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 ことの重大性と超常現象研究 3

探検的研究の本質

人間の特性と“芸術派”

 エヴェレストがまだ未踏峰だった頃には、世界中の優秀な探検家たちにとって、特に、今と違って海外渡航が厳しく制限されていた当時の日本人にとっては、ヒマラヤはまさに憧憬の地でした。しかし、いつかはそうなる宿命にあったとはいえ、ヒマラヤの高峰群も含めて、現在の地球上には、先端的探検家が自分の生涯をかけるにふさわしい対象は、もはやなくなってしまいました。「もしマロリーが今の日本にいれば、彼はただちに登山などやめて、より創造的な世界に転進するかもしれない」(本多、1986年、10ページ)。その通りでしょう。というよりもむしろ、エヴェレストが登頂されたからこそ、真の探検家は、より創造的な本来の探検に向かうことが、心置きなくできるようになったということなのではないでしょうか。

 では、より創造的な世界とは何でしょうか。先端的な探検家たちは、どこへ向かうべきなのでしょうか。実際に登頂を志したかどうかは別にして、かつて未踏峰のエヴェレストが、ほとんどの先端的探検家の憧れの的だったように、現在、そうした探検家たちが共有できる目標はないものでしょうか。

 それぞれの探検家が向かう先は、その人の置かれた状況やその人が抱く関心によっても違うでしょうが、それよりもむしろ、その人の志や心意気によってこそ違ってくるはずです。とはいえ、真の探検家であれば、命を危険にさらすだけの冒険の世界に身を転ずるようなことは、ほとんどないでしょう。そこには、創造的側面がほとんどないからです。ベルクソンがいみじくも指摘しているように、そして、一部の探検家が直観的に承知しているように、創造活動は自らの人格の向上と喜びを必然的に伴うのに対して、自分を刹那的に楽しませるだけの趣味的、娯楽的な行動には、創造性もなければ人格の進歩もありません(ベルクソン、1992年、35-36ページ)。したがって、私の言う“抵抗”が出現してじゃまをする余地もないのです。そしてこの仕組みこそが、経済的、時間的に余裕があると、娯楽に走ってしまう人たちがきわめて多いことの、真の理由なのです[註1]

 ところで、今年生誕100年を迎えた昭和初期の詩人・中原中也は、今からちょうど80年前の1927年11月25日の日記に、次のように書きつけています。この時、中也は20歳でした。

常に人は自らで耕さなければならない!
他人を意識することは、夢を即ち生命を壞す。
私は、人と人との習慣的な同意を憎む!(中原、1968年)

 ここで中也が言っているのは、次のようなことです。人間は、本来的に、自らの力で何かを創り出さなければならず、それこそが生きる喜びとなる。その場合、他人の評価や権威を基準にすると、人に受け入れられやすい行動を起こすことになるが、それは、人間の、さらには生命の本性に反している。このように人間は、無意識のうちに他人の評価を基準にし合うが、それでは何のために生きているのかわからないので、自分としては、断固それを排斥する(笠原、2004年a、45ページ)。中也は、弱冠20歳の時に、生命の本質が探検的行動や創造性にあることを、実に鋭く見抜いていたのです[註2]

 この感覚は、「人生を自発的な遊びと理解」していると語るラインホルト・メスナー(メスナー、1983年、56ページ)や、「右へ行って行きづまったら、引き返して左へ行けばよい」と飄々と語る、天衣無縫の今西錦司(今西、1973年、109ページ)の感覚と根本で共通していますが、逆に「習慣的な同意」の中で堅実に日々の生活を送りながら、その現実を自覚することもない世間一般の人たちの感覚からは、遠く隔たっています。中也は、このふたつの生きかたを、“芸術派”と“生活派”と名づけました[註3]

 ただし、人間的色彩の濃い芸術派も、動物的色彩の強い生活派も、互いに独立して存在するわけではありません。“万物の霊長”たる人間である限り、全面的に生活派として生きることはできませんし、逆に、芸術派の場合にも、生きて行くうえで、生活派的側面をどうしても必要とするからです。この対になった名称はなかなか便利なので、以下、質的に異なるこのふたつの陣営を指して、適宜使うことにします。

