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 書評――3.『患者と家族のための精神分裂病理論』






『患者と家族のための精神分裂病理論』(珠真書房、1972/4/20 刊行)
小坂英世(著)
四六判、293 ページ

本書の位置づけ

 本書は、小坂英世(以下、著者)が、自ら「小坂理論」と名づけた、精神分裂病のための独自の心理療法理論を、世間一般に向けて初めて公開した著作です。誰も認めようとしませんが、というよりも、それ以前にほぼ完全に無視されているわけですが、本書の出版は、世界の精神医学史上でも最大級の転換点と言えるでしょう。著者は、それを専門家向けの論文や著書として発表するのではなく、患者や家族向けの実用書として世に問うたのです。これは、地域精神医療の実践者としての立ち位置を明確に打ち出したものなのかもしれませんが、それよりもむしろ著者の反骨精神のひとつの現われと見るべきなのでしょう。歴史を振り返ってみればわかりますが、重視されるのは発表された内容自体なのであって、それがどのような形で発表されたかは、本質的な問題ではないからです。

 版元は珠真(すま)書房で、前著(『精神分裂病の社会生活指導』)の編集を担当した後藤珠真子が、医学書院から独立して、文京区西片に興した出版社です。それまで後藤は、医学書院が発行する『保健婦雑誌』や『助産婦雑誌』の編集を担当しており、著者がこの2誌に記事を連載していた縁で、前書および本書の出版に至ったのでしょう。第2刷まで発行され、完売されている[註1]ので、当時の売れ行きは悪くなかったはずです。患者、家族や、地域で精神衛生活動をしていた保健婦[註2]が主な読者だったのではないかと思われます。本書は、通常の書籍の判型(四六判、ソフトカバー)ですが、まさしく実用書のように、一般の書籍としては異例の大きさの活字(10.5ポ=15Q)でゆったりと(13行X36字)組まれています。

 本書で説かれているのは、カバーの絵が示しているように、歪んだ母親と父親の影響がじわじわと、そこから逃れようのない子どもに及び、それが原因でいずれ分裂病を発病するという、非常にわかりやすい理論です。昨今では児童虐待としてよく知られていますが、自分の子どもに対して、かなり過酷な、場合によっては相当に異常な対応をする親がいるのはまちがいありません。分裂病の場合もそうで、その実例は、半年後に出版される『精神分裂病読本』(1972年、日本看護協会出版会)にはもちろん、後に終生にわたって著者を非難し続ける浜田晋の当時の日記(浜田、2001年、第V章)にも、たくさんとりあげられています。中には、信じがたいほど過酷な虐待もあります。ところが、当の患者自身が、親を嫌いながら親に依存するという、著者が “共生関係” [註3]と呼んだ特有の関係が、その一方で存在するのです。

 この段階の小坂理論は、昨今のトラウマ理論とほとんど同じ[註4]なので、受け入れられやすいはずの理論なのですが、現実にはそうではありませんでした。相手が分裂病となると、事情が根本から違ってくるためなのでしょう。クレペリン以来、脳内の何らかの異常を想定した “内因性”[註5]という形容詞が付されてきた分裂病が、著者の経験に基づく理論によれば、心因性の、しかも可逆的な疾患ということになって、従来のあらゆる理論と完全に対立するのです[註6]

 小坂理論の発展史の中で、本書で発表された大きな発見は、何よりも分裂病症状の原因となる “抑圧” の存在です。この発見によって、それまでの社会生活指導という生活規制に基づく治療法から、小坂理論という分裂病の心理療法理論へと大きく飛躍したわけです。これだけでも大変なことなのですが、著者は、それまで夢想だにされなかった方法論上の発見もしているのです。

 従来の精神医療や心理療法では、すべてが主観的な判断に基づいて行なわれてきました。そこで客観的な方法が使えるなどとは誰ひとり思っていなかったのに対して、著者は、“反応” という客観的指標が存在することを発見したのです。“抑圧された原因” を探る中で、身体的反応がくり返し観察された結果なのでした。それ以降、著者は、この反応を目印にして “抑圧” された事実を探り出すようになるのです。著者の原因論の当否とは別に、反応という現象が実在することはまちがいありません。これは、完全に再現性のある現象で、心理療法や精神医療の方法論上の大発見です[註7]。私自身も既に 40 年以上にわたって日常的に観察し続けてきたので、反応という現象の存在を否定することはもはや不可能です[註8]

 この心理療法については、著者自身が、「ほかに私と同じやり方の医師〔は〕いません」(175ページ)と明言していることからわかるように、本書が出版された1972年の時点ですら、この治療理論を正当に評価する専門家はほとんどいませんでした。ただし、本書に登場する専門家がひとりもいないわけではありません。理論の整理にいつも協力してもらっているという、著者の終生の相談相手であった河村高信(宇都宮大学教育大学教授)、小坂理論の追試を行なったという加藤勝也(名古屋大学医学部公衆衛生学教室助手)、小林ユキ子(調布市役所保健婦)、尾崎新(秋川病院ソーシャル・ワーカー、後の立教大学福祉学科教授。1948−2010年)の名前があげられているからです。

 他にも、患者や家族の教育の場である小坂教室で助手を務めていた井口勝督(かつただ。ソーシャルワーカー)が、本書にふたつの事例報告を寄せています。さらには、当時、この理論の有力な「理解者」であった浜田晋(東京都精神衛生センター副主幹。1926-2010年)も、この理論に沿った治療を行なったことが報告され、その所見が引用されているのです。しかしながら、治療に直接かかわりのない河村を除けば、理由はさまざまであるにせよ、いずれもまもなく著者から離れてしまいます。なお、生活臨床の発案者であった江熊要一(群馬大学医学部助教授。1924−1974)の名前も出てきますが、かつての同志としてであり、この時点では著者は生活臨床を批判する立場になっていました(229ページ)。

 この治療理論は、1961年以来、ほとんど「徒手空拳、相談という手段だけで何とかしなければならなかった」立場の医師だったおかげで開発された(21ページ)と著者は書いていますが、その通りなのでしょう。しかし、『市民の精神衛生』のレビューに書いておいたように、著者は、あえてそのような環境の中に自ら飛び込んだのです。意識的なものかどうかはともかくとしても、そこには明確な意図があったはずです。本書は、医学の中では、がんと並んで最も大きな謎であった精神分裂病という難治性の精神疾患が心理的原因によって起こるものであることを、その心理療法理論を通して、著者が初めて明らかにした[註9]という点で、精神医学という狭い分野にとどまらない、歴史的に重要な著作であることはまちがいありません。

 本書は、アマゾンや「日本の古本屋」などを通じて古書として入手することはできますが、国会図書館にも所蔵がないほどなので、本稿では、岡田靖雄の示唆(岡田、1998年、63ページ)に従って、内容紹介も含め、なるべく著者の言葉を使って詳しく説明することにします。

“抑圧” の発見と、それに続いて起こった出来事

 本書の冒頭で、著者は、栃木県で地域精神医療に邁進していた時代(1961−1964年)に経験した事例の紹介を含め、小坂療法が誕生するまでの経過を簡単に振り返っています。人権擁護という立場で活動していた著者は、事前に手を打てば入院させずともすむ患者がたくさんいるはずだと考えていました。そして、在宅の未治療、放置患者と実際に接してみると、症状はあるものの、「労働能力と社会人としての節度」がそれなりに保たれていることを発見するのです。一方、病院に勤めている近寄りがたい医師たちと違って、地域に住む人々の中へ自ら入り込んでいた著者には、「財産の分与、受験に失敗とか縁談の破断などという “できごと” によって患者が初発あるいは再発した」などの話を率直にしてくれる人たちがたくさんいたのです。

