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 ことの重大性と超常現象研究 2

探検家と科学者

“先陣争い”という要素

 地球上の探検は、ヒラリーとテンジンによる1953年のエヴェレスト初登頂によって終止符が打たれた、と考えられることが多いようです。この出来事は、ほとんどの先端的探検家に計り知れないほど大きな衝撃を与えました。残る8千メートル級の高峰も、政治的な理由で外部から接近できなかったシシャパンマが、自国の中国隊によって1964年に登頂されたのを最後に、次々と“征服”されました。

 その後の登山は、難易度はさまざまにしても、バリエーション・ルート(一般ルートよりも難しいルート)を開拓する先端的登山と、スポーツや娯楽などのための一般的登山とに分かれます[註1]。しかし、そのバリエーション・ルートにしても、エヴェレスト初登から既に50年以上が経過する中で、次々と開拓、踏破されるにつれて先細りになり、今では、意味のあるものとしてはほとんど残されておりません。そのような事情から、スロベニアの先鋭登山家トモ・チェセンが、ヒマラヤの最難関とされる、世界第4位の高峰ローツェ(標高8511メートル)の、標高差が3300メートルもある南壁を、短時間で単独登攀したと1990年に発表した時、その快挙は、特に最先端の登山家たちの間で大変大きな話題になりました。

 世界に14座ある8千メートル級の高峰すべてに、世界で初めて登頂したイタリアの登山家ラインホルト・メスナーは、人為的登攀具を極力使わない、単独ないし小人数による“フェアーな登山”を信条としています。“超人”と呼ばれるそのメスナーでさえ撃退されたほど困難な南壁の初登に、チェセンが単独で、しかも驚異的なスピードで成功したというのです。それを聞いたメスナーは、自伝の中でチェセンを手放しで絶賛します(メスナー、1992年、436ページ)。自分を追い越した人物の登場を、素直に喜んだのです。いかに不世出のパイオニアや天才であっても、いつかは後輩に追い越される宿命にあるわけですし、それでなければそもそも人類の進歩というものがありません。そして、追い越された側が、その時に心底から素直に喜べるかどうかが、その人物の人格的本質を否応なく示す踏み絵になるわけです。

 ところが、チェセンが南壁登攀中に撮影したとされる写真が盗用だったことが、まもなく発覚します。それとは別の視点から、チェセンの登攀に同じく疑念を抱くようになっていたメスナーは、チェセンの講演会に共同司会者として出席します。ところが、自らに向けられた疑問にまともに答えることができず、矛盾した発言を繰り返すチェセンを見て疑念を深めたメスナーは、後に、次のような、深い意味を持つ言葉でチェセンに問いかけます。

 チェセンがこの危機を切り抜けなくてもべつに世界が崩壊するわけでもないだろう。だが、その奥にはもっと重大な問題が潜んでいる。われわれ究極のアルピニズムを追求する人間すべてに対して、チェセンは答える必要がある。私と同様トモ・チェセンを尊敬する多くの若いアルピニストに対して責任がある。〔中略〕もし、彼がこれからも、他人の発言に対する否認のみで自分の登攀を立証しようとするなら、わたしは自分の登山史の本から彼の名前を抹消するだろう。彼が、ただ彼だけが、一九九〇年のローツェ南壁にいたのである。彼だけが、この登攀が真実か否かを知っているのだ。(池田、1998年、186ページ)

 メスナーにとって、チェセンの主張が事実かどうかは、「世界が崩壊する」ほど重大な問題のようです。ところがチェセンは、このメスナーの問いかけに応じようとせず、自ら孤立の道を選び、ロッククライミングに転進してしまいます。チェセンを信奉する若者たちは、「究極のアルピニズム」を標榜するメスナーの批判の真意を理解するどころか、メスナーに非難の目すら向けるようになりました。メスナーが、この問題をそれほど重大なものと考える理由など、チェセンにもこの若者たちにもわかるはずがないでしょう。

 説明するまでもないかもしれませんが、メスナーにとって、他人との勝ち負けや人からの賞賛はほとんど意味を持たず、それまで人間をことごとく撃退してきた難関を、“フェアーな方法”を使って乗り越えることこそが探検やパイオニアの本質であり、それを達成した人間は(自分自身も含めて)誰であれ偉大だ、という観点からものを考えているわけです[註2]。したがって、初登という行為が持つ意味も、メスナーとチェセンでは全く違ってきます。チェセンもその信奉者も、人との勝ち負けに意識的、無意識的にとらわれた“先陣争い”という枠組みでしかものごとが考えられないため、通常の意味の勝ち負けとはほとんど無縁の立場にいるメスナーとは、根本の部分で議論がかみ合いません。しかし、「見れども見えず」で、チェセンやその信奉者たちには、議論がかみ合っていない原因はもとより、かみ合わない様相すらはっきりとはわからないでしょう[註3]

 メスナーのような最先端にいる探険家の目指しているものがいかにわかりにくいかは、以下の引用文を見ると、むしろよくわかるのではないでしょうか。この著者は、現在、霊長類研究の世界の最先端に位置づけられる、オランダ出身の生物学者です。

 私たちが多大な労力を費やして何かを追求するのは、相当な見返りを伴うときに限られる。自尊心を持ちだした心理学的な説明は、どれもここでつまずくのだ。自尊心は、それが他者からの尊敬とか、そこから得られる特権に変形しない限り、何の価値もない。自尊心は社会とのつながりで構築されて、はじめて重要性を持つのだ。(ドゥ・ヴァール、2002年、286ページ)