先端的な探検的研究には何があるか

 当然のことながら、科学者にも生活派と芸術派とがいますが、仕事として研究している、したがっていずれは定年を迎えることが多い生活派研究者たちとは違って、芸術派研究者は、権威に隷従することなく、主に「自発的な遊び」として、生涯にわたって研究に専念します[註4]。遊びだからといって、いい加減な態度で研究するわけではありません。それどころか、自分を喜ばせるために真剣に行なう遊びだからこそ、ごまかしが許されないわけです。したがって、人との勝ち負けにとらわれることもほとんどありませんから、真理の探究に全力を投入することになるわけです。

 こうした芸術派の探検的研究者たちが共通して目指す、かつてのエヴェレストに相当する究極の目標があるとすれば、それは、このうえなく達成が困難であることに加えて、万人にとってきわめて大きな意味を持つものでなければなりません。それはまた、さまざまな方面に質量ともに絶大な影響を及ぼすものでもあるはずです。そうした対象が必然的に内包する特徴や要素はいくつかありますが、その中で最も重要なものは次の通りです。ただし、これらの条件には、少々重複する要素が含まれています。

 以上の条件を満たす分野はいくつかあります。その筆頭にあげられるのは、まちがいなく生命の起源の探究でしょう[註5]。とはいえ、これに対しては、現在の科学知識や方法論ではとうてい歯が立ちません。推測を重ねるだけでは科学することにならないからです。物質と生命は完全に異質なものなので、その方面の研究者には失礼ながら、この分野は、まだ着手可能な段階に到達していないどころか、研究のための手がかりすら見つかっていないのが現状でしょう。というよりも、よほど革命的な発見でもない限り、今後とも、科学的方法論の枠内では研究の対象にならないのではないでしょうか。そうすると、ある程度にせよ現実的な目標として考えられるのは、いくつかの分野で、長年にわたって不動の地位を占めてきた定説の反証ということになります。

 その定説が確固たる地位を占めてきた期間が長ければ長いほど、また、その定説を信奉する研究者が多ければ多いほど、その反証は、より大きな意味を持ってきます。そのことは、上の3条件を考えればよくわかるでしょう。そして、この3条件を満たす、現実的な目標になりそうな定説としては、次のふたつがあげられます。

 このリストには、他に人間の起源や言語の起源などに関する定説を加えることもできるでしょうが、影響力の大きいのはこのふたつだと思います。そして、ネオ・ダーウィニズムと唯脳論は、機械論的理論という点で同一の基盤を持っているわけです。ですから、両者に対する反証は、機械論に対する反証ということになるはずです。機械論の対立概念としては、かつて生気論がありましたが、機械論に対する反証が自動的に生気論の実証につながるわけではないことは、あらためて言うまでもないでしょう。

 上記の2項目には、それぞれの下位項目として、たとえば集団遺伝学および社会生物学、行動主義心理学およびストレス学説などが含まれることになります。そのうちの社会生物学は、利他的行動のように機械論的進化論では説明しにくい現象を説明する目的で、その欠陥を埋めるための、いわば充填剤として考え出された、比較的新しい分野です。これは、体制派科学者たちが、19世紀の遺物たるネオ・ダーウィニズムよりもはるかに斬新な、生物の主体性および全体性、自己完結性を根本に据えた今西進化論を表舞台から葬り去ろうとする際に、その理論的裏づけのひとつとして利用した、現在のところ、体制派の中ではまさに順風満帆に見える分野です。

 第2項に関係する行動主義心理学は、かつてのように表立って幅をきかせることこそほとんどなくなったようですが、さまざまな理論の基盤としては、依然として強い力を保持しています。とはいえ、行動主義心理学者を標榜する研究者たちも、動物や人間の行動の観察や実験を重ね、現実にふれるようになるにつれ、硬直した理論を次第に捨て去らざるをえなくなってきているようです。これは、歴史の皮肉以外の何ものでもないでしょう。それと同じように、ネオ・ダーウィニズムの陣営からも、「進化を進めるためには、さらにつぎの突然変異が現われて、ある方向に向かった変異の積み重ねが絶対に必要である」と主張する研究者が登場してもいいはず(今西、吉本、1978年、57ページ)なのですが、現在に至るまで出ていないのは、今西の言う通り実に不思議です。定向進化という考えかたを忌避しているわけで、ここにも、ひとつの大きな謎があります。