 冒頭で引用されている事例の多くは、そうした逸話が重要なヒントとなり、日常生活の中で起こる出来事に注目した結果として掘り当てられたものです。それらの事例は、『市民の精神衛生』および『精神分裂病の社会生活指導』のレビューにいくつか紹介しておいたので、関心のある方は参照してください。それまでの著者は、たとえば腕時計を紛失して再発した患者であれば、腕時計を買い与えることで症状を消去させるなど、再発後に具体的な解決策を与えるという対応法をとっていたわけですが、そうした解決策がとれる事例ばかりではないことが、まもなく明らかになります。そうこうするうち、著者は、患者が自らを再発に至らしめた出来事を記憶していないという事実に着目するようになります(13−14ページ)。1970年に入ってからのことでした。

 そこで、忘れ去っていた出来事を患者に思い出させてみると、患者や家族のみならず、著者自身も驚くほどの治療効果が得られたのです。具体的な解決策は不要だったことになります[註10]。これは、フロイトが神経症の患者で発見した仕組みと全く同じものでした。そのため著者は、精神分析を強く批判する立場に既に立っていたにもかかわらず、フロイトに敬意を表し、分裂病の患者が心理的原因を忘れ去る仕組みに、精神分析用語である “抑圧” という言葉を当てたのでした。この時点で、生活臨床グループと完全に袂を分かった著者は、「再発しても抑圧の解除を行なえば、大量のクスリも入院も不必要であり、再発に対する心理的解決のなかで患者を教育していく――という今日の私の治療法の原型」に到達したのです(14ページ)。くり返しになりますが、これは、ひとことで片づけることはとうていできない、まさしく革命的な大発見でした。

 もうひとつ革命的だったのは、それまでの治療者の役割を、家族や患者自身に与えようとしたことです。このような着想は、浦河べてるの家で患者自身が行なう “当事者研究” まで、事実上存在しませんでした。ただし、著者の方法のほうが、症状の原因探究に焦点を絞っているという点やその追及の厳しさという点で、当事者研究をはるかにしのいでいます。

 しばらくの間は、私はこの方法の快刀乱麻の切れ味に酔っていました。患者が忘れ去ってしまっているキッカケとなったできごとをさがしあてるのには難渋しましたが、その苦労とても、一瞬にして症状の消失する効果[註11]を目前にしては、どこかに飛んでしまうのでした。〔中略〕
 そのうち私は、快刀乱麻の酔いからさめて反省しました。こんなに簡単な手つづきなら、患者の家族にもできるはずだし、やらせるべきだ――しかも患者を再発させた(忘れ去られた)できごとは、私よりも同居家族の方こそ、知っているはずだし、推理できなくてはならないのだから――この方法をさらに進めて、患者自身ができごとを想い出し、自分で自分を治療できるようにしなければ……というふうにです。そこでそれまで行なっていた家族教育、患者教育にさらに力を入れるようになりました。(14−15ページ)

 1971年2月、犬にかまれて発病したという先の事例をある少年患者に聞かせたところ、この少年が顔色を変えて反応するという出来事に遭遇します。この少年も数年前に同じような体験をしていたのだそうですが、それを完全に忘れていたのでした。抑圧が起こっていたことになりますが、すぐには発病していなかったのです。この経験から著者は、発病前にも抑圧が起きていて、その積み重ねが分裂病の発病につながるのではないか、と考えるようになります。なおこの少年は、帰宅後に激しい薬の副作用を起こしたため、投薬量を数分の1にまで減らさなければなりませんでした。そのことから、幼少期に起こった抑圧の解除が、治療を進めるうえで大きな意味をもっているのではないかという着想が生まれるのです(16−17ページ)。

 幼少期の抑圧の解除に着手し、それに成功し始めるとまもなく、新たな疑問が浮上しました。幼少期の抑圧体験にも弱点のようなものがあるはずなのに、それが見つからないことでした。しばらくして、それは “親の心理的にむごい仕打ち” であることが判明しました。その結果、「分裂病患者の親たちがもっている “いやらしさ” の根元」と、「患者が親に示す敵意の源泉」もわかってきたのです(17ページ)。ところが、幼少期の抑圧が “親の仕打ち” という点で共通しているのはよいとしても、再発の場合の抑圧に共通して見られる “弱点とそれを衝くできごと” とどのように関係しているのかがはっきりしませんでした。しばらくしてわかってみると、それも “親の仕打ち” なのでした。患者は再発の直前に、親に援助を求め、相談する[註12]のですが、そこで親は、幼少期の場合と同じような「むごい仕打ち」をしていることがわかったのです(18ページ)。できごとも弱点も、そのこと自体が問題なわけではなかったということです。

 その心理療法理論が、抑圧の解除を最近の再発から始め、それを幼少期の抑圧にまで遡る必要があるという形に整えられたのは、1971年の初秋のことでした(19ページ)。ところが、理論がここまで整理されたこの頃から、さまざまな問題が発生するようになりました。治療理論を体得したはずの患者たちが、社会人としては通用しない言動をしたり、治療への抵抗を示したりするようになったのです。まもなく、何人かの患者が家出するようになりました。幼少期の抑圧を解除し、親が加害者であることを知った今では、もはや一緒に生活することはできないというのです。その主張に動かされた著者は、後見人や保証人という立場をとり、患者たちの自立の後押しをするようになります。

患者と家族のための精神分裂病理論 グリーンコーポ

 こうして家出した、あるいは家出を準備している患者を見まもっているうちに私は、いくつかのことに気づかされました。第一にあげられるのは、社会人としては通用しにくいもちあじがこれまでよりも前面に出てきたことです。第二には、このようなときに自分独りの責任においてくずれると、イヤラシイ疾病への逃避を示してきたことです。第三には、あれだけ親を憎み、恨んでいながら、いっぽうでは親に依存してしまう共生傾向を示してきたことです。第四には、主治医であり、後見人、保証人でもある私の利用法が、まことに下手であり、信頼関係を裏切るものだったことです。(20ページ)

 この時を境に、小坂療法の “効果” が、それまでとは質的に異なってきたことがわかります。患者が心理的原因を抑圧していることが発見され、抑圧の解除を治療法の中心に据えた時点で、患者がいわば本性を現わすようになったわけですが、それとともに、家族の大半も著者から離れて行ったのです[註13]。そのことに関連して、著者は、「ある事情を機会に昭和四十六年十一月、私は診療行為を中止することにしました」(21ページ)と述べています。そして、患者と家族にこの治療理論を教えることに専念する医師になるのです。

 ここで述べられている「ある事情」とは、1971年10月に起こった事件を指しています。著者への確固たる信頼のもとに形成されていたはずの「東京あけぼの会」という家族会が、不可思議きわまりない経過で著者から離反して行ったのです。その会長自らが、小坂療法の劇的効果を目の当たりにしながら、わずかその4ヵ月後に、著者から完全に離反してしまうのです[註14]。長年、慢性状態にあった重症の分裂病患者である妹が、36 年前の出来事を2晩にわたって物語った結果、その状態から抜け出したのです。しかも、それまでの抗精神病薬では強い副作用が出るようになったため、抗不安薬だけですむようになったという劇的な経験をしていたのでした(小坂、1971年)。このあたりの経過については、『精神分裂病の社会生活指導』のレビューの註6でもふれておいたので、関心のある方は参照してください。

