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 書評――4.『精神分裂病読本』






『精神分裂病読本――改訂版・精神衛生活動の手引き』(日本看護協会出版部、1972/10/20 刊行)
小坂英世(著)
A5判、290 ページ

本書の位置づけ

 『患者と家族のための精神分裂病理論』が、文字通り患者や家族に向けたものであったのに対して、半年後に上梓された本書は「専門家向け」になっています[註1]。ただ、専門家向けと銘打っていても、本書は、その立場にあるはずの精神科医や心理療法家に向けられたものというよりは、むしろ病院外で活動する保健婦や精神衛生相談員やソーシャルワーカーを、さらには精神科病院に勤務する看護婦をその対象としているようです。それは、著者の分裂病治療論が、精神科病院への入院を可能な限り回避するための実用的な技術論として開発されたものであり、その点を特段に重視しているためなのでしょう。しかしながら、本書が出版された意味はそれだけではありません。「私は自分をトップランナーのつもりだから走っているだけ」と臆面もなく語っている(275ページ)ことからもわかるように、分裂病の原因論として世界の精神医学史に大きな業績として残るものであることを、著者はやはり明確に自覚していたのです。

 著者は、漢方医に転じた後も、当然のことながら分裂病を心因性の疾患と考えていました。そして、これまでほとんど知られていなかった、分裂病患者に見られる勝ち負けに対する頑強なこだわりと、親に対する強烈な復讐心とを重視する姿勢は、最後まで一貫していたようです。本書を執筆した時点では、まだ親に対する患者の復讐心に焦点を絞っているわけではありませんが、そのことをうかがわせる発言や記述が、前著にも増して見られるようになったという点で、本書は後の分裂病復讐理論の萌芽と言えるかもしれません。逆に言えば、著者が親に対する復讐心を中核とした理論から大きく外れることは、その後もなかったらしいということです。

 本書が出版された頃の著者は、目覚めたはずの患者たちが示す反社会的行動や “イヤラシイ再発” への対応に、前著を出版したわずか半年前にも増して、苦慮するようになっていたようです。その結果、入院を回避するために開発したはずの技法が、逆に、一時的なものであったとしても、一部の当事者を入院させざるをえなくなるという皮肉な結果を生むことになったのです。

 このような状況を目の当たりにした、あるいはそのことを聞き知った部外者たちは、小坂療法によって症状が悪化したと短絡的にとらえ、著者に対する的の外れた人格攻撃を強めました[註2]。そうしたありうべからざる人格攻撃を除けば、それは、旧来の症状中心主義的な立場からすれば当然の帰結であり、特にふしぎな見かたではないのでしょう。それに対して、鋭い観察眼をもつ著者は、このイヤラシイ再発こそが、それまで包み隠されていた、分裂病患者の本性の現われと考えるようになるわけです。著者の見解は、従来の分裂病観に立つ者からすれば、それこそ自説を擁護するためにひねり出された、根拠のない思い込みのように映るはずです。

 本書では、従来の分裂病家族研究にはなかった考えかたが強調されています。それは、分裂病の原因には差別感の強い親のもとに生まれ育ったことが大きく関係しているというものです(たとえば、277-278 ページ)。親の “もちあじ” が、他に選択肢のない子どもにそのまま伝えられ、いずれそれが弱点と化して分裂病症状を発現させるに至るという、生活臨床と半ば共通していたそれまでの原因論を放棄し、「金に弱いとか、身体に弱い」という従来の観察所見には、そうした差別感が通底していると考えるようになったのです(277 ページ)。

 そのため著者は、カースト制という形で差別が今なお存続している文化圏では、分裂病の発生率や重症度が、差別感の弱い文化圏とは異なるのではないかという仮説を立て(277 ページ)、本書の出版後に、その調査を行なうべく単身でネパールに出かけるのです。カースト制の本場たるインドではなくネパールを選んだのは、ひとつには、著者が登山を趣味としていたためなのではないかと思われます。そうした仮説を立てていた著者は、当時、本書の出版を、新しい理論へ移行するためのひとつの区切りと考えていたのかもしれません。残念ながら現実は、著者の推測を裏づけるものではありませんでした[註3]。そのため、著者は、まもなくこの仮説を放棄せざるをえなかったようです。

1992年。小坂英世  その後、著者は、実証的な経験をさらに重ねる中で、患者を被害者と位置づけるそれまでの仮説から離れ、患者の責任を原因の中核に据えるという、従来の精神医学では考えられなかった方向へと向かいます。本書は、そうした意味での方向転換が起こり始めた時期に発表されたことになります。

 著者は、精神科医(浜田晋)、保健婦、病院看護婦、ソーシャルワーカー(井口勝督)、“心理技術者”(国分牧子)による記録や報告に加えて、当事者によるいくつかの手記をつなぐ「編者」として本書をまとめています。自ら筆を執っている部分が非常に少ないため、著者とは名乗りにくかったからなのでしょう。

 最後の章(第X章)に収録された座談会で、著者は、今後の展望を意気揚々と語っています。その後、理論上の大きな進展があったのはまちがいありませんが、本書の出版以降、市販される著書を世に出すことは、なぜか全くなくなります。それまでの多作を一変させ、2018 年に死去するまでの半世紀近くの間、小坂療法に関する自説を世に向けて発表することが、一切なくなったのです(小坂英世著作目録参照)。そのため本書は、関係者以外には、事実上、最後の出版物になりました。その結果、「昭和五十一年六月のパンフを最後に、彼は消えました」(浜田、1986 年、263 ページ)、「小坂英世もすでに去っていた」(浜田、2001年、204ページ)と浜田晋が書いているように、著者はこの時点で活動を停止したと誤解されることになるわけです。ここには大きな理由がなければなりません。

 没後に残された覚書によれば、遠藤周作や佐々木豊文(日本速読教育連盟会長)との対談(遠藤、小坂、1986年;佐々木、小坂、1991年)が公にされているため、いったんはそれでよしと考えていたそうです[註4]。ところが、2000 年頃にその考えを改め、それまで集積していた記録を、新しい理論に基づいてまとめ始めたのですが、体調不良のためもあって、それを完成させることがついにできないまま、2018年 10 月 23 日に永眠したのでした。米寿を迎えてから8ヵ月ほど後のことでした。

 『精神分裂病患者の社会生活指導』のレビューに紹介しておいたように、本書の出版以降も、小坂教室で使うテキストとして一連の小冊子を配布していたわけですが、それは、関係者以外には届くことのない性質のものです。その第 11 号を1976年6月に発行して以降も、著者の考えかたに多少の紆余曲折があったようですが、それを正確に知ることは、今となっては不可能です[註5]。そのため、本書が刊行された4年ほど後に展開されることになる “ライバル理論” についても、さらにその後に唱えられる、小坂理論の最終形態らしき “復讐理論” についても、ごく少数の関係者以外には知られることのないまま終わってしまったわけです。“復讐理論” については、1枚のリーフレットしか残されていません。考えてみれば、これは大変なことです。

 本書は、国会図書館にも収蔵されていないほどの稀覯書なので、いずれ何らかの形で復刊する予定でいる[註6]のですが、ここでは、本書の内容を、レビューの枠を越えて、特に理論面を中心に詳述します。それは、不十分なものであるのはまちがいないとしても、その時までの参考資料として掲げておきたいと考えるためです。

本書の構成

精神分裂病読本 目次  前著と同じく、本書の構成もかなり異例のもので(目次参照)、浜田晋による再発例(症例A子)の面接記録から始まっています。A子は、小坂教室に出席することと並行して、浜田の診察も受けていました。当時の浜田は、著者とこのような協力関係にあったのです。浜田自身の記録がそのまま掲載されているのは、そのためです。

 父親や本人の手記も、それと連携する形で併載されています。前著と同じく、症状の原因や治療経過に関する手記を家族や患者自身に書かせているのは、治療効果を高めることを目的としているからですが、それをそのまま前著や本書に掲載しているのは、患者を差別することがなかった著者の姿勢の現われでもあるのでしょう。

 「分裂病治療理論――症例をもとにして」と題する第T章では、A子の事例の後に、心理的原因に関係する「事件」にはどのようなものがあるか、患者や親の “もちあじ” とは何か、親は、なぜ、どのようにして心理的加害者となるのか、両面的な共生関係とはいかなるものか、という小坂療法の根幹に関する疑問が簡潔に解説されています。それに続いて、小坂理論に基づく活動を行なっていた調布市の保健婦(小林ユキ子)および、小坂教室の助手であった “心理技術者”(国分牧子)による再発例が、さらには著者による初発例、幼少期の準備期に関する事例、イヤラシイ再発の事例が報告されています。それぞれの報告で患者や家族の手記がそのほとんどを占めているのも、本書の特徴と言えるでしょう。

 続いて、著者の基本的な姿勢や考えかたが、「追加事項」として、10 ページほどにわたって説明されています。ここまでが第T章で、本書出版の時点での小坂理論の全体像が、それにより把握できるようになっています。とはいえ、旧来の治療法や理論とは根本から異なっているため、これだけを読んで小坂理論を理解するのは、実際には難しいはずです。そのためもあって、著者は、第U章で小坂教室の場面をそのまま再現したり、第V章では保健婦の報告に基づく4例の症例を、第W章では病院看護婦と5例の症例を検討したりしています。さらには、浜田晋、外間邦江(国立公衆衛生院衛生看護学部)との、小坂療法をめぐる座談会の記録を、ほとんど編集しないまま[註7]掲載し、小坂理論やそれに基づく治療法の実際が把握しやすくなるような工夫を施しているのです。こうした構成も、著者の独自性を示すものです。

当時の小坂理論の全体像

その屋台骨

 著者は、「追加事項」として自らの治療理論を簡潔に説明しているわけですが、ここに記されているのは、次のように非常に明快な宣言のようなものです。

 私は分裂病の再発を、心理的原因によるものとみなす。そしてその心理的原因を患者が抑圧(フロイドの用語。不快、苦痛であるあまりに忘却、すなわち無意識としてしまうこと)するからこそ、疾病への逃避――独特の症状の出現――が始まるのだと考える。したがって私は患者が抑圧してしまっている心理的原因を他者が推理し、患者に指摘して患者に想起させる。つまり抑圧を解除するとき、患者はその症状を消失させると考える。そしてこの症状の消失こそが、上記した私の治療理論の証明であると考える。(12-13 ページ)

 それまで誰にもわからなかったことなので、これが精神医療史上でも最大級の発見であるのはまちがいありませんが、ここまでの技法そのものは、フロイトの神経症理論とほとんど同じです。精神分析と違うのは、患者の “自由連想” を待つのではなく、治療者側が、あるいはその教育を受けた家族が、当該の症状の原因を推理、指摘して患者に思い出させるという手順をとることです。それに対して、理論面では、いくつかの点で精神分析とは大幅に異なっています。ひとつは、著者独自の経験から得られた所見を、次のように理論の根幹に位置づけていることです。