 また、第2項に関係する現象として興味深いものの中に、催眠や暗示によって起こる現象があります。そこには、言葉による暗示が、たとえば効果的な治療法のない疾患を軽快させることがあるのはなぜかとか、皮膚に水泡などの変性を生じさせることがあるのはなぜか、という難問も含まれます。こうした現象は、これまで、科学的に真剣に検討されることのないまま片づけられてきましたが、この種の現象が、現行の科学知識で説明できないことだけは確かです。催眠や暗示によってこのような現象が実際に起こるという事実自体は、正統派心理学の中でも認められているのですが、驚くべきことに、催眠研究者の間でも、暗示とは何かという疑問がまともに取りあげられることは、これまで事実上なかったのです[註6]

 現行の科学知識体系は、すべて機械論的な説明概念で構成されています。その明文律および不文律によれば、要するに生命に目的はなく、進化に方向性はなく、心は脳の活動の副産物にすぎず、心には力がないことになっています。そして、その根底には、「宇宙の森羅万象は偶然の産物に決まっている」という、科学的方法によって実証されているわけではない、一種の信仰が潜んでいるのです(笠原、2004年a、終章)。換言すれば、現代科学の知識体系は、そうした信仰の上に構築された砂上の楼閣というか、壮大な信念体系になっているわけです(笠原、1995年)。そうすると、先の2項目を包含する根本的定説として、次のものが考えられることになります。

     3. 宇宙の森羅万象に関係する定説 ⇒“偶然論”を基盤とした唯物論[註7]

 したがって、当然といえば当然のことなのですが、探検的科学者からすると、要するに、偶然論という隠れた独断論の反証こそが、かつての未踏峰エヴェレストに相当する対象になりそうだということです。ただ、この未踏峰は、これまで明確な姿を見せたことがほとんどありませんでした。

 ところで、超常的能力は、脳とは別個に存在する心自体が持つ力ですから、超常現象が実在することになれば、少なくとも唯脳論も随伴現象学説も反証されることになるでしょう。特に、生まれ変わりが起こることが実際に証明されると、肉体の進化しか想定していない進化論は、根底から変更を余儀なくされることになります。ですから、突然変異と自然選択という、偶然の積み重ねで進化が起こったとするネオ・ダーウィニズムは、壊滅的な打撃をこうむること必定です。肉体から独立して存在する心が、肉体の死後にも存続し、新しい肉体に入る(憑依する)ことになれば、心が進化の過程に関与しないと考えることは不可能になるからです。

 そうなると、超常現象の研究は、単に人間の持つ能力の研究というに留まらず、筆舌に尽くしがたいほど大きな意味を持ってくるはずです。哲学的に言えば、磐石に見えた現行の一元論的世界観が、二元論的世界観へと大きく変貌を遂げることになるわけです。それは、歴史の逆行ではありません。その場合、あくまで科学的方法を使って確認される事実だからです。そう考えると、超常現象の研究が、偶然論を基盤とした唯物論という絶対的定説を覆すうえで、最も有力な分野ということになります。だからこそ、その“ことのあまりの重大性”を敏感に察知した、体制派の生活派科学者としては、いわゆる無意識のうちに超常現象の研究を忌避するか、第1部で取りあげたような異常な批判を浴びせかけることになるのでしょう。

芸術派的探検としての超常現象研究

芸術派科学者が示す超常現象への関心

 イギリスの心霊研究協会(SPR)が創設された19世紀末から20世紀初頭までは、現在とは違って、生理学者のシャルル・リシェや哲学者のアンリ・ベルクソン、物理学者のレイリー卿といったノーベル賞受賞者や、アメリカ心理学の創始者とされるウィリアム・ジェームズ、物理学者のウィリアム・クルックス、発生学者のハンス・ドリーシュら、さまざまな科学分野の超一流の研究者たちがその会長として名前を連ねていました。しかしながら、そうした巨星たちの権威をもってしても、超常現象の実在はもとより超常現象の研究の必要性すら、一般の科学者たちに受け入れられたわけではなかったのです。ことはそれほど甘くないという証拠でしょう。