 つまり、「他者からの尊敬」なり、「そこから得られる特権」なりの「相当な見返り」が保証されない限り、人間が「多大な労力を費やして何かを追求する」ことはありえないというのです。この人間観ないし世界観は、ほとんどの経済学者の立場とも共通しているようです。これは、アーサー・ケストラー流に言えば、動物の擬人化とは正反対の、人間の「擬鼠化」というものです(ケストラー、1969年)。そのような立場からすると、最後まで人からの賞賛を得ることなく死んでいった、オランダの画家ゴッホなどは、天才でも何でもなく、何らかの(誇大的)思い込みに浸りきっていたにすぎないのに、幸運にもその作品が、たまたま死後に評価されたということになるのでしょう。そのような“解釈”を聞かされたら、ゴッホは何と言うでしょうか。両者の立場の違いは、断絶に近いほど大きいものです[註4]

 話を戻すと、チェセンの主張にまつわる論争は、「真の意味での探検とは何か」という問題ばかりでなく、「真の意味での科学的探究とは何か」という究極的な問題とも、創造活動(パイオニア・ワーク)という点で密接に関係しています。したがって、どちらの場合も、自分で完全にコントロールできなければほとんど意味がないため、資金を自力で調達する必要のある場合が多いはずです。資金を誰かに依存していると、その義理を意識的、無意識的に優先させることが少なくないため、本来なら避けられるはずの遭難にも遭いやすくなるわけです。メスナーや山野井泰史のような先端的登山家の多くは、その点を十二分にわきまえて行動しています。

 探検や科学的探究は、基本的には仕事の一環ではなく、いわば高級なものであるにしても個人的な“遊び”の範疇に入るので、自分でコントロールできない“宇宙探検”や“深海探検”などは、本来の探検からほど遠いものです。そのため科学的探究は、応用を前提とした技術開発とは完全に異質なもので、仮に集団の中で行なわざるをえないとしても、本来的に個人の営為でなければなりません。探検や科学にあまり重きを置かず、技術的側面を偏重してきた日本の伝統から見ると、この点は非常にわかりにくいと思います[註5]

先陣争いと徳性

 ところで、科学的研究とは、主として観察と実験という、いわば科学の作法に則って、“フェアー”な方法で行なうべき真理の探究です。この場合の“フェアー”は、もちろん、メスナーの言う“フェアー”と全く同じ意味です。ところが、探検家と同じく、科学者といえども人の子なので、勝ち負けにとらわれた状態から抜け出すのは非常に難しいわけです。したがって、「他者からの尊敬」や「そこから得られる特権」を追求する、虚栄心にとらわれた圧倒的多数の科学者の場合、特に、有力な競争相手がいる時には、この原則を頭で理解していても、現実に実践するのは相当に難しいのではないでしょうか。

 そのため、何とかして勝ちたいが、不正行為をして勝ったのでは、科学者の倫理規定に反するし、それが発覚した場合を考えると、科学者生命が絶たれるなど危険が大きすぎる、という“葛藤”に悩まされる科学者も少なからずいるはずです。その結果として、その誘惑にかろうじて打ち勝っている程度の科学者や、わずかに屈してしまう科学者は、実際にはかなりの数にのぼるのではないでしょうか。そのため、学会や専門誌の側は、科学者の不正行為を監視し、それに基づく論文の発表を阻止するための方策を練らざるをえなくなっています(たとえば、科学倫理検討委員会、2007年)。

 科学者がその誘惑に完敗した場合には、データの大幅な改竄や捏造という形を取って現われます[註6]。世界的に注目されていたソウル大学教授によるES細胞捏造という、国際問題にまで発展した事件や、わが国の考古学界をリードしていた考古学者による古代遺跡の捏造事件などは、私たちの記憶に新しいところです。両者とも、科学界や教育界に多大な損害を与えたばかりでなく、世間一般にも大きな影響を及ぼしました。このように、世の注目を浴びている先端的な科学者ですら、平然と不正行為をするとすれば、科学者全体の倫理観が問われることになるのは当然の帰結でしょう。

 このふたりは、いずれ発覚する可能性がきわめて高い不正行為を繰り返していたわけですが、仮に“運よく”発覚しなかったとしても、それは、科学者の自滅行為でしかありません。そうした本末転倒的行為は、宗教者による神の冒涜にも等しいもので、科学とは完全にかけ離れたものになり下ってしまうからです。この誘惑こそが、キリスト教で言う悪魔サタンによるものなのでしょう(ミルワード、1978年、43-44ページ参照)。ここに関係してくるのが、創造活動と幸福感の関係です。不正をしていたのでは、喜びが得られないからです。この問題には、第3部でもう一度ふれることにします。

 このようにして「悪魔に魂を売り渡す」と、科学的研究に必要不可欠の大前提が、自分の思い込みや願望に従って、意識的、無意識的に大きくゆがめられ、真理の探究という科学の本来の目的がどこかに行ってしまうわけです。同じく先端的登山家と呼ばれても、メスナーの陣営よりもチェセンの陣営のほうがおそらく圧倒的に大きいはずですが、それと同様に、同じ科学者という名前で呼ばれても、真理の探究よりも勝ち負けを優先する人たちのほうが、はるかに多いのではないでしょうか。