 このような治療の手続きを進めるなかで、分裂病の再発における心理的原因とは、事件プラス患者のもちあじ(場合によってはさらに、プラス家族、特に親のもちあじ)によって構成されていることを知るのである。そこで患者(および家族)の自覚をうながすために、いかにして再発が起きたかを、特にもちあじをめぐって反省させ、確認させる。この反省・確認こそが、さらに治療を進めていく跳躍板となるのである。(13 ページ)

 もちあじという著者独自の用語については、前著『患者と家族のための精神分裂病理論』のレビューに詳述しておきましたが、後ほどあらためて本書から引用することにします。再発に関係する事件を思い出させるだけでなく、もちあじという患者の特性をそれにからめた形で整理させると、治療効果も高まるという所見がここで提示されています。患者の人権を尊重することから出発した著者の治療理論が特にユニークなのは、従来の治療者がその手続きを行なうのではなく、ほとんどの場合、患者と同居しているため事情を知っているはずの家族に行なわせるという点です。それは、「医師たちが手とり足とりしていたのでは、自覚を弱める。たとえ一時的に症状を消すことができても、それきりになってしまう」(87 ページ)ことを危惧したためでもありました。小坂教室は、主にその教育の場として設けられていたわけです。

 このすべての手続きをこれまで治療者側とされていた医師、保健婦、看護婦、ソーシャル・ワーカー、心理技術者等が行なうのでなく、患者側すなわち患者と家族を教育することによって(つまり従来の治療者たちはこの治療理論では教育者となり、患者側が治療者となるのである)、かれらに行なわせようとするのである。(13 ページ)

 このような方法は、当事者に自らの治療にとり組ませるという点では、浦河べてるの家の当事者研究と通底していますが、家族を治療者にするという方法論は、歴史的に見ておそらく他には存在しない珍しいものでしょう。そしてそれを、一定の手順に従って行なわせるのです。最初は、いちばん最近の再発や症状増悪の原因を探り、それによって生じた症状を治めることを目指します。その後の手順も明確に決められています。

 再発あるいは症状の増悪をおさめた後に何をするのかといえば、それは “遡行” である。つまり、これまでの再発についても同様の手続きをとっていくのである。もはやこのころになれば(はじめてこの治療理論を適用するときには、患者は抑圧のためになかなか治療者たりえないのであるが)、患者は率先して自らの治療にあたるようになる。またそうさせなくてはならない。
 こうして遡行は初発に至り、そこで同様の手続きを行なう。初発は、ボクシングにたとえるならば一撃でダウンした再発に比して、長期間にわたって連続した、しかもメインテーマのはっきりしたダメージによるダウンという印象のするものである。やはり抑圧と疾病への逃避が起きている。(13-14 ページ)

 幼少期から抑圧が散発的に起こっていて、それが思春期以降になると、その状態から初発の準備期に入り、同一のテーマに沿ったダメージを受けたことによる抑圧が連続するために、最終的に分裂病の初発に至ると、当時の著者は考えていたわけです。

 そこで明らかになるのは、幼少期において抑圧と疾病への逃避などの防衛機制の活用が頻回にわたって起こっていたということである。そこで抑圧などの習慣化の根源がわかってくる。そして抑圧を起こさせた心理的加害者が親であることがわかり、患者が共通して抱く親に対する不信、憎悪の根源も明瞭になってくる。また、そこで患者と親との間に見られるきわめて両面的な共生関係の根源もはっきりしてくる。そこで患者と親の自己批判・相互批判から、共生関係を断つ道(患者の家出・独立自活)を自主的に選ばせる。(14 ページ)

 幼少期から抑圧が繰り返し起こっていたこと、また、抑圧という方法は習慣のようになること、抑圧を起こさせるのは他ならぬ自分の親であること、そのため患者は親に対する不信や憎悪を抱くとともに、親との間に両面的な共生関係を成立させるようになることが明言されています。したがって、そのようにして作りあげられた分裂病と呼ばれる状態から抜け出すためには、共生関係を断つべく、双方で批判しあったうえで別居を主体的に選択する必要があるわけです。これが、当時の小坂療法が提示していた治療の道筋です。

 岡田靖雄との共著書である『市民の精神衛生』のレビューに書いておいたように、著者は、国立国府台病院で “ネオ・フロイディアン” の “洗礼” を受けた後、解釈以上のことはしようとしない精神分析という方法を強く批判するようになるわけですが、にもかかわらず、抑圧という中核的概念の他にも、防衛機制や疾病への逃避といった精神分析的概念をそのまま借用しています。

 患者はもちあじの故に、けつまずきやすく、このあたりで往々にしてイヤラシイ再発(後述、抑圧はすでに起こらず疾病への逃避傾向のみ目だつ再発)を起こす。これを乗り切らせることによって、はじめてもちあじの解消がはかれるようになるはずである(ここではじめて予測的な表現を私がするのは、やっと成功例が出はじめたところからである)。
 これら一連の手続きをする間、患者の日常生活についてはどうするかといえば、自己の責任において考え、行動することを要求していく。しかし生活規制はしない。(14-15 ページ)

 以上が、本書執筆当時の著者の理論および治療法の骨子です。念のため付言しておくと、当時の著者の分裂病治療理論は、フロイトの神経症理論と大きな違いはなかったわけですが、自らの経験を通じて導き出されたものなのであって、単純に精神分析の方法を分裂病治療に当てはめたものではありません。

 著者は、原因につながる事件、患者のもちあじ、親のもちあじ、心理的加害者としての親、両面的な共生関係などについて、註という形で、やはり簡潔に説明しています。前著での説明よりも整理された形で提示されている(15-16 ページ)ので、以下にそのまま紹介しておきます。

  ● 再発に関係する事件

  ● 患者のもちあじ   ● 親のもちあじ   ● 心理的加害者が親であること   ● 両面的な共生関係  こうした説明を読んでも、具体的には何を言っているのかわかりにくいはずです。本書には、その説明となる実例が豊富に提示されているのですが、理論の解説を中心とする本レビューでは、その一端を紹介する以上のことはできません。そこで、初発の仕組みが明確にわかる事例をとりあげ、詳しく説明することにします。分裂病の初発は、いろいろな意味できわめて重要な位置づけにあるからです。

当時の小坂理論の例証

 著者は、長い間、初発例に遭遇することはなかったそうです。前著では、分裂病の初発例としてS子の事例を掲げていますが、それは「非常に不十分な接触しかできなかった」事例でした(小坂、1972年、190-209 ページ)。ここでは、その後に登場した、十分に接触できた初発例(Z子、41-52 ページ)をとりあげ、著者および当事者の報告や手記をもとに、少々詳しく説明します。したがってZ子は、著者が報告した初発例としては2例目に当たりますが、全容がほぼ解明されたという点ではその第1例ということになるでしょう。

 Z子は、25 歳の独身の数学教師です[註8]。1971年6月 11 日に初発したため、学校側からの指示で、ある医大病院を受診した後、著者の診療所に転医してきました。まもなく明らかになったのは、コンピュータの授業をめぐって同僚の教師との間に対人関係上の一連の「イザコザ」が起こったことでした。そのことが明らかになり、同時に高校教師から中学教師に転じてからは、無投薬状態で症状が治まりはしたものの、些細なことで動揺する傾向がまだ残っていました。

 小坂教室に通っていたZ子は、10 ヵ月ほど経った頃に、初発の数ヵ月前から不安定が起こっていたことを思い出し、報告するようになりました。そこには、いつもコンピュータの授業が関係していたのです。当時は、コンピュータを動かすには、COBOL や FORTRAN といった言語で組んだ自前のプログラムが必要でした。著者は、Z子に、コンピュータが関係する出来事について、その経過をまとめて提出するよう指示しました。次に、提出された手記から主要な点を抜き出し、それを、必要最小限の注釈を加えながら引用します。

Z子の手記

【発病の準備段階】発病5年前の大学2年の時、アルバイトのために、級友と一緒にコンピュータ・プログラミングの説明を聞いたことがあった。ほとんど理解できなかったが、わからないところを質問することもなかったため、ますますわからなくなり、不安定になった。そのことは誰にも言わなかった。わからないと諦めていたら劣等感を抱くこともなく、不安定にもならなかったのかもしれないが、一流高校出身の自分は他の誰よりも優れていなければならなかった。そのため、「友人にわかって、私にわからないことが無意識の劣等感になって抑圧されてしまった」。「他人から、Z子は〇高出身なのにできない、と思われるのがいやだった」。

 Z子は、一流校の出身であることに優越感を抱いていたため、「もし私に実力がないとわかると劣等感に変わり、劣等感を意識してあきらめることをしないから、症状になるのではないか」と書いています。逆に言えば、一流校を出ていない級友たちに、無意識的な偏見をもっていたということです。そのため、「彼女らに差別感をもたないようにつとめてふるまっても、無意識の偏見はとれなかった」(42ページ)のでした。

【発病に至る過程】初発の2年ほど前に当たる1969年7月、有名私立校に勤務して1年目の時に、ある専門学校でコンピュータの講習会があった。「程度の低い学校でやる講習会に、私がすすんで出席すると言ったことに引け目を感じた。一緒に講習を受けたBさんは、表に出しては言わないが、心の中では、こんな講習会をえらんでと私をバカにして、軽べつしているように思えた。受講者の多くは、いわゆる肩書きでは程度の低い学校の先生たちだった。私は、学校や、その講習を受けにきている人たちに差別感をもっていた。だから、こんな人たちと私が同じなのだとBさんに思われるのはいやだった」。
 「自分より(肩書きで)程度の低い人たちの集まっているのを見てがっかりして、失敗したなと感じた。私が行こうと言い出したのだが、コンピューター講習会という現代的なものへ率先して行くという、いいところを見せつけようという心理があった。また、若い、はいったばかりの先生だから勉強熱心だというところを見せつけようという心理があった」
 そうであれば、最後まできちんと受講し、内容を十分に把握すればよいわけだが、理解力が足りなかったため全くわからないままだった。「自分より程度の低い人(学校の名前で)がわかって、私にわからないことが明らかになると、私は不安定になり、症状を出した。(彼らに対して)全然差別感をもっていなければ、私はわからなくてもいいやとあきらめられるから症状を出さないと思う」。一方では、自分が勤務する高校は、自分にはレベルの高すぎる肩書きだと思いながら、もう一方では、それ以外の者に対して優越感を抱いていた。(43 ページ)
 初発の1年前に当たる1970年6月、別のコンピュータ・プログラミングの講習会に、B教諭と1年後輩のD教諭と一緒に参加した。最初は内容を理解できたが、次第にわからなくなった。演習では、B教諭か誰かのレポートを丸写しにして提出したが、「わからないでいいと居直りの気持ちだったから症状を出さなかった」。
 同年8月、別の講習会にB教諭を含めた3人で参加したが、やはり満足には理解できなかった。同年 10 月、勤務先の高校がG社製のコンピュータを導入することになり、数学教員に向けた業者による講習会が開かれた。10 年後にはほとんどの学校に導入されるだろうという話は聞いていたが、以前から、「コンピューター即資本主義、そして資本主義は悪いもの、と決めつけていた」ため、「コンピュータに偏見をもって」いた。この講習会には用事があったため遅刻した。内容はやはりわからなかったが、コンピュータが導入されることについて実感がなかったため、プログラミングの必要性がよくわかっていなかった。(43-45 ページ)

