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 書評――2.『精神分裂病患者の社会生活指導』






『精神分裂病患者の社会生活指導』(医学書院、1970/9/25 刊行)
小坂英世(著)
A5版、72 ページ

本書の位置づけ

 「小坂理論」という名称が初めて登場するのは、本書の翌年に発行された「小坂教室テキスト・シリーズ」第1号「患者と家族のための精神分裂病理論」(1971年11月17日発行)という小冊子の冒頭です。本書の著者である小坂英世(以下、著者)は、本書の版元である医学書院が発行する『保健婦雑誌』や『助産婦雑誌』に記事を連載していた縁で、その本書の出版に至ったということなのでしょう。小坂英世(以下、著者)は、精神分裂病のための独自の心理療法理論を唱え[註1]、この理論に小坂理論と名づけたのです。それは、フロイトの神経症理論と似ているように見えるとしても、それとは根本から異質のものであることを強調するためでした。

 この点について著者は、1972年に次のように述べています。「フロイドが考えたのをあてはめてみたらこうだったというのでなく、患者が原因を忘却していることを発見し、次いで想起させてみると症状が消えることを発見してから、例証をつんでみると、その忘却はどうやらフロイドの言った抑圧に間違いなしということになったのです。たいへん時間と例数をかけて見きわめているわけなのです」(小坂、1972年b、283ページ)[註2]。なお、小坂教室テキスト・シリーズは、手書きによる謄写版印刷の小冊子(最終号のみタイプ印刷)で、第11号(1976年6月3日)まで発行されました。次に掲げるのは、その No. 1 と No. 11 の表紙です[註3]

『小坂教室テキスト・シリーズ』No.1(左)と最終号になった No. 11(右)。助手であった国分牧子に献本したもの。小坂亮氏提供。

 この小坂理論の発展史をその著書から辿ろうとする場合、岡田靖雄との共著として1970年5月30日に出版された『市民の精神衛生』をその起点とすることができるわけですが、次に位置づけられるのが、その4か月ほど後の9月25日に刊行された本書なのです。それは、時間的な順番としてだけではありません。理論的にも、明らかに次の段階に入っているのです。弱点を刺激されたことによって再発するという理論の根幹は変わっていませんが、心理的な操作も含め、再発をより操作的に解決できる技術論になっているということです。ただし、『社会生活指導』というタイトルからわかるように、世間で通用する生活を送らせるための指導をしていた段階であり、まだ心理療法という形をとっているわけではありません。理論的な側面を見ると、この時点ではむしろ混沌としていたのです。

 脱稿から出版までの間隔がわからないので、はっきりしたことは言えないにしても、著者が、ごく短期間のうちに積み重ねた、現場でしかできない経験に基づいて、その理論を大きく進展させたのはまちがいありません。ちなみに、前著は、口頭による報告とそれを素材にした座談会の書き起こしで構成されていたわけですが、本書は、全編が著者の書き下ろしになっています[註4]

 この頃の理論の発展は非常に速く、「1か月前の自分が何とヤブであったことよと痛感させることのつづくほど」のものでした。そのため、本書の原稿は、この年の4月にいったん完成し、ゲラ刷りにまで進んでいた(71ページ)にもかかわらず、その校正作業の途上で、たまたまある再発例(M子の事例)にとり組むことになり、その経験を踏まえて全体を構成し直すことにしたのです。この事例では、初発からその後の3度にわたる再発までが、一連の出来事のように見えてきたのでした。

 当時の理論の急速な発展を詳細に辿る作業は、また別の機会に譲ることにして、ここでは、著者が主として助産婦、保健婦向けの月刊誌に連載していた記事を代わりに列挙しておきます(なお、最後の『精神医療』に発表された論考は、無視できないためここに含めておきますが、連載記事ではありません)。分裂病に関係するものを抜き出して紹介すると、次のようになります(各号の数字は『精神医療』の論考を除けば、発行月を示しています)。この間に、分担執筆の論文2編が発表されています[註5]


     1969年      1970年      1971年

 著者は、これ以降、その心理療法理論に関連した記事を一般に流通する媒体に発表することが一切なくなります。そして、翌1972年に2点の著書(『患者と家族のための精神分裂病理論』と『精神分裂病読本』)を発表してからは、外部に向けた執筆活動を全面的に停止してしまうのです。その理由は定かではありませんが、地域精神医療の実践活動から、それを支えるための技術論である、分裂病の治療理論の開発へと軸足を移したことと、外部に向けた執筆活動を続けても、横槍が入るばかりで、その目標遂行のためには得策ではないと判断したためなのではないかと思われます[註6]。その結果、一般の精神医療関係者には、著者がその活動を停止したと誤解されてしまうわけです[註7]

 実際には著者は、患者と家族のために、診療や教育を従来通り続けていました。そして、1971年11月17日の時点[註8]でまとめた先述の「患者と家族のための精神分裂病理論」(小坂教室テキストシリーズ bP)の中で、さらに独自性の強い治療技術論を、患者や家族に向けて発表したのです。したがって、本書は、この小坂理論が発表される直前の著書であるため、この、今なお斬新な理論がどのような経緯で誕生したかを知るうえで、非常に重要な位置づけにあるのです。

 本書は、次のような章立てになっています。

     1.M子は春の宵突然
     2.失われた時計
     3.待てない男
     4.傷つけられし人々 その1
     5.傷つけられし人々 その2
     6.そは無実の罪に比すべきか
     7.何がM子をそうさせたか
     8.オトウサン現わる
     9.その後のM子
    10.おわりに

 M子の「突然」の再発から話が始まり、分裂病というものは、その “弱点” との関係でどのようにして再発するのかを、14 名の患者の具体例をあげながら説明し、最後にM子の事例の原因を明らかにするという構成です。最終章は、精神疾患をもつ患者の人権擁護という理念から入院治療には反対の立場をとっており、そのための技術論として「社会生活指導」という具体的な再発解決策を編み出すに至ったことが簡単に解説されています。

 発病の状況を目の前で観察するという幸運に恵まれた専門家は、浜田晋(2001年、7-8ページ)、向谷地生良(2006年, 158-162ページ;2009年, 76-79, 213-214ページ)など、ごくわずかにすぎません(私が気づいた範囲の資料なので、実際にはもっとたくさんいるのでしょう)。

 また、ウジェーヌ・ミンコフスキーは、ある精神科医が観察したという、とても興味深い事例を報告しています(ミンコフスキー、1954年、207ページ)。一方、オープン・ダイアローグ研究グループは、初発直後の患者にその家庭で繰り返し面接するという手法を長年とってきましたが、症状が目の前で消えた事例は1例ある(Seikkula & Olson, 2003, pp. 411-414; 斎藤、2015年、99-107ページ)ものの、発病の状況に立ち会った経験はないようです。ただし、いずれも偶発的なものです。

