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 小坂療法――1.『市民の精神衛生』






『市民の精神衛生――社会の中で精神病を治す』(勁草書房、1970/5/30 刊行)
岡田靖雄、小坂英世(著)
四六版、324 ページ

本書の位置づけ

 本書は、共著者のひとりである岡田靖雄(1931−)が、今から 55 年前の1964年に出版した『精神医療』(勁草書房)の改訂版という位置づけで、小坂英世(1930−2018。以下、著者)との共著として1970年に出版したものです[註1]。あらためて目を通してわかるのは、依然としてその内容がきわめて斬新に感じられることです。それは、とりもなおさず、著者の先進性を示す証拠であるとともに、この 50 年ほどの間、精神医療そのものが実質的にほとんど進歩していないことの現われと見るべきでしょう。ちなみに、精神医療という言葉は現在ふつうに使われていますが、岡田が1964年のその著書で使ったのが嚆矢だそうです。

 最初から医師になるつもりはなかったという著者は、敗戦後の混乱期にたまたま合格したので入学したという東京医科歯科大学[註2]で島崎敏樹教授(内村祐之の弟子)の薫陶を受け、精神科医を志します。今も全く変わっていませんが、その当時の医学では、がんと精神分裂病[註3]の原因究明が最大の課題でした。がんの謎はいずれ誰かが解明するだろうが、分裂病の解明は自分にしかできない、というほど自負心の強かった著者は、その原因探究を自らのライフワークに定めます。そして、その決意は最後まで揺らぐことはありませんでした。実際に、最晩年に到るまで、自分の患者を診ながら、自らの理論を改良しようとしていたのです。これは、著者が典型的な “芸術派” 科学者であることの現われであるように思います。

1957・7・19 国府台病院にて  そうした決意を抱いた著者は、1953年に大学を卒業すると、その第一段階として、力動精神医学研究の “メッカ” となっていた国立国府台病院(戦争神経症〔当時の呼称は戦時神経症〕の研究が行なわれていた国府台陸軍病院の後身)に、翌年7月から勤務し(左図参照)、そこで「精神分裂病患者の家族関係の研究」(小坂、1960年a、b)を行なって博士号を取得します。

 アメリカ側の資料によれば、この病院には、マッカーサーとともに来日したとされるモーゼス・バーグ(Moses Burg, 1921−2006)というアメリカ人心理学者が、当時、主任心理療法士として在籍していた(Kelman, 1963, p. 67; Masserman, 1968, p. 50)ので、著者は、このバーグと接しているはずです(ただし、日本側の資料には、バーグがこの病院に在籍していたことはなぜかどこにも書かれていないようです)。バーグは、メラニー・クラインの系譜につらなる心理学者で、後に東洋大学教授(後に名誉教授)に就任しています。著者は、まもなく精神分析に対してかなり批判的な立場をとるようになりますが、“抑圧” という精神分析の概念は、十数年後に、“小坂療法” という独自の心理療法を生み出す際の中核的な概念になるのです[註4]

1957・7・19 国府台病院にて 2  国府台病院では、同僚であった終生の相談相手となる河村高信(高良武久の愛弟子。右図参照)とともに、ロールシャッハ・テストの研究(河村、小坂、1959年)を含め、主に精神分裂病を対象にしていくつかの研究をしています。分裂病を力動的に解釈したことで世界的に評価の高いシルヴァーノ・アリエティというネオ・フロイディアンの著書(『精神分裂病の心理』1958年、牧書店)を(1956年秋からの病気療養中に)河村と共訳したのもその一環なのでしょう[註5]

 その頃、今西錦司の弟子に当たる精神人類学者、藤岡喜愛(1924−1991)という百年の知己を得ますが、それはロールシャッハ・テストの研究を介してなのではないかと思われます[註6]。著者と藤岡は、藤岡の最晩年に至るまで親密な交流を続けました。そうしてさまざまな角度から小坂療法の改良を続けるのです。その藤岡から紹介されたのかもしれませんが、著者は、やはり今西の愛弟子であった梅棹忠夫を師として、生態学的な研究法を身につけます。この方法が、患者やその環境としての家族との関係について緻密な観察を行なう際に大きな役割を演ずるのです(小坂、1966年; 1970年、10ページ)。

栃木県の精神衛生相談所に勤務していた頃の写真と思われる。右端が小坂。小坂亮氏提供
 その後、同病院から栃木県の県立岡本台病院(院長)に移っていた河村の示唆を得て、1961年4月から同県の精神衛生相談所に籍を置き、1964年9月まで、病院外の精神病患者たちを対象に、「徒手空拳」の状態で診療や調査を行なっていました。当時の著者は、地域精神医療の専門家たちから、群馬大学の江熊洋一とともに、その活動を高く評価されていたのです(たとえば、江副、1972年、420ページ; 佐藤、青木、1973年、81ページ)。