 このようにして小坂診療所を廃止した著者は、1971年11月に、患者と家族の教育のための小坂教室を開室します。最初は、小坂診療所の建物をそのまま使っていました(本書出版の時点ではここでした)が、翌年3月1日に、上北沢4丁目にある甲州街道に面したマンションに移ります(上図参照)。1980年頃に秦野市東田原に移るまで、著者はここで患者や家族の教育に当たっていたのです。

本書の構成

患者と家族のための精神分裂病理論 目次 1  目次を見るとわかるでしょうが、本書は、簡単に言えば、「分裂病に到る道」と「分裂病を脱する道」というふたつのセクションを中心に展開されており、それに補足を付した構成になっています。心理療法や精神医療のふつうの本と違って、原因論が最初に置かれているのが大きな特徴です。これは、説明のしやすさという理由によるところもあるでしょうが、それよりむしろ著者の自信の現われと見るべきでしょう。この点では、原則として、親の対応が原因ということになっていましたから、分裂病の親の特性の説明から始まっています。この特性を、皮肉を込めて著者は “分裂病患者の親のもちあじ” と呼び、以下に示すように非常に具体的に表現しています(29−32ページ)。これは、多数の家族と深く接触する経験を長く積まないと、とうていわからないものでしょう。

 本節では、分裂病に至る道について、著者の説明にできる限り忠実に説明します。必要な方は、本書を入手してぜひ読んでみてください。

(1)対人関係の上で示される共通の傾向

(2)ものごとの処理の上で示される共通の傾向  こうした親のもちあじは、似たもの夫婦と言われるような表面的な類似点でもなければ、片方の親にしか見られないわけでもありません。「片親の方がより積極的にもちあじによる家族支配体制を打ち出し、もう片方の親がやはりそのもちあじの故に、それに協力し、足らぬところをさらにおぎなうという形で、もちあじによる支配体制をより固いものにしている」のです。両親の組み合わせには、次のふた通りがあります(33ページ)。

 実際には、後者の組み合わせのほうがはるかに多いそうです。この場合、父親は、家にいたとしても実際にはいないも同然で、たまに何か主張したとしても、もちあじを発揮するだけなので、もちあじによる支配がかえって強められてしまいます。患者の幼時に、父親が別居していたり死去していたりといった、よく見られる家族構成もここに含まれます。

 親のもちあじは、次のような形で発揮されます。これは、昨今の児童虐待の問題にも直結しそうな、きわめて重要な指摘と言えるでしょう。以下、発病するまでの患者を「子ども」と表記します。

 これらの行動特性は、具体的には次のような形をとって現われ、子どもに深刻な打撃を与えることになります。

(1)親⇒子供――これは、親が子どもに対して、直接に心ない、むごい、冷たい、一方的な仕打ちをするものです。

(2)他人⇒子ども⇔親――これは子どもが、保母、教師、よその大人、いじめっ子などの他人からひどい仕打ちを受けたため、親に慰めや励まし、手助け、仕返しなどを求めたにもかかわらず、それを無視したり、気づかなかったりしたため、子どもにひどい仕打ちをしたのと同じ結果になるものです。それは、たとえば次のような場合です。 患者と家族のための精神分裂病理論 目次 2  かくして、幼い頃に親からひどい仕打ちを受けた子どもは、「胸のうちに抱いているにはあまりにも不愉快であり、つらい親の仕打ち」を忘れてしまう以外にありません。“意識下” に封じこめてしまうということです。「そうでもしなければ、心理的に破綻をきたしてしまう」からです。これが、フロイトの言った抑圧という現象です。この抑圧という心の仕組みが、分裂病の場合大きな役割を演ずるのです(40−41ページ)。

 この抑圧は、1回にとどまるものではありません。親は子どもに対して、むごい仕打ちを容赦なく続けるため、子どもの側は、そのつど抑圧することになるわけです(42ページ)。抑圧の結果、夜尿やチックなどの心身症的な症状や、神経症的な症状、登園(登校)拒否などの行動上の問題が出現します[註15]。また、抑圧は、何度も繰り返していると習慣化してくるという特性をもっています。

 抑圧のためはっきりしたものではありませんが、子どもは自分の親を、実の親ではないのではないかと考えるようになります。多くの子どもが、親を指して、「この人、あの人、うちの人」と呼ぶようになるのはそのためです。「お父さん、お母さん」と呼ばなくなる子どももいます。そして、このような親から早く離れて生活したいと思うようになるのです(44−45ページ)。

 親から早く離れたいと願う子どもは、「若い身空で独り、この世の荒波を泳ぎきるために必要な資質」を求めるようになります。それは、金銭的な裏づけであり、学歴、資格、実力であり、容貌、スタイルであり健全な肉体です。また、結婚やその前段階としての恋愛も、親元を離れるきっかけや口実として使われます。それは子どもにとって独立のための拠りどころなのですが、あまりに大きな賭けでもあるため、いずれは弱点に転化する可能性を秘めています。健全な肉体を拠りどころにする人たちは、幼少期に大きな病気やけがや手術を経験していることが多いようです(45−49ページ)。ここで著者は、患者の弱点が形成される原因を推定しているわけです。

 後年、著者は、患者に共通して見られるこうした特性を、“天動説的” という形容詞を使って表現するようになります。すべてが自分を中心に回っているという意味です。そして、この深刻な欠陥を克服できた時が、分裂病が完全に治癒した状態だと考えるようになるのです。

 親からむごい仕打ちを続けて受けるのは悲劇ですが、そのような親に育てられ、ともに生活するうちに、その親のもちあじを知らず知らず身に着けてしまいます。これが第2の悲劇です。そうした子どもが他人と接すると、違和感を覚えるため、自分と同質の親のほうに親近感を感ずることになります。親の側も、抑圧の結果として目立った反抗を見せない子どもに親近感を抱くようになるため、ここに親子の共生関係が成立します。この共生関係は驚くほど強固なもので、これが第3の悲劇となるのです(47−49ページ)。これが、著者の考えた共生関係の起源です。

 この場合、子どもの傷を癒してくれる存在を、保母や教師、先輩、友人の中から見つければよいのですが、既に身についてしまっているもちあじのために、他人から見ると、“可愛気のない、面倒の見がいのない、つきあいがいのない” 人間になっています。そのため、相手から敬遠される結果になるわけです。子どもの側も、親と共生関係が成立しているため、親を相談相手に選びます。その結果として、成人に達してからも、親にぐちをこぼし、相談をもちかけ、助言を求めるのです。こうして子どもは、人生のうちで最も有意義な幼少期を、本当の相談相手がいないままにすごすことになります。これが第4の悲劇です(49ページ)。

 たいていの場合は、思春期以降のことですが、子どもを動揺させる一連の出来事が襲いかかります。これは、他人からのこともあれば、親からのこともあります。その出来事は、拠りどころに関係したものが多く、子どものもちあじのため、解決は難しくなります。困った子どもは、親に相談をもちかけることになりますが、親は、それを無視するかそれに気づきません。子どもは、他に相談相手がいないため次第に追いつめられて行きます。

 そのため子どもは、独りでその苦境に耐え、何とか切り抜けようとして拠りどころにすがろうとします。ところが、もちあじのため、解決策が見つからず、抑圧も起こり始めて、ますます不利な状態に陥って行きます。そして難問への対応困難が追い打ちとなり、ついに症状を出すまでになります。これが分裂病の初発です。このように初発は、出来事が連続して起こることによって次第に病的状態に追い込まれる形をとります。その点が、一撃で崩れる再発と異なるところです(50−51ページ)。