 それに対して、著者は、少なからざる事例を目の前で観察していることに加えて、それによって出現した症状を、操作的な方法で瞬時に消し去ることができるようになっていたのです。したがって、本書はわずか 72 ページの小冊子ですが、世界の精神医学史上でもきわめて重要度の高い著作なのです。

24時間診療――“夜討ち朝駆け”、泊まり込み往診

1971年夏ころ。小坂診療所の前で  著者は、本書出版の時点では、京王線上北沢駅から2分ほどのところにあった小坂診療所(右図参照)で、分裂病患者の診療や患者家族の教育に当たっていました。そこは、現在の賀川豊彦記念松沢資料館(1982年10月開館。1階が松沢幼稚園)の、細い道路を挟んだ真横でした[註9]。著者は当時、分裂病患者の家族が自主運営する、東京あけぼの会という家族会の顧問医をしていました(園田、1970年;高杉、1971年)。この頃は、“夜討ち朝駆け” で往診を行なうなど、24 時間いつでも対応するという方針を打ち出していたのです。後の小坂教室もそうでしたが、この診療所の玄関のドアには、ノックせずに入るべしという案内が掲げられていました。いつも患者や家族と対応しているので、そのじゃまにならないように配慮を求めるものでした。

「身を粉にして患者の家庭を往診して」まわり(高杉、1971年、26ページ)、必要に応じて泊まり込んで患者に応対するという、誰にとっても非常に負担の大きい “24時間診療” を実践していたのはなぜなのか。ひとつには、分裂病のような心因性疾患は夜間に悪化しやすいという事情もありますが、それだけではありません。もうひとつの理由は、『保健婦雑誌』1970年11月号に掲載された「一刻一秒を争う」という記事に紹介されている、次の事例を見るとわかるでしょう。

 予備校に通っている男子生徒が、前の晩に母親が薬を飲ませすぎたため、起床できず、予備校を欠席せざるをえない事態に陥った。ようやく起き出した患者は、いつもはおとなしいにもかかわらず、母親に当たり始めた。最初は紙くずを丸めて投げつける程度であったが、次第に暴力的になった。ところが、自分の不手際を知られたくない母親は、著者に連絡をとろうとしなかった。患者は翌日になっても登校しようとせず、被害的な幻覚、妄想が出現し始め、家を出ることができなくなった。困り果てた母親は、その段階になってようやく著者に助けを求めた。個人面接により、患者は、母親のために予備校に行けなかったことが原因だと認めたため、母親に、患者に向かって謝罪させた。しかしながら、興奮状態は治まったものの、依然として予備校には行こうとしなかった。
 その後も予備校を欠席し続けたまま、秋の新学期を迎えた。患者は、これほど長く休むことになったのは母親のせいだとして、母親に「生まれてはじめて手をあげた」。それから登校はできるようになったが、治まるはずの幻覚、妄想はそのまま続いた。(小坂、1970年、62ページ)

 著者は、親に謝罪させたにもかかわらず症状が消えなかったのは、いわば初動が遅れた結果だと考えたのです。その反省から、再発は速やかに解決すべしという方針がとられるようになったのでしょう。そのためもあって、著者は、いつでも往診するし、いつでも来室してよいし、いつでも電話をかけてよいという姿勢を表明していたわけです。その結果、その後の2年間は電話が鳴りっぱなしになり、多い時には1日100本もの電話を受けなければならないほどだったそうです(小坂、1972年b、255ページ)。当時の盟友であった浜田晋も、連日、現場で大変な思いをしていました(浜田、2001年、第V章)が、精神衛生センターの勤務だったため、まだ救われていました。実行しようとすればすぐにわかることですが、これが「今、私は自分をトップランナーのつもりだから走っているだけ」(同書、275ページ)という “利己的” 動機によるものであったとしても、よほどの覚悟がなければできないことです。小坂理論という著者独自の心理療法理論は、こうした覚悟とたゆみない努力のたまものにほかならないということです。

 この事例は、当時の著者の理論を知るうえで非常に参考になります。基本的な考えかたは、昨今の “トラウマ理論” とよく似ていることがわかるでしょう。親に謝罪させるという方法も、一部のやりかたと同じです[註10]。著者は後に、患者の幼少期の「親の心理的にむごい仕打ち」を原因とみる小坂理論の原型になった考えかたをとるようになるのですが、それは、その周辺の出来事を患者が “抑圧” しているという事実が突き止められた後のことです(小坂、1972年a、17ページ)。そして、この頃から、著者に対する専門家たちの態度はさらに厳しさを増してきます。それと並行して、家族の離反もかなり起こるようになり、著者は、生計を立てることがますます大変になってゆくのです。

 当時の著者は、患者の人権擁護という確たる理念に基づいて行動していたこともあって、家族に対しては感情を爆発させるなど、非常に厳しい態度で臨んだのです[註11]が、患者に対しては、まだかなり好意的な態度で接していました(園田、1971年、18ページ)。自分の親に対する批判が強くなったため、別居したいという患者があれば、自ら保証人になってすぐ近くに転居させることまでしていたのです。のみならず、「寄るべなくて、そして辛いというのであれば私の養子にしてやろうとまで考えて」いたのだそうです(小坂、1972年b、249ページ)。この姿勢は、さらに経験を積むことで正反対なほどに変わるのですが、それにはまだ2年ほどの年月が必要でした。

精神分析学派および生活臨床派との決別

 現在の分裂病治療にもそのまま当てはまりますが、著者は、当時の治療法が抱えていた根本的な問題点をふたつ指摘しています。ひとつは “症状中心主義” であり、もうひとつは、症状が宿命的に進行して後戻りしないとする “プロツェス Prozess 仮説” です(小坂、金松、1970年、167ページ)。前者の問題に関係することですが、著者は、分裂病の再発について独自の見かたをしていました。この姿勢は、栃木時代に培われたもので、最後まで変わることはありませんでした。本書には、次のように記されています。

 これまでの精神医学では、いったん消失していた精神症状が再び出現するのを再発としていた。すなわち、症状によってのみ精神疾患をみていた。私のいう再発は、症状の再出現と同時に、いったん回復していた社会生活が再びできなくなることを指している。私は、症状と社会生活の両面、しかもその両面がふかくからみあっているという観点から精神疾患をみようとする(むしろ実際の診療では、社会生活の面の方を重視する)。(4ページ)

 従来の精神医療では、薬を使ってひたすら急性症状の鎮静に努め、いちおうの安定が得られた後に “社会復帰” を考えます。これは、いわば急性疾患の治療モデルですから、急性疾患には問題なく当てはまります。かぜをひいて学校や会社を休んでも、かぜが治れば自発的に登校、出勤するからです。ところが、精神疾患、特に分裂病のような “進行性” の(つまり、再発するたびに現実から遠ざかる傾向をもつ)精神疾患にはほとんど当てはまりません。そのような方針で治療を行ない、急性症状がいったん収まった “寛解状態” に達しても、自発的に社会的活動に戻ることは、特に最近の、少なくともわが国ではほとんどないでしょう[註12]。“中間” 施設が次々に作られてるようになったのは、まさにそのためなのです。

