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心理療法随想 2

 “断片視”症候群

 心の専門家の多くは、人間の感情や行動や症状を断片化、平板化してとらえようとする傾向を、なぜかきわめて強く示すように見える。そのことにも関係しているのであろうが、催眠療法などを除く現行のさまざまなカウンセリング技法や心理療法は、特に本格的な心身症や精神病を対象とした場合には、治療法として効果的とはとうてい言えない状況にある。今回と次回は、そうした専門家に見られる、感情や行動や症状の断片視、平板化の傾向について検討することにしたい。

“断片視”症候群

 ある精神科医から、診察直後に聞かされた話である。タクシーの運転手をしている分裂病患者が、勤務中にいつも自分でタクシーを運転して来院、受診するが、少し前から、診察室に入って椅子に座ると、外部の刺激に反応しないとされる昏迷状態に陥るようになったという。ところが、診察が終わるとすぐに昏迷から抜け出して立ち上がり、再びタクシーを運転して帰って行くというのである。その精神科医自身も、状況性昏迷とも言うべきこの現象については、不思議がっていたものの、医局で話題にする以上のことはしなかった。

 小樽市の精神科病院時代には、別の興味深い経験をしている。外来の診察に同席していた時、分裂病の再発患者が、母親に伴われて興奮した形相で診察室に入ってきた。その若い女性は、母親にうらみがましい言葉を激しくぶつけたり、妄想を口走ったり、私たちに罵詈雑言を浴びせかけたりしていた。傍らにいる母親に自宅での様子を尋ねたところ、やはり同じような状態だったという。病院まではタクシーで来たというので、その中での状況を聞くと、母親は、「そう言えば、タクシーの中では、15分くらいありましたが、ひとこともしゃべらず、おとなしかったです」と答えた。ところが、病院に到着したとたんに、再び自宅と同じ興奮状態に陥ったというのである。

 以上の2例をはじめ、この種の少なからぬ実例は、分裂病の昏迷や興奮という症状が、従来考えられてきたように固定されたものではなく、本人の置かれている状況に従って、大幅に変動する可能性のあることを示している。にもかかわらず、専門家の間では、“軽い症状”の場合には、そのようなこともあるとして片づけられてしまい、分裂病の症状が実はかなり恣意的に発現、抑制できるという事実は完全に看過される。

 間脳の病変に起因するとされるパーキンソン病についても、興味深い観察事実がある。パーキンソン病とは、四肢のこわばりやふるえを特徴的に示し、運動性が次第に低下する、予後の不良な進行性疾患であるが、外出する場合、行き先や目的によって、そうした症状にしばしばかなりの変動が観察される。ある女性は、パーキンソン病の母親を、大学病院の権威のもとに受診させていた。ある診察のおり、その教授に、母親の大好きな芝居に連れて行く時には、特に帰路には歩行がかなりスムーズなのに対して、病院を受診させる時などには動きがかなり悪いという話をしたら、教授は話を遮り、それ以上聞こうとしなかったという。後に、その女性は、この教授が、パーキンソン病の“心理的傾向”などを調べる、ありきたりの心理学的研究を大規模に行なっていることを知って驚くことになるのである。

 パーキンソン病では、ある意味でこうした現象と同質な、逆説動作と呼ばれる現象(たとえば、Glickstein & Stein, 1991)も知られている。昔の教科書では、こうした現象が大きく扱われていた(たとえば、伊藤、1978年)が、薬物療法全盛の最近の教科書は、この種の現象にはほとんどふれていない。そのためもあって、そのような事実に着目する研究者は、特に最近では皆無に近いようであるし、それどころか、病院でしか診察せず、家族の証言にも耳を傾けようとしないためか、そうした事実を承知している専門家も、数少なくなったようなのである。

 ある若年性パーキンソン病の女性は、入浴しようとして着替えている最中に、立ったまま、なぜか10分ほど眠り込んでしまったという。ふつうの人間でも、立ったまま、寄りかかりもせず10分間も眠り込むことなどは不可能であろう。それがなぜ、ふだんは歩行や方向転換に難渋するほどふらつきの多い、筋運動の協調を欠くとされるパーキンソン病の患者に可能なのであろうか。その女性は、ソファーに座っている時、意識して座り直そうとすると体を動かすのに大変苦労するが、意識しないまま座り直す時には、見ている私が驚くほど、ふつうの動きをする。そのような観察所見からすると、パーキンソン病の患者は、自分の体に意識を向けていない限り、体はかなり円滑に動くらしいことがわかる。事実、この女性は、「大地震が来た時には、体の動きはどうなると思いますか」という私の問いかけに対して、「その時にはだいたいふつうに動けると思います」と答えている。