 一般の科学者のほとんどは、この方面の研究に否定的で、その中には、なりふりかまわず没論理的論理を繰り出して、超常現象を亡きものにしようとしてきた科学者も少なからずいるわけですが、それはむしろ、超常現象に対するなみなみならぬ関心が意識の上に素直に表出しなかっただけで、本人も自覚しないところでそうした関心を抱いていた、ひとつの傍証と言えるのではないかと思います。関心がなければ、その分野の専門家に任せておくという、非専門家として当然の態度が取れるはずで、人間としての品性や科学者としての矜持と引き換えにして、よその分野によけいな口出しをすることなどありえないからです。

 また、口出しするくらいなら、自分で真剣に研究すべきなのですが、それもせずに異常な論理を展開し、自らの品性をかなぐり捨ててまでして否定しながら、それ以上の行動を起こさないということは、やはり超常現象に対する関心の否定に基づく、きわめて強い抵抗を内在させているからなのでしょう。メスナーは、自らの探検的登山に対して受けた批判に関連して、次のような発言をしています。その中で指摘されているのは、生活派否定論者一般にあまねく見られる心の動きによるものと考えることができるでしょう。

 彼らが口にする批判的な言葉の中から聞こえてくるひそかな嫉妬心はおそらく、人生に絶望していてもあの山の上では生きる喜びに変わるということに彼らも気づいているから生まれるのだと思う。(メスナー、1981年、127ページ)

 メスナーは、批判的な言葉の裏に嫉妬心が潜んでいることを見ているわけです。ところで、メスナーと今西錦司という芸術派探検家は、双方とも超常現象に対する関心を明言しています。メスナーに至っては、8千メートル級の高山に登る大きな理由として、神秘的体験をすることをあげています(メスナー、1983年)し、実際に、数多くの体験を包み隠さず公表しています(たとえば、メスナー、1981年、160-161、166-168、182-183ページ)。また、あにはからんや今西も、生物学者・飯島衛との1978年の対談の中で、次のような興味深い発言をしているのです。

 このあいだユリ・ゲラーが来てフォーク折りよったやろ。あれをうちの孫の一人がやりよるねん。そしたら、そんなことせんときなさいと言うてみんなとめるやろ。そやから、みんなに言われて芽がとまってしまう。理屈に合わんことはすべて迷信や、インチキしておるんやろと、こうなってしまう。

 そやから、これはやっぱり科学教育がちょっと間違ごうているんです。科学というものは、一つのパラダイムですべてのことを知っているわけやないんやけど、目に見えんものは全部科学の対象でないものとして、そういう約束で成り立たしているねん。科学でとり上げないものは実在しないということにはならんのですよ。(今西、飯島、1978年、154-155ページ)

 こういう発言を聞くと、生活派進化論学者たちは、今西進化論を攻撃するための材料がまたひとつ増えたと言って喜ぶかもしれません。私の心理療法の師である、やはり探検精神旺盛な芸術派精神科医であった小坂英世も、私がマクロPKについて話した時、「そういうことがあったほうがおもしろい」と言って、真剣に耳を傾けてくれました。まさに、この「おもしろい」が科学の原点なのです。もちろん、芸術派科学者の全員が、マクロPKなどの超常現象の核心部分に関心を示すかどうかはわかりません。しかし、その比率がきわめて高いことはまちがいないように思います。