 そのため、症状が治まった段階で、作業療法やナイト・ホスピタルなどの、社会復帰へ向けた対応がとられることになるわけです。ところが、それでも元の学校や職場に復帰するのは容易なことではありません[註13]

 著者は、最初から地域で適切な治療を行なえば、「数分ないし1日程度」(48ページ)の後には、元の学校や職場に復帰することができるので、抗精神病薬の服用を継続させる必要もなければ、入院させる必要もないと主張します。そして、「遂には、治療者の支えなしで(次いで家族の支えなしででも)再発を自ら洞察・克服しながら、独立独歩の社会生活をいとなむようになる」ことを予測したのです(48ページ)。この予測が楽観的にすぎたことはまもなくわかるのですが、最初から薬や病院とは無関係のところで治療できるという立場は、最後まで崩しませんでした。

 そのため著者は、病院にいて、精神分析や精神病理学の立場から患者の症状を “解釈” している専門家に対して、強い批判を浴びせます。「症状をとりあげては仔細ありげにそれをいじりまわし、患者をして症状に専念させて社会生活することを放棄させるいわゆる精神病理学派、精神分析学派の人たちを弾劾せざるをえない」(70ページ)というわけです[註14]。万が一そうした専門家たちの “解釈” が正しかったとしても、それが治療に役立たないことはまちがいありません。

 自らの理論を経験のみに基づいて発展させようとする著者は、その後、“生活臨床グループ” とも決別することになります。生活臨床という対応法を知らない方がたのために簡単にすると、1958年頃、群馬大学の精神科に、「分裂病再発予防5箇年計画」と名づけられたプロジェクトが発足しました。これが1962年に、生活臨床という分裂病の長期的治療指針に基づくとり組みへと発展するのです。「理論的な統一よりも実用的な指針」を優先させたこの生活指導法は、「患者が生活上のできごとに反応しておこす生活破綻」を重視します。これは、分裂病患者に対するわが国独自の対応法でした。その中で、分裂病の患者は、「色、金、名誉、身体」(異性、金銭、名誉、身体)という4方面でつまずいた時に再発を起こしやすいことがわかってきたのでした(臺、1978年、1、5ページ)[註15]。この理論が正しければ、そうした弱点を刺激されないように、患者の生活を規制すればよいことになります。

 わが国でこのように斬新な取り組みが、しかも中央ではなく地方の大学で始められたことについては、驚きであるとともに、おおいに評価すべきでもあります。とはいえ、この方法には、重大な欠陥がありました。患者に生活規制を課すわけですが、その結果として、実際に再発を回避させることができたかどうかはわからないということです。科学的な立場から見ると、実証性がまるでないのです。しかも、患者の生活規制という、著者の理念からすれば許されざる方法を使わなければなりません。これらの問題について、著者は次のように述べています。

 群馬大学の江熊要一さんを中心とする “生活臨床グループ” と称される研究集団〔中略〕は長期の分裂病予後改善計画の実施を通じて、生活臨床と名づける再発防止論を構成した。この先達によって私は啓発され、自分の技術論を成長させてきた。ある時期、私のそれは同グループの主張とほぼ同一であり、よく江熊さんらには “どうして生活臨床グループに入らないのか” とからかわれる程であった。しかし、その後少しずつ違いが同グループとの間にうまれてきたように思われる。(例えば私が、再発の回避策よりは解決策に重点をおき出したことや、同グループのいう生活類型を重視しない点など、これらはいずれ、同グループと討論し、検討を深めたいものである)。(70ページ)

 『市民の精神衛生』の時点と比べると、生活臨床からかなり離れているのがわかります。私は1973年頃に、冗談半分なのかもしれませんが、著者から次のような話を聞いたことがあります。息子の分裂病が再発すると、真夜中に自転車で町中を走りまわる女性がいたのだそうです。江熊は、その女性の行動を「理解できる」と発言したのに対して、著者は、「私には理解できない」と反論したというのです。ここまで見解が違っているのがわかったことが、決別する直接のきっかけのひとつになったということでした。こうして、著者は精神分析とも生活臨床とも決別し、独自の原因論を発展させてゆくのです。

生活の場で再発の状況を関与しながら観察し、症状を消去させること

 地域精神医療の最先端を行く著者は、栃木時代から、患者の家族会の立ちあげにかかわるなど、患者や家族たちと個人的に親密な接触を続けていました。そのおかげで、分裂病の “発病の原因” について “しろうと” たちからさまざまなことを教えられたり、発病の状況をつぶさに観察したりする絶好の機会に何度となく恵まれたのです。これは、病院やクリニックで待っているだけの専門家には、決してできない[註16]大変に貴重な体験です。著者は、泊まり込み往診を含む 24 時間診療を続けたおかげで、まさしく “関与しながらの観察” という理想的な研究法をとり続けることができたわけですし、その結果として、再発の原因に真正面から迫ることができたわけです。世界的な視野で見ても、このような専門家は、他には後にも先にもいないのではないでしょうか。

 そうした努力の結実とも言うべき本書には、14 名の患者に起こった総計 19 例の再発例が紹介されています[註17]。以下、それらをいくつかの項目に分け、典型例をそれぞれ1,2例ずつ手短に説明します。

1.具体的な解決策を通じて症状が消えた事例

(1)母親とふたりで暮らしている 20 代前半の女性。母親は、学生相手の下宿を営んでいる。この女性は、下宿させている2歳下の女子学生の部屋によく遊びに行っていた。いつもは 20 分か 30 分の時間を最初に決めてもらっていた。ところが、ある晩に部屋に行くと、明日は試験なので今夜は 15 分にしてほしいと言われたため、15 分で帰ってきた。ところが女子学生は、その後に同宿の男子学生を呼んで夜更けまで談笑していたのである。それを聞いた女性は腹を立て、そのことを母親に話している。そして、その翌朝から再発し、寝たきりになって、食事もとらず、呼びかけても返事をしなくなったのである。
 母親からその話を聞いた著者は、「患者を刺激する可能性をもつ」危険な存在であるその女子学生に出て行ってもらうよう指示した。母親がそのことを娘に話したところ、1時間後には、「その先生は私の気持ちのわかる方だ」と言って、自ら起き出して進んで来所した。(34−36ページ)

