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日常生活の中で見られる抵抗や反応 7

 ADHDと呼ばれる状態

はじめに

 「日常生活の中で見られる抵抗や反応」の4と5では、このところ大きな社会問題になりつつある、ADHD(注意欠陥/多動性障害、あるいはADD=注意欠陥障害)と呼ばれる状態について検討します。私自身は、アメリカの診断基準にほとんど関心がなかったため、このような診断名を最近まであまり知りませんでした。ADHDと呼ばれる状態にあるとされるさまざまな症状は、あらゆる心因性疾患に多かれ少なかれ見られます。それどころか、一部であれば誰にでもありそうな “症状” です。たとえば、締切まぎわにならないと仕事や勉強に手がつけられない人は、「締め切りまぎわの問題」で述べておいたように、全人口中の8割から9割ほどの割合で存在するでしょう。

 身体病を、原因がわからないまま眺めた場合を考えてみましょう。そうすると、まず発熱という現象がごくふつうに観察されることがわかります。あるいは、あちこちの痛みやだるさなどもよく見られます。では、発熱を中心にした疾患として、それを発熱症候群という病名のもとに扱ったらどうなるのでしょうか(ストレス学説で有名なハンス・セリエは、この問題を逆の方向から扱い、それを一般適応症候群という形に整理しました。それはそれで卓見です)。そうすると、原因を突き止めないまま、むりやり症状を抑えようとすることになるので、単なる対症療法に終始してしまうでしょう。したがって、その場合には、症状が自然に消えるのを待つという消極的な対応しか取れません。

 その一方で、さまざまな検査法が進歩してきたため、脳内の活動がこれまでよりも調べやすくなりました。その結果、精神科疾患を持つ人たちを対象にして、脳の構造や機能を調べる研究が盛んになりました。そして、精神分裂病にせよ、小児自閉症にせよ、ADHDにせよ、正常とされる対照群と比べて、どこかに異常が見つかったという報告が相次いでいます(ADHDについては、たとえば、Castellanos, 1997; Spencer, et al., 2002; Zametkin & Liotta, 1998 の総説論文を参照のこと)。それはまちがいではないのでしょうが、では、その異常がそれぞれの疾患の原因と言えるのでしょうか。しかし、そうとは言えないのです。単なる相関関係を扱っているにすぎないため、因果関係はわからないままだからです。

 現実に、NIH(アメリカの国立健康研究所)が1998年に出した “合意声明” では、次のような率直な言葉でその声明が締めくくられています。「長年にわたるADHDの臨床研究や臨床経験にもかかわらず、ADHDの原因に関するわれわれの知識は、依然として推論的段階に留まっている。そのため、われわれはADHDを予防する手だてを何も持っていない」(Diagnosis and Treatment of Attention Deficit Hyperactivity Disorder. NIH Consensus Statement Online 1998 Nov 16-18)。その状況は今でもまったく変わっていません。また、脳内の異常などの “発見” が実際に治療に結びついているかといえば、残念ながら現状ではそうではありません。いずれ結びつく “はず” だという、保証のない期待のもとに研究が進められているだけなのです。

 はっきりした脳障害の場合を除くと、脳の研究は、その前に人間の心というものがよくわかっていなければ、ほとんど無意味になってしまいます。たとえば、コンピュータのようにきわめて精密な機械の機能も知らないまま、それを外から調べても、ほとんど意味はないでしょう。ましてや、その機械を操るソフトウエアやそのソフトウエアを作った人のことはまったくわかりません。脳はコンピュータとは比較できないほど複雑で優秀なうえに、自律性というコンピュータにはまったくない特性があるので、それ以上のことが、脳の研究については言えるのです。加えて、幸福否定という仕組みや、意識をはるかに凌ぐ無意識の意志や力が人間の心にあるとすれば、脳のどこを研究すればそれがわかるのでしょうか。

 ついでながら、現在の脳研究は、「人間の心の動きはランダム」という、おそるべき無知に基づく前提のもとに進められています。わが国を代表する高次脳機能障害の研究者は、次のように述べています。「心の世界は、測定もできず、観察もできない。ましてや心の働きを法則を立てて予測することなどできそうにない。〔中略〕常に動いているのが心であり、その方向は本質的に不定である」(山鳥、1998年、190、202ページ)。逆に言えば、現在の脳研究は、このような前提がなければ成立しないということです。ここには、幸福否定という明確な “法則” が入る余地はありません。