 初発や再発をした後には不安定感が残りますが、それを拭い去るため、さらには不信感が強くなった親からの独立を急ぐため、患者は、拠りどころにますますすがるようになります。そのすがりかたが極端なため、拠りどころは露骨な “イヤラシサ” として他人の目に映るようになりますが、そればかりではありません。それまでの拠りどころは、少しでも突かれると大きく動揺してしまう弱点に転化してしまうのです(55ページ)。

 初発の急性症状が治まってしばらくすると、再発が起こります。再発の原因は、出来事と患者の問題点に加えて、親の問題点も関係しています。再発を起こしやすい出来事には、次のようなものがあります。

   (1)再発に関連する出来事

 出来事は、それだけでは再発の原因にはなりません。患者のもちあじを大きく揺さぶるものでなければならないわけです。最も多く見られるのは、患者の拠りどころ、すなわち弱点を鋭く突く出来事です。それは、出来事と症状出現の時間的関係から、過去形、継続形、未来形、想起形の4型に分けることができます。

(イ)過去形の出来事――症状出現の数分から数時間前に起こった出来事

 この場合、抑圧か完全に起こっています。内容的には、生活臨床で言われてきたものとほとんど同じですが、単なる発症のきっかけではなく、その抑圧を解除すれば症状が一瞬のうちに消えるとしている点で、生活臨床とは完全に一線を画しているわけです。これには、次のようなものがあります(58−60ページ)。

(ロ)未来形の出来事――数日後、十数日後に控えている出来事。

 この場合、抑圧の程度は軽く、不安定感は期日が近づくにつれて大きくなります。その当日をぶじに通過すると治まりますが、無事にすまなかった場合には、一転して過去形や継続形に移行します。これは非分裂病者にもある予期不安の一種と考えることができます(61ページ)[註16]

(ハ)継続形の出来事――絶えず患者に刺激を与え続けるもの

 資格や容貌についてのひけ目、身体上の損害[註17]、謝罪できない場合などで、抑圧は不完全です。それを刺激された時には、一転して過去形となります。

(ニ)想起形の出来事――全くの偶然から過去の抑圧体験がよみがえった場合

 この場合、偶発的に過去の抑圧が解除されたことになります。自分の問題点や親の問題点を知って嫌悪や怒りを感じますが、もちあじのため、自力では整理することができません。また、親のほうも、自らのもちあじのために対応しきれません。そのため反応が起こり、興奮にまで高まってしまうわけです。(60−62ページ)

   (2)患者の問題点

 患者の問題点のため、上記のような出来事がきっかけとなって再発するわけですが、再発に至るまでの条件や経過をあらためて整理すると、次のようになります。(1)出来事が再発のきっかけとなるには、もちあじと拠りどころ、弱点が関係していること、(2)患者は相談相手として不適格な親に、共生関係から相談をもちかけてしまうこと、(3)多くの場合、ひとことかふたこと、SOSとはとても思われない形で話すこと、(4)ほかに相談相手はいないこと。このような要因が重なった結果、抑圧が起こり症状の再発に至るということです。

   (3)親の問題点

 患者は患者なりの救難信号を発しているのですが、はっきりしないものであることも手伝って、親は、それを無視したり、それに気づかなかったり、聞き流したり、あるいは聞いたとしても、自分の意見を押しつけたり、見当違いの説教をしたりします。幼少期や初発期の場合と同じような対応をすることで、患者を失望、落胆させ、再び抑圧へと追いやるのです。ただし、親がいないところで再発した場合には。その時点で同居していた同胞や配偶者に置き換えて考える必要があります(62−64ページ)。

 このように、著者は患者を、あくまで親の被害者と考えていました。その点は、かなり徹底していたのです。ところが、ここにもあるように、親のいないところで再発したり、後述するイヤラシイ再発を起こしたりした患者と接するようになると、少しずつ本人の責任を重視する姿勢に変わって行くのです。著者が、患者の責任を中心にした原因論を展開するようになるには、もうしばらくの時間が必要でした。

 ここで、同胞や配偶者についてふれておくと、特に年長の同胞の場合には、親に加担していることが多く、結婚してから初発した事例や結婚後に再発を繰り返した事例の場合には、配偶者が親と似たもちあじを発揮している場合が多いようです(67ぺージ)。

治療の実際――小坂療法の4本の柱

患者と家族のための精神分裂病理論 目次 3  著者は、“心が痛み、努力を要する” ものであるため、この治療法は万人向きではないことを明言しています(22ページ)。経験的に導き出された原因論に基づいているため、分裂病なら誰にでも当てはまるのはまちがいないとはいえ、苦痛を伴うため、それを嫌う者には向いていないということです。自分の治療法を患者や家族にやみくもに押しつけるのではなく、自らが選択すべきものであることをここで謳っているわけです。これも、オリジナリティを尊重する著者が、人権を重視することから出発し、徒手空拳の状態で独自に積み重ねてきた経験を通じて得た、真の自信の現われと見ることができるでしょう。

 小坂療法は、(1)抑圧の解除、(2)もちあじの解消、(3)共生関係の打破、(4)相談相手の選定という4本の柱で構成されています。つまり、抑圧が解除され、もちあじの解消が進んだ段階で、実家から出て経済的、心理的に自立するということです。それによって親との共生関係を断つわけですが、その際に、適切な相談相手が必要になるという意味です。これは、相談相手の要不要を別にして、いわゆる定型発達を遂げたもの者であれば、多くの場合、誰に言われずとも自然にできていることです。逆に言えば、ここまでできれば、分裂病が完治したことになるわけです[註18]。以下、著者の記述に従って、4本の柱について順に説明します。これは、著者の主張に従って解説したものなので、全面的に正しいということではありませんし、この説明に従って簡単に治療ができると即断しないようにしてください。

 この治療法を進めるためには、「なぜ」という精神が重要です。それとともに、患者と家族の双方が、自己批判及び相互批判によって変革して行かなければならないのです(147ページ)。

1.抑圧の解除

 抑圧の解除とは、「苦痛・不愉快であるあまりに忘れ去っていたことを、思い出させる」ことです。それに成功すると、「患者の具合がただちによくなります。つまり抑圧の結果として起きていた分裂病性反応――この場合は再発――が、抑圧を解除することによって、非常なスピードで消失していく」わけです。したがって、抑圧解除こそ、分裂病症状を消す決定打であり、「治療の第一着手」ということになります(91ページ)。抑圧解除は、患者と生活をともにしている家族が主役となって、次のような手順で行ないます。

2.もちあじの解消

 患者のもちあじは親のもちあじを見習ったものなので、同質ではあるが、患者は、自分は病人だという隠れ蓑にすがっているため、かえっていやらしさが目立つ。それは、次のような点である。  このようなもちあじは、抑圧解除をすると露骨に現われるようになります。もちあじをそのまま放置すれば、再発のもとになりますし、いやらしい疾病への逃避のもとになるばかりか、共生関係を増幅させるため、社会人として失格になってしまいます。患者のもちあじを解消する際には、次のような手順や条件が重要になります。

3.共生関係の打破

 共生関係を打破することは、治療に対する抵抗や、相談相手の不在、家出についてのためらい、もちあじの温存など、治療の妨げとなるものをとり除くために必要です。そのためには、  しかしながら、共生関係の打破が非常に難しいのは事実です。

4.相談相手の選定

 この治療法は、患者と親だけで進めるのが理想ですが、両者ともそのもちあじのために、それを適切に進めることができません。そこで、相談相手が必要になるわけです。ところが、親子とも、相談相手の活用が難しいという欠点をもっています。抑圧が解除されて症状が軽くなると、その問題がかえって目立ってきます。しかも、もちあじの解消、共生関係の打破、家出と進むにつれてさらに目立つようになるのです。