(2)再発して妄想状態になった専業主婦の事例。飼い犬の出産を間近に控えているが、夫は自分で出産の面倒を見ようとしないため、自分が世話をしなければならないことになった。以前にも、犬があまり好きではないのに、夫が出勤してしまったため世話をせざるをえない状況になったことがある。その時は、腹が裂けて生まれたものも含め、生まれた子犬はすべて死んだ。その後に軽い再発を起こしていたのであった。その話を聞いた著者は、世話が嫌なら動物病院に預ければいいではないかと指摘したうえで、入院料が高いのを心配しているのかどうかを問い質したところ、血統書付きの犬同士の交配なので、子犬を売れば損はしないという。
 著者は、犬の面倒を見ることが再発の原因なのではないかと指摘したが、この女性は、「そんなことで不安定になりはしない」。仔が全部死んでも知ったことかと否定した。そこで著者は、夫に働きかけ、動物病院で出産させるという決定を下させた。その結果、女性の妄想は瞬時に消えた。(29−30ページ)

【解説】具体的な解決策を与えて症状を消すという最も初期の方法による事例。ただし、この場合、前者では実際に女子学生に出ていってもらった後に症状が消えたのではなく、話を聞いた1時間後には自発的に起き上がって診察を受けに来ている。そうすると、具体的解決策による症状消失ではなく、既に心理的操作による症状消失になっていることがわかる。ちなみに、この程度の事例なら、浜田晋もいくつか報告している(たとえば、浜田、2001年、90-91、108、132-134、202ページ)。また、後者では、動物病院に預けた後に症状が消えたのか、それとも、その話を聞いた時点で消えたのかがはっきりしない。著者の記述から判断する限り、後者のようである。もしそうであれば、やはり既に心理療法になっていたことになる。しかしながら、著者は、なぜかそのことに注意を向けなかったようである。

2.当事者の素直な感情が “抑圧” されたことで症状が出ていた事例

 「待てない、短絡反応的、名誉好き、資格好き、学歴にこだわる」というさまざまな “弱点” をもつ青年が、妄想。不眠を訴えた再発例。この青年は、それまでにもさまざまな問題を起こしていた。そのひとつは次のようなものである。休職していた職場に復帰する際に、管理医が半日勤務の指示を出したため、庶務課長にその旨を話したところ、職場の規定で、精神病の場合には半日勤務はできないことになっていると言われた。それを聞いた青年は、就業開始前の忙しい時間帯であるにもかかわらず、管理医に連絡するよう庶務課長に強く迫った。しかし、課長がそれに応じなかったため、課長に向かって「このバカ野郎」とどなりつけたうえに暴力まで振るい、解雇されてしまったのである。ただし、この時には再発していない。

 転職を余儀なくされた青年は、生計を立てるため、肢体不自由者のいとこの家で特殊技術の習得に励むようになった。ある日、「世界が破滅しかかっている」という妄想や不眠が出現し、いとこの家に行くどころではなくなった。著者は、母親と本人にその再発の原因を質したが、最初は何も出てこなかった。いとこに関連する出来事を思い出すよう求めたところ、再発した当日に、いとこがカラーテレビ、冷蔵庫、洗濯機をという当時の高額家電製品一括購入したことがわかった。

 それを聞いた著者は、「君は旗を立てたろう。しかしそれを表明できなかった。それが原因で再発したんだ」と青年に言った。それには次のような事情があった。貧しい一家が、母親が行商をしてようやく貯めた 20 万円をいとこに貸していたにもかかわらず、いとこはなかなか返そうとしなかった。しかしながら、いとこに特殊技術を教えてもらっているという事情があるため、返却を求めることもできない。そのような状況の中で、いとこは、20 万円を超す買い物をしたのである。

 ところが著者の問いかけに対して、青年は、「いいえ腹は立ちませんでした。帰宅してからお母さんにその事実を報告しただけです」と答え、母親のほうも、「私も従兄がそこまでかせげるようになったのは結構なことだと喜んでやったのです」と、息子に同調したのである。

 それに対して、著者は、「あなた方はふたりとも自分をいつわっている」と突き放した。数分の沈黙が続いた後、ようやく母親が心情を吐露した。息子から話を聞いた時、「私どもからなけなしの金を借りておいてこんなに私どもを苦しめておきながら、余りにもひどいとカッとしたんです。しかし私がそんな気配を見せたら、この短気なB〔息子〕がどんなに興奮するかと思い、また従兄のところに行きづらくなりやしないかと心配して、表面は従兄を祝福してみせたのです」。それを聞いた青年は、「お母さんそうだったのか。俺は腹が立ったけれども、お母さんがどう思うかしらと思いながら、いちおうさりげなく報告したんだ。そしたらお母さんが喜んでいる様子だったので、これは俺一人が腹を立ててはいけないんだなと思ってこらえたんだ」と言ったのである。

 それから、ふたりは明るい表情になって帰って行った。世界が没落するという妄想は、帰途には既に消えていたことが判明した。その夜は熟睡し、翌朝にはいつも通りいとこのところへ出かけたのである。

【解説】この事例では、自然な不満が抑えられていたことが、妄想の原因になっていたらしいことがわかる。しかし、そうであるとすれば、弱点を刺激されたのとは逆に、本人が素直な感情を“抑圧”したことが妄想出現の原因になっていたことになる。そうした着想が生まれるのは、翌1971年のことである。

3.当事者の行動の正当性を支持し、母親を批判したことで症状が消えた事例

 「おとなしく素直なので扱いやすいとされている」、大学受験の予備校に通っている男性の再発例。被害妄想が出現して、予備校に通わなくなった。著者が本人から聞き出そうとしても、その原因らしきものは出てこなかった。同席していた母親も、思い当たることはないという。そこで、遠隔地に単身赴任している「知的な推理作業の従事者」である父親に依頼し、どのような出来事があったのかを電話で母親から聞き出してもらった。それは、社会生活指導の実際を理解してもらい、今後の治療に協力してもらうためでもあった。その結果、次の出来事が浮かび上がった。
 「わがまま一ぱいで手を焼かせる」大学生の兄が、学校のクラブ活動で出かけるので支度してほしいと母親に要求した。その話を初めて聞かされた母親は、兄に文句を言った。その結果、ふたりの間で口論が起こり、兄は母親を殴りつけて家を飛び出した。男性は、その様子を黙って見ていた。すると母親は、どうして口論を止めるなり自分に味方するなりしてくれなかったのかと、この息子を責め立てた。それに対して息子は、母親が黙って支度をしてやっていれば問題は起こらなかったと、母親に抗弁したというのである。
 以上の経過を父親から知らされた著者は、この男性が中立な立場を保ち、賢明な態度をとったにもかかわらず、母親が恨みごとを言ったことで当惑したのではないか、それが嫌だったのではないかと、男性に向かって指摘した。それに対して男性は、「とてもいやでした」と答えたものの、それが原因とは認めなかった。にもかかわらず、帰る時には「顔をほころばせている」のがわかった。そして、翌日には登校したのである(19−21ページ)。

【解説】この事例では、著者が当事者の行動の正当性を是認し、母親を批判したことで症状が消えている。とはいえ、厳密に見ると、症状が消えたのは、本人を支持した結果なのか、それとも母親を批判したためなのかが、このままでははっきりしない。はっきりしているのは、やはり心理的な操作だけで症状が消えているという事実である。