 浪費行動が止められないとして精神科を受診した40代の男性は、精神科医から、「浪費もADHDの特質のひとつだ」という説明を受けたそうです。それでいながら、治療法がないと言われたのだそうです。しかし、この男性は、金銭管理がきちんとできていた時期も長かったので、その説明では納得できないとして、私のもとを訪れたのでした。現在の精神科治療では、一生涯、あるいは少なくとも当分の間、薬を飲み続ける以外の方法はありません。しかも、それによって治るわけではないのです。これが、現在の精神科のいつわらざる状況です。今の精神科治療がどれほど力がないかは、経験した人なら身にしみてわかっているでしょう。

 そこで、ADHDと呼ばれる “疾患” の全体像を見ておくため、とりあえず欧米の主立った文献を少し調べてみました。以下は、その批判的報告(いずれ発表する著書)の一部です。なお、ここで引用している欧文の文献は、わが国の専門家も直接にはほとんど読んでいないように思います。

ADHDの診断および治療

 ADHDと呼ばれる状態は、わが国の精神科では、しばらく前まで治療の対象とはされていませんでした。周囲からは、だらしのない、あるいは落ち着きのない、さもなければ、“うっかりミス” の多い子どもやおとなとして見られるだけでしたし、本人にしても家族にしても、それを精神科で治療してもらおうとは思わなかったでしょう。精神科の敷居が高かったせいもありますが、そればかりではなく、本人にも、医療の対象となる “疾患” という認識はなかったのです。

 ところが、比較的最近になって、主としてマスコミで積極的に取りあげられたおかげで、アメリカの疾患概念と診断基準が、わが国にもそのままの形で取り入れられるようになりました。その結果、ADHDという病名は、現代のわが国で、すっかり市民権を得てしまいました。それは、わが国でも同じような症状を示す人たちが多発しているからでしょう。このような診断名がつけられた人たちには、子どもにもおとなにも、リタリンという覚醒剤(中枢神経興奮剤)が処方されることが多いようです。

 リタリンの販売元(ノバルティス ファーマ株式会社)は、この薬の適応を、ナルコレプシー(過眠を中心とした睡眠障害)と、難治性のうつ病 (抗うつ薬で効果の不十分な場合に限り、リタリンと抗うつ薬を併用 )としています。ADHDは、その適応とされておらず、したがって、この障害は保険適用対象外になっています。販売元が謳う効能を越えて投与されるのは、アメリカで、リタリンが少なくとも短期的にはADHDと呼ばれる状態に最も効果のある薬だと経験的に考えられているからなのでしょう(たとえば、Greenhill, Halperin & Abikoff, 1999)。しかし、わが国では、リタリンによる症状の「改善率はせいぜい20〜30%」と明言する専門家(白瀧、2000年、1129ページ)もいますし、それに加えて副作用も強いとされる薬です。現実に、リタリンが関係したいくつかの問題が、マスコミでも時おり報道されるようになりました。

 リタリンにせよ何にせよ、薬物による治療で問題が軽快するか解消すれば、それはそれでよいのかもしれません。しかし、実際にはどうなのでしょうか。遠方の大学病院の専門施設に、ADHDと診断されて入院および通院をしていた数名の成人女性から話を聞いたことがありますが、事実は、そうではありませんでした。そのうちのひとりは、その病院に3ヵ月ほど入院し、その前後で、合わせて2年以上通院していました。もちろん、その間、ずっと薬を服用しています。確かに、薬を飲むと少しは楽になるそうです。(「飲むとカラ元気が出て来ます」という表現をする人もいます。)いずれにしても、飲まないと、すぐに元の状態に戻ってしまいます。また、飲み続けていると、次第に効果がなくなってくるということでした。

 そのため、この女性は、まず薬をやめようとして、心理療法に来たのです。また、苦労した末、薬をやめ、それから症状の解消のために心理療法に来た女性もいます。残念ながら、このふたりからばかりでなく、私のところに来た全員から、ほとんど同じ不満を聞くことになりました。中には、薬物療法に満足している人たちもいるのでしょうが、そうではない人たちが多いのも、また動かしがたい事実のようです。

