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 小中学生のための超心理学入門 4


霊姿(れいし)

 霊が、生きている人間にのりうつったかのような、憑依(ひょうい)と呼ばれる現象が本当だとすれば、霊が、人間に何らかの働きかけをしていることになる。今から1810年以上昔の1810年に、インドで、霊が人間にいたずらをしたらしい事件が起こった。この事件の中心にいたのは、シシール・クマールという15、6歳の少年であった。

 最初に起こったのは、屋敷の中にレンガなどが投げ込まれたり、台所に置かれていた料理が消えてしまったりなどの、いわゆるポルターガイスト現象であった。ふつうのポルターガイストは、いずれ取りあげるつもりだが、物が飛んだり空中に浮かんだり一瞬のうちに消えたりなどの物理的現象が、主に思春期の少年少女の周辺で起こるものである。ところが、シシール・クマールの周辺で起こったのは、物理的な現象だけではなかった。女の霊姿(れいし)、つまり幽霊(ゆうれい)も現われたのだ。

 霊姿は、ひとりだけで見た時と、何人かで見た時とでは、それが現実のものかどうかを問題にした場合、意味が大きく違ってくる。ひとりしか見ていない時には、錯覚(さっかく)や幻覚(げんかく)で説明できると言われることが多いのに対して、複数の人間が同時に見た場合には、そういう説明が難しくなる。つまり、その霊姿が本物の可能性が高くなるのだ。

 シシール・ルマールの周辺で女の霊姿を見た人は、本人以外にも何人かいる。シシールのおばは、この霊姿がレンガを拾って屋敷の中に投げ込むところを見ているという。それとともに、シシールの今は亡き父親の霊姿も何回か目撃されている。また、「霊がおまえに悪さをしようとしておるが、心配せんでいい。わしがついておる」という亡父からの声も聞こえたという。

 ある晩、黄色い布に包まれた草の根が、突然シシールの手の中に現れ、それと同時に、女の霊の悪い企みから身を守るため、それを、銅の腕輪で腕に巻き付けておくようにという、亡父からの交信を受けた。シシール一家は、この指示を一部しか守らず、最初はひもで、次には、鉄の腕輪で巻き付けておいたが、いずれも原因不明の切れ方をして、根が下に落ちた。結局、指示通り、鍛冶(かじ)屋を呼び、銅の腕輪で巻き付けてもらったところ、その後、二度と切断されることはなかった。

 シシールは、その女の霊姿からも交信を受けている。最初に受けたのは、シシールの腕に巻かれていた布のひもが切れたことに関係したもので、「草の根のお守りを取ってやったぞ」と勝ち誇ったようにいう声だった。

 その後、この霊姿から受けた交信によると、その女は、バナーラスの前世時代にシシールと夫婦関係にあったという。そして、前世では、シシールに捨てられ、しばらくの間待ったが、結局自殺した。その年(1919年)の3月に、何人かの家族とともにシシールが聖地バナーラスに出かけた時、この女が本人の姿を見かけ、追ってきたというのだ。女の霊は、20年前までシシールと暮らしていたというバナーラスの住所を告げたが、ふたりがそこで本当に前世を送っていたかどうかは確認できなかったという。

 トランスといわれる、意識がどこかへ行ってしまったように見える状態の時に、シシールは、この女の霊が飲食物を持ってくるのを見ている。そうすると、亡父の霊がすぐに現われ、毒か何かが入っていたためか、その飲食物を引ったくったという。

 このような物理現象や霊姿は2ヵ月ほど続いたが、シシールは、次第に女の霊の影響を強く受けるようになった。この女の意のままに行動したりしているように見えたが、体重も減少してきたため、家族は、本人をとなり村のカーリー寺院に連れていき、そこで、“除霊”してもらった。その結果、ポルターガイスト現象も、霊姿現象も、シシールのトランス状態も、完全に消えたという。

 この例は、古いうえに、調査が行われたのも、事件から50年ほどたった後なので、この例を文字通り解釈してよいかどうかについてははっきりしない。しかし、もしこれが事実だとすれば、生まれ変わりがあることのほかに、“悪霊”といえるものが本当に存在し人間にいたずらをする場合があることや、そのいたずらを止めようとする霊も別に存在すること、この世のうらみは死んでも忘れない場合があること、霊はこの世の物体を移動させられることなどがわかる。