 相談相手は、何も知らない専門家よりも、この理論通りにふるまえる素人がいれば、そのほうがはるかによいでしょう。もうひとつ重要なのは、患者が、何をどういう時に相談するかという問題です(144−146ページ)。

 この治療法では、家族から離れ、独立、自活することがゴールになっています。抑圧を解除すると、親が自分の病気の源であったという事実を認めざるをえなくなります。いくら謝罪されても、そのうらみが消えることはありません。親たちの側も、自己変革したといっても一時的な場合が多く、すぐに地が出てきます。そのため、親と別れれば、その怨念を乗り越えることができるのです。

 ただし、実際に患者が家出をすると、そのもちあじはさらに強く発揮される傾向があります。それは、もちあじが、「自分で責任をとらなくてはならないような場面で、強くあらわれる性質をもっている」必然的な結果です。しかしながらそれは、もちあじを解消させるためにはかえって好都合です。その際に重要な役割を演ずるのが、相談相手なのです。

 家出は、共生関係を打破する第一歩でもあります。ところが、実際に家出をしてみると、親に対するうらみは忘れ去られ、家が懐かしく感じられる傾向があり、そこで歯止めをかけるのも相談相手の役割なのです。

 家出をしたものの、もちあじに基づく無節操や共生関係の再燃、相談相手の選定や活用の誤りのために挫折し、家出を中止してしまうことがあります。実家に戻るのであれば、自己批判をしてからにすべきです。そのことが、もちあじの解消や共生関係を打破するための絶好に機会になるからです。

 時にはつらさのあまり、「イヤラシイ疾病への逃避」を図る患者も出てきます。人間は成人に達したら親から独立するのは当然です。にもかかわらず、分裂病となり、この治療を受けながら家出できない患者や家族は、そのことを深く反省しなければなりません。(148−154ページ)

抑圧解除の実例

患者と家族のための精神分裂病理論 目次 4  再発の抑圧解除は最近のものから行ないます。初発の場合は、出来事が追い打ちのように積み重なっているので、熟達者でもその抑圧を解除するのは難しいからです。ここでは、大学4年の女子学生(K子)と 28 歳の未婚女性(N子)の抑圧解除の実際を簡単に紹介します。

【K子の再発の事例】原因探しは、ふつう家族がすることになっているわけですが、K子がしっかりしていたため、著者はK子自身にさせることにしました。それは、この時の再発が屋外で起こったものであるため、原因に関係する出来事が本人にしかわからないからであり、K子が小坂理論を学んでいるため、記憶が再生できるかもしれないと考えたからでした。症状が出る直前にあった出来事を質して行くと、学内で開かれていた講演会を友人たちと聞いていたことが判明しました。その中で見た中に、「感情がよくとらえられている」と感心させられたスライドがあったのだそうです。そして、その直後から被害関係妄想が始まっていたのでした。K子は、このスライドについて次のように説明しました。なお、この事例は、全体がK子による手記で構成されています(74−80ページ)。

 心うたれたスライドは四、五才の男の子が泣いていて、その子に向かって父親が、いかにも愛情にあふれた様子のほほえみを浮かべながら手をまわして、ほほずりをしながら、ドウシタノダイと問いかけている情景をうつしたものであったことを〔著者に説明しました〕。
 しかし、そう説明しながら、私はそれが何を意味しているのかが、自分ではさっぱり判りませんでした。
 そのとき先生は、“父親” というコトバを聞いたとき、姿勢を改めました。そしだそれだなと言って私の方を直視しました。“それが、貴女の望んでいた父性像だったのだな”。
 この先生の言葉を聞くや否や、私はハッとそのときの自分の心理状態に思いあたり、ビクッとして声も出ませんでした。同時にとめどなく涙があふれてきて、とまりませんでした。そして涙を流しながらうなずきました。まったくそうだったのでした。(81ページ)

 著者の指摘は、出来事を思い出しただけでは変化が起こらない時に必要な「解釈」に当たります。K子は、その時には無我夢中でわからなかったそうですが、まもなく、それまでの妄想が消えていることに気づきます(81ページ)。この時の再発の原因について、後にK子がまとめた長文の手記から一部を引用します。

 私は幼いときから、父に対して心なじめないものを感じつづけてきました。その思いが暖かい父子関係を示すスライドを見たときに、私を刺戟してしまったのであり、“自分が可哀想” なあまりにそのことを忘れてしまっていたのでした。
 しかし今では、自分を “可哀想” がるなどという状態を早く脱しなければ、早くオトナにならなければ、と自己批判しています(82ページ)

 K子は、自らの自己憐憫傾向を自己批判しています。この自分をひどくかわいそうがる傾向も、分裂病患者に遍く見られる大きな特徴です。次の事例も、そうした傾向がうかがわれるもので、井口ソーシャル・ワーカーが報告したものです。

【N子の再発の事例】N子は、姉夫婦の家に同居している 28歳 の未婚の女性で、井口による個人面接と小坂教室の出席によって治療を進めていました。最後に再発したのは1971年で、いとこの結婚式へ向かう車の中で始まったものです。N子は、自分の家を代表するただひとりの出席者でした。N子の話によれば、式の1週間ほど前から不眠が始まったということでしたが、結婚式の記憶は残っているそうです。2週間後に小坂教室に出席しましたが、その時にも特に進展はありませんでした。

 その翌日、井口は、N子からの電話で、招待状が届いていたことをすっかり忘れていた、という報告を受けました。それが原因だというのです。N子によれば、挙式のことは知っていたそうですが、招待状を見たことで現実感が高まり、その夜から不眠が始まったということでした。このことを思い出したら眠けが強くなったという訴えがあったため、本人の判断で薬を減量させています。

 5日後に聞いた姉の話では、変化が起こったのはまちがいないが、まだ不十分な感じがするということでした。その後、N子が書いた手記によると、姉のところに招待状が届いたことを聞いた時には、何の変化も起こらなかったそうです。ところが、前に住んでいた家に行き、そこに届いていた招待状を見た時、「ギクリ」としたというのです。招待状は、分厚い封筒に入っており、寿の朱の封がしてありました。「いかにも結婚式の招待状らしく立派な手紙が自分宛に届いている」。自分の名前で結婚式の招待状が届いたのは、これが初めてのことでした。

 井口は、N子にギクリとした理由を問い質しましたが、はっきりしませんでした。そこで、式が現実的になった感じがしたためなのか、それとも出席が嫌だったためなのかを自分で考えるように指示して、小坂教室への出席を勧めました。1週間後、小坂教室で、そのふたつの指摘をあらためてしたのですが、反応はありませんでした。そこで著者が、「はなやかなシールの色があてつけがましいという感じはしなかったかい」と尋ねると、「はじめて彼女は大きくうなずき、『その表現が一番ピッタリする』と答えました。同時に顔から、あのさびしげなかげりが消えていきました」(83−89ページ)。10日後に持参した手記には、次のように書かれていました。

 イトコのA子さんの結婚式の招待状を取りに夕方以前住んでいた家に取りに行く。誰も住んでいない家の中は暗くシャッターをあけるとそこに招待状があった。いかにも結婚式の招待状らしく封をしてある所に寿の赤いシールが貼ってあった。
 私はこの招待状を見つけた時ギクリとした。母の死後一年もたっていない私宛の、その華やかな招待状は、自分への当てつけのような気がした。(89−90ページ)