 わが国の代表的な研究者は、ADHDに治癒があるかどうかという問題について、次のように述べています。

 重要なことは、現在では、ADHDは「治癒」ということがないことである。子どもは、ADHDを持ちながら成長発達していく。親はADHDをもつ子どもを養育し、教師は教育する。そこでは、ADHDは、治す対象ではなく、うまく扱っていかねばならないひとつの状態である。(上林、2004年、71ページ)

 これは、薬物療法を繰り返してきた経験から導き出された、確かな事実なのでしょう。欧米では、ADHDが成人まで持ち越される比率が、低いほうの研究で8パーセント、高いほうでも85パーセントとされている(Spencer, et al., 2002, p. 5)ので、これは、それよりもはるかに悲観的な予測と言えます。精神科では、専門書には事実として悲観的なことが書かれても、一般向けの本にはかなり楽観的に言い換えて書かれることが多いようです。しかし、この場合は、一般向けの本であるにもかかわらず、治癒はないとはっきり書かれています。

 精神科の疾患は、事実上、ほとんどが慢性病として扱われます。そのため、治療を受ける側は、薬物を、少なくともかなり長期間にわたって、多くの場合には、永続的に服用し続けなければなりません。薬以外には、効果的な治療法がないとされているからです。精神科や心療内科では、心理的治療はあくまで薬物療法の補助的手段にすぎません。その結果として、長期連用による副作用などの問題が当然出てきます。ここに、現在の精神科治療が抱える大きな問題があります。

 他科の疾患でもそうですが、精神科や心療内科で扱われる疾患にも、どの国や文化圏でも見られるものと、一部でしか見られないものとがあります。三大精神病と言われる、精神分裂病(昨今の名称は “統合失調症”)、躁うつ病、てんかんの3疾患は、どの国でも見られ、国別の罹患率も、おそらくほとんど変わらないでしょう。それに対して、たとえば登校拒否やひきこもり、多重人格障害などは、そうではありません。

 このところ、わが国でもそれほど珍しくなくなってきた多重人格障害は、“震源地” のアメリカですら、1970年以前には、きわめて稀な疾患でした。ところが、何が原因かわかりませんが、それ以降、爆発的に増加したのです。しかし、現在でも、北米、オランダをはじめとする一部の欧州、日本以外のほとんどの国では、依然として稀な病気です。そうした事実に加えて、9割以上の罹患者が女性(アメリカでは白人女性)であることから、多重人格障害は、明らかに、一定の社会階層に発生しやすい、いわば流行性の疾患であることがわかります。昔なら違う病型を取ったはずの人たちが、昨今では、多重人格障害という流行のスタイルを、雪崩を打って取るようになった、ということなのでしょう。

 これまでの経緯から推測すると、ADHDと呼ばれる状態も、特に深刻なものであればあるほど、地球規模で見れば、おそらく地域流行性の “疾患” で、そのほとんどは、先進諸国に集中しているのではないでしょうか。

 ところで、一般に医療では、各種の検査を行ない、診断や治療に役立てます。実際に、検査によって突き止められ、裏づけられる疾患がたくさんあることは、周知の通りです。ところが、精神科には、他科の臨床検査やエックス線検査などに相当する検査がほとんどありません。てんかんなど、一部の脳神経性疾患の診断に用いられる脳波検査を別にすると、診断に直接かかわる検査類が、精神科には存在しないのです。もちろん、心理検査や機能検査と呼ばれるものはありますが、それには、精神科以外で使われる検査類が持つ客観性はありません。

 そのため、精神科の診断は、患者自身や家族との問診で得られた証言や印象、現在の症状、既往歴から得られた情報などに基づく印象によって行なわれるのです。そのように非常に主観性の高いものであるため、たとえば、触法精神障害者の司法精神鑑定の結果を見てもわかるでしょうが、鑑定者によって、診断が大幅に異なることも少なくありません。また、受診者にある程度の知識と演技力があれば、診察者をだまして精神病の診断を受けることも、それほど難しくないはずです。

 もちろん、他科の場合でも、診断基準や診察所見や検査結果の解釈に、どうしても主観的な要素が入るため、しばしば誤診が発生します。また、それ以前に、特に慢性病の場合、各検査の “異常値” が、恣意的にかなり低く設定されている結果、症状がなく治療の必要がない人たちも治療の対象にされてしまうという大問題もあります(近藤、2000年)。とはいえ、複数の診察者がひとりの受診者を同時に診察した場合の診断一致率は、精神科と比べれば、かなり高いはずです。精神科では、印象や直観に依存する度合が、他科の場合よりもはるかに大きいため、どうしても、診断のばらつきが発生しやすくなるわけです。この点も、精神科診断に内在する大きな問題です。