【初発前の一連の出来事】同年 11 月、いよいよ数学科研究室にコンピュータが導入された。G社の社員らしき中年女性が操作の仕方を、「実にてきぱきと、憎らしいほどうまく説明」したが、やはりよく理解できなかった。そうした現状の中で、数学全体の主任であるI教諭が、高Uの教室でコンピュータの授業をしているのを知った。その時、Z子は、「G社の語に反発を感じていた」ため、別のプログラミング言語である FORTRAN の勉強を始めた。一方、「機械の操作法がわからなかったので、生徒にはそこまで教えなくていいやと考えていたのだが、Iさんはそこまで教えているらしかった」(45-46 ページ)。
 1971年2月、Z子は FORTRAN の初歩的な参考書を購入した。「この本を読んでおけば、おくれをとっている分が取り戻せると思った。フォートランはもっともはやっているプログラミング言語で、それを修得しておけば役にたつだろうと考えた」ためだったそうです。しかしながらこれでは、現実に完全に背を向けていることになりますが、Z子は、そのことに気がついていなかったのでしょうか。
 コンピュータが導入されることも、前年の 11 月の操作の説明のことも、「出し抜けに知らされた」と感じた。自分の「弱みがばれてしまう」のを恐れて質問しなかったのはまずいが、「Iさんがひとりで勝手にことを運んでいったのも事実だ。私も悪かったけど、Iさんの前に出るとどうしても素直になれなかった」。
 1971年の4月頃から、I教諭が別の同僚とたびたびコンピュータプログラミングのことで打ち合わせをしていたが、生徒に教えるためだとは気づかなかった。5月 10 日頃、教育研究発表会に出席するよう促がされた。それは、I教諭らが生徒を対象に行なっていた実験授業に関係する発表会だった。そこまで話が進んでいることは全く知らなかったが、Z子は、その発表会の趣旨もそれまでの経過も知らないまま、その発表会に出席することを承諾する。現状を知らないままでいたのは、「弱みをみせたがらないもちあじを自分で自覚していなかった」ためだった。ところが、この話を聞くまでは、I教諭が高Uのコンピュータ授業をしていることを知らないでいた。
 先述のように、Z子は、1970年 11 月の時点で、I教諭が高Uの数学でコンピュータの授業を始めているのを承知していたはずなのに、「Iさんが高Uのコンピュータ授業をしていることを知らないでいた」と書いているのは、なぜなのでしょうか。“抑圧” があったとしても奇妙です。
 「コンピューター研究発表会という言葉が出てきて実際に行なわれることを聞いて、不安定になっていった」が、「このときの私の心理状況については、まだよく思い出せないところがある」。そうすると、“解除” されていない “抑圧” がまだ残っていることになりそうです。しかしながら、その結果としてZ子の話に齟齬が生じたと考えることには、少々むりがあるように思います。
 5月 16 日(日)が研究発表会だった。地方の高校も含めて、数多くの発表が行なわれた。広い範囲をきちんと教えている事実を知って、「感心すると同時にひけ目」も感じた。その一方で、文部省や産業界の方針や要請に忠実に従っているだけではないかと、ばかにする気持ちもあった。自分の高校からは、I教諭が、J教諭との共同研究を発表した。この発表を聞いて、初めてI教諭が生徒にコンピュータの授業をしていることがわかった。そうすると、それまでわかっていたようなことを言っていても、いまひとつ実感が乏しかったということなのでしょうか。
 数日後、「高Uコンピューターを教えているが、あなたもやってみないか」とI教諭に誘われた。I教諭は、5月 27-29 日の中間テストの前にその授業をしていたらしかった。Z子は高Uの数学の責任者になっていたため、I教諭の「一方的なやり方」に腹を立てた。「私は責任者として不十分だったことを認め、反省しなければならないが、Iさんは全く私を無視していた」。
 この時、「やらないと言えば、私だけコンピュータを一部の生徒に教えないことになり、ひけ目になる。やると答えた」ものの、何をしたらいいのかすらわからなかった。それをI教諭に聞くこともできなかったし、I教諭が作成したプリントを使うのもいやだった。さりとて、G社製のコンピュータを動かすためのプログラミング言語も知らなければ、そのやりかたも知らないため、自力でプリントを作ることはできなかった。加えて、実際にコンピュータを操作する方法もわからなかったし、それをI教諭に質問することもできなかった。

 以上が、Z子が最初に提出した手記の概略です。しかしながらこれでは、“もちあじ” ゆえに次第に追いつめられていった経過はわかるものの、肝心の6月 11 日に発病に至る直前の経過にはひとこともふれられていません。それよりもかなり前の時点のことまでしか書いていないのです。この手記を読んだ著者は、即座に、(1)コンピュータ授業という問題を軸としたI教諭との対人関係をどう考えるか、(2)症状がはっきり出た6月 11 日までの数日間のコンピュータの授業はどうなっていたのか、という2点を質します。その指摘を受けたZ子は、「愕然としながら」返答し、後日、以下のような手記を提出します。

【追加提出された手記――初発直前の心の動き】I教諭の指示が半ば強制的であることで、数Uの責任者としてのプライドが傷ついた。だが、I教諭に聞くことは、「私の自尊心をメチャクチャに傷つけることだった」ためできなかったし、I教諭の作ったプリントを使って授業することも、自分の自尊心を傷つけることになる。導入されたコンピュータで使われる言語を図書館でこっそり勉強したが、それでもわからないところが残った。実際にコンピュータにかけられるプログラムを作ることは、自分にはできなかった。そこで、コンピュータ言語がわからないことをごまかそうとした。言語がわからないために教えることができないという事実を生徒たちに知られるのは、「死ぬほどつらかった」。
 5月末の中間テストの前に、入門編の授業をした。それは、I教諭に「あなたもやってみないか」と言われたためだった。「あせってプリントをつくり、中間テスト前にコンピューター関係を少し授業した」。ここまではそれまでの知識で何とかなったが、I教諭が、テストの予定を5月 29 日から6月5日に、さらには6月 12 日へと延期させた。テストまでの授業では、テストに備えた練習問題をしていた。コンピュータの授業は、12 日のテストが終わってから始めようと考えていた。「コンピュータで大きくあせっていたし、教科書の進度のほうでも少しあせった」(後に判明したことだが、試験前の1週間は練習問題をすることになっていたが、試験が延期されたため、他の教師は先に進み始めた。ところが、Z子はそれができなかったため、練習問題をひたすらくり返していた)。
 自分でも「だんだん病気に追い込まれていく過程がかなりはっきりとつかめた。11 日が大きくダウン(授業中、生徒の前で立ち往生)した日。それはテスト直前の日」。12 日は自分の研究日で出勤しないため、K教諭が試験監督を務めてくれることになっていた。「私に相談なく、好意に受けとれるほど私のことを配慮して」I教諭がK教諭に頼んでくれたためだった。これにも自尊心を傷つけられた。決定的なのは、テスト後のコンピュータ授業のプリントが作れなかったにもかかわらず、それを誰にも相談できず、自分のもちあじのため、それを抑圧してしまったことだ。(42-51 ページ)

 この手記に対して、著者は、まだ合理化している部分が多く残されており、想起の不十分なところもあることに加えて、I主任に示した自らのもちあじについての反省も不十分であること、数学教師であるにもかかわらず、コンピュータ言語が習得できないことの自覚も不十分にしか出ていないことなど、いくつかの問題点があることを指摘しています。確かにこれでは、11 日の授業の最中に発病した理由も全くわからないままです。

 とはいえ、この段階になると、それまでの不安定は、無投薬状態のままかなり改善されていたようです。「彼女を1年以上も悩ませつづけた私の未熟さは大いに責められなくてはならないが、しかし彼女が教室という集団教育の場で独力(彼女は昨年秋から家出をして、独立自活の道にはいっている)で初発解決の端緒をつかんだことに大いに注目してほしい」と、Z子の前向きな態度や努力を評価し、「私の指摘によって真の解決にたち至ったことにも注目してほしい。ここに患者の自覚の可能性と、われわれ従来治療者とされていたものの教育者としての役割を見出してほしい」と結んでいます(52 ページ)。

 著者は、このように、自らの不十分な対応を反省する一方で、分裂病患者の問題点を率直に指摘していました。そして、その指摘に対して患者が懸命に応えようとする前向きな姿勢に、分裂病という難治性の精神疾患が “完全治癒” する可能性や希望を見出していたのです。この姿勢は、最後まで崩さなかったようです。

【解 説】 分裂病が初発するまで経過が、それも当事者によってこのように克明に報告された事例は、世界の精神医学史上でも、このZ子の事例が初めてのはずです。著者は、自らを立ち直らせたいという患者自身の強い願望を尊重することに加えて、反応という客観的指標を通じてこれを明らかにしたのです。前著で報告された初発例は、推測が多いうえに、それほど明確なものではありませんでした。本例でわかるのは、ひとつのテーマにまつわる一連の出来事および “抑圧” が重なった結果、分裂病の初発に至るという事実です。

 分裂病の患者が他者との勝ち負けに対する強いこだわりをもっていることが、この事例からもわかるでしょう。そして、相手を自分よりも下だと思い込むと、その相手に対して強い偏見や差別意識を抱くわけです。また、自らの自尊心の傷つきをひどく恐れていることもわかるはずです。これらの点に着目した著者は、後に、特定の相手に対する “自己尊大視の傷つき” を原因とする “ライバル理論” を構想するようになるのです。

さらなる追加事項

 目次からわかるように、著者は、3例の再発例とこの初発例に加えて、イヤラシイ再発の事例、幼少期の抑圧体験の事例をそれぞれ1例ずつ紹介した後、さらなる「追加事項」として、22 項目を掲げ、その解説をしています(77-86 ページ)。これらは、小坂理論に則って心理療法を行なう際の重要な指針となるものです。