小坂療法前史――栃木での活動から

 本題に入る前に、著者の栃木時代の活動について簡単にふれておきます。この時代に発表された最初の著作は、1962年に『保健婦雑誌』(第18巻6号)に掲載された「在宅(退院)患者の訪問指導をどう進めるか」という論考(小坂、1962年)でした。翌1963年から翌々年にかけて「栃木県における精神病者の管理」という同名の論文が3誌に掲載され、65年から66年にかけて、「精神障害の疾病管理」という論文が『看護』誌に8回に分けて連載されます。それらをもとにして書かれたのが、1966年4月に日本看護協会出版部から刊行された『精神衛生活動の手引き』という小冊子(小坂、1966年)でした。この著書では、冒頭で、精神衛生を「精神病と精神薄弱〔知的障害〕に対する発見・治療・社会復帰および予防をはかる」ことと定義しています。

 ここで注目しなければならないのは、実際にどこまで可能かはともかく、発病の予防を目的にしていることです。そして、相談者を所内で待っているだけでは精神科病院と同じになってしまうため、関係者たちと協力し合って所外での活動に重点を置いたのです。人権尊重という立場から、相談者の同意納得を得たうえで対応することや、病院を退院した患者のアフターケアよりも早期発見を重視することなど、従来の方法とは全く違っていたため、この手法は「栃木方式」と呼ばれるようになりました(同書、64-65ページ)。それまでは病院の主導で作られていた家族会を、家族側が自主的に運営する形で立ちあげたことも、それまでなかったことでした(同書、76ページ)。

 著者が精神病の予防を主張する背景には、群馬大学精神科で今なお踏襲されている生活臨床という対応法がありました。自傷他害の恐れがあまりなく、家族の協力が得られたうえで、患者が治療を強く拒否するようなことがなければ、「最初から通院治療だけですませられるものは、精神分裂病患者の場合、初診したものの 35 パーセントにものぼり、そのうち 64 パーセントは予後良好」という結果が、この中で紹介されています(同書、14ページ)。

 この頃に著者が扱ったうち、興味深い事例を3例だけ紹介しておきます。1例は、「生活行動面のゆがみ」として提示されている、40 歳の女性の事例です。病院のあっせんにより、住み込みで家事を手伝っている家の主人の報告によるもので、留守番を頼んだ際に次のような出来事があったのだそうです。クリーニング屋が集金に来るので、5千円札を預け、そこから支払うように言いつけて出かけたのですが、予測に反して、クリーニング屋の前に米屋が集金に来たのです。両方の料金を合わせても5千円で足りたのですが、にもかかわらず、この女性は、お金がないと言って米屋を追い返し、次に来たクリーニング屋に5千円を渡して支払いをすませたのでした(同書、80-81ページ)。

 次は、「ゆがみのある家族」の事例です。分裂病の子どもをもつ母親なのですが、勝手気ままな人生を送ってきた女性で、被害的な思い込みの中で生きてきたようです。この世は、自分たち家族に対する悪意で満ちており、それが連日のように家族に降りかかってくると言うのです。しかも、それを自分の子どもにも言って聞かせるわけです。この女性の生活は、子どもを外界から隔離して保護することに終始しているほどでした。それに対して、子どもである患者は、この母親を「いみきらい、軽蔑して」いました。そのため、この母親は、患者の治療を進めるうえで大きな障害になったのです。患者を入院させると症状は好転するのですが、母親と面会したり自宅外泊をしたりすると、たちどころに悪化するのでした。ところが、患者は、母親を嫌悪し軽蔑する一方で慕っているため、母親の影響を受けるわけです。そこで、ふたりを別居させて治療したところ、ようやく悪循環を断つことができたというのです(同書、89-90ページ)。

 もう1例は、知的障害児とまちがえられていた児童分裂病の事例です。当時、中学2年の男児でしたが、小学2年まではふつうに発育していたのだそうです。その頃、「餓鬼大将に手ひどくいじめられるという事件」がありました。その後から、引っ込み思案になり、口数が減って学校の成績も悪化したのでした。そのため、「小学校1・2年のころは大人の自転車にものれたし、成績も悪くなかった」にもかかわらず、「途中からなる精神薄弱」として扱われていたわけです(同書、91ページ)。

 こうして著者は、病院で待っていたのでは決して出会うことのない数多くの事例とじかに接することを通じて、貴重な経験を豊富に積むことができたのでした。このような経験が、後に独自の心理的原因論を生み出す基盤となるのです。

1971年夏ころ。小坂診療所の前で  その後、著者は、都立松沢病院勤務(1965年2月から。66年7月に東京都精神衛生センターへ異動、68年12月まで)を経て、本書出版の時点では、患者家族の支援を受けて(園田、1971年、15ページ;「看護」編集部、1971年、7ページ)世田谷区上北沢の住宅地に開設された小坂診療所(左図参照)で、精神分裂病患者や家族の診療や教育に当たっていました。栃木時代から実践してきた患者や家族の教育に、さらに力を入れるようになっていたのです。そして、24 時間診療を行ない、夜間に再発や悪化をしやすい分裂病患者の家庭に往診していたのでした。浦河べてるの家の向谷地生良(むかいやち いくよし)も、その点では著者と似通った活動を続けています(たとえば、浦河べてるの家、2005年;向谷地、2009年)が、家庭の中での家族との接触という点では、著者の経験のほうがはるかに豊富なはずです。分裂病患者の家族研究で博士号を得ていることを別にしても、分裂病患者の家族が抱える問題を身をもって知っている者は、著者の影響を受けて松沢病院を退職し、同じく都精神衛生センターに籍を置いて同様の活動をしていた浜田晋(2001年、第V章)を除けば、他にはほとんどいないのではないでしょうか。