 ところで、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」という名言の通り、人は権威が認められた地位につくと、それまでの志や品性をかなぐり捨ててまでして、権力を乱用するようになるものです。その結果、本来の目的が見失われるばかりか、その権力の維持に全エネルギーを投入するという、自分の生きかたにけちをつけているとしか思えない行動を取るようになってしまいます。逆に、社会主義理論に基づく国造りという、このうえない犠牲を払って実施された、壮絶な歴史的実験の結果を見てもわかりますが、人間から自由や競争を奪ってしまうと、意欲も大幅に失われ、人間が権力のロボットのようになって、理想の民主国家が構築されるどころか、次第に国家全体が傾いたり崩壊したりしてしまうわけです。

 もちろん、どちらの環境に置かれても、それに支配されない生きかたを続けることができる人たちもいるはずですが、それは、強い主体性を持ったごく一部の人に限られるでしょう。ここに、ほとんどの人たちは環境に左右されるように見えるのに対して、ごく一部にせよ左右されない人たちがいるという事実とともに、権力へのとらわれと創造性の対立関係も見ることができます。

創造活動と徳性

 創造活動と徳性は、以上のような側面で関係していますが、そればかりではありません。本題からそれるようですが、両者の間には、それよりも重要で積極的な関連性があるのです。そのことは、第1部でもふれておいた美学的側面とも、密接に関係しているように思います。以下、創造活動と徳性の関係について手短に検討しておきます。

 ここで問題になるのは、(1)外部からの規制を前提とした伝統的道徳と、(2)外部とは無関係に機能する内発的自己制御の違いです。特にわが国では、“権威の崩壊”に伴って、最近、(1)の伝統的道徳が急速に崩れてきています。小学校の学級崩壊や荒れる成人式も、このところ連日のようにマスコミをにぎわせている種々の偽装問題も、その現われのひとつと言えるでしょう。違法行為という側面を合わせ持つ偽装はともかくとして、伝統的道徳の破綻に対しては、道徳教育や規制の強化によって規律を守らせることで、それに対抗しようと考える人たちがいます。しかし、これまでの人類史を振り返る限り、旧体制への復帰によって秩序を保たせようとする方法が、一時的にならともかく、永続的に成功するようには思われません。それは、いわゆる時代の流れというか、おそらく生命や人類が自然に向かおうとしている方向とは逆向きになっているからです。

 伝統的道徳は、簡単に言えば、意識的にせよ無意識的にせよ、いわば“がまん”している状態なので、順調に機能していたとしても、そのような状態がいつまでも保証されるわけではありません。これは、自他による規制が緩めばたちどころに破られてしまう宿命にある、いわば危うい道徳です。それがごく最近までそれなりに機能してきたのは、圧倒的多数の人たちが、たとえば「授業はおとなしく聞くものだ」などとして、“世間体”をはじめとする暗黙の権威に、これまで盲目的、無自覚的に従ってきたからにすぎません。それに対して(2)は、少なくとも現時点において、生身の人間には実行がきわめて困難な、いわば未来の人間のための理想の道徳と言えるでしょう。

 フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、『道徳と宗教の二つの源泉』の中で、このふたつを、自ら唱える創造的進化論の立場から、「閉じた道徳」と「開いた道徳」として完全に区別しました(ベルクソン、1979年、270-271ページ)。ベルクソンの考えでは、たとえばイエス・キリストが批判するファリサイ派の人たちの旧態然とした律法が閉じた道徳で、イエスの唱える、時として実行困難な新しい価値観が、開いた道徳ということになります。

 〔会堂に〕片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。(「マタイによる福音書」第12章10-14節)

 東洋風の表現で、二種類の道徳に近いものをあげるとすれば、対外的な側面を重視する硬直した“陽徳”と、自在性、発展性を持つ内発的な“陰徳”ということになるでしょうか。ただし、ユダヤの人たちにとって伝統的で神聖な、律法という絶対的権威を平然と無視するイエスが、唱え実践した開いた道徳のほうが、少々消極的な感じのする陰徳よりも、はるかに創造的、探検的であるだけでなく、上の実例からもわかるように、場合によっては危険ですらあります。

 前者は、権威にひたすら従属しようとして、意識的、無意識的に自己を偽る(いわゆる、自分を殺す)のに対して、後者は、本来的に自己を偽ることがありません。これは、私の言う“本心”に忠実という意味でもあります。イエスのふるまいをみてもわかりますが、本来の意味で創造的で探検的な行動は、同時に品性の高い行動でもあるのです。わかりやすく言えば、それは“自分に恥じる”ところがないからでしょう[註7]。それに対して、既存の道徳や利権を守ろうとするファリサイ派の人たちは、自らの本心に忠実ではないため、じゃまなイエスを殺そうと密かに画策するなど、品性の低い行動をどうしても取りやすくなるわけです[註8]

ことの重大性という要因

 必要なこととはいえ、前置きが非常に長くなりましたが、ここでようやく本題に入ります。今さら説明するまでもありませんが、「ことの重大性」とは、当該の問題が重大であることを意味する言葉です。一般の科学者から見ると、もし超常現象が実在するとすれば、それは、かつてキリスト教世界で大問題になった地動説や、神の国アメリカでは今なお攻撃の対象になっている進化論をはるかに凌ぐ、きわめて重大な問題になります。キリスト教世界か非キリスト教世界かを問わず、現行の科学知識体系が根底から大きく揺さぶられることになるからです[註9]