 以上の項目を注意深く読むと、著者がいかに精密な方法論を発展させていたかがわかるでしょう。しかも著者は、それをほとんど独力でなし遂げたのです。その結果、分裂病という疾患をもつ人たちが共通して示す特徴が、生活臨床を通じて明らかにされたよりもはるかに、はっきりしてきたわけです。のみならず著者は、その特徴と症状の心理的原因とを関連づけて考えるようになったのです。ちなみに、患者に責任をとらせるなどの方法は、その後に登場した、患者に「当たり前の苦労」をさせる浦河べてるの家の基本方針と共通しています。

小坂理論の進展

 具体的解決策をとることから始まった著者の分裂病治療理論は、心理的原因の “抑圧” の発見によって心理療法という形をとるようになったわけですが、その後も、大きな変更が何度か行なわれます。最も大きいのは、両親の冷酷な仕打ちによる “つらさ” から抑圧に至ったとする、伝統的な他罰的原因論から、後悔・自責の念が抑圧されるとする、自罰的原因論への、いわばコペルニクス的転換です。

 その結果として、著者の考えかたは、旧来のどの理論とも完全に対立することになりました。この時点で小坂理論は、それまで以上に独自性を強めたと言えるでしょう。後に明らかになるわけですが、それは、患者や家族や専門家から、それまで以上に相手にされなくなることを意味していたのです。

 ただし、本書は、自罰的原因論が発見される少し前にまとめられたものなので、その萌芽は散見されるとしても、そこに焦点が絞られているわけではありません。そのおかげと言うべきか、名古屋大学精神科の笠原嘉による書評(笠原、1974年)が『精神医学』という主流専門誌に掲載されているのです。これは、『精神分裂病患者の社会生活指導』の書評を除けば、著者による著書の書評としては唯一のものです[註9]

 自罰的原因論が発見されたのは、家族とは無関係に本人の責任で再発する、イヤラシイ再発と名づけられた特殊な再発に直面することになったおかげでした。そのため、本書にも、その過程で得られた観察所見が少なからず記録されています。

 先述のように、分裂病患者の “もちあじ” には、「それが必要な事態にあっても自分の責任で考え、決定しようとしない」という特性が含まれていますが、後悔・自責の念を回避するための抑圧という原因論には、この時点ではまだ辿り着いていませんでした。それは、著者が演繹的推論によってではなく、目の前の事実の観察を通じて治療法を発展させるという、科学の理念に忠実に従っていたことの現われなのでしょう。当時の著者は、後の自罰的原因論につながる所見を既に得ていました。そのことを示す記述には、次のようなものがあります。

 それぞれについて少々説明しておきますと、(1)分裂病患者は、自分を “いじめる” という自傷行為的症状は顕著に示すのですが、自分の言動を客観視して反省することはほとんどありません。自分をいたずらに責めることはしても、自分の進歩につながる反省的な態度を、少なくとも自発的に示すことはほどんどないということです[註10]。被害関係妄想は、そうした性向から必然的に生み出されるものなのでしょう。

 (2)分裂病の患者は、親からの心理的自立ができていないためもあって、「自主性」に乏しく、すべてを人のせいにしてすませようとする傾向を顕著に示します。著者はここで、自罰的な形で“抑圧を解除”させようとすると、患者の抵抗が強くなると言っているわけです。

 (3)「他人〔多くは親〕からつぶされた」場合と比べて、自分の責任で再発した時には抑圧が解除されにくいという所見は、本書を執筆した時点の著者の姿勢を明確に示すものです。その後の自罰的原因論からすれば、すべてが自分の責任で崩れたことになるので、「他人からつぶされた」ために再発するということは、実際にはないわけです。したがって、この時点では、理論的統一がとれていなかったことになります。そして、自罰的解決を図るよう求めると、患者はそれまで以上に強い抵抗を示すという問題が浮上してくるのです。この時点で、治療に対する抵抗という現象や概念が、それまでにもまして小坂理論の前景に現われるようになります。

 「最初のうち私が抵抗する患者と多く出会ったのは、やはりもって行き方がへただった。もちあじのかかわり方を見抜いていなかった。自己責任、自己決定という点をついていなかった」(258 ページ)結果だとする反省的な発言もありますが、患者側の抵抗が本格的に現われるようになるのは、(3)とも関連していて、患者の責任で再発したという考えかたに立って治療を進めるようになってから後のことです。振り返ってみると、患者に対する著者の態度は、この時点ではまだまだ甘かったことになります。実際に、著者はその後、「小坂は変身した」と患者に向かって繰り返し明言し、患者たちに対してさらに厳しい態度をとるようになってゆくのです。

 抵抗と関係の深いイヤラシイ再発は、次のように説明されています。

 抑圧を解除していくなかで自分の病気の本態について理解してきた患者が、最後に独立した場合、あるいは家族が自己変革をとげてもはや有害な刺激をださなくなった場合、そこで自らの責任でつぶれてしまう状態をいう。そのとき抑圧はもはや起きず、もちあじ、共生関係と “疾病への逃避” 傾向のみが表面に出てくる。これを私は前著『患者と家族のための精神分裂病理論』では “イヤラシイ(意識的な)疾病への逃避” と表現した。(62 ページ)

 そして、この再発は、完全に自身の責任で起こり、他人に責任を転嫁できないため、自らの失態を何とかごまかそうとする(61 ページ)という特徴をもっていることを付言しています。これも、当時の著者の観察所見から導き出された説明ですが、先ほど解説したように、後の理論からすると、少なくとも部分的にまちがっていることがただちにわかります。ふつうの再発もすべて自らの責任で起こるので、それはイヤラシイ再発の条件ではなくなるからです。

 しかしながら、本稿では詳しくふれませんが、ここには後年の理論の出発点となる重要な着想が記されています。分裂病患者は、抑圧解除によって、それまでの自縄自縛状態から解き放たれ、それなりに “自由” に行動するようになるわけですが、その結果として、反社会的な言動が目立つようになり、さらにはイヤラシイ再発という、分裂病の本質をさらけ出すような状態に陥らざるをえなくなるということです。その状態を、真の意味での治癒という最終的な段階から眺めると、この状態にある患者は、いわば二重の仮面をかぶっていることになるでしょう。ふつうの再発という仮面と、それがはがされた後のイヤラシイ再発という仮面です[註11]。いずれにせよ、イヤラシイ再発は、“抑圧解除” を経験した後にしか見られないはずのものなので、一般には全く知られていない状態であるように思います[註12]

浜田晋のアンビバレンツはどこに由来するか

すぐれた臨床家としての浜田晋

 本書の冒頭から登場する浜田は、その後に書かれたいずれの著書に目を通してもわかるように、特に精神分裂病の治療においては、稀に見るほどすぐれた臨床家でした。著名な神経学者だったオリバー・サックスが提唱した「街角神経学 street-neurology」と似通ったタイトルの『街角の精神医療』という著書も出しています。後述する生活臨床派もそうですが、その精神が共通しているということです。

 浜田は、後に著者を 40 年近くにわたって執拗に攻撃するようになるわけですが、もともとは著者の都立松沢病院時代の同僚であり、その後、本来あるべき地域精神医療を実践していた著者に感化され、いわば生の患者や家族とじかに接すべく、著者に近い姿勢で活動するようになったという経緯があります。そして、著者の後を追うようにして、東京都精神衛生センター勤務を経て、1974 年に、古い時代の東京がかろうじて残されていた下町の上野に、往診を積極的に行なう精神科クリニックをパイオニア的に開業したのです。そこに至るまでの浜田の活動については、『私の精神分裂病論』(2001年、医学書院)に詳しく描き出されています。

 ちなみに、長期にわたって浜田と同じ姿勢で活動するような精神科医は、数年前に死去した仙台の岡部健のような真の意味での在宅医療医(岡部、竹之内、2009年;奥野、2013年)が珍しいのと同じように、現在でも珍しいのではないかと思います。ましてや、精神科病院に勤務し、患者を待つだけの医師では、ひとりの患者を続けて 30 年も診るのは難しいでしょうし、浜田が行なっていたような形の往診などできようはずもありません。浜田は、それほどの長期にわたって患者をひとりずつ細かく観察、記録していたからこそ、掛け値なしの分裂病像が見えてきたわけです[註13]

 浜田は、自らの診療姿勢に著者の影響を色濃く残していました。「『ある日突然分裂病は初発したり再発したりする』と精神科医が思い込んでいるのは非科学的ではないのか」(浜田、2001年、171 ページ)として自らの旗幟を鮮明にしたうえで、分裂病の再発には「『何か原因があるだろう』と少し時間をかけて面接」(同書、150 ページ)していたことを、自著(『私の精神分裂病論』)に書いているのが、その証左です。

 他にも、小坂の “遺産” を継承したことを裏づける発言を、いくつかの著書に見ることができます。その代表例としては、次のようなものがあります。「発病の動機ははっきりしている。娘が心臓弁膜症でT医大で手術を受けた。ところがその直後ふたりの医者から『こんなもの手術する必要は全くない。むだなことをしたね!』と言われた。すでにやっと作った 20 数万円の金を使っている。しかも娘の胸はケロイドのように巨大な跡を残している。『むだなことをした』と医者に言われた直後から昏迷、不眠、不穏。一点を凝視し、接触とれず」(同書、116 ページ)。

 この種の発言は、他にもたくさんあります。その一部を列挙しただけでも、次のようになります。「この母、無神経で人を傷つけても平然としている。図々しく、粗野。『分裂病を作る母親』の典型」(同書、149 ページ)、「彼〔弟〕はほとんど家に寄りつかない(それで発病を免れたのか?)」(浜田、2006年、168 ページ)、「恋人からそのこと〔尋常性乾癬らしき皮膚病〕を口汚くののしられたのが発病のきっかけらしい」(浜田、2001年、130 ページ)、「会社の帰り道、暴漢におそわれ大腿部を刺された。以来不眠、不穏、興奮」(同書、155 ページ)、「〔出勤時〕バスに乗り遅れそうになって、上司からどなられた。再発」(同書、155 ページ)、「かわいがっていた犬が急死してから寝込んで〔昏迷状態になって〕しまった」(浜田、2006年、60 ページ)、「区会議員の選挙――うるさい――が始まると再発する人しばしば」(同書、63ページ)、「(弟結婚)。たちまち再発」(同書、230 ページ)。

 浜田は、世界的なレベルで見てもおそらく珍しいほど、劇的な寛解例を数多くもっていました。その中に、20 歳で分裂病を発病し、2回の精神科入院歴をもつ男性の事例があります。老舗の長男なのですが、詩を書き、同人誌を出す文学青年でした。当初は引きこもっていましたが、やがて家業を手伝うようになりました。その一方で、書店員のアルバイトなどを始めたのですが、店舗を賃貸マンションに建て替えてから忙しくなり、父親が倒れたこともあって、家業に専念せざるをえなくなったのです。