 1921年9月、アメリカのノース・カロライナ州に住んでいた農場主ジェイムズ・チャフィンは、高所からの転落が原因で死亡した。1905年に作成された遺言(ゆいごん)状には、自分の農場は三男に譲ると書かれていた。妻と残る3人の息子には何も残さなかった。

 ところが、4年ほど後の1925年6月、次男が父親の鮮明な夢を繰り返し見るようになった。はじめは枕元に立つだけで何も話さなかったが、ある時の夢では、自分の着ているオーバーを裏返し、「オーバーのポケットに遺書が入っている」と言って消えた。次男は、父親が生前着ていたそのオーバーを捜し当て、内ポケットを探ったところ、縫い合わされた中から、丸めてひもで結わえた紙が出てきた。その紙切れを見ると、確かに父親の筆跡(ひっせき)で、「おじいさんの形見の聖書の創世紀(そうせいき)第27章を見よ」と書かれていた。

 そこで次男は、近所の人を立会わせ、その聖書を調べてみると、創世紀第27章の部分の両ページが内側に折り込まれていた。開いてみると、そこに、1919年にあらためて書かれた遺書が入っていた。それによると、遺産はすべて、4人の息子に均等に配分するよう指示されていた。

 1925年12月、この遺産相続に関する裁判によって、後で見つかった遺書が正式なものと認められ、遺産は4人の息子に均等に配分された。

 ジェイムズ・チャフィンは、最初に書いた遺書が不満で、新しく書き直したものの、それをだれにも告げず死んでいった。そのことを死後に知らせるため、次男の夢に霊姿(れいし)となって登場したのだろうか。それとも、遺産がもらえなかった次男が、透視(とうし)によってその遺書の存在を捜し当てたのを、無意識のうちに父親の霊が知らせてくれたことにするため、父親をもっともらしく夢の中に登場させたのだろうか。本当に父親の霊が夢に出てきて知らせたと考えたほうが自然だろうが、研究者の中には、そう考えたがらない者もある。この点については、現段階ではどちらが正しいとも言えないのだ。

 この例も、かなり昔のものだ。1912年、旧ロシア帝国に住んでいたプラトン・ビベリは、肺結核にかかった甥(おい)のアレクサンドル・スコルデリを、本人の希望に従って、ある病院に入院させた。最期(さいご)をさとった甥は、ビベリに別れの言葉を述べた。2ヵ月後、病院から甥の死亡が知らされた。しかしビベリは、病気のため葬儀に出席できなかった。

 その2ヵ月後、ビベリは用事でその病院がある町の旅館に泊まった。その晩、ベッドに入り意識が薄れてくると、廊下から、スリッパを引きずって歩くような物音がはっきり聞こえてきた。その足音がドアの前で止まった時、そこにいるのは、死んだ甥にまちがいないということが“わかった”。その時、甥がドアのノブに手をかけ、「開けて、おじさん、開けて」と言うのが聞こえた。恐ろしくなったビベリは、黙って返事をしなかった。すると、「ぼくがドアを通り抜けられるとは思わないんですか」という声が聞こえてきた。そうなっては大変だと思い、勇気をふるって、どうしてほしいのか聞いたところ、「私をきちんと埋葬してください。お棺が狭いのです。短いのです」という答えが返ってきた。弱々しい声で2回そう言うと、甥らしき存在は、またスリッパを引きずりながら、ゆっくり遠ざかって行った。

 翌年、また用事があって同じ町に出かけ、旅館の部屋に入ると、女の人が本人を待っていた。聞いてみると、甥が入院していた病院で病棟婦(びょうとうふ)をしていたことがあり、甥の死に立会ったという。その時の様子を聞いたところ、その女性は、次のような話をしてくれた。「あの方は、私が付き添っている時に亡くなりました。その時ひとつだけまずかったことがありました。お棺が特別に注文できず、病院のひつぎに納められたことです。ところが、このお棺は幅が狭すぎるし短すぎるしで、遺骸(いがい)を納めた時、骨がポキンと折れてしまったのです」。

