅でごろごろしている青年が、それを見かねた母親に、「お金は出してあげるから、気分転換に旅行でもしてきたらどう」と勧められた時、「おれをやっかい払いする気か」と母親をうらむのが逆うらみである。このように、非がないどころか、自分に愛情を注いでくれる相手に対して非難やうらみの念を向けるからこそ、逆うらみと呼ばれるわけであり、心理臨床の中で問題になるのは、ふつう、逆うらみだけなのである。昨今の専門家の中には、そのような母親の言葉の裏に“悪意”を読み取るまでして、やみくもに子どもの側に立とうとする者が少なくないのではなかろうか。

 ついでながら、正当なうらみ(怒り)を問題にしなければならないとすれば、それが意識に昇るべき時に昇らない場合に限られる。たとえば、ある三十代半ばの女性は、強い腹痛があったため病院を受診し、虫垂炎と診断されて手術を受けたが、それが誤診であったばかりか、妊娠を知らないまま受けた手術をはじめとする治療の結果として、胎児が死亡してしまった。この女性は、子どもがほしかったのに、長い間、妊娠せず、これが初めての妊娠だったのである。にもかかわらず、この重大な医療ミスに対して、この女性は、怒りの気持ちを意識に昇らせることすらなかった。

 精神分析や他の心理療法が、“逆うらみ”やそれに相当する概念を持っていないことから、さまざまな問題が発生する。子どもに何か起こった場合、それはすべて、両親が子どもに愛情を注がなかった結果であるとして、あるいは一方的に虐待を加えた結果であるとして、両親は無条件で加害者の立場に置かれるとともに、子どもはすべて、そうした処遇を一方的に受けたとして、やはり無条件で被害者の立場に置かれるのである。あるいは、家庭内暴力をふるう子どもを持つ親に対して、実態を把握していない専門家は、「暴力も含めて子どもを“受容”しなさい」などという、およそ現実離れした助言を与える。これが、経験から導き出された指導ではなく、単なる観念論にすぎないことは、その結果を見れば明らかであろう。

 いずれにせよ、心理療法が“逆うらみ”という概念を持っていないと、本人の非や責任が完全に無視されるばかりか、相手の愛情も完全に無視されてしまう。その結果、心因性疾患を持つ患者の両親は、子どもに愛情を持たない、冷酷な親というとらえ方をされてしまう。これでは、まるで現実が把握されていない。昔から、「かわいさ余って憎さが百倍」と言われるように、互いに愛情がある(ため、それを否定する)からこそ両者の間に問題が発生するわけであり、それゆえ事態は複雑になっていることが多いけれども、子どもの側が親を逆うらみしている場合には、親の愛情がどこかに隠されているのである。この点を詳しく説明する紙幅がないので、具体例に関心のある方は、拙著(笠原、1997年)第4章「愛情の否定」を参照していただくことにして、ここでは、逆うらみの特徴を列挙しておくに留めよう。(1)本人が、そのうらみの正当性を必要以上に強く主張すること、(2)内容的には、他人から見て些細な出来事がほとんどであること、(3)「では、どうして嫌だと言わなかったのか」などとすぐに反論されそうなほど、本人の非が明瞭に見て取れること、(4)それでいながら、きわめて長い間、場合によっては相手が死んでからも延々とうらみが続くこと。

 さて、先の観念論の裏にあるのは、子どもは“白紙”で生まれて来るという根拠を欠く思い込みであり、子どもは、環境に対して受け身的な対応をする以外ない脆弱な存在だというロボット的人間観である。この点については、精神分析も、その対極にあるとされる行動療法も、同じ陣営に属している。これらが唯物論的な世界観に基づく観念的な思い込みであることは、次の2点からもわかる。一卵性双生児は、遺伝形質が同一のはずなのに、ふたりの性格が最初から大幅に違っている場合が少なくないこと、特に、ベトちゃん・ドクちゃんのような接合型双生児では、遺伝形質ばかりか生後の環境もほぼ同一なのに、両者の違いが分離型の一卵性双生児よりも際立っている場合が多いこと(Luckhardt, 1941)。現在のわが国のような政治的、経済的に比較的安定した社会を除けば、かつてのわが国も含め、子どもたちはもっと厳しい、場合によってはきわめて過酷な環境で育てられているが、にもかかわらず特に問題なく生育していること。

専門家は何を避けているか

 以上のように、現行のカウンセリングや心理療法は、心因性疾患、特に重度の疾患や精神病にはほとんど歯が立たないが、では、専門家が、現実に役立つような方法を真剣に開発しようとしているかと言えば、それには疑問を抱かざるをえない。これまで見てきたように、臨床の中で遭遇するさまざまなヒントをほぼ完全に無視しているからである。どうしてこのようなことが起こるのであろうか。それには何か重大な理由があるはずである。

参考文献

戻る 進む


Copyright 1996-2011 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/10/11