ADHDの診断基準

 ところで、この障害の診断基準には、不注意という軸と、多動性ないし衝動性という軸のふたつがあります。そして、その判定は、周知のように、アルコール依存症の診断で使われるのと同種の、ADHD診断用のチェックリストを用いて行なわれるわけです。話を進めるのに必要なので、次に、そのチェックリストを掲げます。なお、ここに掲載するのは、わが国の医学出版社から刊行された邦訳版の引用ではなく、アメリカ精神医学協会版からの拙訳です。

 そして、過去6ヵ月の間、どの傾向が優勢だったかによって、不注意優勢型、多動・衝動優勢型、混合型、特定不能に分けられます。なお、項目Eにある「広汎性発達障害」とは、小児自閉症など、主として早期小児期から起こる、より重度な精神障害群を指す言葉です。

 一般的に言って、この種の診断基準には、いくつかの問題があります。ひとつは、それぞれの基準が、診断にかかわる人たちの個人的基準を無条件に利用する形になっていることです。ある研究者は、中国、インドネシア、日本、アメリカの4ヵ国の専門家に、同じビデオを見せ、同じ基準を使って判定させたところ、中国とインドネシアの専門家は、日本とアメリカの専門家よりも、多動の評点が高いなど、文化圏によってかなりの違いが出ることがわかったそうです(Mann, et al., 1992)。同じ文化圏の専門家が、同じ文化圏の患者を判定した場合には、そのずれが相殺されるのでしょうか。いずれにしても、判定者の個人差がかなり反映されるのは、まちがいないでしょう。

 また、診断基準そのものの問題ではないのですが、仮に基準自体が妥当だとしても、それが正しく履行されているかどうかがわからないという問題もあります。たとえば、Dの基準を正しく履行するには、学校や職場の成績を正確に調べ、それが多動性や衝動性や不注意によるものであることを確認する必要があります。実際に、そこまでしている専門家がどれほどいるでしょうか。つまり、目の前の患者が、AからEまでの5項目すべてに該当する行動をしているかどうかの判定に、家族や本人の判断および自己申告がそのまま採用され、推定が重ねられているだけなのではないか、ということです。

 しかし、それより大きい問題は、先の診断基準の全項目に該当する患者であっても、環境条件によって行動異常が明確に異なる例が少なくないという事実でしょう。厳密に観察すれば、もしかすると全例がそうかもしれません。このことは、ADHDの成り立ちを明らかにするうえで、重要なヒントになるはずです。次に、この点について検討してみましょう。

不十分な行動把握

 この診断基準を見ると、いずれの項目にも、「しばしば」という副詞が含まれています。つまり、同じような状況でも、たまたま行動異常が起こる時と起こらない時があると言っているわけです。しかし、どのような時に起こり、どのような時に起こらないのかという疑問は、そこでは取りあげられません。この点は、教育や養護の専門家が、「この程度の基準で判断されているのか」と言って驚く部分です。たまたまではなく、明確な条件があるかもしれないのに、最初から無視されているわけです。

 たとえば、自宅でも教室でも、おとなしく座っていることができない児童がいるとします。そして、その児童の行動は、他の診断基準にも適合するとします。そうすると、複数の状況で同じ症状が出ていることになるので、この児童は、疑問の余地なく、ADHD(多動・衝動優勢型)と診断されます。

 ところが、その児童が教室で着席していられないのは、担任の授業の時に限られるのかもしれません。別の教師が担当する専科(音楽や図工など)の授業では、あるいは担任がたまたま病欠し、代講の教諭が授業をした時には、その児童は、おとなしく座っているのかもしれないわけです。あるいは、同じく自宅にいても、ひとりの時には落ち着かないのに、家族の誰かがそばにいる時には、静かに座ってテレビを見ていられるのかもしれません(あるいは、その逆かもしれません)。そうすると、たまたまではなく、明確な条件に従って、ADHDによるとされる行動に変化が起こっていることになります。このような事例については、どう考えればよいのでしょうか。