 もう一方の岡田は、初期にはソビエト精神医学の有力な研究者として知られていた一方で、精神病患者の人権擁護の立場から、精神医療の歴史を一次資料に基づいて丹念に調べ、信頼性の高い論文や著書として発表するという活動を最近に至るまで続けており、わが国の精神医療史研究の第一人者としてつとに知られています。アパルトヘイトを阻止する立場から、精神科病院への入院を含めた拘束に批判的な著者と基本的理念が一致したこと(岡田、小坂、1970年)から、その旗幟を鮮明にする本書の刊行に至ったようです。岡田は、「地域活動のあたらしい面を先駆的にきりひらいてきた」著者の「おかげでこの本は、精神衛生および精神障害の治療に関する最新の考え方をふくんで」いる(321-322ページ)と述べています[註7]

 街の精神科医として知られるようになる先の浜田晋は、地域精神医療に目覚めたばかりの頃に、著者らの活動について次のように書いています。

 〔従来の精神科医なら〕時には患者を見ないで家族の話だけ聞いて入院を決めていた。これに対し、小坂、松浦〔光子。保健婦〕はこれと全く視点を異にした。そして入院させないで地域においたまま治療を続けられないものか、とぎりぎりの努力を積み重ねていた。(浜田、2001年、42ページ)

 本書は4部に分かれており、各項目についてふたりの著者が口頭で行なった報告と、その内容を保健婦(吉住和子)と精神衛生相談員(松浦光子)を含めた4人でそのつど行なったやりとりとが、順番通りに収録されています。著者の当初の考えかたは、生活臨床という対応法を編み出した江熊要一(1924−1974年)に大きな影響を受けて形成されたものですが、次第に独自の分裂病心因論に発展して行きます。本書は、生活臨床の影響を色濃く残しながらも、そこから抜け出し始めた時期の著作で、まだ心理療法という形はとっていませんが、小坂理論の発展史を辿るうえで非常に重要な位置づけにあるものです。そのような事情から、本稿では、著者が担当した第U編(治療の進め方)と第V編(実生活指導――分裂病を中心に)のみを対象にして、その主張を見ていくことにします。

著者の立ち位置

 著者は第U編の冒頭で、治癒とは「病気の進行がとまって、社会生活が可能になる」ことであるはずなのに、他科と違って精神科では、症状にとらわれるあまり、その原則が軽視されていることを指摘しています。実際に地域で活動してみると、症状があっても社会生活をしている者は決して少なくないこと、社会生活が可能であれば、一般に精神病とは見なされないことに気づかされたというのです。そうすると、症状を消すことよりも社会生活能力を身につけさせることのほうが、治療の本来の目的に適うはずです。とはいえ、症状があると「社会生活はしにくくなり、最後には不可能になる」のはまちがいないとして、症状に対応した治療(つまり、対症療法としての薬物療法)が必要な場合のあることも認めています。その一方で、薬物療法や入院だけでは病気が “進行” することを注意しているのです。

 しかしながら、問題はそう単純ではありません。対症療法によって症状が消えたり薄れたりしただけでは、社会生活を非常に難しくさせる「独特な癖」が表面化するという大問題が、手つかずのまま残されてしまうからです。この点こそ、分裂病が、躁うつ病を含めた他の精神疾患と根本から異なるところで、社会復帰に際して重大な障害を引き起こすことになるため、専門家たちが昔から対応に苦慮、難渋してきた最大の特性(いわゆる欠陥)なのでした。躁うつ病の場合と違って、精神科医が再発を阻止すべく患者に服薬を続けさせるのは、そのような理由があるためです(しかし、入院中にも家族の面会があると悪化する場合が多い〔その頃の著者もそうだったようですが、それは一般には、家族が患者を刺激するためと解釈される〕ことからもわかるように、服薬を続けていても、再発を阻止することはできません)。著者は、この問題を、再発やその予防という問題とからめて次のように説明しています。

 「たとえば選択決定能力がいちじるしく悪いとか、あるいは些細な名誉、金銭というのにこだわるとか、あるいはしっかりした人生計画を持っていないとか、生活上の独特の癖を持っています。そのため選択決定を強いられる場合にでくわしますと、ひじょうに動揺し、動揺したあげくに症状がまた出てくる。そのためにますます社会生活困難となるというふうになるわけですから、ここで単に社会生活が可能になるようにという指導だけではなくて、ここで再発をおこすことなく、再発をおさえながら同時に社会のなかの役わり・地位を獲得していかせる指導が必要になってきます」(112-113ページ)

