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 書評 オープンダイアローグ 1.『オープンダイアローグとは何か』






『オープンダイアローグとは何か』(医学書院、2015/6/22 刊行)
斎藤環(著, 翻訳)
A5版、208 ページ

オープンダイアローグの方法とそれによる経過

 本書は、ひと通りの知識を身につけたうえで、ある程度にせよ専門的な論文を読み進めることができる形になっている「オープンダイアローグ」という技法の恰好の入門書です。「そう遠くない将来において、精神科薬物療法をはじめとする身体療法はその進歩の限界を迎えて長い停滞期に入る」(斎藤、2015年、166 ページ)ことを予測している著者は、わが国でのこの技法の普及を目指しているのです。

 その一方で、わが国にこの技法を導入することは容易ではないどころか、「薬物療法一辺倒だった精神科医からきわめて大きな抵抗が起こる」(本書、75 ページ)ことを完全に承知しているにもかかわらず、著者は、その強い意志を堂々と表明しています。このような高い志は、少なくともわが国の精神科医には、稀にしか見られないもののように思います。

 オープンダイアローグ(開かれた対話)という技法が精神科領域できわめて重要だと思われるのは、進行性で難治性とされる統合失調症をその中心に置いているためです。現段階では、統合失調症には、周知の通り薬物療法が必須とされ、それ以外の方法は、せいぜいのところそれを補完する副次的なものとされているにすぎないわけです。それで治療成績がよければ問題はないのですが、昔の教科書(たとえば、内村、1948年)を参照すればわかるように、実際には抗精神病薬がなかった時代と、おそらく大差のない状況が依然として続いているのです。

 現在主流になっている治療法に将来性がないことは、最近、欧米の一流医学誌に相次いで発表された長期観察に基づく研究によっても裏づけられるように思います(たとえば、Harrow, Jobe & Faull, 2014; Leucht et al., 2017)。

 従来の精神医療でも既に旧弊に属していた問題は、もうひとつあります。それは、“病識” のない、特に初発の精神病患者をいかにして入院させ、治療に結びつけるかという問題です。現在の精神保健法による“任意入院” 以外では、現在でも、昔と同じような状況が続いているようです。患者を「無理矢理簀巻きにして救急病院に連れていき、そこで鎮静させ、一晩置くと今度は別の病院〔精神科〕に移されていく」(精神科医、滝川一廣の発言。清水、2016 年、37 ページ)ことすら、今なお一部で行なわれているのだそうです。患者自身からすれば拉致のようなもので、そこには人権もなければ人間の尊厳もありません。

 もうひとつ重要なのは、多くの場合、精神科医の技術的専門性がそれほど高くないことです[註1]。あるケアマネジャーから聞いた話ですが、玄関先で家族が興奮するため訪問先に入れないという事態が繰り返されたことで困り果て、その自治体の顧問医の精神科医に同行してもらったところ、その精神科医は、いざという時になって、「何で俺をこんなところに連れて来るんだ」と怒って帰ってしまったのだそうです。そのケアマネジャーは、自力で相手を説得せざるをえませんでした。そして、あろうことか、帰ってからその精神科医に謝ったのだそうです。

 自分の立場もわきまえず、その場で恥をかくのを恐れて逃げ出してしまうとは、いかにも幼児的で、公私混同もはなはだしいと言わざるをえません。このような話を聞くと、診察室以外で、しかも薬を使えない場面ではしろうと以下になってしまう精神科医が、おそらくかなりの割合でいるという深刻な状況が、依然として現在でも続いていることがわかります。オープンダイアローグの発想と、このような権威的構造とは完全に対立します。

 最近、内外の精神科医の一部が、オープンダイアローグやべてるの家の当事者研究などに熱いまなざしを注ぐようになったのは、そのような現状に対して嫌悪感や危機感をもつようになったためなのでしょう。

 オープンダイアローグでは、原則として精神病の初発直後の急性期に、家族から依頼が入ると 24 時間以内に、精神科医、心理士、ソーシャルワーカー、看護師からなる数名前後の「専門家チーム」が結成され、ほとんどの場合は当事者の自宅に出向きます。