 「片づけができない」の項でも述べた通り、同じ片づけでも、自発的にする場合と、来客があるためなど、外部から要請されてする場合とでは、その難易度に天と地ほどの違いがあるわけです。ADHDと診断される子どもや成人の場合にも、同じことが言えます。これを、“たまたま” できる時とできない時があるとして片づけてしまっては、問題を不明瞭化するだけでしょう。

 あらためて整理すると、ここには、次のふたつのポイントがあります。

 以下、この2点を順に検討します。

 (1)精神医学では、どの疾患も原因不明ということになっていますので、診断は、主に外から観察される症状を手がかりにして下されます。これは、18世紀半ばまでの植物の分類学と、大差のないレベルのものと言えるでしょう。それにしても、先の診断基準は粗雑です。家族や現場の教師は、同じ状況でも、条件によって行動が大きく変化するという事実を知っていることが少なくありませんが、心の専門家は全くと言ってよいほど知りません。

 それどころか、そのような証言を家族や教師から聞かされても、専門家はその重要性がわからず、それに耳を傾けようとしないはずです。そして、「しばしば」という、症状出現の条件を問わない、漠然とした表現にまで格下げしてしまうわけです。これでは、はっきり色分けされているものをあえて灰色で塗りつぶし、わざわざ不明瞭にしたのと同じではないでしょうか。

 心の専門家には、このように、しろうとよりも劣るところが少なからずあります。ちなみに、別の代表的事例をあげると、しろうとは、正当なうらみと逆うらみを自然に区別していますが、専門家にはその区別がありません。全く異質な概念なのに、専門家は、両者を一緒くたにしてしまっているのです。その結果として、さまざまな問題が起こるのですが、しろうとは、まさか自分たちよりも知らないとは夢にも思わないため、専門家の主張に素直に従ってしまうわけです。

 (2)私の経験では、心因性の症状というものは、原則としてでたらめに出ることはありません。そのため、その原因を突き止める手順としては、症状がどのような状況で出て、どのような状況では出ないのかを、細かく観察すればよいことになります。ですから、担任の授業では静座していられないのに、専科の授業になるとおとなしく着席している子どもがいたとすれば、専門家に盲目的に従って、「しばしば着席していられない」とわざわざ不明瞭化する必要はありません。「担任の授業では座っていられないが、専科の授業では静座している」と、ありのままを記述すればよいのです。それによって、なぜそうなのかという疑問が生まれるので、それが、この場合の原因を突き止めるための重要なヒントになるわけです。

静座が難しい原因

 次に、この観察事実をもとに、この場合の原因を推定してみることにしましょう。 この観察からだけでも、原因がいくつか推定できます。まず、担任の授業と専科の授業が、何らかの対比になっていることがわかるでしょう。そのことから、この児童は、(イ)主要科目が好きだが、無意識のうちにそれを否定している可能性、(ロ)担任が好きだが、やはり無意識のうちにそれを否定している可能性、(ハ)わがままが通りやすい環境で、自分を年齢相応にコントロールするのに抵抗がある可能性、の3通りが考えられます。この先は、本人がいないと絞り込みにくいですが、このような行動パターンを示す子どもが多いことや、たいていの場合、担任が代われば、それだけで席に着くようになる子どもが多いらしいことから、一般的には(ハ)の可能性が高いと言えそうです。

 この可能性をわかりやすく説明すると、次のようになります。わがままが通りやすい担任の授業でおとなしくしていると、自分が他の子どもたちと同じく、年齢相応に成長していることが自分の意識にはっきりわかってしまいます。ここで、ADHDのチェックリストに、「発達段階にそぐわないほどの強さで」という言葉があったことを思い出してください。年齢相応に成長していることを自分の意識で素直に認められれば、もちろん何の問題もありません。ところが、自分が心理的に成長しているという事実を認めるのを、幸福否定のため無意識のうちに嫌う子どもの場合には、事情が大幅に違ってきます。わがままが多少なりとも許される状況で、年齢相応の行動をすることに対して、強い抵抗が出るからです。

 自発的にはできない片づけが、外部から要請があると簡単にできてしまうという現象についても、ここで簡単に検討してみましょう。この場合の条件は、どちらも行動としては同じですから、自発的にするか、外部から迫られてしかたなくするか、という点で違うだけです。これも、本質的には、教室での静座の場合と同じです。片づけをしないでいることが多少なりとも許される状況で、自発的に片づけをすることが難しいからです。そうすると、《自分が自発的に片づけのできる、きちんとした人間だと意識で認めることに対する抵抗》という可能性が浮かび上がってきます。