 ここに、当時の著者の分裂病観が要約されています。少々補足すると、選択決定を迫られた時だけでなく、それ以外の弱点を刺激された時にも、同じように分裂病症状が出て、社会生活から離れてしまうということです。そして、再発を繰り返すにつれてますます社会生活が困難になるわけです。2年後に出版される2著(『患者と家族のための精神分裂病理論』および『精神分裂病読本』)では、これらの特性は、皮肉を込めて “患者のもちあじ” と名づけられ、より明確かつ批判的な形で表現されることになります(小坂、1972年a、29-32ページ; 1972年b、79ページ)が、この頃は、まだごく一部が注目されていただけであり、あまり批判的な形にまとめられていたわけでもありません。

 これまでの記述からわかるように、生活技術の拙劣さを軽減させることが治療の根幹になるため、社会生活を送らせながら治療したほうがはるかに効果的です。しかしながら、やむなく入院を選ばなければならないこともあるとして、「社会におくことが困難」なほど激しい症状を示している場合を含め、5通りの条件を列挙しています。その場合であっても、入院は長期計画の一環として選択すべきものであって、安易に入院させるべきではないことも、その一方で強調しています。そして、訪問指導者が存在し、家族教育が徹底していれば、分裂病でも 95 パーセントは通院のみで対応できると明言しているのです(119-122ページ)。

 これは、経験に基づくものであるだけに、無視すべからざる発言です。現に、わが国でも最近知られるようになった、主として初発分裂病を対象にしたオープン・ダイアローグという方法では、多くの場合、入院させることなく、しかも抗精神病薬もほとんど使わずに対応できている(Seikkula et al., 2006)ようです[註8]。また、北海道、浦河べてるの家の当事者たちの場合にも、投薬量が大幅に少ないそうです(浦河べてるの家、2005年、124 ページ)。そればかりか著者は、分裂病症状を一瞬のうちに消し、社会生活に復帰させるための、半ば操作的な方法を世界に先駆けて編み出したのです。そして、2年後には、さらに操作的な方法を開発し、それを心理療法という形で打ち出すようになるのです。この頃の理論の発展が、いかに急速なものであったかがわかろうというものです。

実際の対応はどのようなものだったのか

 ここから第V編(実生活指導)に入ります。著者は、以上のような活動の中で、自らの分裂病理論を発展させるうえで非常に重要な契機となった事例に出会います。それは、要約して示すと、次のようなものです。

 当時 30 歳であった主婦と初めて面接したのは、5回目の入院から退院する時点でした。この女性の再発は、いつも年末に起こっていました。入院すると2、3か月で症状が治まり、退院後は主婦として安定した生活を送ることができるのですが、年末になると必ず再発するという経過を繰り返していたのです。再発の状況を聞き出したところ、暮れになると、夫の親類縁者が出稼ぎのため集団で上京してきて、本人の自宅に寝泊まりするという事実が判明しました。住み込みの職が見つかると出て行くのですが、それまでは毎晩、2時、3時まで酒宴が続くというのです。この女性は、手を抜くことができない性分のため、いつも酒宴が終わるまで動きまわり、それからようやく床に就くという生活が繰り返されていたのでした。そして、全員が出て行ってしまうと、疲労困憊して倒れ、その頃から緊張病的な症状が始まるという経過を辿っていることがわかったのです。

 それを知った著者は、さっそく夫に働きかけ、この女性には、次回から酒食の用意だけさせて、10 時には床に就かせるようにさせたのです。その結果、著者の推測通り、年中行事のようになっていた再発がその年から止まったのでした。この事例について、著者は次のように解説しています。

 「わたしはこの患者さんに出あうまでも生活上の問題から症状が再発するらしいということを、おぼろげながら手さぐりしてきたわけですが、この患者さんによってきわめて確定的に、つまりこの人の場合、推測と、それから推測に基づく手段をつくすことによって再発防止という結果が出た。そういう一連の結果を得たものですから、この患者さんをもとにしてわたしは生活上の問題によって再発がおきるということを、したがって生活のコントロールによって再発を防止できることを確信するようになったのです」(179-180ページ)

 著者はここで大きな発見をしたわけですが、それを素直に受けとる専門家はあまりいなかったようです。のみならず、再発を回避させようとするだけの消極的な対応策から一歩踏み出したことを示すこうした原因論は、生活臨床派(たとえば、臺、1978年、6ページ)を含めた専門家たちの反発を生み出すようになるのです。ただし、それが表面化するのはもう少し後のことです。

 毎晩、酒宴が続いたとしても、世間一般の人たちは、翌朝のことや健康のためを考えて、疲労困憊するほどの状態にならないように気をつけながら行動するものです。それに対して、「分裂病の患者さんは、そこで事件を回避できない。つまり生活技術という面で、ひじょうに下手くそな処理をしてしまう。その結果ダウンする。そうするとそのあとに症状が出てくる」という原因論を、著者は、暫定的なものにしてもここで打ち立てたわけです。その裏づけとして、不適切な対応をしたため再発したと思しき7例の実例を紹介しています(181-185ページ)。