超常現象と科学知識

 最初に、科学と科学知識の区別という、科学者の基本的心得に簡単にふれておきます。超常現象の否定論者の多くは、「超常現象は科学で(あるいは、科学的に)説明できないので、存在しない」という奇妙な論理を使って超常現象の実在を否定します。しかし、そのような論理では、超常現象の研究者は、全く無意味なことを無自覚のまま続けている愚かな疑似科学者ということになってしまいます。それより何よりも、この論理では、科学が新しい知識の参入を全く認めないことになるので、科学というものの存在意義を完全に否定することにもなってしまうのです。

 超常現象の定義は、第一部でふれておいたように、「現在の科学知識では説明できない現象」となっています。つまり、言うまでもないことですが、科学と科学知識とは別ものなのです。科学とは、主として観察と実験という科学的作法に従って真理の探究を行なう方法のことであり、それを通じて蓄積された成果が、時の科学知識となるわけです。ですから、科学者と呼ばれる人たちは、現行の科学知識を絶えず塗り替えようとする努力や試みを仕事にしているのであり、既存の科学知識を振りかざす人たちは、科学知識の普及者でなければ、科学主義者とでも呼ばれるべきなのです。超常現象の否定論者が、この程度のことも知らないとすれば、そもそも発言する資格すらないことになるでしょう。

 したがって、「超常現象は科学で説明できないので、存在しない」と主張する否定論者たちは、本来なら、「超常現象は現在の科学知識では説明できないので、存在しない」と言うべきなのです。しかし、それではまるでナンセンスな論理になり、自己矛盾が露呈して、超常現象の実在を否定する根拠を完全に失ってしまうので、「現在の科学知識」を「科学」にこっそりすりかえるわけです。「科学」を錦の御旗として担ぎ出せば、頼みの綱とすべき絶対的権威にもなるからでしょう。もしこのすりかえを意識で承知しているとすれば、詐欺行為に等しいことになりますし、自覚していないとすれば、そのような反則までしてなぜ全否定しようとするのかという、精神病理学的な意味での動機が問題になってきます。したがって、どちらにしても由々しき問題なわけで、こういうあたりまえの指摘を、これまで誰もしてこなかったのは、実に不思議です。

ことの重大性から見た超常現象

 ところで、超常現象は、ESP(超感覚的知覚)と念力と死後生存現象の3種類に分けることができます。そして、そのそれぞれは、「超常現象とは何か」というページで説明している通り、さらに細かく分けられるわけです。ESPには、透視とテレパシーと予知が含まれます。念力(PK)の場合は、たとえば生体PKなどという、ターゲットに沿った呼称や、ポルターガイスト現象などを説明するための偶発的PKといった呼称もありますが、念力による効果が目視可能かどうかという角度から、ミクロPK(肉眼で観察できないレベルの念力現象)とマクロPK(スプーン曲げや念写など、肉眼でじか的に観察できる念力現象)に分けるのがむしろふつうでしょう。また、死後生存現象は、体脱体験(OBE)、臨終時体験、臨死体験、霊媒を介した死者との交信、霊姿、真性異言(知らないはずの外国語を操るという現象)、憑依、生まれ変わりなどに分けることができます。

 次に、各現象について考えてみましょう。まず、ESPのうち、透視とテレパシーは、物理的な遮蔽や距離を越えて、心が直接的に情報を得ることができるとされる能力です。それが事実なら、それはどのようにすれば可能なのでしょうか。それだけでも現在の科学知識とは大幅に隔たっていますが、もっと困るのは、未来に起こるはずの出来事を知る予知と呼ばれる現象です。もしこのようなことが本当に起こるとすると、人間の心は、何らかの形で時間を超越する能力を持っていることになるからです。

 念力の場合はどうでしょうか。ミクロPKは、たいていの場合、特定の目が出るよう念じながらサイコロを転がす実験のように、回数を数多く重ね、その結果を統計的に調べて、偶然で起こる確率を算出するという方法で研究されます。したがってその研究法は、内容を別にすれば多くの心理学実験などとほとんど変わりません。また、統計的に有意な結果が得られた場合でも、全体としてどこかに念力が働いたとは言えるでしょうが、どこに念力が働いたのかはわかりませんから、抵抗も少ないものです。しかし、肉眼で直接に観察できるマクロPKとなると、それとは事情が根本から違ってきます。肉眼やビデオなどで直接に観察できる(つまり、念力の存在が直接に確認できる)ため、その分だけ抵抗も強くなるからです。したがって、超常現象の研究者であっても、ほとんどの場合、マクロPKの研究は避けて通りたがります。

 最後は死後生存現象です。そのうちでも、前半の体脱体験(OBE)、臨終時体験、臨死体験の3種類は、あくまで本人の体験なので、第三者には心理学的、医学的に説明できるような感じがするものです。そのためでしょうが、強烈な抵抗というほどのものは少ないようです。問題は後半の5種類の現象です。霊媒を介する死者との交信、霊姿、真性異言、憑依、生まれ変わりというふうに並べてみるとわかりますが、とたんに“うさんくさく”感じられるようになるでしょう。そのため、前半の3種類の現象を研究する専門家は、医療関係者の中にも少数ながらいますが、後の5種類について真剣に研究する専門家は、ほとんどいなくなってしまうのです。

 ここで、死後生存研究の中でも最右翼に位置づけられる“生まれ変わり”を取りあげ、それについて少々検討してみましょう。もし生まれ変わりが本当だとすれば、まず、心と体が別個に存在することになりますから、脳の機能ですべてを説明しようとする現在の“唯脳論”[註10]ばかりでなく、肉体の進化しか想定していない現行の(ネオ・ダーウィニズム[註11]以外のものも含めた)進化論に、計り知れないほど大きな影響が及びます。