 この疾患では、患者が入眠すると、それまであった筋肉のこわばりやふるえが止まることが知られており、その原因は不明ということになっている。だが、意識を向けている間だけこわばりやふるえが起こると考えてよければ、その疑問は簡単に解消される。しかし、そうなると、今度は、間脳の病変に由来するとされるこの疾患に、心理的要因が大きく関与してくるという大問題が発生してしまう。しかしながら、催眠を用いて重症のパーキンソン病の症状を好転させたとする実例(Wain, Amen & Jabbari, 1990)が存在することなどからしても、その可能性を考えずにすませるのは難しいであろう。

 小児自閉症患者のほとんどは、少なくとも幼少期には、人と視線が合わないという顕著な特徴を持っている。ある専門家は、その理由を、自閉症児には“図と地”の区別ができない──つまり、眼を、顔の他の要素と区別できない──ためだとしている。しかし、それなら、偶然に視線が合うこともあるはずなのに、視線が合わない子どもの場合、人とは絶対と言ってよいほど視線を合わせないし、何よりも顔をそむけようとする傾向が強い。ところが、相手が人間でなければ、顔をそむけることもまずないし、人の顔を描かせれば、あるべき位置に目鼻をきちんと描くのである。しろうと目にも大変奇妙に映るこの仮説を反証するのは、実は簡単である。自閉症児の顔を両手で押さえて、むりやり視線を合わせようとしてみるだけでよい。そうすれば、自閉症児が視線を合わせまいと必死に努力していることがすぐにわかる。自閉症の専門家が、この程度の観察もせず、的外れな憶説を堂々と展開するのはなぜなのであろうか。

 登校拒否(最近の言葉では“不登校”)についても、同様の断片歯が観察される。本人の主張通り、いじめをその原因と考えるにしても、現在の教育制度に対する(無意識的)拒絶をその原因と考えるにしても、それで説明できるのは、小学校から、せいぜい高校の登校拒否までであり、大学の登校拒否については、それでは説明しにくいであろう。ましてや、本人が希望して入学した専門学校や自動車教習所でも、登校が迫った時の身体症状を含め、まったく同じ登校拒否が存在するという事実については、どのように考えたらよいのであろうか。これまで私は、すべての登校拒否を統一的に説明する理論を見聞きした記憶はない。専門家は、このような事実を知らないのであろうか。あるいは、知りながら無視しているのであろうか。

“ペット・ロス症候群”

 それまでかわいがっていたペットが死んだことによる、強い悲しみや落ち込みなどを中心とした症状群を意味する“ペット・ロス症候群”という言葉が、最近、あちこちで散見されるようになった。これは、現象としては昔から知られていたが、時代の要請により、専門家がこのような症候群を取り上げるまでは、取り立てて問題にされることはなかった。しかし、この症候群の取り上げ方には大きな問題がある。私見によれば、このような症候群を示す人々のほとんどは、その一方で、肉親の死に際して、悲しみが意識に表出しないよう強く抑制する傾向を持っている。つまり、肉親が死んでも、涙も流さなければ、悲しそうな態度を取ることもなく、日常的な出来事ででもあるかのような受け止め方をするのである。その場合、もちろん本人の意識では、愛着のない肉親よりも、自分を“癒して”くれたペットの方がよほど愛着が強かったため、肉親が死んでも悲しくないが、ペットが死ねば、悲しみ、落ち込むのは当然だということになっている。

 しかし、肝心なのは、ペットや同僚の死などに際して強く悲しみ、落ち込み、種々の心身症状を発現させるという点ではなく、肉親の死に際して、きわめて冷淡にふるまうことの方なのである。しかし、この時には、たいていの場合、落ち込みもなければ心身症状もない。私は、それを、死亡した肉親に対して本人が愛情を持っていないためではなく、幸福否定(笠原、1997年)から、その肉親に対する自らの愛情を否定した結果だと考える。悲しみは、愛情があって初めて生ずるため、愛情を否定すると、悲しみも否定せざるをえなくなる。そして、その肉親に愛情を抱いていないことを自らの意識に対して際立たせる目的で、その肉親が死んだ時には、いわゆる無意識のうちに平然とした態度を取る一方で、ペットや遠い知人が死んだ時など、悲しみが本来的に弱い時にはそれを増幅させ、作りあげたその悲しみが本物であることを自分の意識に見せる(という自己欺瞞の)ために、先述の症状を作るという、実に手の込んだ戦略(私の言う“状況的対比”ないし“対人的対比”)を用いるわけである(同書、92-98ページ)。したがって、このふたつの状態は、いわばセットになっており、症状を発現させた時だけを取り出して扱うことは、一見もっともらしいが、現実には、理論的にも治療的にもナンセンスであることになる。「酒に溺れないように」という助言と同列の、「ペットと距離を置いてつきあうように」などという専門家のありきたりの助言を受けても、このような人々が肉親に対する愛情否定を続ける限り、それを実現するのはきわめて難しく、その助言によって症状が消えることもほとんどないであろう。

参考文献

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Copyright 1996-2011 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/10/2011