 そのうちの1例は、精神科を退院した後に英会話学校に通っていた女性の事例です。ある日、この女性は、同居する母親が急病になったため、母親に代わって家事を担当するようになりました。その結果、通学ができなくなったわけですが、母親思いであるため、特に不満は漏らしませんでした。数日すると疲れたと言うようになり、幻覚、妄想が始まりました。この女性は、それまで家事を母親まかせにしていて、補助的にしか手伝ったことがなかったそうです。

 著者は、この状況こそが再発を引き起こした「事件」ではないかと考えます。とはいえ、まだ “小坂理論” を唱える前のことなので、“原因” が明確に絞り込めているわけではありませんし、それらの出来事を心理的原因とみていたわけでもありません。また、その結果として起こる症状との時間的近接という条件についても、まだあまり厳密に考えていたわけでもなさそうです。

 そうした事件とその結果として現われる症状とが時間的に近接している必要があるとすれば、親類縁者の全員が出ていってしまった後に、あるいは母親に代わって家事をするようになってしばらくしてから再発するのはなぜなのでしょうか。著者の主張するように疲労困憊して倒れたために再発したとすると、それ以外の場合でも同程度に疲労困憊すれば症状が出るはずです。したがって、疲労困憊したことが原因かどうかは、これだけではわからないことになります。しかしながら著者がそのように考えたのは、再発の前に起こった出来事の観察に心血を注ぐ段階にあったことに加えて、そうした操作によって実際に症状が消えたためなのでしょう。

 生活臨床の考えかたからまだ抜け出しきれていないため、分裂病患者の性格特徴については、上記のものも含め、生活臨床の提唱者である江熊の主張をそのまま紹介しています。

 「些細な得意点、資格、学歴というものにこだわる。些細な名誉欲にこだわる。他人に認められたがり、評価を気にする。病気についてのコンプレックスが強い。短絡反応的であり、また馬車ウマ的である。形式的瑣末主義で、融通がきかない。選択の場において混乱し、困惑し、課題を放棄しがちである。あきらめが悪くて迷いやすい。不平が多い。甘く未熟な人生計画をもっている。幼稚な倫理観に支配されている。打算的であり、ケチであり、目先の利にとらわれやすい。気疲れしやすい。対異性関係に敏感」(185-186ページ)

 そして、「こういうふうな生活技術の拙劣さをもっているから、一般人だったら対処できるはずの生活上の事件に振り回され、最後に生活の破綻を起こす。そしてそれに引き続いておこるのが、症状の再発」と考えるのです。したがって、再発を防ぐためには、そうした拙劣な生活技術を向上させるための指導が必要であることになります[註9]。それを、この頃の著者は「実生活指導」と呼びました。著者は、実際の対応について4例の実例を掲げて説明していますが、ここではそのうちの2例を要約して紹介します。

 金銭に対するこだわりが強い男性工員は、ある晩から独りごとを言い始め、翌日から欠勤するようになった。症状再発の原因と思しき出来事を家族に問い質すと、その症状が出る晩に、銭湯で腕時計を紛失していることがわかった。金銭的な執着が強いこの男性が腕時計を紛失したので、それが「本人をゆさぶって、その症状をおこしたのであろうと推測」した著者は、母親に指示して腕時計を買い与えさせた(月賦の頭金を母親が支払った)。すると、とたんにそれまでの症状が消え、翌日から出勤するようになった(187ページ)。

 もう一例は、病気を理由に離縁された一児をもつ女性の事例で、ある時、急激に妄想状態に陥り、生活の乱れが始まりました。その原因となりそうな問題があったかどうか調べたところ、この女性は資格に強いこだわりをもっていることがわかりました。そのことは、30 歳を過ぎてから資格を求めて短期大学を卒業していることからわかるというのです。そして、この時も保母になろうとして資格試験のための勉強を始めたのですが、その頃から症状が出てきたことがわかったのです。それまでも、仕事の他に勉強や副業を始めると悪化していたことも判明しました。そこで著者は、この女性を説得して保母の試験をあきらめさせたのです。そうしたところ、急速に症状が落ち着いて、もとのパートタイムの仕事に復帰したのでした(188ページ)。

 実生活指導とは、このように症状を操作的に消去させることを通じて自らを客観視させ、上記のような「弱点」を克服させるための指導ということです。ただし、後から振り返ると、この方法にはいくつかの問題がありました。ひとつは、束縛からの解放を理念としているにもかかわらず、場合によっては本人の意志を無視して、それとは逆の行動を強要していることであり、本人の自立を促す方向に進めようとしているとは限らないことでした。後に重視することになる “自己決定” は、まだほとんど無視されています。主体よりも環境を重視する生態学の影響下にあったためなのでしょうか。それらの点については、その後に出版される著書で反省的に述べられることになります(たとえば、小坂、1972年a、14ページ)。

 著者は、患者が症状をもっている場合、症状に惑わされてはならないことを注意しています。それは、先述のように症状自体が問題なのではなく、社会生活ができるようになるかどうかのほうが問題だからです(202ページ)。症状自体を問題にしないとしても、再発を解決する必要があるのはまちがいありません。そのためには、その原因を明らかにして行くしかないわけです。