 先方に到着すると、当事者および家族、専門家チームの各人が車座になり、全員が対等な立場で自由に対話を行ないます。そこでは、診断が下されることもなければ直接的な介入が行なわれることもありません。そして、白黒をつけず、あいまいな状態のまま対話を進めるのです。当日の具体的な目標も設定されませんし、何らかの結論を出す必要もありません。従来的な立場では、ここで居心地の悪さを感じることになりますが、それをあえて耐えながら対話を進めなければならないわけです。この姿勢は、「不確実性への耐性」と呼ばれます(31 ページ、47 ページ)。

 その一方で、従来のように、誰かの指示に従って受動的に動くのではなく、各メンバーが自発的に率直な発言をするのです。こうして、「自分の武器を全部置いて敵陣に行くみたいな。いわゆる丸腰」(向谷地、2016年、455 ページ)の状態で、つまりは “白紙” の状態で、毎回1時半程度の対話を、当事者が安定するまで連日のように続け、「治療プロセスが完了」するまで、何年であっても同じチームが継続的に担当します(150 ページ)。

 このような手順をくり返すことで、急性症状は、平均で 10 日から 12 日ほどで治まるそうです。2年間の追跡研究の結果では、抗精神病薬が必要だったのはわずか 35 パーセントでした。使ったとしても、ほとんどはより軽い抗不安薬で対応できたということです。

 また、82 パーセントの患者では精神症状はごく軽いかまったく見られず、障害者手当を受けている者は 23 パーセントにすぎませんでした(82 ページ)。また、83 パーセントの患者が職場や学校に復帰したことが明記されています(119 ページ)。以上の定量的データが事実であれば、精神医療にとっては待望久しい、まさしく革新的な治療法ということになるはずです。加えて、入院するかしないかも含め、すべてが当事者自身の意向に基づいて決められます。治療チームには、「透明性を保つ」(47 ページ)という基本姿勢が求められます。そこにも、患者に対する偏見や蔑視は微塵も感じられません。

オープンダイアローグとべてるの家の当事者研究

 著者は、オープンダイアローグとべてるの家の方法論との「親近性」を指摘しています(61-63 ページ)。向谷地生良さんを旗頭とするべてるの家が経験的に編み出すに至った対応法とオープンダイアローグとは、理念的基盤という点でほとんど共通しています。加えて、当事者が現に体験している症状を、異常なものととらえて否定したり無視したりするのではなく、「できるだけ正常の側に引き寄せて解釈」しようとする(137-138 ページ)点でも共通しています。

 ただし、違う点もいくつかあります。ひとつは、ごく一部の例外を除いて服薬を必須としているのに対して、オープンダイアローグでは、先述のように急性期の対応でも薬(抗精神病薬)を使わずにすむ例が7割近くを占めていることです。

 “社会復帰” という側面でも、べてるの家よりもオープンダイアローグのほうが、通常の意味での治療法としては、格段にすぐれているようです。べてるの家の場合には、当事者たちがその庇護のもとで暮らしているのに対して、オープンダイアローグでは、8割強の患者が元の職場や学校という一般社会に復帰しているからです。

 加えて、オープンダイアローグでは、急性期の治療でも原則として入院させずに、1回1時間半程度の対話を十数回繰り返すだけで急性症状が治まるとされているのに対して、べてるの家では、服薬や、ほとんどはごく短期的なもののようですが、入院が必要な場合も時おりはあるようです。

 また、オープンダイアローグでは、症状の残滓が見られない患者が、5年後の時点でも8割ほどに達する(Seikkula et al., 2006, p. 220)のに対して、べてるでは、症状があるのがむしろふつうなのです。したがって、この点でも、オープンダイアローグのほうが圧倒的にすぐれているように見えるわけです。

 当然のことながら、ここで問題になるのは、幻覚・妄想という執拗な症状が好転する理由です。本書や、セイックラ先生のグループ(以下、セイックラ・グループ)による論文をいくつか読んでみると、オープンダイアローグのミーティングによって好転する理由は、大きく分けてふたつあるらしいことがわかります。

 ひとつは、面接の最中に症状が急速に消えてしまうという形をとるものです。もうひとつは、ミーティングを重ねていくうちに、いつのまにか症状が薄れるか消えるという、もっと緩やかな経過を辿るものです。