 ビベリの体験が事実だとすると、甥が、狭いお棺に不満を持って、そのことを本当に知らせてきたのだろうか。

 霊姿(れいし) は、昔の約束を果たすため現われるように見えることもある。次の例は、イギリスの有名な政治家・ブルーアム卿(きょう)が、スウェーデンを旅行中、ある宿屋で入浴している時に体験したものだ。

 ブルーアムは、エジンバラ大学時代の親友Gと、霊魂の不滅について話している時、どちらか一方が先に死んだら、残った方の前に姿を見せる約束をしていた。卒業後、Gはインドへ行き消息も途絶えてしまったので、Gの存在もほとんど忘れていた。

 1799年12月19日、湯舟につかっていたブルーアムが、風呂からあがるつもりで、脱いだ服を載せてある椅子に目をやると、そこにGがすわっていた。ショックがあまりに大きかったため、ブルーアムはその時の経過をかなり詳しく日記に残している。湯舟の中でいったん眠ったのはまちがいなかった。しかし、それほどはっきりと目の前に出てきたものが夢とはとても思えなかった。スウェーデンを旅行中は、Gを思い出すようなこともなかった。ブルーアムは、すぐに昔の約束を思い出した。Gが死んだのはまちがいないと思った。

 エジンバラに戻ってまもなく、インドから手紙が届いた。Gの死を知らせる手紙だった。そこには、確かにその年の12月19日にGが死亡したことが書かれていた。ブルーアムは次のように書いている。「何という偶然の一致であろうか。毎夜頭の中を通り過ぎる大変な数の夢を考えてみると、夢の内容と出来事が一致する比率は、偶然で起こる確率から考えられるよりは低いであろうし、それほど高いものでもないであろう」。

 もしこれが夢だとしても、このような一致が起こる確率はきわめて低いものになる。しかし、夢ではなく本当に霊姿が現われたのだとしたら、死者が約束を果たすために親友の前に姿を現わしたと言えるのだろうか。そのような疑問に答えることは今の段階ではできない。しかし、遠い戦場で戦死した兵士が、母国の家族のもとに“帰って来た”などという、よく聞く話が本当だとすれば、それもありうることかもしれない。

 霊姿(れいし)が本当に存在することを実験で確かめることはできない。しかし、霊姿を目撃したという報告を、科学的方法によって検討した研究ならある。

 1973年10月、ニューヨークに住む若い女性が、アパートの廊下で人影を見た。すぐに調べてみたが、そこには誰もいなかった。次の日の晩、同居している母親も同じような体験をした。その話を聞いたニューヨーク市立大学の心理学者が、そのアパートに本当に幽霊(ゆうれい)が出るのかどうか調べることにした。

 まず、そのアパートの間取りを20区画に細かく分け、ふたりの目撃者の証言から作った項目(たとえば「遠ざかってゆく」「全体に黒っぽい」)とそれとは矛盾する項目(たとえば「飛んでいる」「全体に明るい」)を混ぜ合わせたチェックリストを作成した。そのうえで、霊的な能力があるという者4人と、こういう現象に疑いを持っている者8人とをひとりづつそのアパートに行かせた。霊的能力のある者に対してはどこに幽霊が見えるかを、疑いを持っているものに対してはどこで幽霊が目撃されたと思うかを報告させた。そのうち、霊的能力のある者ふたりと疑いをもっている者5人がチェックリストに記入した。

 その結果、霊的能力者ふたりの報告は、実際の目撃者の報告とかなり一致した。しかし、どの辺で幽霊が見えやすいかをもとにチェックリストに記入した、疑いを持っている者の場合には、一致はひとつもなかった。つまり、いかにも幽霊が出そうな場所で目撃されていたのではなかったのだ。

 また、1974年5月、ある写真家にアパートの要所要所を赤外フィルムで撮影してもらったところ、中ほどのコマに、現像焼き付けの過程で起こったとは考えられない、不思議な放射状の光が映っているのがわかった。

 この研究は、ある程度科学的な方法を使って、霊姿の目撃報告が事実がどうか検討しているという点で興味深いが、これだけでは、霊的能力者が、テレパシーを使って目撃者から霊姿の見えた場所を知ってしまったためにこのような結果が得られたと考えることもできるので、残念ながら、霊姿が本当に出たことの証明にはなっていない。


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