4.再発、悪化から、症状が鎮静するまでの経過を目の前で観察した事例

 「“待てない” “短絡反応的”」な特徴をもつ青年が、いつものよう緊張病性の興奮に入った。この青年は、自宅療養中に、レコード全集を購入し、その代金を、定年退職して自宅にいる父親に頼み、銀行から振り込んでもらった。ところが、その振り込み受領書には、貼られているはずの収入印紙が貼られていなかった。「けしからん、印紙法違反」だといきり立った青年は、銀行に押しかけようとしたが、そこで思い留まり、指示を仰ぐべく著者に電話をかけてきた。短絡的な行動をして失敗をくり返してきた青年が、教育効果があがっていたためなのか、ここで立ち止まったのである。

 銀行に抗議に行かせ、かえって興奮が高まるようでははまずいと判断した著者は、本人に銀行に電話させ、銀行の担当者に謝罪と訂正に来させるようにした。銀行側は、即座に行員を派遣して謝罪、訂正をさせると約束していたにもかかわらず、行員はなかなか来なかった。

 「いら立った彼は、しだいに興奮状態に発展していった。大声で、数分おきに私に電話してきた。しまいには嗄声になってしまった。はじめのうちは、銀行側の来宅が遅い、待っているといらいらするなどといっていたのが、しだいに支離滅裂な、苦悶状の内容になってきた。ついには苦しいので入院させてくれと喚くようになった。在宅していた両親もオロオロしてしまい、今までにない興奮で、あたりちらし、手のつけようがない、入院させてくれといってきた。私は電話で、あるときは本人をなだめ、あるときは本人を叱りつけるいっぽう、患者の手もとにあるクスリを追加服用させるようにした。そしてJ〔当事者の男性〕と両親に、行員が謝罪・訂正にきさえすればおさまるはずだから、それまで辛棒〔辛抱〕して待つように指示した。
 やっと行員が到着し、謝罪と訂正が行なわれた。まるで引き潮のように、Jの興奮はしずまっていった」

 本例では、著者の推理がみごとに当たっていたことがわかる。行員が到着して訂正が行なわれるまでは、次第に興奮が強まったために、抗精神病薬を追加服用させてはいるが、大量に投与したわけではない。そのおかげで、この男性は、この時の経過をよく覚えており、「あの時は先生に入院させろなど滅茶苦茶なことをいったりしました」と反省的に語ったという。そのため、薬を大量に使わないほうが、本人の “弱点” を克服するための教育をしやすいと著者は考えたのである(36−38ページ)。

【解説】この事例で重要なのは、著者の推理が当たったことよりも、再発の経過をつぶさに観察できたことであった。このような観察をした専門家は、他にはほとんどいないではずである[註18]。まさに、待望久しかった “分裂病の尻尾” をつかむことができたのであった。とはいえ、これだけでは、真の原因が突き止められたことにはならない。この段階の理論では、「待てない」、「短絡反応を起こしやすい」という “弱点” をもつ者が、それを刺激された結果として緊張病性の興奮を起こしたことになっている。その着想の当否はいちおう別にしても、それなりに筋は通っている。ところが、著者が後に唱えることになる分裂病の抑圧理論では、この事例を説明するのはむしろ難しくなってしまう。“抑圧” されたのはどの部分かがわからないからである。著者は、新しい理論になったら、以前の事例をその理論に従って解釈し直す必要があるとしているが、本例については、どのように考えたのであろうか。

6.当時の理論では説明が難しいはずの事例

 第2項でとりあげた青年が、その事件より前に、右前額部にこぶのようなものができたという妄想を訴えた再発例。そのこぶの頂点の一点で天上の重みを支えているので、その重みに耐えかねてつらいというのである。

 この青年は、いとこの家で特殊技術を学んでいたわけであるが、肢体不自由者のいとこが自分でしか使えない特殊な下駄をしまった場面を見て、事情を知らないために、「このケチ野郎、俺に下駄さえ貸そうとしないで」と言いながら、いとこを殴りつけた。驚いて止めに入ったその妻にも暴力を振るったため、近所中の人が集まってくるほどの騒ぎになってしまった。母親が呼ばれてようやく引き分けられ、青年は自宅に連れ帰られた。

 母親から、いとこの下駄は特殊なものであることを知らされた青年は、自らの早合点を悟り、技術の習得が中断したら困ることもあって、母親とふたりでいとこの家に行って謝罪している。20 万円を貸しているためもあってか、従兄は青年の謝罪を受け入れた。この日、青年は、いつも通り技術の習得に務めている。ところが、その晩のうちに症状が出て、翌日からいとこの家に通わなくなってしまったのである。

 その経過を聞いた著者は、この再発の原因を青年に向かって次のように指摘した。早合点で師匠に暴力を振るってしまったが、許してもらえたため、その日は技術習得を続けたが、その間、「気恥ずかしいやら、やましいやら、すまないやら、口惜しいやら煩悶した。その辛さで再発した」のではないか。

 それに対して青年は、謝罪を受け入れてもらえたので、「すまなさもやましさも感じません」と答えたのである。著者は、その傲慢な態度を強く批判し、「自分は心にもないことをいう。従兄にはすまないと思っている。こう認めて、さきほどのコトバが間違っている、とあやまるなら私の患者だ」と突き放した。加えて、幼児に対するような母親の諭しを受けた青年は、「先生すみません。実は俺、従兄に対して気がとがめてしかたがなかったんです。それが原因でこうなったのかもしれません。それなのに俺はさっき、先生に聞かれると、いつものくせでつい強がりをいってしまって」とようやく認めた。帰途には既に症状が消えており、翌日から技術習得を再開していたのである。(13−15ページ)

【解説】この事例で重要なのは、患者が著者の指摘を受け入れず、反発している間は症状にほとんど変化はなかったが、受け入れたとたんに症状が消えたという事実である。著者の言うようにそれは、原因の指摘が当たっていても、それを認めることに抵抗があると、症状は消えないということなのであろう。そこまではよいとしても、その場合の核心は、指摘を受け入れて、その時の自分の心の動きを認めることにあるのであろうか。それとも、素直になること自体にあるのであろうか。いずれにしても本例は、弱点を刺激されることで再発するという、この頃の著者の理論では説明しにくい事例なのである。

本書の歴史的位置づけ

 地域精神医療という点では同じでも、再発を防止することを目的とする生活臨床とは違って、著者は、再発した後に原因を明らかにすることによって治療するという積極的な方法を編み出し、この頃からそれを操作的かつ実用的に使うようになったわけです。これは、それまで誰にもできなかったことなので、長い精神医学史のうえでも、最も重要な発見と言えるでしょう。