症状が突然に消えた事例

 前者の経過を示したのは、本書で「ペッカとマイヤの物語」という小見出しのもとに紹介されている事例です。そこには、その時の対話が逐語的に紹介されています(99-107 ページ)。これは、「例外的なケース」だそうで、確かに、セイックラ・グループが発表した当該の論文や著書を調べた範囲では、この種のものを他に見つけることはできませんでした。

 この事例では、ある陰謀に巻き込まれ、その組織の者につけ狙われているという被害関係妄想が、「面接しているうちに消えてしまい、治療から7年経っても再発しなかった」のだそうです。ただしこれは、何らかの技法による成果というよりも、たまたまそのような結果になっただけであり、症状が消えた理由が特定されているわけではありません。オープンダイアローグという技法は、開発から既に 30 年以上経っているわけですが、現在でもなお、その仕組みは不明のままなのです。現に、精神科医の小林隆児先生は、「オープンダイアローグが提唱している急性精神病に対する精神療法はいまだその核心をつかみきれていないのではないか」(小林、2016 年、27 ページ)と、その印象を語っています。

 ペッカの事例で、症状が消えるまでの経過は次の通りです。

 ミーティング開始から 40 分ほどして、マイヤとペッカは発病につながった出来事について話し始めました。ふたりの言葉は、自分たちの身に起こったことを目に見えるように描き出し、それは感動的なものでした。それ以前は脈絡なく断片的な言葉にしかならなかった経験から、ひとつのナラティブをつくり出したのです。
 危機をもたらした出来事について、質問者が注意深くゆっくりした説明を聞き出していくなかで、こうした変化は生じてきました。この会話によって、ペッカは自分の経験を言葉にできるようになり。彼の病的な表現は減少したのです。(101-102 ページ)

 そこで、同席していた心理士が、発病当日に起こった出来事を詳しく聞き出します。その結果、クリスマス休暇を目前にしながら、失業中のペッカには家族にプレゼントを買う余裕がなかったこと、それまで勤めていた職場の経営者が、ボーナスをペッカに渡していなかったこと、そこで困り果てたペッカは、その経営者との関係が悪化するのを懸念しながら、経営者に電話でボーナスの支払いを求めたという出来事です。

 それに対して経営者は、ペッカの要求をはねつけたのみならず、悪しざまにののしったのです。その時、たまたま停電が発生しました。「それで僕にはピンときたんです。何か陰謀がたくらまれているな」という関係づけが、このあたりで始まったようです。「それで電話は終わり?」という医師の問いかけから、次のような対話が続きました。

ペッカ いえ、まだです。僕は続けて、「ゆすってるわけじゃありません。もちろん。でも、もしお願いできるなら、クリスマスのお金が必要なんです」と言いました。
心理士 彼は支払うことを約束してくれたんですか?
ペッカ 彼は「わかった。ちょっと調べてみよう」と言いました。そこで突然、停電になったんです。それで本当に困ってしまって。コンピューターや電源も不安定になるし……それで何となく、彼が僕と連絡をとろうと思ってるんじゃないかと感じて。(103-104 ページ)

 これが、対話を通じて明らかになった、妄想が出現するまでの経過です。とはいえ、これでは、その経営者との電話はどのようにして終わったのかがはっきりしません。「わかった。ちょっと調べてみよう」という言葉を最後に電話を切ったのか、それとももう少しやりとりが続いたのか、ということです。また、「コンピューターや電源も不安定になる」という言葉の前後のつながりもよくわかりません。つまり、妄想状態に陥る直前の流れがはっきりしないのです。

 さらには、その後、経営者から連絡があったのかどうかもわからないままです。ところが、セイックラ先生たちは、それらの点をはっきりさせることなく対話を進めてしまいます。そして、経済的余裕がないため家族にクリスマスプレゼントを買うこともかなわず、そのため、もらえるはずのボーナスを要求したところ、ひどくののしられ、進退きわまった結果、恐怖感が起こったと考えたのです。そして、それを語らせることで、その「恐怖に、明確かつ具体的な新たな表現をもたらした」結果、「精神病のさらなる “脱構築”」が起こり、その症状が消えたと考えたわけです。しかしながら、これは推測でしかありません。

