『レッツ!当事者研究1』(地域精神保健福祉機構・コンボ、2009 刊行)
べてるしあわせ研究所(著)
四六版、264 ページ
このようなことは、外部から観察しているだけでは決してわかりません。当事者の証言があって、初めてわかるわけです。この証言が重要であることは、その論理的帰結を見るとわかります。それは、幻聴という現象を、脳の機能異常として説明するのが難しくなるということです。ましてや、幻聴が当事者の内言語の現われ(志水、1975年、91-92 ページ;古川、2001年、70 ページ参照)だとすれば、なおさらでしょう。これは、言うまでもなく大変なことです。
一方、当事者研究を通じてこのような “治療効果” が得られる背景には、当事者の主体性や自発性が尊重されているという事実があります。人間の属性としてきわめて肝心な、こうした側面の表出がこれまで強く抑えられてきたのは、昔の表現をあえて使えば(広い意味での)“ホスピタリズム” の結果ということになるでしょう。したがってこれも、現行の精神医学の常識を覆す重要な知見になるわけです。認知症の画期的対応法として世界的に脚光を浴びている “ユマニチュード” の開発者、イヴ・ジネストさんの言葉を借りれば、「旧来の古典的な医療体系は、これらの患者に適切なものではない」(NHK取材班、2014年、112 ページ)ということになります。
ついでながらふれておくと、ここで興味深いのは、精神科領域で最近開発された革命的な治療法や対応法はいずれも、治療の中心に置かれているはずの医師の手になるものではないという事実です。当事者研究の向谷地さんはケースワーカーですし、ユマニチュードのジネストさんは体育学の教員でした。また、後述するオープンダイアローグの開発者であるヤーコ・セイックラさんは心理学者です。ジネストさんは、この点について、「〔自分は〕医療の専門家ではなかったため、当時の医療の “常識” にとらわれず、ケアを実践することができた」おかげだと述べています(同書、28 ページ)。専門家は、権威や定説にとらわれてしまうために、斬新な発想が出て来にくいということなのでしょう。
本当に悩んでいる人の悩む力を奪ったり、人任せにしてしまう人を作ったり、こういうことに長い間多額の予算を使って、結果的に人の能力を奪ってきてしまった。僕らはそのようなことを推し進めてきた当事者でもあります。(大澤、2010 年、85 ページ)
この引用文の前半は、症状や問題を大幅に拡大させてしまった先述の原因について述べているわけですが、この脈絡で重要なのは後半です。川村先生は、この問題を人ごととして片づけてしまわずに、自らも関与してきた、自らの問題として扱っているのです。これこそが、治療者側同士の間でも治療者側と患者側の間でも、上下関係とは無縁の “オープンダイアローグ” という、フィンランドで開発された方法とも通底する、べてるの根本姿勢と言えるでしょう。ただし、「浦河では、救急外来に受診して『死にたい』と言っても全く入院させてもらえず、一七錠服用していた薬も一か月で四錠に減り〔減らされ〕ました」(56 ページ、鈴木真依)という当事者の発言にあるように、オープンダイアローグよりもはるかに厳しい応対をしています。2017 年4月に亡くなった自閉症当事者のドナ・ウィリアムズさんは、自分を撮影に来たテレビクルーに対して、対等な関係を要求し、本当の自分として撮影に参加しているのかどうかを、各人に大きな声を出させて確認するということをしています。写す側と写される側という一方的な関係ではなく、一緒に作品を作るという対等な関係を強く主張したのでした(ウィリアムズ、2002年、270 ページ)。これは、当事者側からはなかなか要求できることではありません。それはともかく、このような出来事を見ると、時代の要請として、上下関係が急速に縮小するという現象が、各地の各分野で当時多発的に起こっているということなのかもしれません。
もうひとつは、オープンダイアローグでは、急性期の対応でもいっさい薬を使わずにすむ例が7割ほどを占めている(Seikkula et al., 2006)のに対して、べてるでは、「薬をやめれば、確実に病気は悪くなります」(大澤、2010年、69-70 ページ)という川村先生の言葉からもわかるように、服薬を必須としているらしいことです。このふたつの違いはきわめて大きいと言わざるをえません。このように、治療効果という点では、より簡便なはずのオープンダイアローグのほうが、ふしぎなことに、はるかに高そうに見えるのです。
加えて、オープンダイアローグでは、急性期の治療でも原則として入院させずに、1回1時間半程度の対話を十数回繰り返すだけで解決する(つまり、急性症状が治まる)とされるのに対して、べてるでは服薬や、ほとんどはごく短期的なもののようですが、入院が必要な場合も少なからずあるようです。さらには、オープンダイアローグでは、症状の残渣が見られない人が8割ほどにも達するそうです(Seikkula et al., 2006)が、べてるでは、“幻覚&妄想大会” が毎年開かれることからもわかるように、あるいは、「幻聴さんは相変わらず私の口を借りて勝手にしゃべるし、そのことは何も変わっていませんが、幻聴さんより現実の仲間を少しずつ信じることができるようになりました」(128 ページ、岩田めぐみ)という証言からもわかるように、症状があるのがむしろふつうのようです。
笠原嘉(よみし)先生は、長い臨床経験の中で、薬を「完全にやめることのできた人は指を折るほど少数」だと、自著(笠原、1998年、123 ページ)の中で明言しています。精神科の従来的な治療法では、それが限界とされてきたのです。したがって、単純に比較する限り、“治療法” としては、当事者研究よりもオープンダイアローグのほうが、やはりはるかにすぐれているように見えます。では、本当にそう考えてよいのでしょうか。
