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 小中学生のための超心理学入門 9


サイ現象

 超心理学の研究は、これまで話してきた死後生存研究ばかりではない。君たちがよく知っているテレパシーや透視や念力の研究もある。

 テレパシーや念力は、昔から世界各地で知られていた。しかし、科学的な研究が始まったのは、19世紀の終わりになってからだ。その少し前、アメリカやイギリスに霊媒と呼ばれる人たちがたくさん出現した。その人たちは、前回まで見てきたように、死後の世界との交信の証拠としていろいろな現象を見せていた。インチキによるものも少なくなかったが、そうではないものもあった。その中には、死者からの交信と考えるよりも、霊媒にテレパシーや透視の能力があると考えた方がつじつまのあう事例がかなりあったのだ。

 テレパシーは、人間と人間の間の、あるいは人間と動物の間の心と心の直接的交信だ。それに対して透視とは、見えないところにある物や、遠いところでその時起こっている出来事が五感を使わずにわかることだ。また、予測も推測もできない未来の出来事を知る予知という現象もある。テレパシー、透視、予知の3つを一緒にして、超(ちょう)感覚的知覚(ESP)と呼ばれる。

 五感ではわからないことを知るESPに対して、物理的な力を使わずに物体や物理的過程に影響を与える念力という現象がある。スプーン曲げや念写などがそれに当たる。ESPと念力を合わせ、サイ現象と呼ばれる。サイ現象の研究が科学的方法を用いて行なわれるようになったのは、死後生存研究が始まった理由と同じく、今の科学知識で説明できない現象だからだ。最初の頃にその話をしておいたので、覚えている人もいるだろう。もう一度簡単に触れておくと、もしこういう現象が本当にあるとすると、唯物論(ゆいぶつろん)という、自然界は全て物理的に説明できるという考え方がまちがっていることになる。そうなると、今の進化論も心身医学も物理学自体も根本から検討し直す必要がでてくる。そのような重大問題だからこそ、慎重に検討を続けて行かなければいけないのだ。

 まず、テレパシーの話をすることにしよう。テレパシーとは、前回説明したように、人間どうし、あるいは人間と動物の間に起こる心と心の直接的交信だ。内容的には、テレパシーを“発信”する者が、死に瀕(ひん)しているなどの危機状況にあることを知らせるものが多い。“受信者”は、発信者と個人的に親しい、たとえば肉親や友人がほとんどだ。つまり、愛と死がテレパシーのテーマになっており、この点は、死後生存に関係するいろいろな現象の場合と同じといえる。

 1959年、イギリスのある女性は、いつものように夫がアイスクリーム工場の夜勤に出た後テレビを見ていたが、その晩に限って胸騒ぎがして、工場に3回電話してみた。ところがだれも出なかったため、夜中の2時に、生後2ヵ月の子どもを置いて、4キロほど離れた工場まで歩いて行ってみることにした。工場に着くと、返事もなく、入口には鍵がかかっていた。ところが、胸騒ぎはますます強くなり、覚悟を決めて倉庫の窓ガラスを割って中に入ってみると、夫が冷凍庫に閉じこめられているのがわかった。後で話し合ったところ、夫が冷凍庫に閉じこめられたのは、電話をしなければと最初に思った数分前だということがわかったのだ。

 この女性は、後にも先にもそのような奇妙な行動は起こしていないというが、どうしてこの時だけそのようなことをしたのだろうか。また、夫がそのまま放置されていたとしたら、大変なことになっていたはずだ。妻の“直観”のおかげで助かったわけだが、この直観はテレパシーだったのだろうか。

 このような事例は、偶然の一致で説明できるだろうか。こういう事例がほとんどなければ、偶然ということで説明できるかもしれない。しかし実際には、偶然で説明するには数が多すぎるし、細かい部分が事実と一致する事例が多すぎる。

 また、興味深い例としては、遠方にいる娘が出産している最中に、その出産はもちろん、娘の妊娠すら知らないはずの母親が、自分が出産している時のような陣痛を感じるなど、意識ではわからないが、体に変化の起こるものもある。