 マンションが建って 10 年(まだ借金半分)、あちこち修繕が必要となる。空室が出てきてハラハラする。祭りの役員をやらされた。母とともに父の看病をしだす(おむつになる)。何をやるにも一生懸命である(概して分裂病者はやさしく親孝行である)。この危機が1つの疾病からの脱出の転機となったから皮肉である。
 約 10 年、実家と父の介護もまた苦痛であった。家賃の滞納者がいて何度も法務局へ足を運んだり、空室対策に翻弄されたり、町内の役員(父の後任)を押しつけられたり、青色申告、破損個所の修理、工事店との交渉、10 年のリフォーム……そして彼は「元気」になったのである。病的体験は全く消失。立派に現実的な立つ瀬がたったのである。「詩を書いたり、本を読むひまなんかありません。開店休業です」。父の病気の進行に心を痛める。「先生の朝日の記事、私小説風でなかなかいいですよ。先生の気持ちが伝わってきます」(「私の転機」)とほめてくれる。人ごみに出ても何の不安もないという。パソコンを始め、はまってしまう。「統合失調症は難しいですよねー」
 父の介護でだんだん外へ出られなくなる、先日も来て「何とかやっています。図太くなったんですね。妄想もありません。自分でこれでいいと満足すればよしとせねばなりません。文学はもういいです。両方できるような器用さが僕にはないんです」と苦笑する。〔中略〕54 歳。通院歴 20 年。みごとな全治例である。彼の言葉を借りれば「悲惨な治癒」といえよう。(同書、94 ページ)

 薬物療法が続いているらしいことを除けば、まさしく、「みごとな全治例」です。症状が治まっているだけでなく、分裂病には難しいはずの対人的、社会的行動を、ごく “ふつう” にするようになっているからです。小坂療法による治療と違って、患者が特に反社会的言動を示すようになるわけでもありません。浜田によれば、この男性のような「親孝行」ぶりは、分裂病患者では、珍しいどころかむしろふつうに見られるもののようなので、この点は、著者の復讐理論と相容れないように見えます。復讐理論では、このような親孝行ぶりはどうしても説明できないからです。

 ただし、分裂病の難しさは、長期観察をしない限りわからないところにもあるようです。それは、いったん治癒したかに見えても、その後に再発し、「予後不良」になる例(同書、114 ページ)などもあるからです。いずれにせよはっきりしているのは、旧来の単純な分裂病進行仮説は明らかにまちがっているということです。浜田は、最後に出版した自著(『街角の精神医療――最終章』)の中で、次のように総括しています。これは、長い経験に裏打ちされた観察所見であるだけに、謹聴すべき重要な発言と言わなければなりません。

 分裂病者がその生を終わることに特別の型があるとは思えない。発病から経過に病型があるとも言えない(それは、発病後再発を繰り返すごとに欠陥状態に至る病などと一般化する説を私は信じていないのと同じである)。百歩譲って病的過程がいろいろな型で進行したとしても、それは一様ではなく多元的な因子に支配されていよう。(同書、188ページ)

 浜田は、45 歳で発病し、激しい興奮や幻覚妄想状態を繰り返していた 76 歳の女性が、信じがたいほどの洞察に至ったことも報告しています。この女性は、次のように語ったというのです。「私には病気が必要だったんですね。病気していなければ、人の悲しみがわからなくて、自己中心的な人間になっていましたよ。〔中略〕やっぱり分裂病だったんです。不安、孤独で自己勝手で、自分のことばかり……先生にお会いして幸運でした。分裂病から真人間へなれたんですよ。病気していなかったら鼻持ちならない人間になっていましたよ」(同書、216ページ)。

 分裂病は、まさにこの女性の言うような状態にほかならないわけですが、観念的なレベルを超えてこれほどの境地に到達できたとすれば、それは稀に見る快挙と言わなければなりません。ここにも、分裂病という “生きかた” にまつわる謎があるように思います。

浜田晋の立ち位置

 浜田は、このように非常にすぐれた臨床家であったわけですが、その一方で、著者に対しては理不尽な攻撃を 40 年近くにわたって繰り返すという一面ももっていました。本書巻末の座談会でも、著者に対して既に同じような態度をとっていたことがわかります[註14]。そのことは、浜田自身も明確に自覚していて、「彼に対する私の両価的な気持ちは1972年 10 月日本看護協会出版会で出した『精神分裂病読本』〔本書のこと〕で、小坂英世、浜田晋、外間邦江の座談会によく出ている」(浜田、2001年、181 ページ)と書いています。それどころか、次のような実に率直な発言すらしているのです。

 小坂流家族療法は庶民の精神医療ではない。やはり精神的貴族の精神医療ではないか。ストイックに自己変革を求める。哲学的、倫理的、宗教的色彩が強い。なぜ…なぜ…と原因をあばきだす手法。過去へ過去へとたちもどる手法は、いずれ破綻する。「生活」という視点が欠落している。そこは道場であり、医療や福祉の場ではない。しかも難行苦行であり、これに耐えられる人は分裂病なんかになっていないのではないか。それでいてどこかで小坂という男に私が魅せられるのはなぜであろうか。(同書、165 ページ)

 浜田の言う「破綻」が、著者の存在が専門家の間からも世間からも消え去ってしまうという意味であれば、その指摘は当たっていることになるのでしょうが、この批判には、奇妙なところがいくつかあります。ひとつは、本書に収録された座談会で著者が、浜田の質問に対して、分裂病から「脱したいと言う人には私は相手をするし、まあここで安住したい、薬でごまかしたいと言う人には私はもうそれ以上は踏み入らない。私を批判する連中はそこを誤解している」(274 ページ)と語っていたように、小坂療法は、患者や家族が自ら選びとる治療法なので、ふつうの精神科医療と違って、全員を対象とするものではないことです。したがって、浜田の指摘は的が外れていることになります。

 また、先述のように浜田自身も分裂病症状の「原因」を重視していたので、「原因をあばきだす手法」を批判するのは “やぶ蛇” になりそうですし、「過去へ過去へとたちもどる手法」は、精神分析などで伝統的に用いられてきたものなので、ここで批判の対象にするのは、少々筋が違う感じがします。

 もうひとつは、「実験精神」旺盛な科学者たる著者が追究しようとしていたのは、特に分裂病症状の原因に手が届くようになった 1970 年以降は、心理療法を実用的に行なうべく原因を明確にすることであったため、なるべくことを荒立てないようにする「医療や福祉」の枠内に留まろうとしていた浜田とは、そもそも立ち位置が違っていたことです。

 では、浜田のこの矛盾した態度は、どこに由来するのでしょうか。分裂病治療の根本姿勢という最も肝心な点では多少なりとも著者に与していたことからすると、分裂病症状出現の原因を明らかにすることに対する抵抗の結果と考えてよいのでしょうか。

 浜田は、著者の地域精神医療活動と出会う4年ほど前の 1961 年に、その後の診療や研究に大きな影響を及ぼすことになる経験をしていました。よほど重要な事例と考えていたからなのでしょうが、浜田は、この経験について何度か書いています。この一連のレビューでも、「書評――2.『精神分裂病患者の社会生活指導』の註 16 に詳述しておきましたが、それをここで簡単に再説しておきます。30 年もの間、院内作業に従事していた 60 代の女性入院患者に、症状も終始安定していたため退院を勧めたところ、その晩から「激しい被害妄想、幻聴に悩まされ、精神運動興奮に入った」のでした。

 この場合、「『再発と私の診察が、全く偶然に一致したとは思えない』と考えるのが自然」であったにもかかわらず、当時の浜田は、「『心因反応にしてはあまりにも分裂病様症状そのものだなあ。おかしなこともあるものだ』ぐらいで深く考えてみようとしていなかった」(浜田、2001年、7-8ページ)のでした。そうすると、「心因反応」として、両者の間に因果関係があることを認めていたにもかかわらず、分裂病の再発とは思い至らなかったことになります。

 しかしながら、それでは、分裂病患者が分裂病症状のようなものを、心因反応という形をとって起こしたことになり、病因論として奇妙なことになってしまいます。にもかかわらず、浜田は、その奇妙さに気づかなかったことになるので、その理由がどうしても必要になります。浜田のとらえかたを別の角度から眺めると、分裂病症状が心理的原因によって起こるとまでは思いつかなかったことになるでしょう。そのように考えると、この点が、ことの核心に近いのではないかと思われます。

 1965 年に著者と出会った後に、この事例を思い出した浜田は、これを再発ととらえ直し、その “原因” をあらためて考えたわけです。そして、「金もない。身寄りもない。技術もない。家もない。立っている場がない」女性を、「出て行け」と追い出そうとしたことがその原因に違いないと(科学的根拠なく)即断し、それを、「私のひとつの原体験」としたのでした(浜田、1985年、81-82 ページ)。これでは、追いつめられたことがこの再発の原因ということになり、その後の分裂病原因論は偏ったままになってしまいます。とはいえ、浜田は、全例についてかどうかはわからないにしても、その頃から分裂病症状の再発には心理的原因が存在することを想定していたことになります。

 先述のように著者は、自ら観察した事実に従って、そのつど理論を更新していました。それに対して浜田は、著者に触発されたたため、当初こそその考えかたに近かったのかもしれませんが、著者の理論の変遷に同調することも追随することもありませんでした。

 「確かにその霊験あらたかな症例があったことも事実で、私達の眼前で『よくなってしまう症例』を見せられたものです」(浜田、1986年、 256 ページ)として、浜田は、その後も著者の方法に即時の治療効果があったことを率直に認めていますし、この方法を利用して、症状の消失に自力で成功したことも何度かありました(浜田、 2001年、150-151、202 ページ)。また、最晩年になっても、「たしかにとてもその理論を説明するに都合のいい実例があったことは否定しない」と明言しています。にもかかわらず、「『小坂理論』と称するものは、現在ここで論ずる価値はない。歴史に残す意味もない」と、なぜか全否定しているのです(浜田、2010年、153、161 ページ)。このように完全に矛盾した態度が 40 年近くにもわたって続いていたとすれば、そこにはやはり大きな理由がなければなりません。

分裂病原因論の核心はどこにあるのか――生活臨床との比較から

 本稿は、著者が出版した4点の著書のレビューの最後に当たるので、本節では、書籍のレビューの枠から逸脱することに加えて、本書出版当時の小坂理論からも少々離れ、分裂病原因論の核心という問題について手短に検討したいと思います。この問題は、長年にわたって浜田が示し続けたアンビバレンツの理由にも関係しているはずです。