 ひるがえって、実際に超常現象を研究している人たちはどうなのでしょうか。1978年に初めて出席した時点だったように記憶していますが、日本超心理学会のある会合で、私が札幌で観察した、スプーン曲げ少年の話をした時、ほとんどの列席者は、そんなうさんくさいことには手を染めたくないし、聞きたくもないという態度を示しました。そのような否定的態度を示したのは、むしろことの重大性がわかっているためなのでしょう。とはいえ、そうした専門家なら、興味津々という態度を見せるに違いないと頭から思い込んでいた私は、一瞬、虚をつかれた感じになりました。後でわかったことですが、これは、わが国特有の現象ではありませんでした。世界中の多くの超心理学者たちも、大なり小なり同じような態度を示すのです。

 超常現象研究者の間で、皮肉を込めて“5パーセント水準の神話”と呼ばれている現象があります。それは、超常現象の統計的実験を行なって、得られた結果の有意性が5パーセント(全くの偶然でそれが起こったとすると、5パーセントすなわち20回に1回)前後の場合にはその研究を発表するが、それ以下の確率の(つまり、より有力な)データが首尾よく得られると、逆にその研究を発表しなくなるという、研究者側に見られる興味深い逆説的傾向のことです。この問題に関心のある方は、拙編書『超常現象のとらえにくさ』に収録した、カリフォルニア大学の心理学者・チャールズ・タートによる「サイに対する恐怖を認め、それに対処する」と、「強力なサイ現象に対する態度」という2論文(タート、1993年a、b)を参照してください。

 重要なデータであればあるほど、どこかにしまいこんで忘れてしまったり、そうしたデータが得られたこと自体の記憶を消してしまったりなどの“現象”が、超常現象研究者の周辺で起こることは周知の事実です。それくらいですから、現状を客観的に評価する限り、将来的に期待薄に見える超常現象研究を繁栄、続行させるために、何らかの活路を見出そうとする努力が行なわれるのは当然の帰結でしょう。

“活路”を見出そうとする努力――隠された唯物論

 同じ現象を扱っているにもかかわらず、それを念力と表現すると、「非科学的だ」とか、うさんくさいものとしか受け取られず、一般の科学者からも多くの超常現象研究者からも無視されてしまうのに対して、“気”という言葉で表現すると、測定困難な物理現象を扱っているという印象を受けるためか、その研究に関心を抱き、この分野に参入する科学者が一気に増え、わが国でも大学の中で研究することができるようになりますし、さらには、かろうじてではあるにせよ、国家予算も下りるようになります。この興味深い違いは、どこに由来するのでしょうか。

 長い間、一般の科学者から執拗かつ理不尽な攻撃を受け続けたおかげで、ある程度にせよ、ことの重大性を学習したためか、東洋で生まれたこの概念を取り入れるようになった超常現象研究者も一部にいます。そしてこの潮流は、次第に超常現象研究の本流へ流入し始め、今やわが国だけでなく、世界の超心理学界をも巻き込みつつあるように感じられます。その結果として何が起こるのかというと、ひとつは、(1)いわば超常現象の矮小化ないし“唯物論化”と言うべき現象です。この新機軸のおかげで、そうした現象が実在するところまでは認められやすくなるとしても、その現象は気という、捕捉が難しいだけの物理的エネルギーの一部として“説明”されることになりますから、大きな“科学革命”は首尾よく回避されるわけです。

 この場合、超常現象の実在を一般の科学者に承認させるため、第一段階として、気という概念を利用して現象そのものを認めさせ、第二段階として、今度はそれが心の力によって起こることを認めさせるという戦略を考えたとしても、おそらくそれは成功しないでしょう。そのことは、催眠暗示を考えるとわかるはずです。先ほど説明した通り、暗示によって驚異的な現象が起こるところまでは、一般の科学者も異論なく認めています。しかし、催眠研究の長い歴史の中でも、「暗示とは何か」という問題を真剣に研究する段階に進むことは一度もありませんでした。そこには、このうえなく強い抵抗が潜んでおり、正攻法以外でそのハードルを乗り越えることはできないのです。

 もうひとつは、(2)気の研究ということになると、応用的な側面が中心になる傾向があることです。もちろん、それが医療に役立てばそれはそれでよいことで、その点に異論を差し挟む必要はありません。しかし、そうなると、実用が優先され、本来の意味での科学的探究という方向からは、大きくそれてしまうことになるわけです。