 テレパシーは、人間や動物の心と心の間に起こる交信だったが、次のテーマの透視は、見えないところにあるものや、遠方でその時起こっている出来事が五感を使わずにわかるという能力を指している。たとえば、なくした物のありかが夢の中でわかったとか、本人も知らないはずの病気を、偶然では説明できないくらい正確に言い当てたとかいう話があるが、これも、事実なら透視の可能性がある。

 テレパシーと違って、透視では、自然に起こる場合にも実験の中で起こる場合にも、確認が容易だ。誰も知らないはずのことなら、テレパシーが関係している可能性が否定できるからだ。超能力者のユリ・ゲラーが仕事にしているという、科学的方法を使わずに行なう鉱脈探査などは、科学的方法を使ったときよりも成功率が高いようなら、テレパシーの可能性は考えられないので、透視と言える。よく切り混ぜたトランプを、誰にも見せずに伏せたものを、偶然で当たる以上に当てたことがわかれば、これも透視の実例になる。

 透視の能力も、万人に備わっているのかもしれないが、“超能力者”といわれる人たちを除けば、一生に1、2度程度しか発揮されないことが多いようだ。それも、やはりテレパシーの場合と同じく、人の生死に関係した状況で起こりやすいといえる。

 ただし、次のような場合には、話が込み入ってくる。その昔、「本の実験」と呼ばれたものでは、超能力者ないしは霊媒(れいばい)が、本人の行ったことのない家や図書館にある特定の本の特定のページに書かれた内容を、正確に言い当てるという例だ。一部の人たちはこれを、死者の“霊”がその場に行き、その本のそのページを開いて読み、それを超能力者や霊媒に伝えてくれるために正確にわかるのだ、と主張した。それが事実かどうかはともかく、そのような可能性も否定することはできない。それが事実なら、このような“透視”は、実は死者からのテレパシーということになってしまう。

 透視の存在は、死後生存よりも実際には証明しやすいので、この場合は、透視で説明できれば死者からのテレパシーを考える必要はないが、本当のところははっきりしないのだ。

 これまで話してきたように、超心理学では、ふつうの科学では問題にならないさまざまな可能性まで考える。それは、ものごとの本質を突きつめて行くと、どちらとも簡単には決められない現象が多いことのあらわれでもある。たとえば、人間の心とはどういうものかとか、雷はなぜ発生するのかとかの非常に基本的な問題も、今の科学知識で十分説明できているわけではないのだ。

 次に、君たちが簡単にできる透視の実験を紹介することにしよう。純粋テレパシーの実験は非常に難しく、そのため、これまでほとんど行なわれたことがないが、透視の実験はそれに比べると非常に簡単だ。ESPカードという、5種類の単純な模様のカードが5枚ずつ25枚1組になったものを用いてもよいが、ふつうのトランプを使ってもさしつかえない。トランプを使う実験でもいろいろな形が考えられるが、ここではふたりでできる実験で簡単な方法を説明しよう。

 後で計算しやすいように、絵札を除いて10枚ずつ40枚のカードを取り出す。実験する人は、それをよく切り混ぜ、被験者(ひけんしゃ=当てようとする人)にも自分にも表が見えないようにして伏せる。それを上から順番に、やはり表がふたりに見えないように実験者が一枚ずつ伏せ、それに対して被験者が、模様なら模様を、数字なら数字を当てようとする。実験者は被験者の言った模様や数字を順番に書き留める。40枚が全部終わったら、カードを裏返し、1枚ずつ当たりとはずれを調べてゆく。そのような実験をたとえば10回繰り返したとすると、模様の場合なら平均して12.2枚以上当たれば、数字の場合なら5.5枚以上当たれば、その人が超能力を発揮した証拠が得られたと言える。

 超心理学では、このような実験ばかりでなく、実にさまざまな方法を用いて実験を行ない、透視能力を持った人間が確かにいることを裏付ける証拠が得られている。そしてそれは、偶然で当たったと考えた場合、全体では、天文学的な数字になっている。このように、実験的にも透視が実在することはすでに確かめられているが、一般の科学者はほとんどが、そのような証拠を認めようとしないのだ。