 著者が、「あてつけがましい」という解釈を聞かせたところ、N子は「その表現が一番ピッタリする」と答え、それによって症状が大幅に軽快したのは事実のようですが、自己憐憫的な受けとりかたは改めなければなりません。それができないと、親との共生関係を断つことはできないからです。したがって、もしこの原因が正しければ、解消すべきもちあじとの間にずれがあることになります。この問題が解決されるには、翌年まで待たなければなりませんでした。

 抑圧は回を重ねるにつれて、より簡単に起こるようになります。それは、抑圧が習慣化するからであり、もちあじが次第に助長されるからであり、拠りどころが次第に弱点に転化し、そこを突かれると簡単に崩れるようになるからです。初発は、さまざまな手を打ったにもかかわらず、それらがことごとく失敗したため、最後の手段として “疾病への逃避” を選んだ結果として起こったものであるのに対して、再発はそうではありません。「いったんこの味をおぼえる」と、初発の時とは異なり、疾病への逃避を簡単に起こすようになるのです[註20]。それは、「もちあじを守るためにも、共生関係の破綻をまぬがれるためにも必要」なことだからです(65−66ページ)。

 ここで著者は重要な発言をしています。いったん発病すると、分裂病の世界や病院は自分にとって居心地のよいことがわかったため、初発以降は、そこに戻ろうとする意志が強く働くようになっており、しかもそれは、従来通りの生活を続けるうえで必要だというのです。そうすると、初発以降の患者たちは、分裂病という最も重症とされる精神疾患を利用していることになります。浦河べてるの家に住むある女性は、著者のこの発言を裏づけるかのように、次のように述べています。

 苦労の多い現実の世界では自分の居場所を失い、具体的な人とのつながりが見えなくなると、「幻聴の世界」は、どこよりも実感のこもった住み心地のいい刺激に満ちた「現実」になる。それは、つらい、抜け出したい現実ではあっても、何ものにも代えがたく、抜け出しにくい「事実」の世界だった。(浦河べてるの家、2005年、106ページ)

 また、別の女性は、幻聴がやわらいだ時に、「幻聴にすら見捨てられたさびしさで、身体にボッカリと穴が空いたような」感じになり、その「空虚さ」を埋め合わせるためにアルコールに浸り、買い物に夢中になったそうです(同書、97ページ)。親に暴力を振るっていたある男性も、「子どもの暴力によってなんでも言うことをきく奴隷化した親、父親に提供させたパソコンとオンラインゲーム、より引きこもりに適してなおかつ快適な空間としての精神病院、また将来の不安などのストレスに曝されたときに飲む強力で便利なクスリ」と、実に率直に語っています(207ページ)。こうした発言が事実であれば、これまで世界中で行なわれてきた、あるいは現在行なわれている精神科医療とは、いったい何なのでしょうか。

初発の解決

 初発の抑圧解除は、それまでの再発を解決した後に着手することになります。本書には、その実例が、井口ソーシャル・ワーカーの報告による1例しか掲載されていないので、その事例を紹介することになります。この事例には、当時、都立精神衛生センターの副主幹を務めていた浜田晋が初診時からしばらく関与しているので、その点でも興味深いと思います。以下、井口による報告をもとに紹介します(190−207ページ)。

【S子の初発の事例】この事例は、1971年春の小坂理論から見ても、非常に不十分な接触しかできなかった。あえてこの事例を発表するのは、(1)「小坂理論に関心をもちながらも独自の治療方法を追及されている浜田医師によっても小坂理論による成功症例であることが認められた」こと、(2)治療効果の指標であるクスリの減量が短期間のうちに行なわれたこと、(3)制約のある保健所で扱われた事例であること、といった理由からである。

 1971年年3月30日に保健所に来所した母親によれば、娘のS子は 22 歳の未婚の女性で、前年末に会社を退職した後、本年1月末に友人の紹介である会社に勤めたが、半年で退職している。3月初めからバーのホステスとして働き始めたが、3月中旬から軽い不眠が起こっている。数日前から、姉に対する被害妄想が出現し、28 日には叔母の家に行き、自殺したいと口走った。

 母親からは、次の事実が明らかにされた。(1)前年 11 月に会社を退職したのは、同僚のTにふられたことが原因らしいこと、(2)数日前に、同居している1歳違いの姉に、Tと同姓の男性から電話がかかってきたこと。姉はその男性に心当たりはないと言っていたが、翌々日、姉の友人のTであることがわかった。母親によれば、この電話の件があって以降、S子の様子が目立っておかしくなったという。

 その日の午後、浜田医師の診察を受けるべく保健所を訪れたS子は、「表情はかたく、無言で緊張しきった表情」であった。浜田とともに、Tという男性の電話の件を指摘したが拒絶された。4月1日に自宅を訪問し、同じ指摘をしたところ、しばらく沈黙した後、少しずつ話すようになった。昨年 10 月、Tの母親が死亡し、通夜に行こうとしたらTから断られたものの、友人に促がされて出席した。その後、Tのもとへ女性から電話が入ったりしたため、自分から遠ざかった。Tが、11 月から同じ部屋に異動してきたので、つらくなって退職した。

 3月 25 日、Tという名前の男性から姉に電話が入り、姉が留守だったため母親が受けた。翌日の朝、母親は姉にその話をしたが、姉は心当たりがないとのことであった。その翌日、もう一度Tという男性から電話が入った。その時、姉の友人であることがわかってがっかりした。S子はTに未練があるという。井口は、それが今回の不調の原因ではないかと指摘したところ、S子は、一瞬、顔をそらせたが、やがてかすかな声で、「それが原因です」と答えて眼を閉じた。

 翌日の4月2日、電話で連絡してみると、「私、S子です。どうもご心配かけました。おかげさまで元気になりました」という言葉が返ってきた。それまでのか細い声とは別人のように、つやのある澄んだ声であった。その翌日には、食事も元気にするようになり、編み物をしたりテレビを見たりするようにもなった。薬の副作用が強くなったため、翌日の来所のおりに減量してもらうことにした。当日、浜田医師が対応し、その出来事のために動揺してこうなったのではないかと指摘すると、いちおうは認め、表情も明るくなった。

 4月 11 日、来所したS子を診察した浜田は、「全くみちがえるよう。化粧してきれい。経過良好」と記している。この日、S子が持参した手記には、「客の応対の仕方を見ていると水商売ははじめてではないだろう」と同僚から言われたことや、客との応対に悩んで少々不安定になったことが記されていた。4月 18 日に来所した際の浜田の記録には、「完全な寛解!〔中略〕目ばりを入れておしゃれ」と明記されている。抗精神病薬は、クロルプロマジン 12.5 ミリに減量された。

 井口は、本例の対応を反省して、次のようにまとめています。(1)治療者側が請け負い的に治療を進めるという従来的な対応に終始したこと、(2)最後の電話の件のみを重視し、前年の秋以来の一連の出来事や本人の心の動きを明らかにしなかったこと、(3)それぞれの場面で家族が果たした役割をはっきりさせなかったこと、(4)各場面での本人のもちあじが指摘されなかったこと(206-209ページ)。

 著者によれば、分裂病の初発は、あるテーマに従って、半年から1年半ほどの間に一連の打撃がくり返され、最後にダウンするという経過をとるわけですが、本例でも、そうした経過がおぼろげながら浮かび上がっています。井口は、最後の電話の件に重きを置き過ぎたことを反省していますが、その件でについても、心理的な因果関係がはっきりしているわけではありません。かつての恋人と同姓の男性から姉に電話が入ったことを聞き知ったことから、その男性に対する未練を思い起こして発病したという経過のようですが、思い起こしたことが本当に最後の打撃になったのかどうかが、いまひとつ明確ではないからです。