初期の小坂療法との関連性

 こうした症状消失の仕組みは、小坂英世先生(小坂、1970 年、1972 年a、b)がその初期に利用していたものに近いと思います。急性症状の出現や悪化に関係する、記憶が消えている出来事や状況の周辺に話が及ぶと、現象的には、その “瞬間” に症状が消えてしまうということです。したがって、治療グループと対話している最中に症状がきれいに消えたとすれば、その場でペッカが思い出した出来事が関係しているはずなので、その出来事を特定しておく必要があったのです。

 小坂先生は、操作的にこうした手順を踏むことで得られた結果を、神経症に対する精神分析による “抑圧解除” と同質のものと考えました。精神分析を嫌っていたにもかかわらず、フロイトに敬意を表してこの用語をあえて使ったのです。ところが、当初こそ注目する専門家(たとえば、笠原、1974 年)がいたものの、まもなくこの着想は強い攻撃に遭い、忌避されるようになるわけです。現に、かの土居健郎先生は、小坂先生の治療論を、「ずい分幼稚な精神分析的なやり方ですね」と批判していたそうです(浜田、2010 年、162 ページ)。

 しかしながら、科学的な立場に立つ限り、どのような方法を使ったらどのような変化が起こり、どのような結果が得られたかという事実こそが重要なのであって、その “解釈” に問題の核心があるわけではありません。滝川一廣先生が、「理屈はいいから」と率直に指摘(清水、2016 年、33 ページ)している通りです。こうした傾向も、旧来の精神医学の自覚されざる旧弊に当たるのですが、このことは、オープンダイアローグにも言えることなのではないでしょうか。

 ペッカの事例に近いものは、小坂先生が初期に発表した『精神分裂病患者の社会生活指導』(1970 年、医学書院刊)に、一例ならずたくさん掲載されていますし、後に小坂先生を 40 年近くにわたって、最晩年になるまで執拗に指弾した浜田晋先生の論文(浜田、1975 年)にすら、同種の自家例が掲載されているのです。

 ところで、セイックラ・グループは、圧倒的に数が多い再発患者ではなく、あえて初発の患者の対応を中心にしているわけですが、それは、初発急性期に適切な対応をしておけば、その後は良好に推移するはずだという予測を、それまでの経験に基づいて立てていたためなのでしょう。そしてその推測は、これまで得られたデータによって実際に裏づけられているようです。統合失調症について言えば、重症の発症例が減少し、再発率も低下し、慢性症状をもつ患者もいなくなったからです(110-111 ページ)。

 これはまさに、驚天動地の成果と言わざるをえませんが、そればかりではありません。統合失調症を筆頭とする難治性の精神病の症状は、実は心因性のものであることも、同時に明らかになったということです。ところが、このことは誰も言おうとしないのです。

症状がいつのまにか薄れる

 もうひとつは、急速に症状が消えるのではなく、ミーティングを重ねるうちに、あるいは一連のミーティングの終了後に、“いつのまにか” 落ち着いたり、症状が薄れるか消えるかするという経過をとるものです。そして、それが実際にはほぼ全例を占めるのです。にもかかわらず、ミーティングを「三回、四回と繰り返すことによってどう変わって行って、どこでどうその必要がなくなるか。そこをオープンにしてほしい」(清水、2016年、33 ページ)と、滝川先生が述べているように、本書だけでなく、どの論文に目を通しても、今ひとつ肝心な点が書かれていないわけです。

 ところで、ミーティングに通訳として何度も同席した経験をもつ、フィンランド在住の森下圭子さんは、その印象を次のように語っています。

 治療ミーティングという名目があるからか、日ごろは口に出せないことを出せる時間、そして自分のことを誰かが気にかけてくれている時間の存在は、きっとそれだけでいいんだろうなと思うくらい、皆さん、ミーティングが終わる時には落ち着いていたり、気持ちが楽になっていたり、少しほっとしていたりするのだ。それは私の目にも明白だった。(森下、2016 年、446 ページ)