 その手がかりになりそうなことは、他にもいくつかあります。有力なものとしては、生活臨床(たとえば、伊勢田、小川、長谷川、2012年)やオープンダイアローグ(たとえば、Bergstrom et al., 2017)、べてるの家の当事者研究(たとえば、浦河べてるの家、2005年)など、比較的最近になって登場した対応法によっても治療効果があがっているという事実があげられるでしょう[註15]

 周知のようにこれらは、薬物療法を主体とする本流から多少なりとも離れているわけですが、いずれも、それなりに有効な方法として専門家に受け入れられています。それに対して、小坂理論と呼ばれる著者の分裂病原因論は、精神医学史上でも最重要の発見であるにもかかわらず、現段階ではそれらとは正反対の扱いを受け、忌避されたり、ほぼ完全に無視されたりしているわけです。したがって、問題は、これほど極端な違いが生まれなければならないのはなぜかということです。

 換言すれば、これらの方法と小坂理論の決定的な違いは、専門家に強い抵抗を引き起こすかどうかという点にもあるということです[註16]。これは、小坂療法が異端的な扱いを受けている理由を解明するための重要な手がかりになりそうです。手がかりになりそうなことは、もうひとつあります。それは、小坂理論の発展史の中で、専門家に忌避され、無視されるようになったのはどの時点かを明らかにすることです。そして、いささか同語反復的ところはありますが、このふたつの検討法――いわば横断的な方法と縦断的な方法――によって得られた結果が一致すれば、それが当たっている可能性は高くなるはずです。

 次に、先の3通りの分裂病対応法のうち、初期の小坂療法に最も近い生活臨床を代表例としてとりあげ、両者の決定的な違いがどこにあるのかを明らかにすることにします。他のふたつと小坂療法の関係については、上述のそれぞれのレビューでふれておいたので、関心のある方は参照してください。

 最近の生活臨床は、江熊要一らが開発した、患者に生活規制を課すのを旨とする原法とは少々異なっているようです。著者の場合ほど徹底的なものではないにしても、患者に自己決定させたうえで、治療者側が、その「指向する課題」をかなえるための援助をしてゆくのです。その結果、場合によっては劇的な好転が起こるそうです。

改良版生活臨床略説

 いわば改良版の生活臨床は、分裂病を、脳に生物学的障害のある疾患ととらえながらも、「何らかの生活上の出来事を引き金に発症する」と考える「再発心因論」に与しています。ただし、心因論と銘打ってはいても、「研究方法論上の制約」があるため、発病の原因を突き止めることはできないという立場に立っています。

 生活臨床が対象にするのは、主として、発病して間もない、社会にいる分裂病患者です。生活臨床は、そもそも地域精神医療の一環なので、実生活の場面を「診断と治療の場」としています。患者を、入院させずに社会生活が続けられるようにすることを目指すわけですが、そのためには、再発や慢性化を予防しなければなりません。しかるに、再発の「原因」になるものは、純粋な心理的原因ではなく、初期の小坂療法と同じく「具体的な日常生活の出来事」です。「原因」となる生活上の出来事が推測できる場合には、当初の方法に従って、それを回避させることもあるそうですが、それよりはむしろ、その問題を解決したり、「指向する課題」の達成を支援したりすることのほうに重点が置かれます。

 「脱施設化の理念」[註17]のもとに、症状よりも生活を重視し、再発の予防そのものを目標とするのではなく、社会へ適応させ、社会参加を促すため、患者の「生活相談と生活支援」にとり組みます。それは、再発の予防自体を目指そうとすると、再発を招きやすい就学や就労などの社会参加を患者が避ける傾向をかえって強めることになり、その結果として、病院や施設に入る可能性が高まることが懸念されるからです。

 「役立つものは何でも取り入れる折衷主義」をとり、薬物療法や電気けいれん療法も併用しながら、「海外で開発された特定の技法にこだわらず」、森田療法をはじめとする、他の心理療法の手法からも積極的に学びとります。何かをとり入れる場合でもそれを絶対視するのではなく、創意工夫を施して実際に役立つように調整し、それを応用する姿勢に徹するのです。そのためにも、治療者側の「上下関係を廃し、自由に発言できる雰囲気」を絶えず醸成しなければなりません。自説にこだわって議論の発展を妨げてはならず、「学術的」「理論的」「抽象的」な解釈に陥ることを避ける努力をたゆみなく続ける必要もあります。(伊勢田、小川、長谷川、2012年、3-6 ページ)

 「何らかの生活上の出来事を引き金に発症する」としながら、発病の原因を突き止めることはできないと断定する理由は測りかねますが、それ以外は、基本理念も含めて、著者の初期の姿勢とほとんど同じです。そこで、発病の原因を突き止めることはできないとする理由はどこにあるのかという疑問を念頭に置きながら、実際の事例を検討してみることにしましょう。

江熊要一が報告した事例

 劇的な好転例は、江熊らの原法の時代からあったようです。江熊らは、著者が原因の “抑圧” を発見するまで使っていたのとほとんど同じ方法を使うこともありました。ここでは、そうした手法を利用した事例に関する、江熊自身による報告を引用します。

 退院してはすぐに幻覚妄想が再燃してしまう統合失調症の患者がいた。主治医の江熊は、なぜ退院すると再発してしまうのかを探るために生活場面での患者を観察すべく、家庭訪問に出かけた。患者の外泊に同行したところ、家に近づくにしたがって患者の表情が硬くなってきたのに気がついた。あたりを見渡すと、近所の人たちが患者の悪口を言っている「声」が「実際に」聞こえたのである。これが再発の「原因」と直感し(生活場面での診断)、患者とともに近所の家に挨拶回りをして、近所の人たちの受け入れを改善する支援をした(生活場面での生活支援による治療)。
 そうしたところ、今までにない長期の安定した家庭生活が続いた。次の再発は、田植えができないことが原因であることがわかり、医局員を動員して田植えをやってのけたところ、幻覚妄想状態から回復した。翌年の田植えでは耕運機を購入するように助言し、自分たちで田植えができるようになって、再発を予防することができた(生活支援による再発予防)。(同書、4-5 ページ)

 患者とともに近所の家のあいさつ回りをしたところ、再発を回避することができたという前半の経過は、現象的にはその通りなのかもしれませんが、だからといって、近所の人たちの悪口が再発の原因だと断定してよいことにはなりません。この場合、周囲の無理解による、あるいは周囲の差別によるストレスのようなものが暗に想定されているはずですが、そうした想定が正しいことが自明なわけではないからです[註18]

 たとえば、幸福否定という角度から眺めた場合、それが当たっているかどうかは別にして、周囲の人たちが、自分をかけ値なしに率直に評している事実がはっきりわかることが再発の原因に関係している可能性を考えることもできます。もしそうであれば、治療者が一緒に挨拶に回ってくれたことで、周囲の人たちが同情という、一種の差別感をもって患者と接するようになり、その結果として再発が回避されたという可能性も考えられないではありません[註19]。この奇妙な推定が当たっているかどうかはもちろんわかりませんが、このように他の可能性が考えられる限り、先のように断定してよいことにはならないはずです。

 また、後半の、「医局員を動員して田植えをやってのけた」ところ、幻覚妄想状態から抜け出したという見かけの因果関係が正しい[註20]としても、それによって、この時の再発の原因を「田植えができないこと」と断定してよいわけでもありません。「翌年の田植えでは耕運機を購入」したことで、自分たちで田植えができるようになり、再発が予防できたという経過が正しいとして、そのことから推定すると、たとえば、近所の人に頭を下げて手助けを頼めないことが再発の原因に関係している可能性などが、この場合も考えられるからです。「研究方法論上の制約」があるため、発病の原因を突き止めることはできないという立場に立っているのは、このように、さまざまな理由が考えられることを見越したうえでの判断だったのでしょうか。

 それに対して、著者は、推定された原因を患者に指摘し、それによって症状が目の前で消えるかどうかを見ることで、原因を確定するという方法をとっていたわけです。ところが、生活臨床派は、浜田と違って、著者のそうした主張を全面的に否定したのでした。

「再発心因論」という微妙な立場

 群馬大学精神科の教授を務めていた、江熊の上司であった臺(うてな)弘は、「再発心因論」に与していたわけではなく、「それ〔分裂病発病〕を成立させる諸因子のどれが主役であるかは症例によって異るにしても多因子現象」と考えていました(臺、1965 年、333 ページ)。そのこともあってか、1970 年頃の著者を批判して、1978 年の時点で次のように述べています。「生活臨床の考え方に強く影響された小坂さんは、これを分裂病の発病原因とみなすようになり、いわゆる分裂病家族因説にいちずにのめり込んでしまった」(臺、1978年、6ページ)。

 しかしながら、生活臨床でもその後は「再発心因論」を標榜するようになるわけです。このような矛盾らしきものが起こるのは、なぜなのでしょうか。それは、生活臨床が立場を少々変更したためだけではないはずです。その焦点は、後に「再発心因論」という立場を表明しておきながら、再発の原因は「具体的な日常生活の出来事」であって、純粋な心理的原因ではないという、あいまいな姿勢を続けていることにあるのではないかと思います。

 とはいえ、心理的原因を追究しないのは、本当に「研究方法論上の制約」があるためなのでしょうか。生活臨床と決別した後の著者の理論の展開を、生活臨床派も当然のことながら承知していました。そのことから判断すると、「発病の原因を突き止めることはできない」とする立場を崩そうとしないのは、私のいう抵抗の結果という可能性が高そうです。

 たとえば、「かわいがっていた犬が急死してから寝込んで〔昏迷状態になって〕しまった」のであれば、生活臨床派や初期の著者のように、別の犬を買い与えればよいのかもしれませんが、娘が受けた手術が無意味だったことをふたりの医師から指摘された直後に再発したのが事実であれば、それが「具体的な日常生活の出来事」であったとしても、生活臨床では対応できないことになります。

 それに対して、著者の言うように、その出来事に関係する心の動きが意識から消え去っており、それを思い出させることで瞬時に症状が消えるのが事実だとすれば、著者の提唱する仮説が正しいことになるはずです。そうであれば、生活臨床では、真の意味での心理的原因を探究することに、強い抵抗が働いているという先の推定が当たっていることになるでしょう。この点は、著者の言うように、やはり実証的な証拠に基づいて判断すべきなのであって、最初から「発病の原因を突き止めることはできない」と断定してすませるべきではありません。

 このように考えると、オープンダイアローグはもちろん、べてるの家の当事者研究でも、症状の原因を追及することをしていないのは、やはり抵抗の結果と考えることができるでしょう。そうすると、著者やその理論が忌避され、無視されるようになったのは、著者が真の意味での心理的原因を探り出したことに関係している可能性がやはり高そうです。