 その一環として著者は、江熊に倣って分裂病を受動型と能動型に分け、それぞれの発病の原因について検討します。そして、受動型すなわち人まかせ型の場合は、「周囲から生活の拡大を要求されたとき、生活技術の拙劣さから破綻が来ます。逆に、ひじょうに積極的な、人まかせにできない型の分裂病の場合には、自分から生活を拡大させて、そのために破綻が来ます」と述べるのです(194ページ)。いずれにしても、生活の拡大に際して再発が起こりやすいということです。この分類法は、まもなく放棄されます。

 生活の拡大に関係して再発しやすいのが事実であれば、たとえば、腕時計を紛失したことで再発したという先の事例についてはどう考えればよいのでしょうか。この場合は、生活を拡大させた結果として再発したとは考えにくいように思います。このように、実際の観察所見と理論とが、まだあまりかみ合っていない印象を受けるのは、この頃の著者が、目の前の観察事実を尊重する一方で、理論化を急いでいたためなのでしょうか。

 当時の著者は、抗精神病薬について、副作用を考慮しなければならないのはまちがいないとしても「ぜひ必要」と考えていました(206ページ)。ただしそれは、生活をしやすくさせ、実生活指導を容易にするための一時的手段という以上のものではありません。わが国で抗精神病薬が使われるようになったのは、著者が精神科医になるわずか3年ほど前のことにすぎず、自らも薬物の効果に関する共著論文に名前を連ねている(たとえば、松本ら、1959年)ほどなので、著者は、薬物療法についても経験が豊富だったのです(小坂、1970年a,b)。そのため、入院中と退院後では、同じ量でも影響が異なるので注意しなければならないとして、薬の効きかたについても重要な指摘をしています。「退院直前と同一量の薬を出していると、眠けをはじめ、副作用が出がち」なので、減量する必要があるというのです(208ページ)。

本書の特徴

 著者は、この時点での原因論をまとめる中で、「分裂病の再発させ方」を開陳しています。「分裂病を再発させるぐらいわけないことはない。なにか生活上の事件をつくる、新場面を提供して患者さんの生活技術をゆさぶればいい。たとえば、些細な資格にうぬぼれているのを、頭ごなしにやっつけ無視するとか、名誉欲をふみにじってしまうとか、精神病にかかったことをばかにするとか、あれか・これかと迷わせる、金銭的に損をさせるとか、あるいは疲れさせるとかすれば、わけなしに再発させることができる。見ていると、親御さん方は、一生懸命やっているつもりで、わざわざそういうふうに動揺させ、破綻するようにゆさぶっている」(218-219ページ)。

 このような方法で一部にしても再発させることができるのかどうかについては、実際に試してみなければわかりませんが、分裂病を操作的に再発させる方法は、従来の精神医学では全く知られていないので、その点からすればこれは非常に重要な発言です。ここで興味深いのは、その中に先述の問題に関係する「疲れさせる」という身体因的な方法を含めていることです。著者は、後年、こうした要因にふれることはなくなりますが、浦河べてるの家で行なわれている昨今の “当事者研究” では、「疲れている」状況も症状を出現させやすいとされている(たとえば、べてるしあわせ研究所、2009年、113ページ)ので、その背景に何があるかをさておくとすれば、客観的な状況としてはそう見える場合があるということなのでしょう。

 著者はここで、分裂病患者の家族が抱える深刻な問題点をいくつか指摘しているわけですが、その一方では、「親たちが患者さんにひじょうに愛情を注いでいた」(219ページ)とも述べています。その “愛情” の実態にはまだあまり目を向けておらず、両親に対して、それほど強い批判をしているわけではありません。そのような批判が可能になるためには、さらに経験を積む必要があったということです。

 第V編の討論の中で、著者と保健婦、精神衛生相談員の3人は、分裂病患者の特性について、それぞれの経験に基づいて具体的に話し合っていますが、院外での経験が乏しいらしき岡田は、その中にほとんど入って行っていません。そのことからもわかるように、家庭訪問や家族との密な接触を頻繁にくり返さない限り、その特性はわからないということです。そのことは、浜田の著書(たとえば、浜田、2001年、第V章)に目を通せば、否が応でもわかるでしょう。言うまでもありませんが、この点は今でも全く同じです。それどころか、昨今の専門家たちは、そうした特性を、経験としてどころか知識としてもほとんどもっていないのではないでしょうか。

 重複する部分もありますが、この時点で著者が気づいていた分裂病患者の行動特性をあらためて整理すると、次のようになります。

 興味深いことに、その多くは、現在、自閉症当事者の特徴として知られているものとほとんど共通してます。両者の共通点が今なおあまり知られていないのは、分裂病の場合、病院以外での観察所見がほとんど存在しないためでしょう。その点は、浦河べてるの家での、当事者研究を含めた膨大な観察事実は、家族内で得られたものではありませんが、非常に貴重です。分裂病には他にも、おそらく被害妄想の基盤となる、すべてを人のせいにするなどのきわだった特性があることも後に明らかになります。それらの特性は、病院で待っているだけの、いわば現場から離れたところにいる専門家には、今でもほとんど知られていないはずです。