 とはいえ、本例は、後に著者を批判し続けることになる浜田晋が、小坂療法の効果をまのあたりにして、それを率直に認めていたという意味で、重要な事例ということができるでしょう。

イヤラシイ(意識的な)疾病への逃避

 治療がある程度の段階まで進んだ患者が、多くは独立自活している中で、自分の不手際から対応の難しい問題に直面した時、“イヤラシイ” 疾病への逃避をして、症状を出現させます。これは、それまでの再発とは、次のような点で異質なものです。(1)ふつうの再発のように一気に折れていないこと、(2)すべて自分の責任に基づく出来事から起こること、(3)疾病を利用していること。

 イヤラシイ再発での患者の言動には、次のような特徴があります。(1)自分が崩れた原因として、高尚そうなものをもち出すこと、(2)原因がたくさんあって、いかにもたいへんそうな様子を見せること、(3)自分の不手際をごまかすため、全く無関係のものを原因としてもち出すこと、(4)家族による原因の指摘が当たっていても、ハッとする反応がなく、ごまかそうとする場合があること、(5)真相を見破られると、ますます病気に逃げこむこと。この再発が自分の責任で起こったことを認めるくらいなら、病気でいつづけるほうがいい、入院したほうがいいと言うほど、自分をかばいたい気持ちが強いためです。とはいえ、患者が自覚さえすれば、この状態は簡単に乗り越えられます。(155−158ページ)

 この段階の著者は、イヤラシイ再発の経験がまだ乏しかったためなのでしょうが、この状態をまだまだ軽く見ていたようです。この種の再発の場合、治療が膠着状態に陥ってしまうことが多く、この状況を乗り越えるのは、実際には非常に大変だったのです。後に、私がふたりの助手から聞いたところでは、この状態が克服できるかどうかについては、ふたりともかなり悲観的でした。

 考えてみれば、非常にふしぎなことなのですが、治療法が洗練され、分裂病の核心に迫れば迫るほど、患者の側に反社会的な言動が目立つようになり、周囲の対応が難しい状態に陥ってしまうということです。この頃の著者は、イヤラシイ再発は自分の責任で起こったので抜け出すのが難しいと考えていたわけですが、後に、ふつうの再発もすべて自分の責任で起こることが明らかになります。そうすると、「自分の責任で起こったことを認めるくらいなら、病気でいつづけるほうがいい」と考えるために、この状態から抜け出せない、という理由は、通常の再発の場合はそうではないので、結果的に当たっていなかったことになります。

 ここにはもっと大きな理由があるということです。小坂理論は、これ以降、イヤラシイ再発の対応や解明が最も重要な課題になって行くのです。ここにこそ、精神分裂病という精神医学最大の謎を解く重要な鍵が隠されているのでしょう。

小坂療法の背景にある基本姿勢

 著者は、従来の治療法が抱える問題点を次のようにまとめています。これらは、50 年近い年月が経過した現在でも、そのまま当てはまるでしょう。

  1.薬の位置づけ

 分裂病に使われるのは、症状を抑える力が不十分でしかない鎮静剤である。それに対して、抑圧さえ解除すれば、薬を使わなくても症状は消える。それまで薬を使っていた場合には、副作用が出現するため、減量ないし中止せざるをえなくなる。とはいえ、薬を使わざるをえない場合もないわけではない。たとえば、幼少期の抑圧を解除した時である。その場合には、「患者に驚愕反応たとえば嘔吐・ふるえ・冷汗・失神・号泣など」の反応が起こることがあるので、一時的なものではあるが、「現在の私のやり方ではやはり使わざるをえない」。(212−216ページ)

  2.入院治療

 入院治療に反対するのは、次のような理由があるためである。入院が(1)患者の人権を剥奪するため、(2)分裂病患者のよりどころ、すなわち弱点を刺戟するため、(3)もちあじを助長するため、(4)ホスピタリズムをつくり出すため、(5)入院を必要としない治療技術論を著者が既に開発しているため、(6)その治療理論は、在宅状態でなければ患者にも家族にも身に着きにくいため、(7)入院では、医師まかせになってしまうため。とはいえ、それでも入院が必要になる場合がある。それは、(イ)原因が不明か、その指摘を患者が受け入れず、しかも症状が激しい場合、(ロ)親の態度がたえず患者の症状を誘発するほど有害な場合、(ハ)共生関係の打破のきっかけとして利用できる場合。(217−222ページ)

  3.生活療法や生活指導

 院外生活指導という方法を打ち出している医師や保健婦がいるが、それにはいくつかの流派がある。ひとつは、かつての著者もそうであったが、患者の拠りどころ、すなわち弱点に気づきながら、それが刺激されないようにするため生活規制という手段をとるものであり、もうひとつは、盲目的なヒューマニタリアニズムに基づいて患者に接する方法である。それらが問題なのは、患者の人権を侵害することであり、患者が再発しなかったとしても、たまたまそうなったのか、それとも生活規制を課した結果として回避できたのかがわからないことであり、再発した場合には、入院治療に頼るしかないことである。(229−230ページ)

 以上のように、著者の姿勢は、現在からみても非常に先進的なものでした。さらには、先述のように、医師を筆頭とする医療関係者は、患者や家族を教育する立場に退き、実際に “教室” と呼ばれる場でそれを実践していたのです。その点でも、いかに先進的なものであったかがわかるでしょう。

本書の歴史的位置づけ

 その後、フィンランドのオープン・ダイアローグや “べてるの家の当事者研究” という、著者が得ていた成果の一端を裏づけることになる実践が始まり、広く知られるようになりました。これらは、心理社会的な対応を通じて、入院を可能な限り避けさせ、投薬量も通常よりもかなり少なくすませることができるという点で、小坂療法による理念やその成果と共通しています。しかし、小坂療法には、それらとも完全に一線を画する特徴があります。それは、

 という一連の方法を使っていることであり、特定の個人の名人芸によるものではなく、家族や、場合によっては患者自身にもできるということです。それらの点は、本書の段階で初めて組織的な形で可能になったと言えるでしょう。

 もうひとつの違いは、以上の方法や、それによって得られた結果からわかるように、少なくとも分裂病症状の出現という点に関しては、この疾患は完全に心因性のものであり、遺伝性のものとは考えられていないことです[註21]。そのことは、同じ親に育てられながら分裂病にならなかった子どもの場合、「必らず “親批判・親との間に心理的距離を置く傾向・別居” が見られ、親との間の “馴れ合い・妥協” がありません」(163ページ)という記述からもわかります。それに対して、オープン・ダイアローグも “当事者研究” も、この分裂病という疾患を心因性のものとは考えておらず、その点では従来的な、脳の機能異常に基づく疾患という立場を崩していないのです。そうした点を考えればわかるように、著者が、自らの初心を貫いて、独力で開発した方法が、いかに革命的なものだったかがわかろうというものです。

 本書の出版から半年ほど後に、市販された最後の著書となる『精神分裂病読本』が出版されるのですが、その頃の著者は、目覚めたはずの患者が示す反社会的行動や “イヤラシイ再発” の対応に苦慮するようになっていました。しかしながら、分裂病問題の解決は、その先にしかないのです。いずれにせよ、本書は、親たちが無自覚的に抱える深刻な問題点の指摘を含め、斬新な着想や所見が随所に見られ、今なお新鮮さを失わない重要な著作であるのはまちがいありません。