 透視やテレパシーは、その時点で起こっている事柄を、五感を使わずに感知するという現象であるのに対して、予知は、未来に起こる出来事をあらかじめ感知する現象だ。しかし、台風の進路などのように、科学的に予測できるものの場合には、予知とは言わない。科学的方法も含め、通常の予測や推測ではわからないものでなければならないのだ。

 私の知っているある医学研究者は、いつも、研究に使った資料や書類を机のうえに広げたまま帰宅していた。ところがある日、どうしても大切なデータや書類を安全な場所にしまってから帰りたいという、ふつうに考えればばかげた考えにとらわれた。結局、その衝動に負け、全部片づけてから帰宅した。ところが、その晩、地震が発生し、いつものように書類を出したままにしていたら、燃えてしまうところだったという。

 ある時、アメリカのフィラデルフィア州に住むある男性は、商用でボストンに出かけていた。予定では、そのままワシントン行きの飛行機に乗ることになっていたが、留守宅の妻は、夫がその飛行機に乗ってはいけない気がして、そのことを、たまたま来ていた友人に話した。そして、次の日に夫と連絡がつくまで胸騒ぎが続き、夫には電話で、お願いだからその飛行機乗らないでほしいと頼むことまでしている。

 たまたま夫は、ワシントンに行く必要がなくなり、出発間際になってその便をキャンセルした。ところがその飛行機は、ポトマック川に墜落し、乗客全員が死亡したのだ。もしその男性が乗っていたとしたら、まちがいなく死んでいただろう。

 このような話は決して少なくないが、偶然の一致や記憶違いやうそではないことが証明できない限り、予知とは言えない。その出来事が起こる前に、予知した内容を誰かに話していたり、書き留めてあることが確認できれば、記憶違いやうそという可能性は低くなるけれども、偶然の一致ではないことの証明は難しい。しかし、細かい点まで正確に予知できている場合には、予知が働いた可能性が高いと言えるだろう。

 これまでの研究では、偶発的な予知はどうやら存在すると言えそうだが、実験的にはどうなのだろうか。

 偶発的に起こる予知の研究とは別に、予知の実験も昔から行なわれている。アメリカ、デューク大学超心理学研究室の故J・B・ラインは、1933年に、32名の小学生を含む49名を対象にして、ESPカードを使い予知実験を行なった。前にも話したように、ESPカードというのは、丸や四角のような5種類の模様のカードが5枚ずつ、25枚で1組になった、ESP実験用に考案されたカードだ。

 ラインは、まず被験者にその順番を予知させ、その後にESPカードを切り混ぜ、当たっている数を調べた。それを4523回行なったところ、偶然では考えられないほど高い得点が得られた。ところが、被験者が予知したものと一致する率が高くなるようにカードを切ることのできる実験者がいることがわかった。そうすると、予知の証明にはならないので、その後は、機械を使ってカードを切るようにした。しかし、それでも、偶然では説明できないほど高い得点が得られたのだ。

 予知の実験は他の方法によっても行なわれている。アメリカのスタンフォード研究所(SRI)で始められた、「遠隔視」という実験法がある。これは、被験者も、被験者と一緒にいる実験者も知らない場所に、別の実験者が出かけ、その時に被験者がその実験者の見ている場面を超感覚的に知ろうとする、というESP実験だ。これを予知実験として使った研究もいくつかある。つまり、たとえば24時間後にある実験者がいるはずの場所がどういうところかを、まず被験者に当てさせ、被験者が何を話したか知らない実験者が、24時間後に、特殊な方法ででたらめに選ばれた場所に出かけ、そこの写真を写したり、スケッチをしたりしてくる。そのような方法で何回か実験を繰り返し、それぞれを突き合わせ、どれくらい当たっているかを判定するのだ。

 この判定については、いろいろな批判があり、そのため、たとえばプリンストン大学などでは、機械的に判定できる方法が用いられている。その結果、偶然ではやはり説明できないほど高い一致が見られている。そのような結果を見ると、やはり予知という現象は実在するようだ。


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