 著者は、もうひとつ、非常に重要な指摘をしています。著者は分裂病の家族研究で博士号を取得しているわけですが、その家族研究にも深刻な影響を及ぼしかねないほど重大な問題です。それは、血族の証言と姻族(たとえば、兄の妻)の証言とが、大幅に(場合によっては正反対なほどに)食い違うことが、少なからず(あるいは頻繁に)あるという事実です。実の親は、患者について、小さい頃からおとなしい子で手がかからなかったと語ることが多いものです。ところが、ある患者の兄嫁によると、本人は「きょうだい中でいちばんヘマやっちゃ、おやじとおふくろにこずき回され、どやされて、叱られ役だった」のだそうです。にもかかわらず、親はそのような記憶をもっておらず、兄嫁がそのような指摘をしても、「いや、あの子は一番手がかからなかった」と頑強に主張するのだそうです(230ページ)。これまでの家族研究は、このような血族の証言をもとにして行なわれてきたのです[註10]。こうなると、ことはきわめて重大と言わなければなりません。

 最後に、本書が書かれた段階での問題点に簡単にふれておきます。この頃の原因論は、要するに、歪んだ親の影響をこうむった患者が、未熟な生活技術しかもたないまま社会に出ることになるため、そうした弱点を刺激されることによって発症するというものでした。分裂病は、一人前の社会人になってから発病することの多い躁うつ病と違って、ほとんど例外なく、社会に出る前後の時期に初発するので、症状出現の原因論は、その点を明確に説明できなければならないわけです。しかるに、分裂病以外にも同様の特性をもった人たちがたくさんいるのはまちがいありません。したがって、両者を決定的に分ける質的な違いがあるはずで、原因論としては、その点を明確に説明できるものでなければならないはずです[註11]。ところが著者は、その差がいかに大きなものであるかを強調することで、その説明としているのです。この考えかたは、基本的には最後まで変わらなかったようです。

 この段階の著者は、初発の患者を診た経験がなかったため、初発の原因にはふれられていません。再発の原因にしても、先述したとおり、心理的なものとされていたわけではありませんし、そうした弱点を補うべくとられた対応法にしても、それほど一貫性のあるものではありませんでした。また、この方法が、慢性状態の患者に適応できるかどうかについても述べられていませんし、予後についても推測の域を出ていません。小坂療法と呼ばれる “原因療法” を発展させるには、さらに少々の時間が必要だったのです。

[註1]その後、本書は、「小坂氏の分裂病治療技術が生活指導的なものから心理療法的原因療法へ転換しつつありまだ定着したものとはなっていないため」(岡田、1972年、8ページ)として、岡田の指示で絶版となる。

[註2]東京医科歯科大学は、敗戦翌年の1946年8月に、それまでの東京医学歯学専門学校が旧制大学へ昇格したものである。予科(2年)と本科(4年)に分かれており、予科は、教官も一緒に寝泊まりする全寮制で、茨城県稲敷郡安中(あんじゅう)村にあった。当初の定員は、医科20名、歯科60名であり、本科へ入学するには、再度の入試に合格しなければならなかった。第1期生の本科への入学は1949年4月で、卒業は4年後の1953年3月であった。著者はこの時に卒業しているので、同大学の第1期生であったことになる。なお、予科の後身である東京医科歯科大学教養部は、現在、国立国府台病院の後身たる国立国際医療研究センター国府台病院の真向かいにあるが、そこは、1947年に設立された東京医科歯科大学付属病院国府台分院の跡地なのである。著者からすれば、国府台病院はこのように非常に身近な存在なのであった。

[註3]わが国では、2002年8月に、偏見差別を解消するためとして、“精神分裂病” という旧来の病名が “統合失調症” という名称に、世界に先駆けて正式に変更されている。この出来事は、時流に乗って、各国の精神科医に大きな影響を及ぼした。現に、香港や台湾では、それまでの “拐~分裂” が “思覺失調 ”に、韓国では “調絃病” に変更されている(Sartorius et al., 2014;小池ら、2018年)し、英語圏では、日本名を直訳したような integration disorder(Ellison, Mason & Scior, 2014)や salience syndrome、salience dysregulation syndrome(van Os, 2009a,b)、当事者自身による psychosis susceptibility(George & Klijn, 2014)といった新たな用語が提案されている。また、サウサンプトン大学のデイヴィッド・キングドンらは、各病型ごとに新しい造語を考案している(Kingdon et al., 2008)。
 旧来の病名自体に問題があるとしても、そうした動きに対しては賛否両論がある。精神科医たちが当事者や家族に診断名を伝えやすくなった(Sato, 2006)という利点があるのは事実なのかもしれないが、その一方で、病名の変更を知っている場合には偏見蔑視の軽減効果はほとんどなかったとする報告(小池ら、2018年)や、単なる病名変更では一時的な効果に終わってしまうのではないかという指摘(Tranulis et al., 2013)も存在するのである。なお、Psychological Medicine 誌の2013年7月号(第43巻7号)には、当事者の主導による、病名変更にまつわる討論(Renaming schizophrenia coupled with proper public education is an optimal way to overcome stigma)が掲載されている。
 しかしながら、真の問題はそこにはない。この精神疾患を心因性のものであり治療可能であるとする、著者に始まる主張が1972年以来、公にされているにもかかわらず、専門家たちは、それを完全に無視したまま、不十分な対症療法でしかない薬物療法(たとえば、Harrow, Jobe & Faull, 2014; Leucht et al., 2017; Morrison et al., 2018)に依存し続けているのである。偏見の大半は、この疾患が不治とされていることに起因する。著者とともに私(笠原、2004年)は、この疾患が心因性のものであり、非常に困難であるとしても治療可能であることを、既に40年以上にわたって確認し続けていることから、本レビューでは(また、他のところでも)、精神分裂病という旧来の疾患名をあえてそのまま使用する。