[註1]当時、小樽市の精神科病院に勤務していた私は、紀伊国屋書店小樽支店の店長に依頼し、店頭に本書を常備してもらっていて、版元に最後に残った在庫はすべて買いとってもらったので、完売になったのはまちがいない。

[註2]小坂から大きな影響を受けて、地域精神医療の道に進んだ浜田晋によれば、当時、地域精神衛生活動をしていた保健婦は、生活臨床派と小坂派に分かれていたという(浜田、2001年、123、166ページ)。

[註3]共生関係という用語は、それまで生物学では使われていたが、心理学や精神医学では存在しなかったようなので、おそらく著者の造語であろう。

[註4]幼少期のトラウマと分裂病の発病との関係を扱った研究ということであれば少なからずある(たとえば、Bendall et al, 2008; Bikmaz, 2007; Matheson et al, 2013; Morgan & Fisher, 2007; Popovic et al, 2019; Read, van Os, Morrison & Ross, 2005; Spence et al, 2006)。問題は、分裂病が心因性で不可逆的なものかどうかという点にあるのであろう。

[註5]鋭敏な感覚をもつ精神医学者であった小澤勲は、この問題を非常に的確に表現している。「『分裂病とは何か』っていいますと、今の精神医学の主流派は、やはり脳の病気だと思っているんです。心の底で。分裂病は脳の病気だと、どっかで思っているんです。にもかかわらず、ふしぎなことに、分裂病の人に何か明確な脳障害の所見が見出されると、それは分裂病ではないということになるんです。〔中略〕〈脳の病気やけど、まだなんにも見つからない、非常にまかふしぎな病気〉にしておきたいという考え方が、精神医学の中にある」(小澤、2010年、38ページ)

[註6]ただし、単に定説と相容れないから受け入れられないということではなく、ここにはそれよりもはるかに複雑な事情があるように思われる。その点に関心のある方は、拙著(笠原、2004年)第8章を参照されたい。

[註7]著者は、反応の発見の重大性を強調することはなぜか一度もなかった。その点を過小に評価していたのかもしれない。

[註8]著者は、精神分裂病に限って観察しているが、私の長年に及ぶ経験によれば、本人にとって重要な点にふれさえすれば、おそらく疾患の有無や民族を問わず誰にでも出ると考えてよさそうである。

[註9]他のところでもふれておいたが、著者と同じく地域社会に入り込んで診療活動を行なっていた浜田晋は、やはり因果関係のはっきりしているように見える再発例や、場合によっては劇的な好転例を何例か報告している。しかしながら、そのほとんどは操作的な方法によって得られたものではなく、事後や経過中に気づかれた、いわば偶発例であり、その原因追及は甘いままに終わっている(たとえば、浜田、1979年)。

[註10]そうすると、具体的な解決策を与えた時に症状が消えたのはなぜか、ということが逆に問題になる。症状を消すことができた方法と、症状出現の原因が直接に関係していることについては疑念をもたれていないが、そうではないのかもしれない。著者はこの検証をしていないようであるが、これは、分裂病の症状を消す仕組みと、症状出現の真の原因との関係はどうなっているのかという重大問題に関係してくる。

[註11]この劇的な効果については、後に著者を激しく批判することになる浜田晋も、次のように述べている。「確かにその霊験あらたかな症例があったことも事実で、私達の眼前で『よくなってしまう症例』を見せられたものです」(浜田、1986年、256ページ)。浜田は、こうした現象を、「なにかひとつの理論の背後には『とてもその理論を説明するに都合のいい実例』というものが、集まってくる」という説明で片づけてしまっている(同書、256ページ)。分裂病の症状を、心理的操作だけで消失させることはできないことになっているので、この発言は、精神医学の常識を完全に逸脱している。

[註12]ここには、ぐちをこぼすことも含まれるが、親と同居していても、必ずしも相談したりぐちをこぼしたりするわけではない(64ページ)。ところが、親からの仕打ちによる傷つきを原因としているため、親が関与していない場合には、この理論は成立しない。そうすると、この時点では理論的統一ができていなかったことになる。

[註13]1973年秋に、私は著者から、その頃に、患者の家族と思しき男性から脅迫の電話が複数入ったことを聞いた記憶がある。その後、あらぬうわさがいくつか流されるようになるのである。それは、精神科医の間でも同じであった。この問題に関心のある方は、浜田晋の講演録(浜田、1986年)を参照されたい。

[註14]この問題については、拙著(笠原、2004年)第8章で詳しく扱っている。

[註15]著者は、ここで、抑圧によって、「夜尿やチックなどの心身症的な症状や、神経症的な症状、登園(登校)拒否などの行動上の問題」が出ることに経験的に気づいている。にもかかわらず著者は、抑圧によって症状が出るのは、神経症と分裂病だけだと考えていた。

[註16]著者は、通常の予期不安が患者のもちあじのために強く出たものではないかと考えていた。そのため、抑圧が不完全であり、自覚している場合も多いとされている。その結果、分裂病症状は、抑圧が完全な場合だけでなく、不完全な場合にも出るという結論に到達せざるをえなかったのである。この考えかたは、最後まで変わらなかったようである。

[註17]著者は、半年後に出版された『精神分裂病読本』(1972年、日本看護協会出版会)の中で、高校生の患者が、「ふざけていて机の角に腕をぶつけてほんの5×5ミリくらいの、それもリバガーゼで押さえればすむ程度の浅い裂傷を受けただけで昏迷状態にはいってしまった」事例を紹介している(小坂、1972年、190ページ)。著者は、この種の再発を、身体に対するこだわり、あるいは弱点を刺激された結果と考えるわけである。著者は、最後に復讐理論――親に対する復讐から分裂病という病気を選び、それを続けるという仮説――を唱えるのであるが、このような事例は、復讐理論ではむしろ説明しにくいのではなかろうか。

[註18]慢性状態の患者に適用した実例としては、著者が引用している事例(小坂、1971年)を参照されたい。

[註19]ところが、そう簡単なものではないことが、次第に明らかになってくる。この問題については、浜田から、「家出の段階で、治癒だといった段階があったよね」と揶揄されている。それに対して著者は、「分裂病が治癒したかどうかっていうことはわからない。共生関係だけ残ってますね」と答えている(小坂、1972年、242ページ)。共生関係の打破がいかに難しいかものかが、身に染みてわかってきたということなのであろう。

[註20]興味深いことに、精神分裂病概念を提唱したオイゲン・ブロイラーも、既に1908年の時点で次のように述べている。「分裂病患者にとって病気になりたいというなんらかの理由〔中略〕があると、結果として、やはり(明白に)病気になるのである。とりわけわかりやすい例が、特にしかるべき事情によって精神病院に入院してくる再発患者たちである。ある女性患者は、非常に経過も良く退院が見込まれていた。しかし、今や彼女は家庭における義務を再び引き受けることを忘れていた。それゆえに退院させられそうになると、その直後に繰り返し病気になったのである」(ブロイラー、1998年、91-92ページ)。浜田晋も、これと似通った例を繰り返し報告している(浜田、1976年、19−22ページ;2001年、7−8ページ)。

[註21]ある疾患が遺伝性のものかどうかを検討する方法としては、一卵性双生児と二卵性双生児の発病一致率を比較するものが昔から主流になっている。この方面の研究は数多く行なわれている(たとえば、いずれも 40 年ほど前のものであるが、Gottesman & Shields, 1976; Lidz, 1976; Stabenau & Pollin, 1967; Wahl, 1976)が、遺伝性という点では研究者の意見は一致しているものの、どこまでが “環境” の影響によるかという点では、意見の一致を見ていないようである。

参考文献