 その影響にはさまざまなものがあるでしょうが、その一部を考えただけでも大変です。たとえば、個々の心は最初から存在したのか、それともどの時点かで発生、分化したのか、また、心の進化と体の進化の関係はどうなっているのかという、これまでほとんど考えられたことのない大問題が浮上してきます。動物や人間の個性はどこに由来するのか、遺伝との関係はどうなっているのかという問題も必然的に出てくるでしょう。さらには、母体や性別や生まれ出る時期の選択は可能なのか、可能だとすれば、どの時点から、どの程度まで可能なのか、などといった問題にも取り組まざるをえなくなります。要するに、これまで長い時間をかけて、科学者たちが苦労して積み上げてきた科学知識体系が、一番の根本から再検討を迫られることになるわけです。

 また、心と体が別ものであれば、心が何らかの方法で肉体を動かしていることになるでしょうし、進化が始まった時点ではなく、途中の段階で両者が分離したと考えるにしても、その時期を類人猿からヒトが分岐した後とみるのは難しいでしょう。徐々に心が浮上した、などと考えてすませられるわけでもありません。さらには、肉体を離れた心は物理的実在なのかどうか、それは物理空間にあるのかどうか、ということも検討せざるをえなくなります。それ以外にも、たとえば、もうひとつの大グループである植物の場合はどうなのか、などの問題も考えなければなりません。他にも大小さまざまな問題が次々に出てくるでしょう。

 さらに、超常現象が実在するとすれば、日常生活を乱すほどの頻度や規模で起こることがほとんどないのはなぜなのか、決定的な証拠を残しにくい形でしか起こらないのはどうしてなのか、超常現象を目撃することに対しても、自分が持つことに対しても、人間が一般に強い抵抗(目撃抑制と保有抵抗)を示すのはなぜなのか、現代の科学知識体系が心の実在を無視した上に構築されている理由はどこにあるのか、などといった問題も真剣に取りあげざるをえなくなるでしょう。このように、現在の科学的世界観からすると、もし超常現象が実在するとなると、まさに、ことはきわめて重大なのです。

 ことの重大性という角度から眺めると、宗教者と科学者の間にも、一般の科学者と超常現象研究者の間にも、“ねじれ”現象とよぶべきものが観察されます。次に、その点について検討しておくことにしましょう。

ねじれ現象 1 宗教者と科学者

 大小さまざまな宗教やその分派では、超常現象は、むしろあたりまえに起こる出来事として扱われています。おそらくどの文化圏でも、宗教が新しく興る時には、“神の奇蹟”が、信者獲得の手段として使われてきた歴史があるわけです。それによってその宗教を権威づけ、その権威に従わせるという方法を使ってきたのです。ほとんどの宗教では、魂と呼ばれる主体的存在が人間の肉体に(一部の宗教では、動物の肉体にも)宿っていて、死とともに肉体を離れて霊界へ行くという信仰を、当然のように持っています。さらに、魂はそこで、もう一度地上に生まれ変わるのを待つ、と教える宗教や宗派も少なくありません。

 それに対して、唯物論を基盤とする現代科学は、心というものを最初から度外視して知識を積み重ねてきた歴史を持っています。ですから、そのような立場からすれば、肉体とは独立して存在する心など、最初からありえないことになります。ましてや、魂や霊界や生まれ変わりなどは論外というものでしょう。そして、現代科学は、そうした科学知識体系を権威としてきたのです。そのように見ると、宗教も現代科学も、その“教え”を権威として“信者”を集めるという点では、全く同じ方法を使っていることがわかります。

 科学の方法論は、実験と観察という両輪からなる経験的過程で、対象を選ばないはずなのですが、現実にはそうではなく、心や魂は、科学とは無縁の独断によって科学知識から締め出されてきたのです。心や魂が存在しないことを直接に裏づける証拠はないにもかかわらず、それらが科学知識体系に入り込む余地は、最初から与えられていなかったということです[註12]。にもかかわらず、(魂はともかくとしても)心は脳の活動の副産物にすぎない、などと断定されているわけですが、これは、実は同語反復であって、科学的な理論を装った思い込みにすぎないのです。

 そう言うと、ほとんどの科学者から、強い調子の反論が返って来るはずです。これまで、心や魂の実在を裏づける確実な証拠が見つかったという事実はないので、心や魂の独立的存在を考える必要などない。それこそが合理的、科学的な態度なのだ、と。しかし、それに対しては、次のように再反論することができます。

 現在の唯物論的科学知識体系に“反証可能性”を認めるのなら、それを反証しようとすることが、健全な(と言って悪ければ、先鋭的な)科学者の姿勢でしょう。ところで、現在の科学知識体系の反証になりうる最有力の経験的証拠は何かと言えば、それこそが、まさに超常現象なのです。ですから、徹底的に真理を追究しようとする科学者にとっては、何よりも、超常現象が実在するかどうかが最大の焦点になるはずなのです。にもかかわらず、一般の科学者は、超常現象の研究者が提出した、超常現象の実在を裏づけるはずの証拠を、既存の科学知識という権威に基づいて、演繹的、没論理的に(しかも、ほとんどの場合、見下したような態度で冷笑的に)否定する以上のことはほとんどしてきませんでした。

 真理とは何かという問題に真剣に取り組む、真の意味での科学者を自負するのであれば、かつて一流の科学者や哲学者がしていたように、なぜ自分たち自身で超常現象の研究に真剣に取り組もうとしないのでしょうか。そのような姿勢自体が、そもそも科学者とは正反対の態度ということになりますし、超常現象の実在を否定しようとする動機を、最初から意識的、無意識的に持っていることを裏づける間接証拠になってしまいます。