 あらためて出発点に戻って考えると、この問題については、ふたつの可能性が考えられます。教室の場面で言えば、次のようになります。

 (1)は、説明するまでもないでしょうが、これは、単に自制がきかないだけという意味です。常識的でわかりやすいですが、この場合、自分を制御できない理由が別に必要になります。それは、この枠内で考える限り、親のしつけが悪かったためか、少々深刻な人格障害的問題があるためか、脳内の異常のためかの、いずれかということになるでしょう。昔は親のしつけが疑われていましたが、最近では、“脳ブーム” のおかげで、脳内の異常が疑われています。その結果、親が責められることはなくなりましたが、治療の難しさという点では何も変わっていません。

 その原因を親のしつけに求めても、脳内の異常に求めても、現在の受け身的人間観の枠内から出ることはありません。そのため、患者やクライアントは、自分の外部に責任を求めることになり、“癒し” という発想が生まれることになります。それで治療が可能なら、何の問題もないのでしょうが、そうではないことは、本項の冒頭で述べた通りです。

 多くの場合、外部からの要請があれば、同じ行動が難なくできてしまうわけですが、(1)の可能性では、その事実が適切に説明できません。したがって、(1)の問題点は、人間が本来持っているはずの自発性が、完全に無視されていることにあります。換言すれば、ADHD問題の本質は(他の心因性疾患にまつわる問題でも同じですが)、自発性という、人間が持つ基本的属性の無視という点にこそあると言えます。

 もちろん、同じく自発性と言っても、自分のためになる自発性(以下、プラスの自発性)と、自分の首を絞めることになる自発性(以下、マイナスの自発性)とを区別する必要があります。静座しているべき時に、席を立って歩き回るのも、確かに自発的行動と言えるでしょうが、これは、明らかにマイナスの自発性です。ADHDの原因論は、脳内の異常を想定するにしても、心理的原因を想定するにしても、ADHDを持つ人に、プラスの自発性が乏しいことを適切に説明できるものでなければならないわけです。

 (2)は、常識的な(1)に比べて、とてつもなく奇妙な推定に見えることでしょう。また、ADHDは脳内の異常によって起こると考える専門家や家族にとっては、非常に不快な考えかたに映るかもしれません。しかし、真の意味での原因を突き止めるためには、どうしても事実をありのままに見る必要があります。

 これは、自分が心理的に未熟であることを、自分の意識に見せるための無意識的演技ということです。この考えかたを受け入れるためには、前項で簡単に述べたように、現在の人間観を根本から変更しなければなりません。次に、この点について検討してみましょう。

自分の意識に見せるための演技という可能性

 (2)の可能性では、次のように考えます。わがままが許されやすい状況で、自分の席に静座していられない子どもは、その状況でも本当は静座していられるのではないか、にもかかわらず、事実とは逆に自分が心理的に成長していないことを、自分の意識に向けて演じて見せる必要に迫られるのではないか。そのため、そうした状況では、どうしても自分が幼児的と見なす行動を取ることになります。そのような角度から眺めれば、別項で扱った、なかなか片づけができないという問題も、締め切り間際にならないと課題に手がつけられないという問題も、質的には全く同じであることがわかるでしょう。片づけをしないでいることが、あるいは課題に手をつけずにいることが多少なりとも許される状況では、自発的にそれを実行することが難しいからです。

 とはいえ、自分の本質を自分の意識に隠そうとする心の動きは、ADHDを持つ人たちに限らず、多かれ少なかれ人間全般に見られるようです。著名な評論家であった小林秀雄は、私生活の中で壮絶な経験をしたおかげでしょうが、次のような鋭い気づきを得るに至りました。「この孤独な演技者は、拍手も喝采もしてくれない自己という観客の前で、いつも演技を繰返さねばならぬ」(小林、1968年、286ページ)。

 人間は誰であっても、自分の本質――すぐれた能力と崇高な人格――を自らの意識に隠すため、それと正反対かそれに近い行動を無意識のうちに取り、自分の意識に見せるのではないでしょうか。これが、私の考える幸福否定のひとつの核心であり、私の考える人間観です(笠原敏雄、2004年)。次項では、ADHDを歴史的な観点から眺めたうえで、その厳しい現実を直視することにしましょう。

参考文献

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