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 小中学生のための超心理学入門 6


臨死(りんし)体験

 タナウスさんが、本当に肉体から抜け出したかどうかははっきりわからない。肉眼で見えたわけではないからだ。その点については、最近よく知られるようになった臨死体験でも同じだ。臨死体験とは、人間が死んだように見えたにもかかわらず生き返り、あとで話してくれる、その間の体験のことだ。本当に心臓が止まり、場合によっては脳死(のうし)のような状態になったのに、その後で生き返る人がごくまれにいるが、その中に、“死んで”いた間の体験を話してくれる人がいるのだ。

 このような人たちが本当に“死後の世界”を見てきたかどうかはともかく、体験の内容はかなり一貫している。自分が肉体から抜け出したようになり、光り輝く世界の中で、今は亡き親族や、宗教的人物に出会う。宗教的人物は、文化圏(けん)により異なる。日本なら阿弥陀如来(あみだにょらい)かもしれないし、インドならヤマ(えんま大王)かもしれないし、アメリカやイギリスならキリストかもしれない。その世界には、きれいな花園があり、そこから先に行ってはいけない境界線がある。その先へ行かずに戻ってくると、いつのまにか元の肉体に自分がいるのだ。

 臨死体験と体脱体験は、肉体から抜け出した感じがするという点で同じだが、体脱体験は死と関係ない状況で起こるのに対して、臨死体験は“死が近い”状況で起こるという点で違っている。また、体脱体験の場合には“この世”を見て歩くのがほとんどなのに対して、臨死体験では、ほとんどが“あの世”まで行くという。

 では、臨死体験をした人は、本当に“死後の世界”を見てきたのだろうか。そのことを確認するにはどうすればいいのだろうか。本当に死後の世界を見てきた人がいれば、それと照らし合わせて判断すればいいが、生きている人間が死後の世界を見て返ってくることはない。あるのかもしれないが、それを科学的に確かめることはできない。そうすると、間接的に確かめるしかないことになる。

 臨死体験という言葉は、1976年に、アメリカの精神科医レイモンド・ムーディさんが考え出したものだ。ムーディさんは、自分が通っていた大学の先生から臨死体験の話を聞いた後、同じような話を何人かの人から聞いたことがきっかけとなって、その研究を始めたという。そして、150例ほどの臨死体験を集めてその研究を発表するのだが、その時点では、超心理学の中で昔から臨死研究が行われてきたことは知らなかった。もちろん、超心理学では、臨死研究を死後生存研究のひとつとして行っていたのだ。

 超心理学で行われていた臨死研究は、正確には、臨終時体験の研究だ。つまり、人間が死ぬ直前にした体験を、その場に立ち会っていた医師や看護婦から聞き出し、それをもとに行った研究なのだ。直接に患者から聞き出したのではなく、間接的に医師や看護婦を通じて聞き出したものなので、多少のゆがみが起こるおそれはある。しかし、臨死体験を体験者からじかに聞いたとしても、実際にはその人は生き返っているのだから、本当に死んだ時と同じ体験をしているとは限らない。その点、臨終時体験は、患者がそのまま死ぬわけだから、実際に死が差し迫ったときの体験と言える。

 臨終時体験も臨死体験も、アメリカとインドで調査されているが、それを見ると、このふたつの体験は基本的にはよく似ていると言える。両方とも、今は亡き親族や宗教的人物の霊姿(れいし)が現われ、天国のような光あふれる風景を見ているのだ。そして、両方の体験者とも、安らかな気持ちになっている。臨終時体験の場合は、患者がそのまま死んでしまうが、臨死体験の場合には、生き返った患者は死に対する恐怖がなくなるのだ。

 ところが、ふたつの体験の内容は、文化圏によってかなり異なることがわかっている。ここでは、かなり研究されているアメリカとインドの例で比較してみよう。たとえばアメリカでは、自分の肉体を上から眺(なが)めるという体験があるのに対して、インドではそのような例はこれまでのところ見つかっていない。また、インドでは、“天国”に行った者が“人違い”だと言われて戻される例が多いのに対して、アメリカではそのような例は1例もない。