 このような証言からしても、初発急性期にある不安感や切迫感などがミーティングの最中に軽快するのはまちがいないのでしょう。そしてそれは、当事者や家族を複数の専門家が気にかけ、対等な立場で時間をかけてじっくり話し合うという手法に、何らかの形で関係しているに違いありません。ただし、それだけでは、幻覚・妄想などの症状が軽快ないし消失することはないので、その仕組み自体の説明にはなりません。

 この問題については、推測を重ねるしかありませんが、薬を使う必要があまりないことや、残遺症状がほとんど見られないこと、再発率が低いことも同時に説明できなければならないことから、べてるの家の当事者研究とは、その点で一線を画することは明らかです。

 ユマニチュードという、これまた革命的な技法が最近知られるようになりましたが、「認知症の人びとや高齢者に限らず、ケアを必要とするすべての人」(ジネスト、マレスコッティ、2016 年、6ページ)のためのものであるとはいえ、この方法を使ったとしても、統合失調症の症状がそこまで好転することは、まず考えられないでしょう。

 ただし、ユマニチュードを統合失調症の患者に使った場合、どのような結果が得られるのかを調べておいても悪いことはないはずです。そこで、このふたつのキーワードでウェッブ検索をしてみると、英語文献の中には、Google Scholar, PubMed, ResearchGate, Internet Archiveといった検索法やデータベースを介しても、それらしきものはなぜかひとつも探し当てられませんでした。日本語でも、通常の検索法の他に、CiNii や J-STAGE を使って検索してみたのですが、やはりそのような研究は見つかりません。

 ところが驚いたことに、本書の著者がツイッターで、「意思疎通の困難な彼ら〔慢性期の統合失調症患者〕の処遇においてもユマニチュードは有効でありうるはず」と発言(2014 年7月 19 日)していることがわかったのです。非常に興味深いことに、ふたつのキーワードを結びつけていたのは、世界中でも著者だけなのかもしれないということです[註2]

“理論的装飾” の意味

 ここで話を戻します。急性症状ではなく慢性的になってしまっている精神症状が、「ナラティブをつくり出す」ことでかなり好転したように見える事例が、私が知っているだけでもふたつあります。そのひとつは、小坂先生がある論考(小坂、1971 年)で紹介している、患者の家族から受けとった手紙に書かれているもので、家族もあきらめていたほどの慢性患者の妄想が、35 年前の出来事を告白という形で二晩にわたって語り続けることによって軽快したという事例です。それと並行して、この女性は、それまでの抗精神病薬では副作用が強くなりすぎ、少量の抗不安薬だけですむようになったのだそうです。

 もうひとつは、1970 年代半ばに、私自身が実際に目の前で見たことのある事例です。何年もの間、硬直した姿勢で硬い表情のまま常同行動を一日中くり返している “欠陥” 状態の男性患者がいたのですが、その男性に、主治医がなぜか突然に個人面接をしたのです。カルテの記載を見ると、かなりの時間をかけて生活歴を詳しく聞き出していたことがわかりました。この男性は、どうやらその直後から、落ちついて座っていられるようになり、それまで難しかったコミュニケーションも比較的ふつうにとれるようになったのです。

 これらの事例は、オープンダイアローグの理論や作法に則った面接によって軽快したわけではありません。再発を何度もくり返していて、既に症状が慢性化し、抗精神病薬を長年にわたって服用していた人たちです。したがって、べてるの家の方法論ならまだしも、オープンダイアローグでは、そもそも対応が難しいはずの事例なのです。前者は患者の姉が、後者は主治医がそれぞれ単独で話を聞いているわけですが、特に後者の場合は、従来的な精神科医ですから、対等な立場で面接していたわけではありません。ましてや、オープンダイアローグがその基盤としている理論を念頭に置いていたことなど、あろうはずもありません。

 精神科的な常識では、かなり “進行” した “欠陥” 状態にあるこのような患者を、話を聞き出しただけで好転させることなどできるわけはないのですが、現実にそれができたということは、これまで知られていなかった何かがそこにあるということです。

 ここで有力なヒントになるのは、先のペッカの事例です。ペッカの事例では、その面接の最中に被害関係妄想が消えたわけですが、小坂先生による数多くの事例報告から推定されるように、おそらくそれは、発病してまもない、いわば新鮮な状態にある時に人間として対等な立場で対応したためではなく、発病の前後に起こった出来事を詳しく聞き出すことで、それまで記憶から消えていたはずの事柄の周辺に話が及んだか、その出来事の一端を思い出したためなのです[註3]