 もちろん、一般の科学者の多くは、この指摘を素直に受け止めることはなく、たとえば、超常現象の実在など証明されたためしはないし、そもそも科学では説明できない、うさんくさい現象ではないか、という従来の態度を繰り返すだけでしょう。また、昨今の“脳ブーム”からすれば、そのような現象は脳の機能では説明できないので存在しない、などという本末転倒的な“反論”が出てこないとも限りません[註13]。さもなければ、例によって品性の低い、あげ足取り的な“反論”[註14]に終始するのがせいぜいのところでしょう。しかし、そうなると、事実に対しては事実によって対抗すべしという科学的方法論の大前提を放棄したことになり、論争としては、一般の科学者側の敗北になってしまうのです。

 ついでながら、重要なことなのでふれておくと、宗教では、その教えが持つ(と思い込まれている)権威に忠実に従う“神のしもべ”になることが、敬虔な信者の前提条件になっています[註15]。つまり、新しい宗派や宗教を創始する人たちを別にすれば、創造活動という観点から見た場合、宗教信仰は非創造的な活動に当たるのです。それに対して、本来の科学は、これまで説明してきたように、まさしく創造活動そのもののはずなのですが、科学知識のしもべに身をやつすことなく、実際にその理念を体現しようとしている、真の意味での科学者は、どの程度いるものでしょうか。

 どこまで先端的な探検をするかは、その探検家の世界観や境地や意気込みや力量などによって決まるでしょうが、それと同じく、より先端的な科学者であればあるほど、末端には目もくれず、より根源的な仮説や定説に的を絞り、その検証や反証を目指すはずです。山を舞台にした探検になぞらえれば、最難関の未踏峰を目指す最先端の科学者は、実際にはやはりごくわずかしかいないでしょう。この人たちは、きわめて困難なルートを自力で開拓しながら前進する必要があるので、危険性が高く成功率が低いことに加えて、チェセンとは違って実際に登頂しても、長い間認められず、無視されたり批判されたりするはずです[註16]

 圧倒的多数の科学者は、せいぜいのところ、それほど難易度の高くない――したがって、たくさんの科学者が殺到するため競争率が必然的に高くなる――小さな未踏峰やバリエーション・ルートの開拓や踏破を目指し、ある程度にしてもそれに成功すると、それぞれがあげた成果を発表しあうことに喜びを感ずる人たちでしょう。それが、その人たちの本当に目指していることなら、それはそれでよいわけですし、人がとやかく口を挟むべきことではないでしょう。しかし、その人たちが目指しているのは、ほとんどの場合、他人からの評価であって、真理の探究はその手段になってしまっているのです。そしてそこに、勝ち負けにまつわる誘惑が入り込む隙があるわけです。

 残る人たちは、科学者を自負するものの、実際にはハイキング・コース的な山道を辿ることで満足している、科学者の名に値しない人たちです。この人たちは、既にたくさんのハイカーによって踏みならされたルートに通いつめ、その歩きかたを熟知し、高い技術を持っている場合もあるでしょうが、われこそ科学者なりと思い込んでいても、実際には科学者とはほど遠い、科学知識の番人と呼ぶべき人たちでしょう。自分で科学的研究をした経験がないため、観念的な傾向が強く、おうおうにして、借りものにすぎない自分の知識や技術に強い自信を持っています。

 話を本筋に戻すと、宗教を信仰する人たちは、超常現象の実在を疑うどころか、当然のことと見なしているのに対して、一般の科学者や科学知識の信奉者は、もし超常現象の実在が事実なら、これまでで最大の科学革命が起こるのは免れないことを、十二分に承知しているということです。つまり、ことの重大性の認識という観点から考えると、宗教者ではその認識――換言すれば、現実の世界で超常現象が実在することの現実感――がほとんど、あるいは全くないのに対して、一般の科学者や科学知識信奉者は、超常現象の重大性を十二分に認識しているのです。ここに、超常現象実在の肯定論者にその現実感がなく、否定論者に現実感があるという、興味深いねじれ現象が見られるわけです。

ねじれ現象 2 一般の科学者と超常現象の研究者

 以上のように、超常現象の否定論者は、超常現象が実在した場合の、ことの重大性がよくわかっています。だからこそ、自らの品性や論理学的作法をかなぐり捨ててまでして、なりふりかまわず全否定しようとすることになるのです。メスナーの言葉を借りれば、「他人の発言に対する否認のみで」超常現象の実在を否定しようとしているわけですが、その方法はともかく、その動機は、ある意味で科学者として健全だと思います。ただし、健全と言っても、超常現象やその研究に対して“軽信的態度”で臨むことはないという程度のことであり、それ以上の意味はありません[註17]

 それに対して、超常現象を研究する人たちの多くは、これまで述べてきたように、どうやらことの重大性をあまり、あるいはほとんど認識しておらず、軽佻浮薄な態度のまま超常現象の研究に参入しているようです。そのため、第1部で扱ったふたつの問題が発生します。ひとつは、もっと有力なデータを提出せよという否定論者の主張を鵜呑みにして、否定論者の要求通りのデータを得るべく、アイゼンバッドがあきれたほど、楽観的な姿勢を保ち続け、けなげに努力を重ねることです。その結果、超常現象の実在を証明しようとして、賽の河原の石積み的な徒労を続けることになり、さらにその結果として、超常現象の本質に迫る方向に進むことが(おそらく首尾よく)回避できるわけです。