 この発見だけでも大変なことなのですが、著者には、それ以外にもいくつかの貢献があるのです。ひとつは、従来的な病院主導の家族会ではなく、家族が主体的に運営する家族会の立ち上げに尽力し、それを、患者や家族の教育の場としたことです。もうひとつは、そのことにも関係しますが、治療の主体を、医師ではなく家族や患者自身に移そうとしたことです。これも、それまで誰も考えつかなかったことなので、実に斬新な発想と言わなければなりません。

 したがって、このような正当な評価がこれまでほとんどされてこなかったのは、実にふしぎな現象と言わなければなりません。それどころか、1972年以降になると、著者の研究のみならず、著者の存在自体も世間からほとんど抹殺されてしまい、その異常な状態が現在まで続いているのです。このことは、後世の科学社会学者が好んでとりあげるテーマになるはずです。時代を超える研究は、このような宿命を辿るものなのでしょう。

 また、患者や家族の中に入り込み、関与しながら観察を続けたおかげで、分裂病患者の特性や家族の実態が、これまで知られている以上に明らかになりました。この頃の著者は、それを刺激されることによって再発を起こす患者たちの心理的、行動的特性を、患者の「弱点」と呼んだわけですが、それらは、生真面目で内向的などと言われてきた従来の観念的な患者像を大幅に変えるものでした。

 以上のような革命的発見の結果、再発に対する見かたも、それまでとは正反対なほどに違ってきました。再発しても、その後に解決できるわけですし、人格変化も起こらないわけですから、従来のように再発を恐れる必要はありません。これまで家族や、特に精神科医が再発を恐れていたのは、急性症状が出るばかりでなく、それによって社会生活を停止してしまうからであり、「無為、自閉」の傾向が強まる(つまり、“進行” する)ためなのでした。しかも、絶対的に必要とされてきた薬も使わすにすむようになるのです。それに加えて、家族ともども再発を解決する作業を通じて、患者が自らの弱点を意識し、克服する努力を続けることにより、「患者も家族も成長して行く」(園田、1971年、18ページ)というのです[註19]

 ただし、ここには大きな問題がふたつありました。ひとつは、入院させずに再発を解決するという理想を掲げるのは簡単なのですが、その場合、当事者や家族以外の者には想像もつかないほど、大変な状況に陥ってしまう場合があることです。患者が興奮して暴力を振るったり、自宅を破壊したり、隣近所に迷惑をかけたり、果ては警察が呼ばれたりするような状態を、家族は、患者の症状が治まるまで耐え続けなければならないわけです。しかしながら、著者が地域活動に身を投ずる姿勢に賛同した家族たちは、歯を食いしばりながらもそれを耐え抜いたのです[註20]

 もうひとつの問題は、やむをえないことではありますが、この頃の著者が楽観的に過ぎたということです。「分裂病患者は、口では判ったようなことをいっていながら、驚くほどに自分の生活上の弱点についての自覚に欠けている。何度も何度もしょうこりもなく失敗をくり返し、それでいて他人の忠告をうけいれようとしない」(67ページ)ため、教育をさらに深めることを目指していたわけですが、それは、著者が想定していた以上に難しかったのでした。「現段階の私では、うけもっているすべての患者の生活上の弱点を知悉しているとはいえず、時には再発場面でもその原因をさぐりえないことが多い。主張に反して、入院させざるをえない場合も時折ある。ひとえに私の技術の未熟が責められる」(72ページ)と最後に述べているのも、そのひとつの現われなのでしょう。

 翌年になると、社会生活指導ではなく、心理療法という形をとるようになるのですが、そうすると、患者の抵抗はさらに強くなり、再発の様態がも変わってきます。それまでの、いわば “真面目な” 再発とは質的に異なる、著者が「イヤラシイ再発」と呼ぶ、半ば芝居がかった再発を起こすようになるのです。この特殊な形態の再発への対応は非常に難しく、そのため、著者の意に反して多くは入院させざるをえない状況に陥ってしまうのです。加えて、家族の反発も強まり、家族会を通じて活動することも難しくなってきます。とはいえ、これはもう少し後のことです。

 冒頭でふれておいたように、当時は理論の進化が非常に速かったため、その途上で書きあげられた本書は、理論的なまとまりに少々欠けています。それは、ひとつには、理論から離れて、目の前で展開される事実に寄り添うという、科学者としてあるべき姿勢を貫いていたためなのでしょう。本書には、そのおかげで、新しい仮説を生み出す素地になりそうな素材が豊富に含まれています。当時、著者の影響を受けて(にもかかわらず、著者に対しては強いアンビバレンツを抱きながら)、やはり地域に入り込んで活動していた浜田晋の日記(浜田、2001年、第V章)にも、重要度の高い素材がやはりたくさん含まれています。にもかかわらず、こうした生々しい資料に真剣なまなざしを向ける専門家はほとんどいないのが現状なのです。私はそれを “抵抗” の結果と考えるわけです(笠原、2004年、第8章)が、その当否は別にしても、それにはそれなりの理由があるはずです。

 いずれにしても、本書は、本格的な嵐が到来する前のわずかな静けさの中で、著者が、自らの独創的理論を渾身の力を込めて世に問うた重要な著作であることはまちがいありません。

[註1]おそらく、これとほぼ時を同じくして、東京都荒川保健所から、「患者と家族のための精神分裂病理論」と銘打ったタイプ印刷のパンフレット(4ページ)が発行されている。当時の理論の概略を説明したもので、内容的にはそれとほとんど同じであるが、なぜか著者名が記されていない。

[註2]各号でどれほどの部数が発行されたのかはわからないが、1971年10月に東京あけぼの会と “絶縁” した後の発行なので、多くとも 200 部前後であるように思う。しかも第 10 号までは、紙質の悪い、いわゆるわら半紙に印刷され、ホチキスで袋とじにされたものなので、既に 40 年以上が経過した現在では、保存状態のよいものはほとんど残っていないであろう。著者のもとに保管されていたのも、原本ではなく(しかも助手であった国分牧子への献本の)コピーであった。このテキスト・シリーズは、私の手元には保存用のものを含めて2組ある(ただし、No. 1は欠本)。いずれ電子化して公開する予定にしている。

[註3]興味深いことに、著名な精神分析家であった土居健郎は、小坂療法を、「ずい分幼稚な精神分析的なやり方ですね」と批判したという(浜田,2010 年,162 ページ)。稚拙な “分裂病解釈” という意味なのであろうが,肝心なのは解釈ではなく、実際に適用した場合の治療効果なのである。科学的研究のいちばんの基本がわからないのは、やはり治療から離れたところで “研究” を続けてきたためなのであろうか。著者や著者の方法論に対しては,このような的外れの “批判” しか存在しない。