 既に答えは出たようにも思いますが、同語反復になることをいとわず、念のため、小坂療法が専門家から相手にされなくなったのはどの時点かを検討することにしましょう。

専門家が小坂療法を忌避するようになった時点

 専門家に大きな抵抗を起こさせることのない、先の3通りの方法論と小坂療法の間に決定的な違いがあることは、最初からはっきりしています。言うまでもなくそれは、小坂療法が、症状出現の心理的原因を、反応という客観的指標を使って特定し、意識から消え去っているその記憶を引き出すことで、抗精神病薬の使用とは無関係に症状を瞬時に消失させるという手続きをとることです。その経過がくり返し再現されることで、精神分裂病の少なくとも急性症状は、全面的に心理的原因によって起こるものであることが確定されるわけです[註21]

 ここでの問題は、小坂療法に対する専門家の抵抗が強くなったのが、この原因論を著者が唱えるようになった時点とみてよいかどうかです。この問題については、実は、拙著『幸福否定の構造』の中で既に検討しているので、次にその結論部を引用します。そこに至るまでの経過に関心のある方は、原著を参照していただければ幸甚です。

 これまで述べてきた経過を見るとはっきりするが、小坂療法(というよりも、現象的には、むしろ小坂個人)に対する異常な攻撃が始まったのは、まさに小坂が抑圧解除法を提唱して間もない頃であった。〔中略〕しかし、小坂療法に対する抵抗が決定的に強くなったのは、自罰的な形で抑圧解除をさせるようになった後であろう。出版物で言えば、『精神分裂病読本』(小坂、1972 年)が公刊された〔より〕後からである。その頃から、学界では、小坂療法の存在そのものが、ほぼ抹殺されるようになったのである。(笠原、2003 年、222-223 ページ)

 先にふれておいたように、本書については笠原嘉による書評が専門誌に出ているので、抵抗が強くなっていたとはいえ、そのしばらく後と比べれば、まだ弱かったことになります。ただし、ここには大きな謎があります。この引用文にあるように、小坂理論に対する抵抗が本格的に強くなったのが、本人の責任で再発するという理論を著者が提唱するようになった直後だとすれば、その理論が発表されたのは、1973年9月に発行された「小坂教室テキストシリーズ」の第5号「再発の研究」の中なので、先ほど述べた通り、それは、小坂教室の関係者以外には目にふれることのなかったものだからです。

 この点については、どう考えればよいのでしょうか。上述の私の推定がまちがっており、小坂療法や著者に対する抵抗が極度に強くなったのは、実際には本書の、あるいは前著(『患者と家族のための精神分裂病理論』)の出版が契機になっているのであって、笠原嘉の書評は例外的なものだったと考えるべきなのでしょうか。この少々複雑な問題を整理すると、次のようになります。

 後者の場合、関係者以外には目にふれることのない情報が、専門家や世間一般の人々にまで影響を及ぼしたことを想定する必要があります。これは非常に考えにくいことであるはずです。常識的な立場に立てば、(1)の可能性が高いことになるわけですが、本当のところはどうなのでしょうか。

 いずれにしても、当事者や家族のみならず、専門家が強い抵抗を起こすのは、さらには世間一般の人たちも強い抵抗を示すのは、分裂病という精神疾患が心因性のものであることを、なぜか認めたがらない人類全体の “性向” らしきものにあるように思います。とはいえ、そうした性向を人間がもっているとすれば、それはどのような経過で身につけたものなのでしょうか。ここには、分裂病という問題をはるかに越えた、人間の謎を解くための大きな手がかりが隠されているのはまちがいありません。

憶測的まとめ

 浜田はわずかながら違っていたわけですが、生活臨床派やべてるの家の当事者研究もオープンダイアローグ派も、要するに患者が生活しやすくなる方法を模索するという医療や福祉の立場に、当然のことながら立っているのに対して、著者はそうではありませんでした。科学の原点に立ち、真の意味での原因を明らかにすることを通じて、薬を使うことなく患者に社会生活を送らせながら分裂病を治癒させようとする立場に徹していたのです。当事者からばかりか周囲からも強い抵抗を受けながらたゆみない努力を続けた結果、少なくとも一部の患者では、それにほぼ成功していました。にもかかわらず、著者の業績や存在がほぼ完全に抹殺されるような事態に陥ってしまっているわけです。この状態は、いつまでかわりませんが、しばらくは続くことでしょう。

 浜田も生活臨床派も、分裂病症状出現の “原因” をそれなりに探り出し、それによって幻覚・妄想を中心とする分裂病症状を消失させることに多少なりとも成功しているわけですが、にもかかわらず、その先を行っていた著者に対しては、その理論ばかりか存在をも否定するというふしぎな態度を貫いてきたのです。

 検討の結果、それは、本書を出版した段階ではまだ不十分なものではありましたが、分裂病症状を引き起こす真の意味での原因を著者が突き止めたことに関係していることが、ほぼ明らかになったように思います。その抵抗は、著者が自罰的な形で “抑圧解除” を行なうに至った時点で、さらに強くなったようにも思われますが、そうであるとしても、それはまだ少し先のことです。

 いずれにしても、精神分裂病という難治性の精神疾患は、純然たる心理的原因によって起こることが明確になったわけです。特に、当事者の責任で症状が出現するとなると、分裂病の症状とされるものは、ストレスのような周囲からの負荷によって起こるものではなく、自己完結的な独り芝居類似のものと考えざるをえなくなります。そこに当事者の強い抵抗が働くのはまちがいないとしても、問題は、その強さが尋常一様のものではないことです。

 もうひとつ、ふしぎなのは、専門家の抵抗はそれなりに説明できるとしても、分裂病とは無関係のはずの世間一般の人たちにも、この仕組みを直視することに対して強い抵抗が起こるらしいことです[註22]。がん治療については、論争では明らかに負けているにもかかわらず、専門家側は、患者の多くが近藤誠の主張や見解に納得したという現実を無視できなかったからこそ、不承不承ではあっても、わが国のがん治療のありかたを大なり小なり変更せざるをえなくなったという経緯があります。そうした事実と照らし合わせると、著者がこのうえなく奇妙かつ不当な扱いを受けていることがより明確になるはずです。

 したがって、著者がそうした扱いを受け続けている理由を明らかにするには、まず、専門家ばかりか世間一般の人たちも、この問題に対してなぜ強い抵抗を起こすのか、その理由を明らかにする必要がありそうです。そのためには、“抑圧解除” をすると、患者が反社会的な言動をするようになるのはなぜなのか、著者がイヤラシイ再発と呼んだ状態に陥るのはなぜなのかなど、これまで把握されてきた分裂病の謎を解明することから始めなければならないでしょう。どうやら、これらはすべてつながった問題のようなのです。

 著者は、最終的に分裂病の復讐理論を唱えたわけですが、一見したところではそれは正しくないようです。しかし、著者は、おそらく 40 年近くにわたってなぜか復讐理論を放棄しませんでした。そこには、やはりそれなりの理由があるのでしょう。分裂病は、まだまだ多くの謎に包まれた疾患であり “生きかた” であるのはまちがいないように思います。本書は、そうした謎に迫るための一里塚になっているのです。

[註1]「改訂版・精神衛生活動の手引き」というサブタイトルが付されているのは、栃木県精神衛生相談所時代の 1966 年に出した『精神衛生活動の手引き』(「小坂英世著作目録」参照)の「技術論をふまえた改訂版」という位置づけで出版されたためである(本書「あとがき」)。

[註2]私が聞いたことがあるのは、「街中で、いつも大きな登山靴を履いている」という、小坂療法とは何の関係もない人格攻撃的なうわさが、精神科医たちの間で好んで流されたことである。私が会った頃に履いていたのは、今の若者たちがふつうに履いているより控えめな、ふつうのチロリアン・シューズであった。登山や渓流釣りを趣味とする小坂は、少々重い靴を日常的に履いて、脚を鍛えていたのである。
 「小坂は、自殺者が出たので、ネパールに逃げてしまった」などの話を聞いたこともある。後ほどふれるように、著者がネパールに出かけたのは、本書を出版した後に予定されていたことなので、これも完全に事実に反している。ちなみに、浜田は、自らのクリニックで診察した患者の中で自殺を遂げた者の実数を公表しているが、それは、転帰の把握できた 1150 名の分裂病患者のうち、 43 名(3.7 パーセント)にものぼるのである(浜田、2006年、21 ページ)。分裂病患者の自殺件数は非常に多いということにほかならない。
 小坂が公の場からいったん姿を消した後にも、多くのうわさが流されたようである。浜田は、1985 年に開催された、家族療法に関するシンポジウムの講演で、次のように発言している。「昭和五十一年六月のパンフ〔1976 年6月発行の「小坂教室テキストシリーズ」第 11 号「私の病因論と治療法」という小冊子〕を最後に、彼は消えました。その後の話は暗い話ばかりです。彼一家はマンションを転々とし、神奈川の大秦野という山奥に、家出をした患者達との共同住居をつくったが、入る人がなくなってしまったとか……、抑圧解除され家出した人が自殺した……、興奮して上妻病院に数多く入院した(彼は入院絶対反対論者の急先鋒だったはず)……、小坂夫人苦労の連続で白髪に……、などなど」(浜田、1986 年、263 ページ)。いずれも根拠のない歪曲や流言であり、心の専門家たる精神科医たちが語り伝えるべき話ではない。

[註3]この調査行の結果については、どこにも書かれていないが、ネパールの分裂病もわが国の場合と比べて、特に違っているわけではないようだと、私は著者から聞いたことがある。
 ただし、差別意識という要因とはおそらく無関係に、分裂病の重症度や予後が文化圏によって異なることは、その後に明らかにされている。WHO(世界保健機構)が行なった調査によれば、アグラ(インド)、カリ(コロンビア)、イバダン(ナイジェリア)の患者は、オールフス(デンマーク)、モスクワ、ロンドンの患者よりも経過や予後がよかったのである(Satorious, Jablensky & Shapiro, 1977, p. 535;World Health Organization, 1979)。その調査と相前後して、マサチューセッツ精神保健センターのナンシー・ワクスラーがスリランカの農村部で行なった、かなり厳密な調査でも、先進諸国の分裂病患者と比較すると、スリランカ農村部では、臨床的にも社会的にも予後が格段によかったとされているのである。従来的な分裂病観からすれば、「患者がどの社会で見つかるにしても、分裂病はそれ自体、基本的に同じ現われ方をすると考えなければならない」(Waxler, 1979, p. 145)にもかかわらず、そのような結果が得られたということである。ヴァージニア大学精神科のイアン・スティーヴンソンは、「それが事実なら、何よりも精神疾患にまつわる信仰が、その生成過程に重大な影響を及ぼすと言っても過言ではないように思う」と述べている(Stevenson, 1979, p. 159)。文化的、社会的要因が、重症度や経過や予後に大なり小なり関与するということである。

