サイトマップ 
心の研究室バナー
戻る上へ

 書評 臨死体験 1.『喜びから人生を生きる!』






『喜びから人生を生きる! ――臨死体験が教えてくれたこと』(ナチュラルスピリット、2013/6/18 刊行)
アニータ・ムアジャーニ(著)、奥野節子(翻訳)
四六版、288 ページ

世界的に見てきわめて珍しい事例

 本書は、香港在住のインド人女性によって書かれたものです。アマゾン・プライムでキンドル版が無料購読できる形になっていたため、たまたまその存在を知りましたが、それがなければ、私には当分わからなかったかもしれません(重要な本であることがわかったため、その後に冊子版を購入しました)。しかし、後で知ったことですが、ある方面ではかなり有名な本なのでした。

 本書は、いくつかの点で大変に珍しい記録です。ホジキンリンパ腫のステージWb(151 ページ)という、最悪の状態にあった著者のがんが、臨死体験後に急速に消えてしまったというのです。このような奇跡的治癒という現象の存在は昔から知られていますが、当事者による証言とはいえ、その記録がここまで詳細に残されているのはかなり稀なことでしょう。

 本書が珍しい記録である理由の第1点は、言うまでもなく、末期のがんが2.3日のうちに縮小し、消えてしまったことです。特に効果的な治療をしていたわけではないので、自然退縮と呼ばれる経過をたどったことになります。あちこちに転移していたがんが、これほど短時日のうちに消失した事例は、世界中を探してもほとんどないのではないでしょうか[註1]。ひとつの例外は、ブルーノ・クロッパーが 60 年以上前に報告した、プラシーボ効果によるされる事例(Klopfer, 1957)です。ちなみに、クロッパーは、ロールシャッハ検査の研究者としてよく知られている心理学者ですが、ユングの弟子に当たり、河合隼雄先生がUCLAに留学した時の恩師でもあります。

 第2点は、当事者自身による、がんの自然退縮の内的記録だということです。クロッパーの報告は第三者による観察をもとにしたもので、当事者によるものではありません。がんの自然退縮例は、これまで内外でたくさん報告されていますが、当事者による報告で信頼性の高いものは、やはり相当に珍しいはずです。

 第3点は、当事者自身の記録であるため、自然退縮に関係したと思しき心理的変化が、本人の意識に気づかれた範囲で克明に記されていることです。がんの自然退縮例の報告は少なからずあるとしても、そうした心理的変化に焦点を当てた記録や研究は少ないのです。わが国の心身医学の創立者と言うべき池見酉次郎先生と、その随伴者であった後のPL病院院長、中川俊二先生たちによる研究(Ikemi, Nakagawa, Nakagawa & Sugita, 1975;一般向けのものとしては、中川、1983 年、1988年)や、アメリカの精神分析家、ゴタード・ブースによるもの(Booth, 1973)を除けば、実際にはほとんどないようなのです(Williams-Kelly, 2007, p. 132)。池見先生たちは、その変化を、ブースにならって “実存的転換” と呼びました。これは、当事者の生きかたが、それまでとは根本から変わり、「癌への不安、恐怖を克服して、生甲斐の発見、生活の是正とともに、残された生涯、一日一日をより前向きに行動している状態」になることです(中川他、1981年、226 ページ)。

がんの自然退縮と臨死体験の関係

 第4点は、がんの退縮が、“臨死体験” に関係して起こったとされていることです。著者は、多臓器不全により昏睡状態に陥っていた間に、その体験をしています。したがって、その状態から回復しないまま死亡すれば、多臓器不全による死ということになります。それに対して、「もし身体に戻る選択をすれば、〔機能を停止していた数多くの〕臓器が再び機能し始めた」(120 ページ)ことになるわけです。これは、死に至るはずの経過が、本人の決断次第で覆ってしまうということです。

 ついでながらふれておくと、心臓が停止し、通常の蘇生措置では生き返らなかった患者が、「○○さん、死んじゃだめだ」、「まだその時じゃないぞ。戻って来なさい」などという医師の呼びかけに応じて戻ってきたように見える事例もわずかながら知られています(セイボム、2006 年、90-91 ページ)。またインドでは、いったん死んだ患者が、“まちがって連れて来られた” ことが “あの世” に行ってから判明したという事例が少なからずあります。そして、この世に戻されると、カーストなどが異なる同姓同名の人物が、入れ替わるようにして死亡したというのです(オシス、ハラルドソン、1990 年、227 ページ;Pasricha, 1993, p. 168; 2008, p. 277)。ある研究(Pasricha & Stevenson, 1986)では、それが、臨死体験例全体の3分の1ほどにのぼっているそうです。そのような事例が存在することを考えると、生死は、意外に恣意的にコントロールされるような側面があるのかもしれません。