 インドのあるヒンドゥー教徒は、死にかかり、しばらくして意識を回復した。そして、「今、白い服を着たみ使いたちに連れて行かれて、きれいなところまで行ってきた」と言った。そこには、帳簿を持った白装束の人物がおり、その人物がみ使いたちに「お前たちは人違いをした」と言って、その人を連れ戻すよう命令したという。その人の話では、そこはとにかく美しいところで、そこから戻りたくないくらいだったという。

 その患者を見ていた看護婦によれば、その病院に同姓同名の患者がもう一人入院していて、その患者が意識を取り戻した時に、同姓同名の患者が入れ替わるように死んだというのだ。いわば″あの世のお役所の“ミス”でまちがって連れて行かれた患者が連れ戻されると、本来死ぬことになっていた者が入れ替わるように死ぬなどということが、本当にあるのだろうか。

 この例は、アメリカ心霊研究協会のカーリス・オシスさんがアイスランドの心理学者のハラルドソンさんと一緒にインドで調べたものだが、それとは別にインドで臨死体験の調査を行っているヴァージニア大学精神科のイアン・スティーヴンソンさんによれば、このような例は、インドでは決して珍しくないという。しかしアメリカには、このような“まちがい”は見られないらしい。では、どうしてこのような違いが出てくるのだろうか。

 インド人は、君たちの知っているように、ほとんどがヒンドゥー教徒だが、一部にキリスト教徒もいる。そのキリスト教徒の中にも同じような体験をしている人がいることからすれば、宗教の違いというよりも、文化の違いによって、このような差が生まれるのかもしれない。もしそうだとすれば、“あの世”で出会う宗教的人物ばかりか、臨死体験の内容までも、文化圏によって違ってくることになる。これが、いろいろな文化圏で臨死体験の調査をする必要がある理由なのだ。そうしなければ、文化や教育によって色付けされていない本当の臨死体験が突き止められないことになる。

 逆に、アメリカの臨死体験で見られて、インドの臨死体験では見られないものに、体脱体験がある。アメリカの体験では、自分が死んだ感じがした後に、上の方から自分の“遺体”を眺めているように感じられる体験があるが、インドの体験では、そういう例はあまり知られていない。

 臨死体験の中で起こる体脱体験について厳密に研究しているのは、アメリカの心臓病専門医マイクル・セイボムさんだ。セイボムさんは、このような体験を、“自己視型臨死体験”と名付けている。

 ある男性は、59歳の時、心臓発作を起こし、心臓が停止した。その最中に自分の肉体を外側から見ていたという。「けいれんを起こしかかった時、振り返ってみると自分の身体がそこに横になってるのが見えたんです。……初めはそれが誰かわからなかったんですが、近づいて見ると何と自分だったんです。……先生たちは俺をバンバン叩いてたですよ。俺の上に膝で乗っかってね。……それから先生たちが俺の胸の真ん中のちょっと左寄りに針を刺してるのが見えました。……それから、みんなが廊下を向こうにいくのがはっきり見えたのを覚えてますよ。そのうちの3人はそこに立ってました。女房と長男と長女と先生でした。」

 セイボムさんは、この男性が見たという治療の場面と、3人の家族が廊下にいた場面が事実あったかどうか調べている。それによると、この時の治療のもようについては、病院のカルテに書かれていなかったのではっきりしないが、3人の家族が予定外に病院を訪れたものの、患者の位置から見えたはずはないという。そうすると、やはり、この患者は自分の肉体を抜け出して、自分の治療の場面や、家族が廊下を歩いている場面を本当に見たのだろうか。この場合、肉体は、単なる体脱体験とは異なり、心臓が止まり、意識もない状態にあるのだ。