[註4]『小坂教室テキスト・シリーズ』No.1の冒頭に、次のような発言がある。「これから後にのべることは、一見 “精神分析理論” や “ネオ・フロイディズム” に似ているかのようにみえるかも知れません。/なるほど文中で、「 」のなかに入れた用語は、精神分析で使われているものです。そして、私も同様の意義でつかっております。/しかし、深く読みとって頂ければ判るように、私の理論はそれらとはまったく別物なのです。したがって私は、私の理論を “小坂理論” と呼んで頂きたいと思います」(小坂、1971年、1ページ)。

[註5]この邦訳書は、当時の上司であった加藤正明が監訳者になっているが、著者から聞いたところでは、加藤は実際には何もしていなかったという。なお、「訳者序」によれば、1年後輩に当たる、後の東京医科歯科大学精神科助教授、宮本忠雄(自治医科大学精神科初代教授)からは、訳文の検討を含め、さまざまな協力を得ている。

[註6]『ロールシャッハ研究』第2号には、著者らの共著論文と藤岡の論文〔河村、小坂、1959年〕が一緒に収録されている。ちなみに、藤岡は、ロールシャッハ・テストの研究で博士号を取得している

[註7]本書の共著者である岡田は、2年後に発表された小坂療法という心理療法について、次のように述べている。「精神障害者解放の理念は、それを裏づける治療技術によって実現されなくてはならない――この線でたえず自己変革しながら実践してきているのが小坂さんです。かれの分裂病の治療理論の中心は、心ない親による幼少期からの抑圧が分裂病の原因規制〔機制〕であり、その抑圧解除が治療の中軸だ、ということです。/この理論はまだまだ未完成で、分裂病と神経症とがどうちがうのか、日本の家族制度とそのような親とがどう関連しているのか、など多くの疑問がのこります。わたしは、これからの実践で小坂さんの跡をおいながら、この理論の完成に寄与したいとおもっていますし、さらに多くの実践家の参加をのぞむものです」『患者と家族のための精神分裂病理論』〔1972年、珠真書房〕の広告パンフレット)。

[註8]最近、オープン・ダイアローグの主張が、文献に基づいて批判的に検証されている(Freeman et al., 2019)。この論文では、23件の研究を対象に検討した結果、さまざまな問題のあることがわかったため、無作為化試験を使った厳密な研究を行なわない限り、現段階では明確な結論を出すことはできないとされている。しかしながら、効果については主観的な判断しかできないという問題があることに加えて、経験的に得られた所見そのものは、基本的には変わらないはずである。

[註9]こうした心理的特性は、分裂病を発病した結果なのか、それとも初発前からあったものなのか、という疑問が共著者の岡田から提出されている。この頃の著者は、初発の時点から診察した事例をもっていなかったため、その疑問に対しては実例に基づいて答えることができなかった(230−231ページ)。それができるようになるまでには、さらに2年ほどの経験を必要とするのである。

[註10]浜田晋も、1971年11月中旬に、東京都精神衛生センターで地域精神医療活動をしている中で同じような経験をしている。確たる情報をつかんだうえで、「古いつきあいがある」父親にそのことを質したところ、「そんな事実はない」と「ぬけぬけと」否定したというのである。母親は、その場をとりつくろおうとしてであろうが、自分の鼻の整形手術をしたいがどの病院がいいかと話をそらした。「こういう症例を見ていると、普通私たちが日常的にやっているまず親から病歴をとって、そのまま『事実』として本人に対することの危険性を痛感した。よほど親と親しくなっても事実を隠す、または感じていない〔そのことの深刻性を実感していない〕。動揺らしきものがあっても表面には出ない。『ある日突然分裂病は初発したり、再発したりする』と精神科医が思い込んでいるのは非科学的ではないのか」(浜田、2001年、171ページ)。

[註11]たとえば浜田は、本書の2年ほど後に、小坂らとの鼎談の席で次のように述べている。「もちあじ〔分裂病患者の特性〕っていうのを小坂さんの本でいろいろ書いてあるけれども、あれぼくなんかが読むと自分自身のことを言われているみたいで……。〔中略〕だからどうしてぼくが分裂病にならなかったのかっていうことを考える」(小坂、1972年b、232-233ページ)。

参考文献

2019年8月16日
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