 臨死体験とは、いったん死亡し、蘇生した後に語られる、死んでいた間に起こったとされる心的事象のことですが、本書の著者は、30 時間ほど昏睡状態を続けていた(127 ページ)だけであり、短時間であっても死亡したわけではありません。したがって、厳密にはこれを臨死体験と呼ぶことはできないことになります[註2]

 臨死体験に近縁の現象に、臨終時体験 death-bed visions と呼ばれるもの(オシス、ハラルドソン、1990 年)がありますが、著者の体験はこれにも該当しません。臨終時体験は、内容的には臨死体験とほとんど同じですが、主として “死ぬ” 前の、意識が清明な状態で起こるものを指すからです。本例は、臨死体験や臨終時体験の亜型と見るのが妥当なところなのでしょう。

 臨死体験者の場合、その “死” はほとんどが心停止によるもの[註3]ですから、心臓がまた動き始めるだけでおおかた問題が解消されたことになります。ところが、本例の場合はそうではありません。末期がんによる多臓器不全の結果として昏睡状態に陥ったわけですから、たとえ蘇生したとしても、がん自体に変化は見られないはずなのです。ちなみに、末期がんの患者の場合、臨終時体験をしても、当然のことながら、がんに変化は見られず、実際にその後に死亡しています(Muthumana et al., 2010-2011; Paulson, 2004; Renz et al., 2015; Stewart, 2011)。

 第5点は、がんの自然退縮の仕組みを探るうえで非常に貴重な証言になっていることです。著者自身も、「私の体験にもとづいて言えば、癌について〔非常に〕豊かな研究分野〔a very rich field of inquiry)が存在するように思えます」(275 ページ)と書いています。これは、がんと、生きる姿勢(心理的要因)の関係について述べている部分です。先述のように、がんの自然退縮例の報告はたくさんあるのですが、著者が指摘しているように、それと心理的要因との関係を探究する研究は、先述のようにほとんどないのが実情なのです。

 著者のがん退縮については、アメリカのピーター・コー医師が、著者が入院していた香港の病院を訪れ、著者の医学的記録を丹念に調べたうえで、その報告を世界各地の研究所に送っているそうです。また、その報告そのものも本書に転載されています。そのような点から見ても、本例の信憑性は高いようです。なお、本書は、Lancet Oncology 誌に書評が掲載されている(Chee, 2012)ほかに、若干の論文(たとえば、Hodgkinson, 2016; Levin, 2017)にも肯定的な形でとりあげられています。

 臨死体験者は、その後に、死に対する恐怖がなくなることが知られています(たとえば、セイボム、2005年、巻末の表 14 参照)。また、著者の場合もそうですが、「親しい人が亡くなると、この世でもう会えないことを悲しみますが、亡くなった人のためには、悲しまなく」(167 ページ)なります。著者の生きかたは、こうした死生観の変化以外の点でも劇的に変化しました。「以前の優先順位は変わってしまい、オフィスで上司のために働いたり、お金を儲けるために働いたりすることにはもう興味がありませんでした。人とのネットワークを築きたいとも、仕事のあとに友人と出かけたいとも思え」なくなったのです(162-163 ページ)。

 これは、中原中也のことばを借りれば、それまで生活を重視してきた “生活派” が、本当にしたいことのほうを優先する “芸術派” に、突如として転向したようなものでしょう。問題は、がんの経過と、それがどのような関係にあるかです。

 がんの自然退縮を考える場合に重要なのは、がんの人たちが共通して示す心理的特徴とその変化です。わが国ではほとんど関心をもたれていませんが、がんの人たちには “C型性格” として知られる心理的特性が、顕著に見られます。先の中川俊二先生は、がんの人たちの心理的特性について、「保守的で習慣に固執するような状態であり、内面でははげしい気性、感情を持ちながら、表面は社会に適応して、温和そうに見え、平穏で陽気な感じを人に与えるが、しかし内心は全く不適応で、自分の真実の気持ちを表現できない」(中川、1988 年、27-28 ページ)と述べています。これらの特性を抽出した中川先生ご自身が、後にがんの再発で亡くなっているので、これは、内部から観察した所見でもあります。

 また、がんの人たちは「冷静沈着、勤勉、完全癖、社交的、形式的、比較的硬直した防衛的自己統御といった性格特徴をもち、感情表現が困難で、絶望感や無力感を抱きやすい傾向」をもっている(Temoshok, 1987, p. 547)という指摘もあります。絶望感や無力感を抱きやすいかどうかはともかく、表面的には、活動的で人当たりがよく冷静に見えるが、どこか“固い”ところがあるということです。