[註4]しかしながら、特に後者については、控え目に見ても奇妙であるように思う。ウェブ検索してみればわかるが、その対談が収録されている刊行物(『The New Brain』)は、関係者以外にはほとんど知られることのない性質のものだからである。ちなみに、2000年頃まで、著者がこのふたつの対談で十分と考えていたとすれば、1976 年以降の著者の考えは、その中でほぼ語り尽くされているとみてよいのかもしれない。

[註5]最後まで残った患者からある程度は聞きとることができたが、それだけで著者の理論を正確に把握することは、残念ながら不可能である。著者の盟友であった岡田靖雄は、今から 20 年ほど前に、この問題に関連して、資料が大量に残されていたとしても、「集めた資料の意味づけは、本人でなければ十分にわからぬ面が多い」ため、「自分がやりかけた仕事は生きているうちに仕上げなくてはだめ」と断言していた(岡田、1998年、62 ページ)。

[註6]最も簡単なのは、オンデマンド出版であろう。これは、共著者やその遺族から許可が得られさえすればすぐにでも可能である。ちなみに、かつて著者が在籍していた都立松沢病院の医局図書室には、同病院の精神科部長を務めていた林直樹により、前著『患者と家族のための精神分裂病理論』とともに、本書が収められている。なお、林は、小坂理論を専門誌に簡単に紹介する論考(林、2010年)も発表している。

[註7]ただし、実際にはそうではないようである。たとえば、浜田は、これらのやりとりからわかる以上に激していた(著者に殴りかかった)ことを、1973 年秋に私は著者から聞いたことがある。

[註8]私は、1974 年頃に、小坂教室でたまたまZ子に会ったことがある。分裂病とはとても思えないほどきちんとした、著者が優等生と認める女性であった。ちなみに、Z子の実弟も分裂病で、別の日にやはり小坂教室で会ったことがある。

[註9]『精神分裂病の社会生活指導』の書評は3誌に掲載されている(「小坂英世著作目録」参照)が、『患者と家族のための精神分裂病理論』の書評は1編もない。この著書が精神科関係の専門文献にとりあげられたのは、私が調べた範囲では、『現代精神医学大系』の『第5巻 A 精神科治療学 I』(中山書店、1978年)の中のみであるが、そこには著者は、「『患者と家族のための精神分裂病理論』を……出版し、家族の病者への理解を訴え」ている(鈴木、1978 年、370 ページ)として、誤って紹介されている。かつての私の同僚でもあったこの評者は、同書に一度も目を通すことなくこの一文を書いたことになる。

[註10]例外的な事例としては、長年続いていた被害関係妄想を、事実を直視することで自発的に解決した男性の驚くべき事例がある(佐々木、高松、2004年、216-218 ページ)。

[註11]分裂病の本質という点では、おそらく第2の仮面のほうがはるかに重要である。現段階で説明するのは難しいが、これは、将来的には最も注目すべき焦点になるはずである。
 後者について著者は、原因に関する記憶が消えておらず、したがって芝居類似のものとみていた。しかしながら、著者のこの主張には疑問が残る。その後の小坂理論は、ライバル理論を経て、最終的に復讐理論に辿り着くわけであるが、生涯を通じてそのような芝居を続けるのが事実だとすると、その動機はどこにあるのかという疑問がまず生ずる。著者はそれを、親に対する積年の激烈なうらみに求めるのであるが、そうすると、それでは説明できない現象を無視することになってしまう。最も困るのは、浜田が報告したいくつかの事例である。それは、分裂病を発病しなかった兄弟姉妹たちが、介護が必要になった親の世話をしようとしないのに対して、“欠陥状態” にあった患者が親の世話を、最後までかいがいしくするようになったという事例である。にもかかわらず、症状はかえって落ち着いたという(たとえば、浜田、1994年、223-229 ページ;浜田、2006年、64-65 ページ)。これらの経過を、分裂病の復讐理論で説明するとすれば、どうすればよいのであろうか。

[註12]著者の治療を受けている中でイヤラシイ再発を起こして上妻病院に入院している十数名の患者に、私は著者の依頼を受けて3回にわたって面接したことがある。私自身も、イヤラシイ再発を起こした患者を少なからず経験しているが、その対応はやはり相当に難しい。

[註13]ケアマネージャとして訪問看護をしていたある看護婦から、在宅患者の中には、病院に入院している患者よりもはるかに重症な者が多いので驚いたという話を聞いたことがある。浜田も、分裂病について同様の感想を抱いていた。この看護婦は、中堅の一般病院で婦長をしていたが、病院で患者を待っているだけの看護に飽き足らず、収入が半減することもいとわず訪問看護婦に転身していた。
 ちなみに、浜田は、この座談会の中で、非常に興味深い脳障害の事例を紹介している。私が調べた範囲では他に報告されているわけではなさそうなので、ここに簡単に紹介しておきたい。脳腫瘍の手術後の後遺症が問題になった若い男性医師の事例である。術後に引きこもり、家族にひどい暴力を振るって、ふてくされるようになった。それを聞き知った浜田は、最初、脳手術による性格変化のためなので、治療の対象にはならないと考えた。ところが、話を聞いていると、脳手術の過程でさまざまな問題のあったことがわかった。

 3回手術をしたわけですが1回めの手術のあと医者が「お前は運がよかった。完全に手術でとった。前の教授なら命がなかっただろう。ただ今度ここへ来る時は命がないだろう」と言っている。ところがそのうちにまたいろいろ症状がでてきた。本人は病院に行きたくなかった。もう、今度、病院に行ったら終わりだということで。だけど、頭がガンガン痛くて吐くし、最後のぎりぎりまでがんばったがもうどうしようもなくて病院へ行く。そこでまた手術をやり、これは比較的うまくいったんですよ。症状もすっかりとれた。ところがですね。その手術後、脳外科医が、眼の部分にも血管腫があるから3回めの手術が必要だと。いっぽう眼科の医者に診てもらったところ、必要はないと本人の前ではっきり言った。むずかしい手術だし、本人もどうしてもやりたくなかった。
 ところが外科医は、これはどんどん大きくなっている。どうしても手術しろと言う。そこで家族は外科の医者の方針をとったわけですが、猛烈に患者をせめたわけです。頼むから、手術をしてくれと。患者はクタクタになってしまってどうにでもなるようになれと。で、手術されたわけです。ところがまんまと失敗して、片眼が見えなくなった。医者として、彼は「自分は一生を台なしにされてしまった」と思う。眼が見えなくなった。その責任をとれと親にせまった。ふてくされて外にでなくなっちゃったわけですよ。
 僕はそういうことを本人からはじめ聞いていたわけですが、そうしたら患者がびっくりしましてね。「そんなことを聞いてくれた人はひとりもいなかった。手術して1年になるんだけど、医者も看護婦もOTもケースワーカーもだれも知らん顔をしていた。けしからん」というわけです。「そこなんですよ。私がいちばん悩んでいたのはそれだったんですよ」と。それからガラッと態度が変わっちゃったわけです。今では大学の研究室にかよっています。(285-286 ページ)

[註14]著者の紹介を得て、1974年 11 月初旬に松沢病院(社会精神医学研究室)で私が浜田にインタビューした時にも、著者に対する浜田のアンビバレンツは顕著に見られた。本書の出版は、その2年ほど前に当たる。

[註15]生活臨床については、「小坂療法――1」を、べてるの家の「当事者研究」については、「書評 当事者研究――2」、オープンダイアローグについては、「書評 オープンダイアローグ 1」を参照されたい。

[註16]強い抵抗を起こすのは、専門家に限られないことが、私の検討によって明らかになっている(笠原、2003年、第8章)。これは、実にふしぎな現象であり、ここにこそ、分裂病という生きかたの謎に迫るための最有力の手がかりがあるように思う。

[註17]「脱施設化」の潮流は、分裂病の妹をもっていた、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領の提案から始まり、世界的な広がりを見せているのは事実であるが、当のアメリカでは、世界の中でもそれが「最悪」の状況にあるという(トーリー、1997年、7 ページ)。イタリアもそうなのかもしれないが、政治的な主導によって華々しい船出をしたとしても、「タイタニック号がすぐに沈没したように」(同書、24ページ)、支える側の準備ができていなければ、早晩、悲惨な状態に陥ってしまう。そうした要請をかなえるための態勢を整えるのは、実際には難しい。そのような実態を鑑みれば、生活臨床の実践は、世界的な視野で見ても大きな成功を収めた部類に入るのかもしれない。

[註18]この問題については、拙著『加害者と被害者のトラウマ――PTSD理論は正しいか』を参照されたい。

[註19]分裂病症状の原因が他の心因性疾患の原因と異なるのは、たとえば、浜田の言うように、「上司からどなられ」て(同書、155 ページ)、あるいは友人からほめられて異常な興奮状態に陥る(下田、2001年、143-144 ページ)ような、他の心因性疾患には見られない発症形態が存在することである。これらは、ふつうの人間として処遇された時に再発するという可能性を示唆するものである。この問題については、拙著『幸福否定の構造』第6章を参照されたい。

[註20]浜田は、かつて著者が観察した事例とほぼ同様の事例(小坂、1970年、6-9 ページ)を報告している。それは、腕時計をなくしたことで再発し、母親に話して買い与えたら症状が治まったという事例である。浜田が経験した事例は、次の通りである。近所の寿司屋の主人が死んだ。その前に患者は、「お寿司屋のだんなが亡くなったらどうなるのかねえ」と、義姉に何度も聞いていた。それから再発したが、「義姉がそれに気づいてお寿司を別の店から買ってきたら、とたんに元気になったという」(浜田、2006年、48 ページ)。
 著者は、腕時計をなくして再発したという経過を聞いて、代わりの腕時計を買い与えることで再発を解決する方法を見つけ出したわけであるが、浜田は、「お寿司を食べるのが楽しみだったんですね」という義姉の言葉を紹介するだけで、著者のように何らかの方法を模索することはしなかった。ここには、大きな断絶がある。

[註21]慢性症状についても、同様の方法で解消させることができる。公刊されている実例としては、著者に宛てられた私信で、慢性分裂病患者の姉が報告したもの(小坂、1971年)がある。

[註22]註16でもふれておいたが、この問題については、後に私自身が、かなり時間をかけて検討し、この抵抗が、世間一般の人たちにも非常に強く見られるらしいことを突き止めている(笠原、2003年、第8章)。

参考文献

2019年12月31日
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