 もうひとつは、自らの生涯と名誉をかけてその研究を続ける覚悟まではないため、好結果が得られなかったり、批判を受け続けたりすると、その研究に嫌気が差してしまい、この領域の研究から遠ざかったり、逆に否定論者の陣営に加わったりする人たちがいることでしょう。その好例が、第1部で取りあげたジョン・テイラーとスーザン・ブラックモアです。そのような観点から見ると、テイラーとブラックモアは、「おもしろそうだ」という程度の軽い気持ちと功名心とで意気揚々と反乱軍に加わったものの、うまみがないことに気づいたため、あっさり士気を失って官軍に投降した敗残兵ということになります。

 科学知識のしもべたる一般の科学者と多くの超常現象研究者では、ことの重大性の認識がまるで違うわけですが、テイラーとブラックモアのような“変節”科学者を見ると、超常現象の肯定論者だった時点では、ことの重大性にあまり気づかなかったのに対して、否定論者の陣営に加わった後では、ことの重大性をきちんと認識するようになっていることがわかります。そのことは、「〔超常現象が起こることが〕不可能なことくらい、最初からわかっているはずなのである」(テイラー、1982年、230ページ)というテイラーの発言を見るとはっきりするでしょう。

表1 陣営別に見た、ことの重大性の認識

  ことの重大性の認識
十分に認識している ほとんど認識していない
超常現象の肯定論者
超常現象の否定論者
ごく一部の超常現象研究者
一般の科学者        
多くの超常現象研究者 

 上の表は、超常現象に対する態度と、ことの重大性の認識の関係を、恣意的なものではありますが、ごくおおまかに示したものです。超常現象の研究者の中にも、ESPやミクロPKまでは認めるが、マクロPKや死後生存は認められないという意見を持っている人たちがたくさんいますので、ここで肯定、否定の対象にしている超常現象は、後者に重きを置いたものと考えてください。また、自分ではそうした研究こそしていないけれども、後者の実在を経験的に認めている人たちが、一般の科学者の中にもわずかながらいるはずですが、ここでは、話をわかりやすくするために、その種の例外は除いています。この場合、第1部で引用したスティーヴンソンが述べている「実務経験のない空理空論的な批判者」(スティーヴンソン、1993年、117ページ)は論外であることについては、あらためて言うまでもないでしょう。

 この表ではっきりするのは、ことの重大性を認識していない人たちの中には、超常現象の否定論者はおそらくほとんどいないことです。考えてみればあたりまえのことなのでしょうが、ことの重大性を認識しない限り、超常現象を否定する必要はないのでしょう。ここで重要なのは、ことの重大性をきちんと認めたうえでなければ、超常現象を肯定的に見る意味がないということです。言葉でそう言っただけでは、どうということもなさそうです。しかしながら、私の心理療法で使う“感情の演技”という方法で、ことの重大性を念頭に置きながら、超常現象が実在するという実感を作ってもらうと、ここに大きなヒントが隠されていることがわかってくるのです。

 ことの重大性を念頭に置いたうえで、そうした実感を作るのは非常に難しく、眠気やあくびや身体的変化という反応のいずれかが出る場合がほとんどです。ことの重大性のほうを考えようとすると、超常現象が実在するという実感が作れなくなり、逆に超常現象が実在するという実感を作ろうとすると、今度はことの重大性の認識がどこかに行ってしまうのです。

 イエス・キリストは、真の意味での信仰を、弟子たちに明確に説明しています。

 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言われた(「マタイによる福音書」第14章29-31節)。

 もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない(同書、第17章20節)。

 本来の信仰は、教典に書かれている内容(つまり、自分が権威と認めるもの)を文字通り信ずるという現実離れしたことではなく、このように、現実の世界の中でその通りのことが本当に起こる、あるいは、その通りのことがあると完全に信ずることなのです。そして、そうした真の信仰は、探検的な超常現象研究者だった故ケネス・バチェルダーが証言したように、まさに力を持っていると考えてよいのでしょう(バチェルダー、1993年)。しかし、このように信ずることは、簡単なことのように見えるかもしれませんが、それこそ「らくだが針の穴を通る」より難しいものなのです(笠原、2004年、23ページ)。

[註1]この問題については、本多勝一が、「『創造的登山(パイオニア・ワーク)』とは何か」をはじめとする一連の著作(いずれも、『山を考える』〔本多、1986年〕所収)の中で詳しく論じています。その中では、探検とパイオニア・ワークが同一視されている点に注目してください。

[註2]このことについては、西洋人よりも東洋人のほうが理解しやすいかもしれません。メスナーが東洋に親近感を持つのは、そのためもあるかもしれません。

[註3]この問題については、拙訳書の訳者後記の「パイオニアの意味」という項に詳しく書いているので、関心のある方は参照してください。

[註4]もっぱら人間を動物の側から見ようとする立場と、動物の中にも“人間性”が見つかるのではないかとする立場との違いは、当然のことながら、そのまま自然観や世界観の違いとして反映されることになります。不世出の探検的科学者だった今西錦司が、ダーウィン流の進化論を批判した時の言葉を借りれば、「ダーウィニズムに立つかぎり、私の到達したような自然観には、達しえないはず」(今西、1980年、116ページ)ということになるでしょう。