がんの人たちに共通して見られる性格傾向が臨死体験の前から変化する

 私の長年の観察では、がんの人たちに共通して見られる、それ以外の傾向としては、(1)いわゆる面倒見がきわめてよいのに対して、自分のためになる行動や主張を避けようとする傾向が極端に強いこと、(2)可能な限り活動していないと落ち着かず、リラックスしたり、のんびり過ごしたりするのが非常に難しいこと、(3)他人のがんは正確に把握するのに対して、自分のがんは軽く考える傾向が異常に強いこと、などがあげられます。

 つまり、自分のがんについてはかなり楽観的に考えており、人のためになることは、わが身を犠牲にしてまでも積極的にとりくむという、一見すると理想的な心理状態にあるように見える人たちなのですが、それを裏側から眺めると、のんびりすることも含めて、自分のためになることがほとんどできず、死が近いことにも気づこうとせず、それによって落ち込むこともないということです。にもかかわらず、死の直前になると、それとは正反対に見える特性が出現することが多いのです。これらの特性は、本人ががんの専門家であっても同じであるように思います(たとえば、比企、2001 年参照)。

 では、本書の著者の場合はどうなのでしょうか。臨死体験前に見られた特性には、次のようなものがあります。

●「多くの人たちが私のことを、とても “勇敢” だとか、病気に対する姿勢が立派だとほめてくれました。さらに、私はとても前向きで幸せそうだとも言われました」(87-88 ページ)。
●「私は、行動し、追い求め、探し出し、達成することにとらわれていたのです」(231 ページ)。
●「他の人たちを心配させたくなかったので、自分の思いをコントロールして、無理やりポジティブでいるように努力していました」(238 ページ)。
●「私の病気のせいで、他人がうろたえたり、気まずい思いをするのが嫌でした。自分よりも他人の気持ちのほうを優先させていたのです」(87 ページ)、「どうしていつも他人を喜ばせるために、自分の知性や創造性を抑圧ばかりしていたんだろう」(112 ページ)、「自分のことはいつも後回しでした」(231 ページ)。

 著者も、がんの人たちが共通して示す性格特性を、まさしく備えていたようです。では、これらの特性は、臨死体験後にどう変化したのでしょうか。それを列挙すると、次のようになります。

●「「私はすべてを放棄し」(89 ページ)、勝ち目のない闘いに挑み、一生懸命に頑張っていました。でも、とうとう私は、自分がしがみついていたものすべてを手放す準備ができたのです」(93-94 ページ)。
●「これまで、自分自身を愛したことも、尊重したことも、自分の魂の美しさを目にしたこともなかったと悟りました」(205 ページ)。
●「次にやってくるのは死だとわかっていました。とうとう死を迎え入れられるところまでたどり着いたのです。〔中略〕『もうお手上げです。どうぞ連れて行ってください。もうどうにでもしてください。あなたのお好きなように』と言った気がしました」(204-205 ページ)。

 がんの自然退縮が起こった人たちの変化は、ひとことで言えば、死が近いことを認め、生をあきらめたということです。ところが、がんの人たちは、自分のがんの重症度を、知的には理解していたとしても、感情的なレベルで認めようとしません。そのため、がんの人たちには、死期が迫っていることが実感できないのです。がんの専門医ががんになった場合も同じなのですが、これは、実際に目にしない限り信じがたいほど頑強なものです。

自然退縮の必要条件は

 それに対して、私が 30 年以上前に見たことのある、自然退縮を起こした女性は違いました。40 代のその女性は、がんの再発で入院していたのですが、著者と同じような状態にありました。実際に、あと1、2週間ほどで死亡するところまで来ていたのですが、それから急速に好転し、胸水もたまらなくなり、まもなく元気になって退院することができたのです。効果的な治療法はなかったので、治療による効果ではありません。また、特に臨死体験もしていないようです。

 その後、人づてに聞いたところでは、3年後の時点でも元気で生活しているようでした。後でわかったことですが、その女性は、末期状態の中で、周囲に自分の形見を配っていたのだそうです。好転したのは、死が近いことを実感した、その頃からだったようなのです。

 著者のがんが消失したのは、自然退縮を起こした他の人たちと同じように、死が近いことを実感し、生をあきらめた結果なのではないでしょうか。そう考えると、既に臨死体験をする前にその傾向がはっきりしていたことがわかります。これほど劇的な自然退縮例は例外中の例外なので、一般化することはもちろんできませんが、臨死体験がそれを強化したのかもしれないとしても、臨死体験自体にがんを退縮させる力があったわけではないということです[註4]。がんの自然退縮が、“生をあきらめる” ことによって起こるのかどうかは別にしても、本例は、がんと心理的要因の関係を探究するうえでたいへん貴重な資料になるはずです。そのためにも、一般読者のみならず、専門家にもぜひ目を通してほしいと思います。