 残るひとつは、(3)気という概念を使うと、これまで超常現象研究が対象にしてきた領域の一部しかカバーしなくなることです。そこからはみ出してしまう最も重要な領域は、何といっても死後生存研究でしょう。かくして研究対象が制限され、“無害化”された結果、現行の唯物論的科学知識体系を最も効果的に突き崩すことが期待される現象群が、ほぼ完全に抜け落ちてしまうのです。このように、芸術派科学者にとって、気という概念は、現行の唯物論の延長線上にしかないことがはっきりしているため、まるで“おもしろみ”に欠け、まことに残念ながら、関心の対象にはほとんどならないと言えるでしょう[註8]。もちろん、こうした研究法を採用した超常現象の研究に対しては、他人がとやかく口を差し挟むべきことではないのかもしれませんが、世界観や立場の違いということは強調しておいてよいと思います。

 とはいってみても、超常現象の研究は、人間が自分の全生涯をかけて、最大限のエネルギーを投入し続けたとしても、それだけでは、とうてい太刀打ちできるものではありません。決して権威に隷従しない筋金入りの探検的研究者であった今西錦司が決意していたように、自分が「納得できぬ限り、たった一人になっても、死ぬまで〔定説に〕反論し続ける」(今西、1973年、124ページ)くらいの覚悟はもちろん必要ですが、それだけではいかんともし難いわけです。やはり、超常現象のいわば尻尾をつかむことができない限り、この探検を成功させることは――超常現象の本質に少しでも迫ることは――不可能に近いのではないでしょうか[註10]

 では、芸術派科学者にとって、真の意味での活路はあるものでしょうか。

[註1]ここに論理の飛躍があるように感じられる方は、拙著(笠原、2004年a、2005年)を参照してください。

[註2]若き日の小林秀雄や河上徹太郎や大岡昇平ら、後に日本の文壇を背負って立つことになる人たちは、中也のそうした鋭さなどの魅力に引きつけられたからこそ、「個人的不快を忍んで」(河上)までして交際を続けたのでしょう(笠原、2004年b、28ページ)。

[註3]この点について述べた、中也とメスナーの言葉を並べてみると興味深いと思います。ただし、メスナーの文章には、おそらく不適訳のため焦点が少々ぼけて、わかりにくくなっている部分があります。

[中也]〔何でもよく切れる〕魔力をもった小刀でよ、木の枝か、何か棒切れとか、板の切れっ端を子供の時、削ったことがあっただろう、君も。スパッ、スパッとね。木切れを削って何かをつくるのではない。それかといって小刀の切れ味をためすのでもない。何の目的もないけど、何かたのしい。快い。ただ削るという行為そのもののためにやっている。その時は無心なんだ。〔中略〕ただ木を削るというだけで削る。無垢な魂の無心な行為とでもいうか。
 詩はそんな魂の歌だ。詩人というものはそんな魂をもっている人間だ。もちつづけようとし、もちつづけていこうとする人間じゃあないかな。(野田、1988年、167-168ページ)

[メスナー]たいていの人間は、自分の体で確かめてみるということに興味を示さない。純粋な生きる喜びを得るための苦労とか意志力を進んで引き受けようという考え、この世のことを知ろうとして夢中になること、謎はただ気晴らしのために解くものだという精神、こういった考え方が彼らにはできないのである。いや、彼らには、すぐに使えるとか、すぐに役立つといった実際的な仕事でなければならないのだ。現実的な効果がない純粋な思考、純粋な労働、純粋な知識欲というものに、たいていの人は興味を示さない。(メスナー、1981年、126ページ)

[註4]いかに芸術派研究者とはいえ、さまざまなレベルがあります。中には、抵抗に直面して、晩年に至らずとも“変節”する人もいるでしょう。

[註5]宇宙の起源をその候補にあげる人がいるでしょうが、現実にはこれも、実証性がなく科学的方法ではいかんともしがたい分野だと思います。

[註6]暗示によって起こる現象の研究は、昔からたくさん行なわれてきましたが、その本質については、原始的現象として片づけられ、その探究は、これまでほぼ完璧に避けられてきました。言葉による暗示が肉体に物理的な変化を引き起こすのですから、原始的な現象ではありえないのですが、なぜか軽蔑的に扱われることが多いのです。この問題は、『サイの戦場──超心理学論争全史』(平凡社、1987年)、『超常現象のとらえにくさ』(春秋社、1993年)の完結編に当たる拙著『隠された心の力――唯物論という幻想』(笠原、1995年、第3章)で扱っていますので、関心のある方は参照してください。