[註4]著書を自分で書き上げるのは当然のことであるが、著者の場合、それがかなり難しかったようである。本書の他に書き下ろされた著書は、その4年前の1966年に出版された『精神衛生活動の手引き』(日本看護協会出版部)という 93 ページのマニュアルのみなのである。著者は、論文(および、「小坂教室テキスト・シリーズ」)を除けば、その後も書き下ろしの著書を出版することはついになかった。本書のためにわずか 72 ページ分の原稿を完成させたことについて、「筆不精の私にとうとう一冊書き上げさせるところまで叱咤激励してもってきてくれた」として、医学書院の担当編集者(『患者と家族のための精神分裂病理論』を2年後に出版することになる出版社の社主)に謝意を述べている(72ページ)ほどなのである。その前後に出版された、座談会の記録や患者家族の手記が大半を占める本であっても、著者の理論がむしろわかりやすくなった面もあるので、それぞれが重要な著作であるのはまちがいない。しかしながら、後年、この “筆不精” が大きな問題に発展する。自らの理論をまとめることが、最後までできなかったからである。

[註5]著者は、1970年5月に「地域精神医療の展開」(小坂、金松、1970年)、1971年5月に「リハビリテーションの技術論」(小坂、1971年)という2点の論文を、共著書のために書いている。前者は、いわば地域精神医療の理論編であるのに対して、後者は、女子高校生の再発例を細かく紹介したうえで、自らの技法を “精神科リハビリテーション” を支える技術論として説明している(小坂、1971年、423-431ページ)。この事例は、本書の第5章でも紹介されている。

[註6]浜田によれば、1971年秋頃には、「小坂理論に基づくアプローチの失敗例が頻発」したという。ひとつには、それは、「小坂の弟子」が患者の親に向かって「『謝れ! 謝らないと病気が治らない』と脅迫」したためだという(浜田、2001年、162ページ)。それと相前後して、10月には東京あけぼの会の会員の大半が著者から離れて行ったのである(藤沢、1972年、88ページ)。
 それからまもない11月9日の夜、浜田が、患者の家族を含めた「小坂派の連中」の集まりに参加した時、「親に対する患者の怒りを彼(小坂)はぶちまけるが。私はその親を憎みきれない。どこかで許している」。浜田は、著者に対して、「医療の名において患者や家族をそこまで追い込んでよいのか!」と反論したという。「小坂派の数人の泣きだす人までいる。『小坂先生は死ぬ!』と口走ったりする。『ロウソクの火が消えなんとする時の輝き……』と冷静な発言をする人までいる。もはや宗教的雰囲気。/その夜、小坂も感傷的になっていた。こんなことを言い出す。『私のやってきたことは罪万死に値する……傲慢であった。私自身が分裂病者の心をくみ取れず、対話がなく、人権を無視してきた。皆さんは知らなかったからそれでよいが、私は地獄を見てしまっていた。それを知っていて医者でありながら、一本の蜘蛛の糸さえ投げることができなかった。その罪は大きい……』と。家族の前で謝ったのである。目に涙をためて……』」(同書、164−165ページ)。
 浜田の考える理由が当たっているかどうかはともかく、この頃を境にして、小坂の同調者が急速に消えてしまう「内部崩壊」もあったのである。私が著者と初めて会ったのは、その後のことであった。

[註7]著者が次に表舞台に登場するのは、著名な漢方医、山田光胤のもとで臨床経験を積んだ後、漢方精神科医として、自ら開設した柴胡堂診療所で診療を始めた1982年2月のことであった。

[註8]これは、註6に記した出来事の数日後に当たる。

[註9]この場所には、賀川豊彦自身も住んでいたことがあり、小坂診療所が開設された時点では、日本基督教会系の社会福祉法人が運営する松沢幼稚園が建っていた。この幼稚園は建て直され、2階が賀川豊彦記念資料館になっている。

[註10]ただし、本書では、そのことにほとんどふれられていない。親の問題がさらにはっきりしてきたのは、本書が脱稿された後で、『保健婦雑誌』1970年11月号の記事が書かれるより前なのかもしれない。1973年に小坂から聞いたところでは、本書は脱稿してから2週間で出版されたということなので、1970年の9月中旬までに書かれたことになる。『保健婦雑誌』の記事が書かれたのは、その少し後なのであろうか。このあたりについては、さらに厳密な検証が必要であろう。

[註11]その実例の一部は、著名なノンフィクション作家である高杉晋吾の論考(高杉、1971年)に紹介されている(ついでながら、高杉は、後年、週刊誌のインタビューでたまたま私のもとを訪れたことがある)。1973年に私は、後に開設された小坂教室で、初めて出席した母親を著者がどなりつける場面を目撃している。それはかなり常軌を逸したもので、率直に言えば、「こんなにどなられてよくついていけるものだ」と驚いたほどであった。しかし、私自身も、怒りを爆発させるようなことはなかったにしても、当初は著者に倣って、患者や家族に対してかなり厳しい接しかたをしていた。自己弁護がましく聞こえるかもしれないが、浜田も同じような接しかたになっていたことからもわかるように、偏見なく接しようとすると、そうなってしまう側面があるのはまちがいない。いずれにせよ、そのことも手伝って、病院内で次第に支持を失ったばかりか、忌避されるようにすらなったのである。このあたりの状況については、拙著『幸福否定の構造』(2004年a、第2章)に書いているので、関心のある方は参照されたい。

[註12]この問題について、著者は、次のように述べている。「では何故に、これまで分裂病患者は働かないようにみえたのであろうか。それは第一には、患者が症状にとらわれてしまって生活を放棄してしまったからである。第二には、患者の生活上の弱点を周囲が無視して圧迫してしまっていたからである」(63ページ)。
 ただし、しばらく前まではそうだったとしても、ひきこもりが増加してきたこととからもわかるように、最近は事情が変わってきているのではなかろうか。それは、分裂病の軽症化と言われる現象とも関係しているように思う。つまり、社会全体として生活にゆとりが出てくると、働かずにいることが許容されやすい状況になるということである。そうすると、あまり強い症状を出す必要がなくなるということなのかもしれない。
 それに対して、マサチューセッツ精神保健センターのナンシー・ワクスラーが、1970年代後半にスリランカの農村部で行なったかなり厳密な調査によれば、分裂病が “内因性” の疾患であれば、どこの文化圏でも同じ現われかたをするはずであるにもかかわらず、その地方では、先進諸国の患者と比べて急性症状が軽いうえに短期間で治まり、臨床的にも社会的にも予後が格段によかったという(Waxler, 1979)。この場合は、そうしないと生活ができないということなのかもしれない。どちらの場合でも、分裂病は、“内因性” の疾患ではないことを示している。

[註13]著者は、分裂病患者を、本来あるべき生活の場で治療しようとする地域精神医療の立場から、共著者の金松直也とともに次のように述べている。「症状中心主義もプロツェス宿命観も、病棟・診察室に限られた、患者の社会生活を無視した診療によってつくりあげられてきたという歴史的事実である。したがってその打破、地域精神医療の確立は、患者を病院外の生活の場において観察し、病院外の生活を利用して治療しようとする立場からのみ可能なのである」(小坂、金松、1970年、167ページ)。そして著者は、その実践のための方法論として小坂理論を発展させてゆくのである。