少なくともここではっきりしているのは、似通った点はあるものの、好転を起こす仕組みのどこかが両者で決定的に違うということです。ここには、統合失調症自体の仕組みはもちろん、人生にとって何が本質的に重要なのかといった問題もかかわってくるでしょうから、ことは、おそらくそう簡単ではありません。この問題は書評の範囲を大幅に逸脱してしまうので、ここではふれないことにします。
その代わりにというべきか、かつて劇的な効果をあげていた治療技法に少々ふれておきます。それは、1960 年代末に始まった、精神科医の小坂英世先生による方法です。詳しくは、それらの著書(小坂、1970 年、1972 年a、b)に譲りますが、急性症状をもつ当事者と家族と治療者が発病状況を詳しく検討する中で、薬を使うことなく「快刀乱麻」を断つごとくにその症状を短時間で消失させることが、特に初期には簡単にできていたのです(小坂、1970 年、15 ページ;浜田、1975 年)。当時は、薬を使わずに症状が瞬時に消えるという主張を聞いただけで、専門家から忌避されてしまったわけですが、昨今の状況を考えると、初期の方法論だけでもそろそろ再評価(林、2010 年)されていい時期なのかもしれません。
第2章(「当事者研究が大切にする理念」)の中に、おそらく向谷地さんの言葉でしょうが、「病気や症状のシグナルは、私たちを回復に向かわせようとする大切な身体のメッセージでもある」(29 ページ)という表現があります。これは、文字通りの意味で、まさに卓見だと思います。人間は、そうした障害を前にした時こそ、それを乗り越えようとして進歩するからです。逆に言えば、せっかくのチャンスを、当事者たちは自分から放棄してきたのであるし、周囲の人々も、当事者たちがそのチャンスを放棄する手助けを無自覚的にしてきたということです。
ただし、そうした努力をする場合、絶対的に必要な条件があります。それは、自分が心底から困っている状況にあることを、認識的なレベルではなく、感情的なレベルで認めるということです。ところが、これがなかなか難しいのです。当事者研究では、共同研究者たちと研究を重ね、“苦労を分かちあう” につれて、自分が抱えている問題の大きさが少しずつ実感できるようになり、それにつれて少しずつ “地に足がつく” ようになるということなのでしょう。
ここでも注目しなければならないのは、現行の精神医学の知識や理論とは相容れない、それぞれの当事者の発言です。この書評でも実名を明記しますが、それはやはり発言者たちの心意気に敬意を表してのことであって、それ以外の意図はありません。当事者研究の精神病理学的側面については、既に『べてるの家の「当事者研究」』の書評に書いておいたので、ここでは、症状出現の条件や状況という問題にしぼることにします。
1950 年代中ごろに群馬大学で始まった生活臨床(臺、1978年)では。統合失調症の再発は、「異性、金銭、名誉」という3種類のいずれかがからんだ状況で起こりやすいことが、経験的に知られていました。小坂先生は、それに「身体」という要因を加えました。当事者研究で浮かび上がってきたものは、それよりも具体的な表現が使われていますが、両者は比較的共通しているように見えます。
当事者研究では、症状出現を招きやすい状況を、「悩みがある」、「疲れている」、「暇である」、「さみしい」、「お腹が空いている。お金がない。お薬があっていない」という5通りにまとめています。これらは、それぞれの頭文字をとって「なつひさお」という “愛称” で表現されています。表現は表層的ですが、“治療者” が一方的に観察した “所見” ではないところに、その重要性があります。当事者も非当事者も身近なところでともに生活や活動をしている中で語られ、観察されたことなので、意識の上で納得しやすいものが選ばれるという弱点はあるにしても、第三者による観察のゆがみが起こりにくいという点で、より信頼性が高いと言えるでしょう。
生活音が気になるときは『疲れているとき』『あせっているとき』『孤独に陥っているとき』が多いことがわかりました。
そういうときに、ちょっとした音に対して『いやがらせ』とか『付け込まれてたまるか』と反応をしてしまい、爆発・反撃という、相手にとってはいわれもないようなことをするのです。
疲れやあせりがないときは、『押し入れの物音かな』とか『向こうの都合かな』とか『仕方ないなお互いさまだな』とか『音を立てるなんて誰にでもある』と思えて普通に過ごすことができることがわかりました。(113 ページ、浅古朗)
● 仲間と親しくなって幸福感を味わうと、相手を傷つける暴言を吐く。
● 生活リズムが整っていきいきしてくると、不安が増し、眠れなくなる。
● 浦河で経験をつみ、力がついてくると不安になり、力の出し惜しみをして、病気らしさをだす。
● 男性との苦労に別れを告げ、仕事に没頭し安定した頃、再び男性とつきあう。(214 ページ)
● 「なぜ安定しても自ら危機的状況をつくり出し、そこに飛び込むのか」(213 ページ)
● 「浦河流の「自分助け」を開始します。すると、仲間との絆や安心して語る場ができ、仕事や役割も与えられ、安心感、幸福感、充実感を感じます。/しかし、その後に決まって不安の「誤作動」が働き、幸せ恐怖のスイッチがはいります」(214-215 ページ)
本書のようにきわめて重要な証言集に丹念に目を通すことは、精神医学にとっても精神病理学にとっても、とてつもなく大きな意味をもっているはずです。オープンダイアローグと大きく違うのは、この点にもあるはずなのです。