[註7]唯物論的世界観は、現象的には科学知識の積み重ねてできあがったものなのですが、そこにはどうやら無意識的な作為がありそうです。たとえば、ネオ・ダーウィニズムについて言えば、生命は偶然に発生し、偶然に進化したという信仰に基づいて展開しただけの「空理空論」であって、何の科学的裏づけも存在しません(今西、吉本、1978年、60ページ)。それどころか、たとえば進化には明らかに方向性があることを示す化石の証拠があるわけです。また、個体に起こった“突然変異”が“適者生存”の原則によって保存され、それによって進化が起こったとする着想には、数学的に見て無理があるという指摘があるにもかかわらず、科学的根拠もなしにそれらを拒絶しています(ヒッチング、1983年、98-99ページ)。そして、ひたすら科学理論の装いを続けているだけなのです。現実に反する訂正不能の思い込みという点からすると、要するにこれは、私の言う“共同妄想”に相当するものと言えるでしょう(笠原、2004年a、第7章)。

[註8]今西錦司の発言に、これと似たものがあります。以下に紹介するのは、今西を巡る座談会で、動物行動学者の日高敏隆が披露したものです。

 晩年にボソッと僕に言ったことがあるんですが、「この頃みんな、そう言っては何だけど、つまらないようになりましたなあ」と。つまり、新しいこと、空白をやるんじゃなくて、「今西御大の言うたことはエエかげんや。もっと科学的にデータを取らにゃいかん」とか言う人がいっぱいいたわけです。「皆さんそう言うけど、もうちょっと大きなことをやったらよろしいがなあ」と。それは、かなり実感がこもっていた。
 今まで自分がやってきたことを、さらに面白くなる次元でバサッとやればいいのに、細かいことをゴチャゴチャ言う人が増えてきたんですね。論文としては、非常にきちんと、科学的な手続きをふんでいる。けれども、出てきた結論は「まあ、そうですか」というようなものですよね。それは、だいぶ言われてました。(日高、2003年、1367ページ)

[註9]超常現象は、現象が不明瞭化されやすい状況では起こりやすく、不明瞭化されにくい状況では非常に起こりにくいという特徴を持っています。その特性は、19世紀の昔から繰り返し観察され、統計的実験法を考案したJ・B・ラインですら、その存在にはっきりと気づいていました。“とらえにくさ elusiveness”という言葉で表現される、この特性は、超常現象が実在する限り、必然的に随伴するきわめて明確な実体なので、これこそが超常現象の“尻尾”に違いないと私は見ています(笠原、1993年)。ここでは、本題からそれるのでこの問題は扱いませんが、超常現象の研究に疎い反対論者たちは、ものごとを教条的、観念的にしか見ていないため、この特徴を持ち出すと、万能仮説を使った“逃げ口上”ととらえたがります。経験的に言って、超常現象が実在する限り、とらえにくさという特性も必ず実在するわけですが、逆に、とらえにくさを逃げ口上と見るということは、超常現象は実在しないと言っているに等しいことになります。ところが、とらえにくさという特性が存在しないとした場合、それ自体が超常現象実在の反証になるわけではありません。ですから、その場合には、超常現象が実在しないことを、とらえにくさ問題とは別に証明する必要があるのです。したがって、とらえにくさは逃げ口上にすぎないという主張は、問題を不明瞭化するための手段以外の何ものでもないことになるでしょう。とらえにくさ仮説を積極的にとらえる研究者はほとんどいないことに加えて、このような奇妙な抵抗が見られることからしても、とらえにくさは、きわめて重要な特性と考えてよいのではないかと思います。


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Copyright 2007 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/13/11