 ところが、原著についても同じことが言えるのですが、本書は、いわゆるスピリチュアル系の本として扱われているわけです。それは、著者がそのように望んでいるためでもあるようです。その結果として、この方面に関心のない読者には、本書の存在はほとんど知られていません。また、専門家にはどうしても “軽い本” と見られがちで、学術的な研究の対象になりにくいという側面もあります。この点は、どうしようもないこととはいえ、残念なことです。

おわりに――翻訳について

 最後に、翻訳の問題にふれておきます。この翻訳者は非常に優れているので、ほとんど問題はないのですが、わずかながら誤訳と気になる点とがありました。誤訳は、139 ページの「私の体重は四十五キロにも満たず」という部分です。常識的に考えても、がんの末期にあり「手足はもう骨ばかり」(130 ページ)の女性が、45 キロもあるはずはありません。30 キロ台半ばにまで落ちていても、ふしぎではないほどでしょう。

 原著では、less than 90 pounds となっています。それは1ポンドを 0.5 キロとして計算した結果なのでしょうが、実際には1ポンドは 0.45 キロなので、90 ポンドは 40.8 キロほどになります。したがって、「私の体重は四十キロほどしかなく」が適切な訳となります(41 キロのほうが近いですが、原文が 90 ポンドという区切りのいい数字なので)。

 もうひとつは、「心が物質を凌駕したということでは、決してありません」(207 ページ)という文章です。この原文は、This definitely wasn't a case of mind over matter です。この mind over matter は慣用句で、「念力」のことです。したがってこの文章は、「念力ではなかったのは、まちがいありません」となるでしょう。あるいは、訳者は、念力という訳語を承知していながら、あえて避けてこのような訳文にしたのかもしれませんが、もしそうであれば、「心が物質を制した」のほうがわかりやすいのではないでしょうか。

 誤訳というほどではないでしょうが、「医師に最後に会ってから」(91 ページ)という表現も気になります。日本語では、「最後に診察を受けてから」でしょう。「自分が本当は誰かに気づき」realized who I really was(123 ページ)も、一読したのでは意味がつかみにくいので、「自分が本当はどのような存在であるかに気づき」のほうがわかりやすいように思います。

 また、「必要なら検査してください。でも、すべて、あなたたちが自分を納得させるためにするのだと覚えていてください」(141 ページ)も、医師たちに向かって言う日本語としては不自然です。これでは、けんかを売っているように聞こえてしまいます。日本語の「あなた」は、英語の you とは違って、妻が夫を呼ぶときを除けば、発話者が目下と考える相手に向けて発する言葉だからです。

[註1]例外的なものとしては、他に、ホスピスに入院中に、末期の脳腫瘍が臨死体験後、急速に治癒したとされるメレン=トーマス・ベネディクトの事例と、メリーランド大学病院に入院していた、急性リンパ性白血病のため、100 パーセント助からないと宣告された4歳の少女が、ある聖人の墓に乗せられ、「治りますように」という祈りをささげられた数日後に完治したという事例が知られているようです(Dossey, 2011, pp. 59-60)。
[註2]ただし、これは臨死体験の定義によります。心停止が起こらなくても、死に近いと思われる状態に陥ってから蘇生し、その後に、その間に起こった事実と一致する体験を語れば、それを臨死体験と呼ぶこともあるようです。その意味でなら、本例を臨死体験と呼ぶことに問題はありません。
[註3]心停止と臨死体験の関係については、興味深い実験的研究があります。心停止を感知し、自動的に電気ショックを与えて心拍を回復させるICD(植込み型自動除細動器)を患者の胸部に埋め込む手術をする際に、試験的に心停止を起こして心拍を再開させることで、その効果を確認するそうですが、モニターでは心停止が確認されたにもかかわらず、52 名の対象者の中には、自分の体から抜け出した感覚を抱いた者はひとりもいないことがわかりました。その研究を行なったヴァージニア大学知覚研究室のブルース・グレイソンとその共同研究者は、死の危険はないことを術前に伝えておいたこと、心停止の時間が短かったこと、麻酔前に鎮静剤が投薬されていたことがその原因なのではないかと考えています(Greyson, Holden & Mounsey, 2006)。
[註4]実際に、本例以外には、註1に引用したメレン=トーマス・ベネディクトの事例くらいしかないようです。

参考文献

2018年10月3日
戻る上へ


Copyright 1996-2018 © by 笠原敏雄 | created on 10/19/18