 臨死体験は、本当に肉体から心や“魂(たましい)”が抜け出して、“あの世”まで行ってくる体験なのだろうか。それとも、そういう感じがするだけのことなのだろうか。

 臨死体験については、日本でも、何人かの科学者が、医学的、心理学的に説明できる体験だと発言している。この点については、欧米も同じ状況にある。意識的、無意識的に作り話をしているのではないかとか、精神病的や薬物による幻覚(げんかく)なのではないかとか、死ぬ間際に脳がおかしな状態になり、その結果起こる結果なのではないかとか、夢の一種なのではないか、などという説明が行われているのだ。

 それに対して、オシスさんやセイボムさんたちは、単なる夢や作り話でも、精神病や薬物による幻覚でもないことを確認している。実際、前回説明したような、肉体の置かれている場所からは見えないはずの場面や出来事が見えたという例は、このような説明では片付けられない。では、本当に心や魂が抜け出したのかということになると、現段階ではそう言い切ることはできない。死ぬ間際だったり、いったん“死んで”も生き返ってくるために、厳密な意味では、実際には死んでいなかったことになるからだし、遠方の場面や出来事が正確にわかったとしても、いずれ取りあげるESP(超感覚的知覚)によってその情報を得たと考えることもできるからだ。

 しかし、ESPによって説明するのが難しそうに見える例もある。オシスさんたちが、インドの医師から聞いた、ヒンドゥー教徒の女の子の例もそのひとつだ。この女の子が、息を吹き返した後話してくれたところでは、あの世から来た使いがふたりでその女の子を担架に縛り付け、神様のところまで運んで行った。しかし、人違いということになって、その使いたちが女の子を送り返してくれた。ところが、後で調べてみると、両足にロープで縛られた跡がはっきり残っていたというのだ。インドには、火葬場に遺体を運ぶ時、遺体を担架に縛り付ける習慣がある。しかし、この女の子は、肉体を本当に縛り付けられていたわけではなく、そういう感じがしただけなのに、肉体にロープの跡のようなものがあったのだ。これは、いったいどういうことなのだろうか。

 臨死体験は、死後の世界の存在を証明したと言えるだろうか。

 臨死体験について、これまで言われている結論を簡単にまとめれば、次のようになる。(1)死後の世界など存在するはずはないので、臨死体験は幻覚や錯覚のようなものにすぎない。(2)死後の世界はあるかもしれないが、臨死体験だけでは、今のところ、その証拠としては不十分だ。(3)臨死体験は、死後の世界が存在する十分な証拠になる。

 (1)は、前に説明したことがあるように、唯物論が絶対的に正しいという考え方であり、したがって、科学的な結論とは言えない。(2)と(3)は、主として、超心理学者たちが考えている結論だ。現段階では、どちらが正しいとも言えない。つまり、これまで集められた証拠によって、死後の世界の存在が十分裏づけられるとその人が考えるかどうか、という問題なのだ。

 たとえば、ネッシーという、まだその存在が科学的に確かめられていない爬虫類が本当に存在するかどうかを確認しようとする時、私たちはどうするだろうか。ネス湖に行って、ネッシーが出て来るのを待っていても、簡単にはそれらしい動物を見つけることはできないだろう。だが、その存在を裏づけるらしい写真などの証拠は、ある程度得られている。また、映画に撮影されたこともある。しかし、ネッシーが本当にいることを証明する決定的な証拠は、まだ見つかっていない。つまり、ネッシーを捕まえるか、その死骸を見つけるかして、それが、これまで棲息(せいそく)の確認されていない動物であることを証明する必要があるのだ。

 臨死体験については、ネッシーで言えば、ネス湖らしいところを泳いでいるネッシーらしい動物の写真がたくさん撮られているという状況に近いだろう。では、そのような証拠から、臨死体験は死後の世界をかいまみてきた体験と言えるだろうか。

 実際、そのような研究をしている科学者の中には、臨死体験を死後の世界が実在する証拠と考える人が多い。しかし、厳密に証拠を検討する人たちからすれば、死後の世界があると考えるのはまだ早すぎるのかもしれない。


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