 もうひとつの、ミーティングを重ねるうちに次第に落ち着いたり、症状が薄れるか消えるかするという経過をとる人たちの場合は、ペッカほどには肝心な出来事を思い出しはしなかったものの、その周辺に話が及んだために、少しずつ症状が消えたということなのかもしれません。これに当たるのが、先ほどの2例なのでしょう。

実験的検証の提案

 したがって、オープンダイアローグによって統合失調症の急性症状が短期間のうちに、場合によっては瞬時に消え、予後も良好に推移する理由を明らかにするためには、まず第一に、この仮説を検証すればよいことになるでしょう。

 対象患者を実験群と対照群の2群に無作為に分け、実験群では発病した当日に焦点を当てて対話を進めるのに対して、対照群では、発病当日に起こった出来事やその周辺にはふれずに対話を行ない、その差を見るという方法で、とりあえずは十分でしょう。それによって、実験群だけに治療効果が確認されれば、この仮説が実証されたことになります[註4]。“理論的基盤” や理論は、その後に考えればよいのではないでしょうか。これが、科学的探究の作法というものです。

 では、仮にこの仮説が実証された場合、オープンダイアローグの位置づけはどうなるのでしょうか。私の考えでは、この点がもちろん最も重要なのですが、治療法としては依然として有効であり、その地位が揺らぐことはありません。それこそが、経験の裏打ちをもつ本物の強さというものです。

 小坂先生は、統合失調症の “原因” を、“反応” という客観的指標を利用しながら飽くことなく追究し、それが明確な “心理的原因” をもっていることを明らかにしていったのですが、それにつれて、専門家から相手にされなくなったという歴史的経緯があります。では、オープンダイアローグがそうではないのは、なぜなのでしょうか。

 ひとつにはそれは、急性症状が治まった時点で目的が達成されたとして、それ以上の追及をしていないためなのではないでしょうか。もうひとつは、哲学的、思想的な装飾を施すことによって、心因性という、最も重要な要因に意識の目を向けないようにしているためなのではないかと思います。

 したがって、この技法は、主として有効性という側面に注目する人たちには受け入れられやすいでしょうが、理論的な装飾の裏にある、症状消失の仕組みに目をやる人たちには、無自覚のうちに強い拒絶が起こるのではないか、という推定が浮かび上がります。そしてこれこそが、一方で大きな注目を浴びながら、現実には普及しないまま現在に至っている最大の理由なのではないでしょうか。“権威” という問題を乗り越えたとしても、そこに大きな壁が立ちはだかっているように思います。

 この推定が当たっているかどうかは、先の対照実験の結果や、今後の受け入れ状況の推移を冷静に観察することで確認できるでしょう。何であるにせよ、オープンダイアローグという手法は、治療法ということに留まらず、精神病の成り立ちを解明するうえで、ひいては人間の心の本質に少しでも迫るうえで、きわめて重要な布石になっているように思います。本書が、そのための格好の資料になっていることはまちがいありません。

[註1]立って手術をするのが年齢的に苦痛になったという理由で、精神科医に転向した医師が現実に存在します。私は、少なくともふたりの精神科医から、そうした転向歴を聞いたことがあります。それに対して、青年時代ならともかく、精神科医が途中から外科などの他科に転向することはまず考えられないでしょう。
[註2]その後、J-GLOBAL を通じて1件だけ見つけることができました。それは、山竹宏樹他による、介護を要する高齢の患者に対して、ユマニチュードが有効かどうかを調べたもの(山竹他、2017 年)であり、統合失調症自体の治療に使われたものではありませんでした。
[註3]他の事例の場合、発病状況をここまで詳しく聞き出しているどうかを調べれば、この推定が正しいかどうかが、多少なりともわかるはずです。
[註4]ただし、その出来事が数日にわたって継続するものの場合には、当日だけに限定したのでは不適切かもしれないので、その場合には(といっても、そのことは結果的にしかわからないわけですが)注意が必要です。。

参考文献

2018年2月12日
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