[註5]探検も科学的探究も、その起源は西洋にあるわけですが、それに対して、世界最古の木造建築や世界最大の金銅仏を考えるまでもなく、日本は昔から圧倒的に、集団の営為による技術の国でした。探検は、政治的な側面では闘争や侵略に結びつきやすく、技術は、和合や親睦に結びつきやすいと言えるかもしれません。歴史的に見ると、国や文化圏に、こうした“役割分担”のようなことが見られるのは非常に興味深いと思います。

[註6]ニュートンやメンデルのような歴史を変えた大科学者たちも、そうした改竄をしていたようです。その事実は、ウイリアム・ブロードとニコラス・ウェイドというふたりの科学記者による著書(ブロード、ウェイド、2006年)に詳しく書かれています。

[註7]ついでながらふれておくと、生物がみな美しくできているのも、偶然によってそうなったのではなく、今西錦司の言うように、生物側の主体的創造活動の産物と考えると、非常にわかりやすいと思います。昔から、真・善・美と言われているように、人間は、これらの関係を経験的に知っているのでしょう。そう言うと、今度は、それは神による創造理論とどこが違うのか、という追及を受けることになるかもしれません。

[註8]現行のがん治療法について批判的な著書を数多く執筆している放射線科医・近藤誠は、診断基準が決定ないし変更される内幕について、次のように述べています。「猿は木から落ちても猿ですが、医者は患者がいなければ権威であってもただの人です。診療、研究、教育、医学界における地位や官庁との関係など、すべての面で患者数が力の源泉になります」。その結果、医学界の“談合”によって、高血圧症などの診断基準が、患者数が自然に増えるように恣意的に変更される(つまり、基準値が下げられる)ことになるわけです。その裏には、製薬会社との利権という要因も大きくからんでいます。「結局、ガイドラインの治療開始基準は、最終的にはデータや論理によってではなく、それぞれの国の専門家たちの人生観や価値観によって決められているのです」(近藤、2002年、24、28ページ)。そのようにして患者にされた人たちは、不必要な治療を喜んで受けることになります。ほとんどの権威は、現実にはこのようにして護持されているのではないでしょうか。

[註9]この点については少々説明が必要です。超常現象の実在は、当然のこととして認めている宗教が多いからです。次に検討することになりますが、ここが本稿のテーマに密接に関係しているのです。

[註10]これは、“脳科学者”養老孟司の言葉ですが、要を得た簡潔な単語なので、以下、この言葉を使うことにします。

[註11]総合説進化論とも呼ばれる現代進化論の定説で、要するに、突然変異と自然選択を主要因として進化が起こるという機械論的進化論です。利他的行動など、単なる自然選択では説明しにくい現象については、社会生物学などの新分野を作りあげてむりやり説明しています。

[註12]この問題について、今西錦司は、例によっていかなる権威にも臆することなく、次のように率直な発言をしています。

 今になったらようわかってきたんやけど、自然科学というのははじめから約束の上に立っているもので、手でさわったり眼に見えたりするものを対象にする。眼に見えんもの、触れないものはないとする、という約束の上に立っとるのや。ところが、これは非常に得手勝手な約束なんや。眼に見えん世界があっても、ちっともおかしいことないんですよ。ぼくはそういう世界があると思っとる。しかし現在は小学校以来そういうことを教えてくれへんやろが。そういうのはみな迷信やとか何とかいうてしもうて。これは大変なミスをしていますね。(今西、飯島、1978年、51-52ページ)。

[註13]脳の研究者の中にも、超常現象に関心を持つ人たちが少数ながら存在します。著名な脳生理学者だった故ジョン・エックルズは、1976年の超心理学協会(PA)招待講演で、脳と念力の関係について発言しています(Eccles, 1977)。また、大学の心理学科で私の2年先輩に当たり、後に東京大学医学部音声言語医学研究施設長を務めた脳研究者・杉下守弘も、少なくとも修士課程時代から、失語症の研究と並行して超常現象に強い関心を持っており、今でも専門的な研究と並行して、日本超心理学会の運営委員長として活動しています。

[註14]この種の実例は、拙編書『サイの戦場』(笠原、1987年)にたくさん載っています。信じがたいことですが、『サイエンス Science 』や『ネイチャー Nature 』などの英米の一流科学専門誌に掲載された論文でも、同じように深刻な問題が頻発しています。

[註15]これも権威の崩壊の大きな現われですが、最近は、たとえばカトリックの信仰を持ちながら、その教義では認められていない生まれ変わりを信ずる人たちが、ヨーロッパには少なからず登場しているようです(スティーヴンソン、2005年、17-18ページ)。

[註16]その覚悟について、今西錦司は、「エキザイル〔追放された人〕になっても悔いないだけの覚悟がなければ、パイオニアの仕事などというものはいつまでたってもできないものであるかもしれない」(今西、1976年、262ページ)と述べています。

[註17]その場合、もし超常現象が実在するとなると、それまでの自分の経験や地位が無に帰すので、それを恐れて超常現象の否定をするのではないか、と考える人が多いのではないかと思います。しかし、それは真の動機ではないでしょう。もし、そうした実利的な動機であれば、その程度の覚悟が決まっている人は少なくないからです。本稿で論じているように私は、その裏に、ことの重大性という要因を見ているわけですが、さらにその裏には、心の力に対する心理的抵抗が潜んでいると考えているのです(笠原、2004年a)。つまり、本当は心の力すなわち超常的能力の実在を無意識的に知っているからこそ、無条件にその否定をしているのではないか、ということです。ことは簡単ではないのです。本稿では、そこまでの掘り下げはしていないので、この問題に関心のある方は、拙著(笠原、1995年)を参照してください。


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