[註14]著者が精神分析を嫌ったのは、それだけの理由ではなかったようである。1976年頃に私が、著者の功績をフロイトよりも数段上だと思うと言ったところ、「フロイトと比較されるのは不愉快だ」と反発されたことがあるからである。著者は、フロイトの神経症理論は認めていた(後には、幼少期の体験の抑圧解除という、先述の理由以外に、精神分析的な手続きを重視するようになる)ほどなので、学術的な側面では悪くないように思うが、そうは受けとられなかった。「〔理論の〕奴隷になるぐらいやったら死んだほうがよっぽどまし」(今西,1973年,353ページ)と明言していた独立独歩の今西錦司と同じような生きかたを貫いていた著者には、目の前の観察事実よりも決まりきった学説のほうを優先し、宗教のように発展性がないことに耐えられなかったのかもしれない。その推定は、「この先達〔江熊要一〕によって私は啓発され、自分の技術論を成長させてきた」と明言しながら、江熊を中心とする生活臨床グループに入ることはなかったという事実によっても裏づけられるように思う。

[註15]対象患者の長期予後については、いくつかの報告(たとえば、小川ら、1994年)が出ているので、関心のある方は参照されたい。ついでながらふれておくと、生活臨床の実践者たちの多くは、分裂病を生物学的な原因をもつ疾患と考えていた(臺、1978年、6ページ)ようである。

[註16]決してできないとは少し言い過ぎかもしれない。たとえば、先述のウジェーヌ・ミンコフスキ−の体験(1954年、159-160ページ)も院内で起こったものであるし、浜田晋も、都立松沢病院に勤めて間もない頃に、重要な経験をしているからである(浜田、2001年、7-8ページ)。30 年もの間、院内作業に従事していて、症状もずっと安定している 60 代の女性入院患者に退院を勧めたところ、「喜ばしいはず」の働きかけであったにもかかわらず、その晩から「激しい被害妄想、幻聴に悩まされ、精神運動興奮に入った」のであった(同書、7ページ)。ちなみに、浜田は、この事例について興味深い発言をしている。「人間とは全く愚かなものである。『再発と私の診察が,全く偶然に一致したとは思えない』と考えるのが自然であろう。ところが私は、『心因反応にしてはあまりにも分裂病様症状そのものだなあ。おかしなこともあるものだ』ぐらいで深く考えてみようとしていなかった。/もしその時、私がこのエピソードを深く科学的に追及しようとしていたなら、もっと早く私の『精神分裂病』に対する理解が進んでいただろうに。なんとそのことに気づくのには 10 数年の月日が必要だったのである」(同書、8ページ)。浜田が執拗に批判することになる著者は、科学的な立場から、まさにその追及をしていたのである。ちなみに、浜田はこの事例を、都精神衛生センターで地域精神医療にとり組んでいた小坂と出会った後に思い出し、その再発の “原因” を考えている。ただしそれは、「金もない。身寄りもない。技術もない。家もない。立っている場がない」この女性を、「出て行け」と追い出そうとしか結果だと即断し、これを「私のひとつの原体験」としたのである(浜田、1985年、81-82ページ)。その場合、もしその “解釈” がまちがっていたとしたら、その後はどうなるのであろうか。

[註17]従来の文献を調べる限り、内外ともこのような観察が行なわれた形跡はないようである。日常生活の中で遭遇する出来事と再発の関係を調べようとする研究ならいくつかある(Bebbington, 1987; Das, Kulhara & Verma, 1997; Day et al., 1987; Dohrenwend & Egri, 1981; Fallon, 2009; Gruen & Baron, 1984; Horan et al., 2005; Malla, Cortese, Shaw & Ginsberg, 1990; Norman & Malla, 1993a,b; Rabkin, 1980)が、その場合には、探し出すべき出来事を、最初から大きなストレスとなるものに限定していることに加えて、出来事と発症との時間的間隔を広く設定していることもあって、的確な検討にはなっていないようである。
 ちなみに、入院中の分裂病患者の症状が悪化しやすいのは、ダブル・バインド仮説を唱えたグレゴリー・ベイトソンがとりあげている実例(Bateson, Jackson, Haley & Weakland, 1956, p. 259)からもわかるように、まさに家族が面会に来ている最中かその直後である。ベイトソンの仮説の当否は別にしても、そうした事実は、精神科病院の関係者であれば経験的によく知っているであろう。にもかかわらず、悪化したのは、家族がよけいな刺激を与えたためだとして片づけられてしまうことが多いのである。そうした着想に由来するひとつが、expressed emotion(表出感情)という仮説(たとえば、Butzlaff & Hooley, 1998)である。せっかく因果関係がわかりやすい実例を見聞きしても、真の意味での追究をしないまま終わってしまうということである。

[註18]症状が出現してから治まるまでの経過ということであれば、ないわけではない。それは、たとえば向谷地がやはり目の前で観察した事例(向谷地、20009年、213-214 ページ)である。ただし、「固く握った右手のこぶし」で自分の頭を強く叩くという自傷行為を始めた女性に対して、同僚が体をくすぐることによって、たまたまその症状を止めることができたという経過であって、著者のように、原因を突き止め、それに基づく推理を聞かせることによって解決したものではない。

[註19]浜田は、父親が「超一流新聞社の有能な編集長」だという 28 歳の男性の自宅を訪問した際に、その父親も母親もこの息子の治療に無関心であるのを知った。その時、図らずもこの問題について、「いっそ陽性症状があった方がよいか」と嘆息しているのである。「破瓜型」の引きこもり程度の状態だと、実は深刻な問題であるにもかかわらず、家族が放置しておく実態がわかったためであった。

[註20]ある家族は、次のように述べている。「あまり苦しいために『今日こそは先生にお願いして、入院〔小坂診療所には入院施設はないので、別の病院〕させていただこうと、たまらなくなって〔小坂診療所に〕行くでしょ。そうするとドカーッと叱られてね。“僕について来る以上は入院なんてさしてくれんもんだと思ってついて来た筈だろう!” てね』」〔中略〕「帰り道、辛いやら情けないやらで涙ボロボロ出まして……」(高杉、1971年、23ページ)。それでも当時の家族たちは著者について行ったのである。ところが、註6でふれておいたように、著者が心理的原因論を唱えるようになった頃から、多くの家族が離反して行ったのである。
 また、誤解されることが多いようであるが、著者は入院を絶対に認めなかったわけではない。自傷他害の恐れが強いなど、いくつかの条件を満たす場合には入院させていたし、入院させるのであれば、このような病院にすべきだとして、17 項目にのぼる条件を明示しているからである(岡田、小坂、1970年、139-144ページ)。

参考文献

2019年8月16日
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